(注意:これは学生の発表原稿です。無断転用禁止)
フランツ・カフカの『変身』は、主人公が虫になり、死んでしまうという恐ろしい物語であると同時に、ファンタジー的要素を多く持つ作品である。ここでは『変身』を読み解釈していくことでファンタジーと現実の関わりについて考えていきたいと思う。
『変身』の主人公はグレゴール・ザムザというサラリーマンだが、彼はある朝目覚めると自分が虫になっていることに気付く。
「おれに何が起きたんだろう」と彼は考えた。これは夢ではなかった。(三原弟平『カフカ「変身」注釈』平凡社、1995、p.24)
人間が虫になるという非現実的なことを「夢」ではないといっている。冒頭からもう既に現実と非現実が逆転してしまっていることを示唆している。ファンタジー世界の始まりといえる。
私たちは夢の中でこれは現実のことだと思い込んでいることもある。だから普通はもう一度寝たら目覚めた時虫ではなくなっているんじゃないかと考えるのが普通なのだと思う。彼の場合
「このままもう少し寝つづけて、馬鹿げたことをすっかり忘れるというのはどうだろう」と考えたが、しかしそれはまったく実行不可能だった。(p.29)
その後も彼は電車に乗り遅れることや社長に叱られることなどを心配しており、彼が虫になってしまった時点で起こるであろう様々な現実的な支障に気付いていない。またそうなってしまった理由についても考えていない。
しかしこれも起きてしまえば、たんなる想像にすぎなかったことが判明するだろう。彼は自分の今日の妄想が次第しだいに解消されてゆくのを切にねがっていた。声の変わったことも、旅するセールスマンの職業病ともいえるたちの悪い風邪にかかったきざしに他ならないことを、つゆ疑ってはいなかった。(p.52)
彼は悪い「夢」を妄想と呼んでいて、これが解消されることを望むが、やはり非現実の世界は続く。
彼の体はいうことを聞かず、なかなかベッドから起き上がれないまま支配人がやってくる。
こんなに今しきりと彼に会いたがっているこの人たちが、自分の姿をみてなんというか、彼は知りたくてたまらないところだった。もし彼らが肝をつぶすなら、グレゴールにはもはや責任はなく安閑としておれるというものだ。(p.76)
もうこの時点で既に彼は非現実に抗うことをやめ、虫になったことを現実として受け入れ始めてしまっている。
彼の発した言葉をみなは理解することができず心配する。彼が不自由な無数の足で立ち、口で錠を開けたところ、支配人と両親はとても驚くがグレゴールが虫になったのであって、虫に食べられたのではないかなどと疑ったりせず受け入れているのである。一方グレゴールは
「すぐ服を来て、見本をつめこみ出かけるつもりです。…」(p.100)
とその虫の姿のままで出かけるつもりであったが、支配人は逃げるように帰っていき、両親もすっかり怖がってしまう。そして父は彼をステッキで部屋に追いやる。
彼はちょっと前までは自分が虫になったことを認めていないようなふしがあったのに、いつの間にかすっかり受け入れている。彼現実的には不可能なのに仕事をする気はまんまんで、それに対する人々の怖がっている様子と対照的で滑稽でもある。
その後夕飯として出されたミルクと白パンは彼の口に合わないことに気付き、彼は味覚も変わってしまっていたのである。味覚の変化は彼の変身をより現実のことと証拠づける。妹ははじめこそ兄の姿に驚きかわいそうに思っている様子であったが、彼の目の前で食べ残しを箒で集めバケツに入れてごみ扱いをする。妹の兄に対する対応の変化は酷くもあり、また人間の利己的な部分が描き出されているように思われる。
ある時彼は天井を這う遊びを思いつくが、それに気付いた妹が親切にも母と家具を部屋から運び出した。しかし彼にとっては
それは、人間としての自分の過去をすばやく完全に忘れてしまうことでもあるのだ。…すべてはそのままでなければならなかった。家具が自分の状態に及ぼしてくるよき影響なしにすますわけにはグレゴールはいかなかったのだ。(p.161)
彼がだんだん精神的にも人間の部分を忘れつつある様子が窺える。彼はお気に入りの絵を守るべく長椅子の下から出て、ガラスにはりついていると、母は彼の姿を見て気絶してしまう。慌てて出ていった妹を追って、何か自分も手伝おうとするが、逆に脱走したと思われ、父に林檎で攻撃される。この時の父親の態度は憎悪そのもので、自分の息子に対する態度とは思えない。
ザムザ家では間借人をおくようになる。あるとき妹がバイオリンを演奏し始めたのにつられてグレゴールは居間に出ていってしまい、急いで父は間借人を部屋に返そうとするが彼らは怒って出ていくと言う。すると妹は
「わたしたち、あれを厄介払いしなくちゃいけないわ」(p.223)
と言い出す。それから彼は自分の部屋に戻り、おだやかにじっと考え込みながら死んでしまう。翌朝彼の死を知り、父は
「これでわれわれは神に感謝をささげることができる」。と十字を切った。(p.243)
そして彼らはグレゴールから解放され、将来への夢を抱きつつ物語は終わる。
グレゴールの死によってファンタジーも終わりを迎える。彼らが悲しむ様子はあまり見えず、つらい苦悩から解放されほっとした様子が見られる。確かに虫になってしまった家族を他人に知られないよう世話するのは大きな負担となることであろう。しかし彼がかつて人間であり、自分の家族であったのに、それにしては酷いと感じられる。
この物語はグレゴールが夢から覚めたところから始まり、残された家族が夢を抱くところで終わる、夢と夢の間の非日常の世界の物語なのである。現実の世界では人間が他の生物に変身することはありえない。この物語の中でなぜグレゴールが変身したのか理由は明らかにされていない。そして彼自身もその家族も理由について問うことをせずに受け入れている。彼らにとっては非現実の世界、ファンタジーの世界が現実なのである。
『変身』は恐ろしい夢であり観念であるのではないかという問いかけに対して、カフカはこう答えた。
夢は観念がおよばない現実をあばくものです。これが生活における恐怖―芸術における震撼的なものなのです。(『カフカとの対話』筑摩書房、p.41〜42)
カフカの言う夢とはすなわちこのファンタジー、『変身』のことであり、カフカは『変身』によって現実世界の人間について鋭く風刺している。ファンタジーとは現実を描き出す手段であり、つまりファンタジーの中ではより明瞭に現実を見ることができるのである。
ここでとりあげるヘルマン・ヘッセの『デミアン』は、第一次大戦直後の1919年、彼が42歳のときに書かれた。この作品は、当時混乱の只中に突き落とされたドイツの青年層から絶大な支持を受け、ドイツ国内の文学賞を受賞するにいたった。また作者自身にとっても意義深い、転換期の作品といえる。『デミアン』においては、もはやこれ以前の彼の作品に見られた青春の甘い響きは感じられず、全編に渡って重苦しい空気が漂っている。この作品は一見、ファンタジーとは無関係な位置にあるが、メルヒェンこそ真の文学だとした、ロマン派の流れをくむヘッセの作品である以上、ファンタジー的な要素が含まれている可能性は十分考えられる。『デミアン』において、ファンタジーと現実はどのように描かれているのだろうか。
『デミアン 〜エミール・ジンクレールの青春の物語〜』はタイトルの示すように、戦争で重傷を負った兵士ジンクレール青年の回想という形でつづられている。物語は良家の子ジンクレールが、無知や本能や罪悪の渦巻く暗い外の世界に接触するところから始まる。不思議な少年デミアンとの出会いを経て、外的なものに支配されずに自分自身になるための孤独な道を歩まねばならない、と気づいたジンクレールは、デミアンに導かれながら、「自分自身へ行く道」を苦悩しつつ捜し求め続けることで、幾度も夢に現れる自分の運命に近づいてゆく。自分自身となる日への信念を、デミアンの母であるエヴァ婦人によって与えられたジンクレールは、やがて起こった戦争のさなかで、ついに自身の運命に到達するのであった。では具体的に、この現実的な物語にどのようにファンタジー的な要素が現れているか、見ていくことにする。
まず、彼の幼年期のエピソードから見ていきたい。町のラテン語学校に通う10歳のジンクレール少年は、生まれ育った堅実な家庭という一つの世界とともに、無知や本能や罪悪の渦巻くもう一つの世界があることを理解し始めていた。彼はある日、不良少年クローマーに脅迫され、ささやかな罪を重ねる。幼い彼にとって、その罪は背負うには重すぎた。そこへどこからともなく現れたのが、デミアンであった。彼は母親とともにジンクレールの住む町に越してきたのだが、その不思議な魅力にジンクレールはひきつけられる。そのデミアンはジンクレールがクローマーに脅されていることを知ると、彼に救いの手をのべる。その後クローマーがジンクレールの前に姿をあらわすことはなくなり、すれ違っても向こうから避けるようになったのだった。クローマーは君に寄りつかなくなっただろう?とたずねるデミアンに対し、ジンクレールは驚きを隠せない。そしてここでは具体的にデミアンがどういう行動をとったのか、ということはあまり詳しく述べられていないのだ。それこそ魔法か何かを使ったようであり、彼はジンクレールによって、とても神秘的な存在として描かれている。
彼は練習問題をやっている生徒とは、どうしても見えず、自分自身の問題を追及する学者という風だった。じつをいうと、僕には感じのいい人間ではなかった。それどころか、どこか気にくわないところがあった。あまりにも偉そうで、冷静すぎると思われた。その物腰が、挑みかかるような自信にあふれすぎているし、その目は、おとなの表情――これを子供は決して好かないのだ――をやどしていて、あざけりの稲妻を光らせながら、やや悲しそうだった。(ヘッセ『デミアン』実吉捷郎訳P.38)
ジンクレールを驚かせたのはこれだけではなかった。彼は授業中に他の生徒をよく観察した後、その生徒の次の行動を予測したり、またあらかじめ教師が定めた自分の席を、離れたところにあるジンクレールの隣に移動させたりしてみせた。ジンクレールにはそれらが魔法のように映った。しかしデミアンに言わせればそれは、「意志の力」に他ならないという。彼はその「意志の力」について、こう説明している。
ただ自分にとって、意味と値打ちのあること、自分に必要なこと、どうしても手に入れなければならないこと、そういうことだけしかねらいはしない。そうしてそんなときにこそ、信じられないようなことが成功するんだな(78)
もっともらしく説明しているものの、全く現実的な説明とはいえないだろう。ここでは、現実世界ではまずありえないことが起こっている。このあたりから、彼を現実の人間として捉えることは難しくなってくる。彼の言う「意志の力」とは、ファンタジーの世界における魔法ではないのか。そしてデミアンはいったい何者なのだろうか。
この問いに対して、一つの答えのようなものが提示されている。ある日、デミアンと並んで授業を受けていたジンクレールは、一種の空虚、または冷ややかさのようなものを感じた。デミアンのほうを振り返ると、彼はいつものように座っていたが、様子はまるで違っていた。彼は目をあけていたが、何も見ていず、息をしているようにも見えなかった。顔は血の気がなく、生気を失っていたが、彼の両手は、ひそかなたくましい生命を包む硬い外皮のようだった。そしてジンクレールはデミアンの本当の姿を垣間見たのだった。
ふだん、僕と一緒に歩いたり話したりするときの彼は、デミアンの半身に過ぎない。一時的にある役を演じて、大勢に順応して、如才なく行動をともにしている人間に過ぎない。しかし本当のデミアンは、こんな風なのだ。この人間と同じなのだ。こんな風に石でできていて、とてもとても老人で、動物めいて、石めいて、美しく冷たく、死んでいながら、ひそかに空前の生命に満ち満ちているのだ。そして彼の周りにあるのは、この静かな空虚、この大気と、星に満ちた宇宙、この孤独な死なのだ。(90)
彼は、デミアンが自己の中に没入していることを感じ取った。この作品で描かれているのは、ジンクレールの「自分自身へ行く道」を探す旅である。彼はこの場面で、デミアンの真の姿、すなわち、「自分自身へ行く道」を見つけ、自身の運命に到達した象徴としての彼を見たのではないのだろうか。デミアンは、一人の人間という枠を飛び越えた存在として描かれている。
このエピソードの後、デミアンはしばらく出てこなくなる。ジンクレールは一人で、時には彼自身がベアトリーチェと名づけた女性の肖像画や、オルガン奏者ピストリウスの助けを借りて、「道」を探し続ける。デミアンはジンクレールを見捨ててしまったのだろうか?決してそういうわけではない。ジンクレールが彼の助けを必要としたとき、お互い連絡が取れなくなっていたにもかかわらず、彼は必ず現れるのである。これはデミアンのいうところの「意志の力」だろうが、実にファンタジー的であるといえるのではないか。
またピストリウスの言葉の中にもファンタジー的要素がみられる。
「私達の見る事物はね、」とピストリウスは小声で言った。「わたしたちが心の中にもっているのと、同じものなんだよ。わたしたちが心のなかにもっているのよりほかには、現実なんてありはしないのさ。たいていの人間は、外部の映像を現実だと思って、心の中にある自分の世界にちっとも発言させないから、それだからあんなに非現実的に暮らしているわけだ。(152)
彼の言葉には、ヘッセの考えるファンタジーと現実の関係が適切にあらわれているといえないだろうか。
最後に登場するエヴァ夫人も、息子のデミアンと同様、謎めいた存在である。彼女とデミアンの関係は親しい友人のようであり、また恋人のようでもある。また本当の名前は語られず、「エヴァ夫人」という愛称でしか呼ばれていないこの女性は、一人の人間として、というよりは、普遍的な母のイメージ、人間の姿を借りたファンタジー的なイメージとして描かれている。彼女によって、自身の運命を生きる信念を与えられたジンクレールは、新しく生まれ変わる準備ができたと言える。彼女はまさに、人類の母であるイヴなのだ。
最終章で、物語は大戦へ突入する。ある晩、ドイツ軍が占領した農場の前で歩哨に立っていたジンクレールは、爆撃によって重傷を負う。気がつくと、彼はある建物の広間の床の上に寝ていて、すぐ隣には瀕死のデミアンが横たわっていた。デミアンは、ジンクレールの手助けがもうできなくなること、しかしジンクレールが自身の心に耳を傾ければ、自分がいつもそこにいることに気づくだろうと言い残し、エヴァ夫人から託されていたキスをしたのだった。翌朝、ジンクレールが目を覚ますと、そこにデミアンの姿はなく、見覚えのない男が寝ていた。ここでは、デミアンの死を思わせる描写があるものの、はっきりと断定はされていない。これを、重傷を負ったジンクレールが見た夢であったと捉えることも可能であるが、ここで重要なのは彼の生死よりも、彼が導き手としての役目を終えたため、消えていったということではないのだろうか。これはその後に続く最後の数行からも推測できる。
包帯は痛かった。全てそれ以来起こったことは、何もかも痛かった。しかし僕が、時折かぎを見つけて、完全に自分自身の中へ――暗い鏡の中で、運命的な映像のまどろんでいるところへ降りてゆけば、そうすれば僕は、その黒い鏡のうえに身をかがめるだけで、僕自身の映像が見られるのである――もうまったく彼に、僕の友だち兼みちびき手である彼に、そっくりそのままの映像が。(224)
ジンクレールにとって、導き役としてのデミアンの存在はもはや必要なくなった。彼は自分の中にデミアンを見つけることにより、自身の運命にたどり着いたと言えよう。デミアンは、人の姿を借りて存在する必要がなくなったので、形を変えてジンクレールの中に残ったのである。
ここまでみてきたように、この作品は現実世界を舞台にしているものの、随所にファンタジー的な要素が確かにみられる。ジンクレールの導き手であるデミアンは、人の姿を借りて現れた、「自身の運命に到達した精神そのもの」といえるのではないか。この作品はファンタジーとは一見無縁な「小説」であるが、ファンタジー的な要素抜きに現実を語ることはできないということ、また、現実とファンタジーは混ざり合っていて、明確に切り離すことは不可能であるということを物語っているといえるだろう。
《参考文献》
・高橋健二『ヘルマン・ヘッセ ―危機の詩人―』、新潮社、1974
・高橋健二『人間の生き方』郁文堂、1990
・ウリ・ロートス『素顔のヘルマン・ヘッセ』エディションq、1997
・山下肇『ドイツ文学とその時代』有信堂、1976
・W・ゴスマン E・ゴスマン『ドイツ文学の精神』アポロン社、1960
・岩本忠雄ほか『生のかたち死のかたち ―ドイツ文学・思想に見る生と死―』北樹出版、1998