(注意:これは学生の発表原稿です。無断転用禁止)
第2章から第5章まで、様々なジャンルの文学作品からファンタジーと現実の関係を眺めてきた。それをふまえて、この6章では、両者の関わりをジャンルの枠を超えてまとめあげてみたい。
この論文の初めに、私達はこの両者の境界が曖昧であるという仮説を立てた。そしてそれはどのジャンルにおいても言えることではないだろうか。
メルヒェンにおけるファンタジーは、現実から逃げて距離を置こうとするものではなく、現実をより生き生きとしたものに変化させようとするものであると述べた。よって、メルヒェンのファンタジーには、現実という要素が不可欠になっているのである。
子どもの本でも同様のことが当てはまる。エンデやケストナーの作品は、現実にありえないような魔法的な要素に満ちているため、一見現実とファンタジーがはっきりと分けられているようにも思われる。しかしもう一歩踏み込んでみると、そのファンタジーの世界も現実と共通項を持っていたり、ファンタジーによって、実は、現実世界の自分や社会の姿が照らし出される仕組みになっている。そして,道徳の教授の役割を果たす。また,人間はファンタジーを体験することで成長するといえる。このことから、子どもの本においても、ファンタジーと現実が密接に結び付き合っていると言えよう。
そして子どもの本に比べて非現実的要素が少ないと思われる小説に関してであるが、これにもファンタジーとの関連があることが分かった。つまり、現実を扱った小説の中にも、ファンタジー的な要素が少なからず存在するのである。なぜなら、「現実」をより鮮明に描き出そうとするなら、現実に起こったこと(起こり得ること)を書き連ねていくよりも、いくらかファンタジー的なものを取り入れた方が効果的であるからだ。(『変身』ではグレゴールが虫になったという事柄、『デミアン』では不思議な魅力をもつ少年デミアンが、それぞれファンタジー要素になっている。) その意味で、現実に重点を置いた小説でも、ファンタジー要素が少なからぬ役割を果たしていることが分かる。
最後に論じたヒトラーの『我が闘争』には、これまで論じてきた作品のようなファンタジー要素は存在しないだろう。しかしながら、この自伝にファンタジー要素が全くないとは言えない。なぜなら、ヒトラーの極端な民族的・教育的理念も、一つのファンタジーと見ることができるからだ。彼のファンタジー(イデオロギー)は、現実と切り離されるどころか、それ自体が現実にとって代わるべきだと考えられ、その結果あのような悲劇が生じてしまったのである。
このようにして見ると、ファンタジーは単なる現実逃避の虚構を描きだしているのではないと言える。ジャンルは異なっても、それぞれの作品の中でファンタジーと現実が表裏一体になっていることが分かる。したがって両者の境界は曖昧といえる。ただ、その境界がどのように曖昧なのか、ファンタジーの中にどう組み込まれているかは、同じジャンルのものでも作品によって異なる。しかしファンタジーが文学にとって必要であるのは、それによって現実をよりはっきりと映し出し、それまではまったく気づかなかった自分や社会のありさまを新しく発見できるからであろう。それゆえに、ファンタジーと現実は強い結び付きを持っているという結論にいたる。