(注意:これは学生の発表原稿です。無断転用禁止)
担当:粟田正近 金子美環 佐藤 杏 佐藤理子 重松奈緒 中本早苗
1961年の壁の建設から1989年の崩壊までの28年間、ベルリンはその壁によってほぼ真二つに分断されていた。外からの侵入を防ぐものと、内からの脱出を防ぐもの、壁というものにはこの2種類があり、実に正反対の役割を持っている。この相反する2つの役割を、東ドイツは巧みなプロパガンダによって1つの壁で果たしていた。つまり、西からの侵入を食い止めると同時に東からの脱出をも食い止める、ということである。しかしながら、1961年8月のベルリンの壁構築と、1989年11月の壁崩壊は、奇しくもある意味で、同じ理由によるものだった。すなわち、ドイツ民主共和国政府が自国民の西ドイツへの大量流出というパニックを防ぐ、という目的である。
28年の歳月は、西ベルリンを資本主義に基づく自由と消費に溢れる国際都市に、東ベルリンを社会主義に基づく消費活動が非活発で管理・統括を重視した生産と管理の都市へと変えた。そして資本主義対共産主義という政治的イデオロギーの対立によってうまれた壁は、結局共産主義の敗北という形で終焉を迎えることとなる。その自壊に近い崩壊は必然であったと言えるかもしれない。一度すでに近代が解放した所有と競争の自由を禁止して平等な分配を実現しようとするためには、巨大な権力による専制的な政治体制にならざるを得ない。しかし、それは近代の市民社会からかけ離れている以上に後退したものだった。消費や言論・思想の自由は人々の生活の根源的な権利であり、国家の力もイデオロギーも、もはやそれらを人々から奪うことなどできなかった。
壁が分断していたのは都市の物理的部分のみにとどまらない。これまで見てきたように、都市計画、住宅、建築やホテルはもちろんのこと、消費をはじめとする生活状況、思想といった内面にまで、分断による東西の差異は現われた。都市に、そして人々の心に立ちはだかる壁は東と西に大きな溝を生んだのである。目に見える壁が崩壊してからも目に見えない溝は残り続け、東西両者の距離は容易に縮まるものではないだろう。冷戦という二項対立の象徴となったベルリンは異なる2つのアイデンティティーを生んでしまった。28年という年月はあまりに長い。そう考えれば「東ドイツ人」と「西ドイツ人」が互いを異文化と認識してしまうのは当然のことなのかもしれない。東と西の政治的統一は既になされたものの、精神的・心理的統一へは未だに大きな隔たりがある。
しかし、統一ドイツの「首都ベルリン」は、壁によって生まれたともいえる。二つに隔てられるという特殊な経験によって、人々は東西の別なく首都ベルリンへの思いを抱くようになった。壁があったからこそ、ドイツ国民は今首都としてのベルリンに強い愛着を感じるようになったのではないだろうか。そして、この思いはいずれ東の人々も西の人々も同じドイツ民族であることを意識させるきっかけとなっていくにちがいない。
一都市ベルリンの壁の崩壊は世界の冷戦の終焉を意味し、それは広い意味で人々に平和を意識させることにもつながった。私たちが戦時中のできごとを学ぶなかで平和の大切さを学ぶように、ベルリンの壁の存在は人々の心の中に平和を願う気持ちを生んだように思う。壁に隔てられた都市は、最終的に反戦・平和の象徴というにふさわしい都市としての地位を築き上げたのである。そして統一ドイツの首都がベルリンであると事実は、ドイツが再統一されたヨーロッパにおける仲介役という役割を果たすという意志を象徴的に示している。もはやベルリンはヨーロッパの分断線に接する都市ではなく、ヨーロッパの中央に位置する都市となった。そしてこの、政治的にも文化的にも常に移ろうことを余儀なくされてきた、留まることを知らない変遷の都市ベルリンは、今そこから全世界へ繋がろうとしている。