(注意:これは学生の発表原稿です。無断転用禁止)
1945年5月8日のヒトラーの自殺とともに終結した「ドイツの悲劇」は,1933年1月30日から実に12年間続いた。第二次世界大戦は終わり迎えた一方で、ドイツ国民はヒトラーの残した「負の遺産」に長い間苦しめられることとなる。戦後明らかとなった、ナチズム独裁国家とホロコーストのすさまじいまでの実情、戦争責任。これら全てのヒトラーの政治基本理念の元となっているのが、ナチズムのバイブルともいえる自身の著書、『我が闘争』である。これはヒトラーが国事犯としてランツベルク要塞拘置所に収容されているあいだに書かれたもので、第一巻は1925年に、第二巻は1927年にそれぞれ出版されている。この中で、ヒトラーは自分の生い立ちから政治・民族・教育・国家の在り方にいたるまでの自身の見解を克明に語っており、ナチズム研究(そして本論においても)には欠かせない資料となっている。ナチズム政権掌握以前にかかれたこの著書を土台に、ヒトラーがナチズム時代にどのような政策を実際に実行に移していき、自分のイデオロギーをどこまで実現しえたのか、またそこにファンタジー性は見られるのか、ということについて考えていこうと思う。
ナチズム政権下でヒトラーはさまざまな政策を打ち出すが、その政治理念の土台は自身の著書である『我が闘争』執筆時からすでに固まっていたと言っても過言ではないだろう。ヒトラーの国家政治理念はいうなれば、民族・人種などさまざまな観点を考慮したうえから成り立っており、彼自身民族国家主義者の塊のような人物である。ヒトラーは、真の国家社会主義者にとって唯一の信条は民族と国家であると言い、『我が闘争』のなかで次のように述べている。
「われわれが闘争すべき目的は、我が人種、我が民族の存立と増殖の確保、民族の
子らの扶養、血の純潔の維持、祖国の自由と独立であり、また我が民族が万物の創造
主から委託された使命を達成するまで、生育することができることを目的としている」
(「我が闘争」上巻 p278)
これは、ヒトラーの目指すべき国家の姿を的確に表現した文章といえるだろう。ヒトラーのこの偏った民族国家主義の信念こそが、ワイマール共和国の無力さが見え始めた時代の人々にとって非常に魅力的にうつり、そして「ドイツの悲劇」へと導いたのだ。そしてこの悲劇の中心として扱われるのが、ホロコーストである。
「アーリア人種がより劣った民族と遭遇して彼らを征服し、自分の意思に服従させた場所に、最初の文化が生じたのは偶然のことではない。その場合これらの民族は生成しつつあった文化に奉仕する最初の技術的な道具であったのだ。」
「混血、およびそれによって引き起こされた人種の水準の低下は、あらゆる文化の死滅の唯一の原因である。この世界では、よい人種でないものはクズである。」
「民族性、より正しく言えば人種は言語の中にあるのではなく、もっぱら血の中にある。この過程を無視してはゲルマン化については語れないのである。」
「混血によって敗者の血を変化させることはできるが、なんと言ってもそれはより優秀な人種の水準の低下を意味する。」
と、このようにヒトラーは、『我が闘争』において人種と民族の純潔の維持の重要性について繰り返し述べ、あからさまにユダヤ人に対する嫌悪感を表している。ユダヤ人の劣等性と危険性について触れ、ゲルマン人(又はアーリア人)の人種的・民族性の低下の原因であり排除すべき存在としている。一般的に反ユダヤ感情はドイツにもともと根付いていたものであったが,ヒトラーが政権の地位につくと同時に、ユダヤ人はあらゆるドイツ人の不幸の根源とされ、ユダヤ人迫害が始まったのである。1935年9月には「ニュルンベルク人種法」が制定され、ユダヤ人とドイツ人の結婚・婚外交渉の禁止、ユダヤ人の市民権の剥奪が確定した。これによりユダヤ人は社会的に隔離され,国家の保護を受けない「二級市民」の場に追いやられた。ナチズム時代前半期の政策目標はユダヤ人の国外移住にあったが、1941年6月22日の独ソ戦の開始から、ユダヤ人はソ連とともに撲滅される敵となり、事実上ホロコーストの始まりとなった。ナチスドイツは最終的に500数十万人のユダヤ人をヨーロッパ各地の収容所やゲットーで殺害したという。この残忍さはまさに狂気の行為であり、現実には考えられないことであった。しかしながら、ヒトラーの偏った民族主義的思想は最終的にこのような恐ろしい結果に導いてしまったのである。
次に、ナチズム政権の成功のゆえんはヒトラーの教育への介入であるといわれている。
ヒトラーは『我が闘争』において教育の重要性についても自分の意見を述べている。
「民族主義国家は、全教育活動をまず第一に、単なる知識の注入におかず、真に健康な身体の養育向上におくのである。第二に、さらに精神的能力の育成がやってくる。だがここでも、その先端には人格の発展、とりわけよろこんで責任感を持つように教育することと結びついている意思力と決断力の促進があり、そして最後にはじめて学問的訓練がくるのだ。」
「その場合、民族主義国家は、次の前提から出発しなければならない。すなわち、実際に学問的教養はさしてないが、肉体的には健康で、善良で堅固な性格を持ち、欣然とした決断と意思力にみちた人間は、才知に恵まれた虚弱者よりも、民族共同体にとってはより価値がある。」
「国家は、子供のからだを幼児の頃から目的にかなうように訓練され、将来の生活に必要な鍛錬を受けるように、その教育活動を組織すべきである。」
と、このように基本的に教育の重要性は肉体の鍛錬にあり,学問的訓練は二の次であるとしている。また子供が民族主義国家の最も貴重な財産であり教育活動がもっと偉大な事業としてあらわれるとし、教育の重要性を深く認識している。事実、ヒトラーは学校教育に積極的に介入し,学問もイデオロギーの道具と化し、思想統制をおこなった。ナチ体制維持・強化のため学校の教科書・指導要領・教師までもが全て変更され、根本からナチ教育ともいうべき徹底したカリキュラムが制定された。子供たちに幼い頃から人種主義的認識を植え付けることによって、反ユダヤ主義がさらに広まることになった。歴史や国語はナチ的信条を叩き込むための教科となり、ナチズムの世界観を注入された。ナチズムの教育改革の中でも象徴的なのは、ナチスの青少年組織「ヒトラー・ユーゲント」であろう。ヒトラー・ユーゲントの組織はワイマール期にすでに存在していたが、あまり政治的な意味をもたない一青少年組織であった。そのうちの一つをヒトラーが承認するという形から、青少年教育組織となっていったのである。ヒトラー・ユーゲントは青少年軍隊養成機関ともいうべき組織に作り上げられ、1936年12月1日には「ヒトラー・ユーゲント法」が布告され、その三年後の1939年3月25日に出された「ヒトラー・ユーゲント法第二思考条例」によって加入強制が実現した。ヒトラー・ユーゲントの活動はヒトラーの教育理念に沿って、野外スポーツや体育などに重点がおかれ、団員たちは軍事訓練を持って祖国のために死ぬことをいとわない「将来の兵士」へと、女子は「将来の母」となるべき徹底的に教育された。第二次大戦の後期にはこの青少年組織は軍事組織に組み込まれ、直接的にも間接的にも戦争へと駆り出されていったのである。
このようにこの二つの事例からも、いかにヒトラーが自身の民族的・教育的理念に沿って第三帝国という独立国家を作り上げたかが分かる。ヒトラーは自分の理想の国家を1933年の権力掌握以前にすでに自身の中において構築し、著書にしたためた。第三帝国はその現実の姿でしかないのである。信念というのは恐ろしいものである。このように現実というのは、ある意味ファンタジー(イデオロギー)を土台として創造され、成り立っているのではないだろうか。この中に真なるファンタジー性は見出すことはできないかもしれないが,ある意味空想としてのファンタジーを駆使しながらヒトラーは自身の著書を書きあげたということはできるのではないか。私はここにファンタジーとイデオロギーというのは表裏一体であると提唱する。ファンタジーから現実が生まれ、その現実は全世界を戦争という恐怖に陥れたのである。
・アドルフ・ヒトラー『我が闘争』(上下巻)平野一郎・将積茂訳、角川文庫、2001
・原田一美『ナチ独裁下の子どもたち ヒトラー・ユーゲント体制』講談社選書メチエ、1999
・R・ベッセル編『ナチ統治下の民衆』柴田敬二訳、刀水書房、1990
・村瀬興雄『ナチズムと大衆社会 民衆生活にみる順応と抵抗』有斐閣選書、1987