2002年度 谷川・山口ゼミ(卒論演習・ヨーロッパ文化論演習I・ヨーロッパ文学I演習合同授業)


(注意:これは学生の発表原稿です。無断転用禁止)


グループワーク:「子供とファンタジー」

文学におけるファンタジーと現実


第三章 子どもの本におけるファンタジーと現実

ここでは、ファンタジー的要素を多く含む、一般的に「子どもの本」と呼ばれているもの、具体的にはミヒャエル・エンデの『モモ』と『はてしない物語』、エーリヒ・ケストナーの『点子ちゃんとアントン』を取り上げて、ファンタジーと現実の関わりを見ていきたい。


1.ミヒャエル・エンデ『モモ』................................杉山香織

 ミヒャエル・エンデの『モモ 〜時間どろぼうと ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子の ふしぎな物語〜』は、1973年西ドイツで出版された。以来30カ国以上の国で翻訳され、今なお世界中の人々に読まれている。特に日本では、1976年に大島かおり訳『モモ』が出版されてから、20年経たないうちに百万部も発刊されたことからも分かるように、非常に人気が高い。いったいなぜ、一般的には「児童文学」に分類されるこの作品が、日本でこれほど熱狂的に受け入れられたのだろうか。この問いには、『モモ』における「ファンタジーと現実」のあり方が、大いに関係しているように思う。
 『モモ』は、エンデがイタリアへ移住してから初めて書かれた作品である。彼自身の言葉によれば、『モモ』は、イタリアへの感謝の捧げ物であり、愛の告白でもある。同じように、『はてしない物語』もイタリアで書かれたのだが、そちらについては後で詳しく述べていくことにして、ここでは『モモ』を、「ファンタジーと現実」という観点から読み解いていきたい。
 『モモ』は、そのサブタイトルが示す通り、モモという少女が、灰色の男達(時間どろぼう)によって人々から盗まれてしまった時間を、かめのカシオペイアと、時間を司るマイスター・ホラの助けを受けて無事取り返す、という物語である。これだけ聞くと、いかにもファンタジー要素の強い、現実にはありえないような話だという印象を受けがちである。しかし、実際に読み進めるにつれ、こういった印象は、きっと変わっていくに違いない。以下、具体的に作品を引用しながら分析していこうと思う。

『モモ』の住む世界

 まず、『モモ』という物語がどのように始まるかを見てみよう。

 むかし、むかし、人間がまだいまとはまるっきりちがうことばで話していたころにも、あたたかなく国々にはもうすでに、りっぱな大都市がありました。(中略)それいらい、いく世紀もの時がながれました。(中略)けれどこのむかしの大都市のうちいくつかは、いまなお大都会として生きのこっています。(中略)そういう都会のひとつで、これからお話するモモの物語はおこったのです。(ミヒャエル・エンデ『モモ』P.3~5)

 このように、『モモ』は、ある都会(具体的にはローマ)の郊外で起こった出来事、という設定である。つまり現実にある世界、というわけだ。そして、そこにある円形劇場の廃墟に、ある日、モモという少しばかり奇妙な格好をした女の子が住みつく。家族はなく、髪はくちゃくちゃで年齢不詳、数の数え方も知らない。何か特別優れた能力や、不思議な魔法が使えるわけではない。ただ一つ他の人にはない彼女の素晴らしい才能は、人の話を「よく聞く」ということである。それ以外はごく普通の女の子だ。また、他の登場人物も普通の人々である。左官屋のニコラ、居酒屋亭主のニノ、道路掃除夫ベッポ、観光ガイドのジジや、子供たちだ。彼らはモモの所に来ては話をしたり、一緒に遊んだりし、モモなしの生活など考えられないほどになっていた。こうして、ごく普通の町で、ごく普通の少女とごく普通の人々が、ごく普通に暮らしている、そんな風に物語は進んでいく。ここまでには、ファンタジー的要素はほとんどないと言ってもいいほどだ。

灰色の男たちの侵略

だがやがて、そんな普通の暮らしにも暗い影がさし始める。灰色の男たちが知らぬ間にじわじわ勢力を広げてきたのだ。彼らは全身灰色の服を着、顔も灰色で、常に小さな灰色の葉巻をくゆらしている。しかし、彼らがどんどん数を増やしているのに、そのことに人々はまったく気がつかない。彼らは姿が見えないというわけではなく、ちゃんと見えるのに誰も気がつかないのだ。それは、彼らが人目をひかない方法を心得ているため、人々は彼らを見過ごしてしまうか、見てもすぐに忘れてしまうのだった。
このあたりから、じわじわとファンタジー的要素が現れ始める。誰にも気づかれないという、灰色の男たち。現実世界には存在しないだろう男たちの登場である。そして彼らが次第に「現実」の世界を侵食していく。彼らはいったい何者なのか? 実は、彼らは時間貯蓄銀行から来た者たちだった。人々に時間を節約させ、それを騙し取って、自らの生きる糧としている者たちだ。完全にファンタジー的な登場人物である。現実世界には存在し得ない。そんな彼らが、「現実」世界に侵入することによって、「現実」世界がおかされていってしまう。だが、彼らは本当にまったく存在し得ないのだろうか?
彼らが主張したのは、「時間は貴重だ ― むだにするな!」「時は金なり ― 節約せよ!」といったことであった。こういったセリフに、まったく聞き覚えはないだろうか? そして、彼らが勢力を拡大した結果現れた社会に、見覚えはないだろうか?

まるっきり見分けのつかない、おなじ形の高層住宅が、見わたすかぎりえんえんとつらなっています。建物がぜんぶおなじに見えるのですから、道路もやはりぜんぶおなじに見えます。そしてこのおなじ外見の道路がどこまでもまっすぐにのびて、地平線のはてまでつづいています―整然と直線のつらなる砂漠です! ここに住む人びとの生活もまた、これとおなじになりました。地平線までただ一直線にのびる生活! ここではなにもかも正確に計算され、計画されていて、一センチのむだも、一秒のむだもないからです。(99、100)

おびただしい人の群がやすみなくせかせかと動きまわっていて、たがいにいらいらと押しのけあったり、つきとばしあったり、はてしのない列をつくって流れていったりでした。車道には自動車がひしめき、どれもこれも超満員の大型バスが轟音をとどろかせています。建物の正面のかべにはネオンの広告がきらめいていて、点滅するそのけばけばしい光が、町の雑踏をますますどぎつくしています。(179)

そして、こういった生活を送る人々は、毎日あくせく働き、次第に怒りっぽくなり、落ち着きがなくなっていったのだった。日本の読者なら、これを読めばすぐに東京を思い浮かべるだろう。実際、『ファンタジーの発想』という本の中で、小原信氏は「心が目覚めていない時間は盗まれている時間だとしたら、そういう時間ばかりがつづく人生というのは、いのちのない時間ということになるかもしれない。こういう時間どろぼうがいま、トーキョー中に増殖しつつあるのだ。」(小原信『ファンタジーの発想』P.103)と述べている。彼はまた、次のようにも書いている。「『モモ』を読んでいるうちに、読者は少しずつ、自分の心も生き方も「灰色の男」におかされて、フージーもニノもジジも、自分とどこか似ている、と身につまされてくる。」
 このように、灰色の男たち自体は、現実には存在しえないように思えるのだが、彼らが侵略してきた結果起こったことは、十分に現実世界でも起こりうるし、或いは既に起こっているようにも感じられ、さらには具体的な町まで思い浮かべられるのである。ここまで読んだ読者は、これが単なる物語の中の出来事だとは捉えずに、これは現代社会の状況を風刺的にまた批判的に描き出していて、現在の社会に対して警鐘を鳴らしているのではないかと考えるだろう。

カシオペイア〜30分未来を見ることができるかめ〜

 灰色の男たちによって人々が変わってしまい、ついにモモにまでその手が伸びようとした時、不意に一匹のかめが登場する。それが、きっかり30分だけ未来を見ることができる、カシオペイアである。彼(彼女?)は、その甲羅にメッセージを浮かび上がらせることができ、モモと会話する。そうして、追っ手がモモを捕まえる前に、無事マイスター・ホラ(彼については後述)の元へと連れ出すのである。カシオペイアは、自身も時間を超えた存在というファンタジー的存在だが、完全にもう一つの世界の住人であるマイスター・ホラの元へとモモを導く、いわば、橋渡しのような存在でもある。すなわち、超現実世界への案内役だとも言えよう。

マイスター・ホラ〜時間を司る者〜

カシオペイアに導かれて、モモは、ついに時間の国に住んでいるマイスター・ホラの元へやってくる。とうとう、現実世界ではない、もう一つの世界の登場である。

さいしょモモは、夜が明けはじめたのだと思いました。でもこのふしぎな光は、とつぜんにやって来たのです。正確に言えば、角をまがってこの通りに入った瞬間です。ここは夜ではなく、それでいて昼間でもありません。(189)

  さらに進んだモモは〈どこにもない家〉にたどり着く。ここに、時間を司る者、マイスター・ホラは住んでいるのだ。彼は、ある時は年寄りに見えある時は若く見えるという年齢不詳の人物で、人間の一人一人に、その人の分として定められた時間を配っていた。まさに、超現実的な存在と言えるだろう。そして彼は、モモに、「時間の花」を見せる。それは、モモが一度も見た事がないほど美しい花で、一輪しおれると次の一輪が咲き始めるのだった。モモはそこで、星々の歌を聴き、時間とは何かを実感した。そして、モモは、現実の世界に再び戻り、ファンタジー的存在であるマイスター・ホラとカシオペイアの助けを借りて、ファンタジー的な存在の灰色の男たちと対決し、勝利したのであった。
このように、マイスター・ホラに関する出来事は、全て非現実的で、ファンタジー的である。だが、そこに、まったく現実のかけらもないかといえば、そうでもないのではないか。時間を司る者、というのは現実に存在しそうもないが、実際に、時間というものは存在しているわけだし、時間とは何か、完全に把握している人はおそらくこの世にはいないであろう。だとすれば、時間を司る何かが存在しないと、どうして言い切れるだろう。
 私はここで、マイスター・ホラが実在の人物だなどと宣言したいのではない。そうではなくて、マイスター・ホラという存在の中に、真実のかけらが、そして現実的な要素が、含まれているのではないか、と問い掛けたいのだ。ファンタジーの中にあるこのような現実的要素が、ファンタジーに説得力を持たせ、想像を容易にし、そしてより一層魅力的にしているのではないだろうか。

 そしてさらに、極めつけは、『モモ』の一番最後に書かれている、「作者のみじかいあとがき」である。そこでは、『モモ』の作者が、この話は実は旅の途中、電車の中で聞いたもので、この話を語ってくれたのは年齢のさっぱり分からない人物だった、と言うのだ。その人物は言った。「わたしはいまの話を過去に起こったことのように話しましたね。でもそれを将来起こることとしてお話してもよかったんですよ。わたしにとっては、どちらでもそう大きなちがいはありません。」
 この人物は、おそらくマイスター・ホラであろう。そして時間を司る彼にとっては、当然過去も未来も大差ないのだ。こうして、起こり得ないことがあたかも起こったかのように語られるファンタジー、だと思って読んできた読者は、ひょっとするとこれから起こるかもしれない、或いはこうしたことは自分自身の周りで既に起こっているかもしれない、と考えさせられてしまうのである。まさに、ファンタジーと現実が入り混じった終わり方と言えよう。

こうして見てきたように、『モモ』は、現実の中にファンタジー的要素が侵入し、ファンタジーの世界の中にも現実的な要素が含まれるという、複雑な構造を持っている。ミヒャエル・エンデの文学は、ファンタジーというジャンルに属するものとされる。しかし,ファンタジーとは何か。ファンタジーは、単なる現実逃避の幻想文学ではない。エンデは、現実とはまったく関係のないファンタジーの世界を描こうとしたのではなく、ファンタジーを書きながら、実は現実世界を浮き彫りにしていたのだ。従って、彼の作品を読んだ読者は、その豊かで魅力的なファンタジーの世界に浸りながらも、その中の現実的な要素にドキッとし、現在の自分や社会を見つめなおし、自分自身を考え直し、現実にほんの少し変化するのではないだろうか。そしてそれこそ、エンデが求めていた、ファンタジーの読み方なのかもしれない。


《参考文献》

・Ende, Michael: MOMO. Stuttgart; Wien; Bern 1973.
・ミヒャエル・エンデ『モモ』大島かおり訳,岩波書店,1976
・安達忠夫『ミヒャエル・エンデ』講談社現代新書,1988
・ペーター・ボカリウス『ミヒャエル・エンデ・・・物語の始まり』子安美知子訳,朝日新聞社,1993
・子安美知子『「モモ」を読む』学陽書房,1987
・島内景ニ『エンデのくれた宝物:「モモ」の世界構造を読む』福武書店,1990
・子安美知子『エンデと語る』朝日新聞社,1986
・白崎ミチ子『ファンタジーについて考えてみました : ミヒャエル・エンデの作品を中心に』沖積舎,2000
・ミヒャエル・エンデ他『ミヒャエル・エンデ : ファンタジー神話と現代』樋口純明訳編,
人智学出版社,1986
・ミヒャエル・エンデ『ものがたりの余白 : エンデが最後に話したこと』田村都志夫聞き手・編訳,岩波書店,2000
・野村『ドイツの子どもの本』白水社,1991


2.ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』..................岡本友里子

 ファンタジーと現実の境界を考察するにあたって、ここではミヒャエル・エンデ作、『はてしない物語』をとりあげて論じる。この本を読んだことのある人は多いと思うが、簡単にストーリーをまとめると次のようになる。
いじめられっ子で学校嫌いの主人公、バスチアンは、ある本屋で盗み出した本、『はてしない物語』を読み始めるが、いつの間にか自分自身がそのファンタジー世界の中へ入り込んでしまう。非現実世界の中で奇想天外な旅をつづけるが、最後には現実の世界への入り口を見つけて、再び現実に戻ってくる、という内容になっている。まさに、ファンタジーと現実の境界が主要なテーマとなっている作品だ。
この本では、バスチアンがもともといた現実の世界の話が赤い字で書かれ、本の中の、ファンタジーの世界の話は、緑色の字で書かれているために、その区別がはっきりとしていて分かりやすい。しかし、ここでよく考えてみると、我々のこの論文における仮説は、「ファンタジーと現実の境界は曖昧である」ということであって、するとこの『はてしない物語』は、例外的に、ファンタジーと現実の世界が全く切り離された作品であるということになるのだろうか。これについて具体的に物語のシーンを挙げながら考えてみていきたい。

現実を超えて

『はてしない物語』を読み進んでいって、最初にファンタジーと現実の境界が垣間見えるのは、バスチアンが、自分が今手にして読んでいる本の中に、他でもない自分のことが書かれていると気づき始めるところからだ。彼は、初めは自分が本の内容を単に想像して思い描いていただけだったが、幼ごころの君の顔は想像などではなくて、実際にこの目で見たと確信するのである。そして彼女が病を治すためにずっと必要としていた新しい名前、「モンデンキント」もこの時にひらめくのだ。この時点で彼はもう、半ばファンタジーの世界に足を踏み入れたようなものだった。そしてその後彼は、この物語に自分自身が書かれていることをはっきりと悟り、ついにこう叫ぶ。『モンデンキント!今ゆきます!』この瞬間、彼は突風とともに、本の中の「ファンタージエン国」へと入っていったのである。
こうしてファンタジーと現実の境界を目に見える形で乗り越え、ファンタジー世界に入り込んでいったバスチアンだったが、このファンタジー世界においても、彼は苦労や災難から完全に逃れられたわけではなかった。確かにバスチアンは、現実の世界のときとは打って変わって、『でぶでエックス脚でチーズのような顔をした少年』から、『細面の気品にあふれた男らしい顔の王子』の姿に変身していた。その上、ファンタージエン国のあらゆることがらを治める権威のしるしである、宝のメダル、アウリンさえも手に入れた。アウリンの裏側には、『汝の欲することをなせ』と飾り文字で書かれていた。初めはどうしてよいのか戸惑いがちであったバスチアンだが、美しい姿とアウリンによる強大な力を得て、やがて自己の力を過信する、傲慢な若者になっていった。そして現実の世界においては、あれほど応援していた無二の友、アトレーユともやがて対立するようになり、ついに二人の間で大戦争が起こることになってしまうのだ。

ファンタジー世界のルール

ファンタジーの世界にやってきたはずのバスチアンだが、幸せだったのは初めのうちだけで、しまいには親しかった者たちと剣を交えて戦うという、現実の世界以上に過酷な境遇に陥ってしまった。どうしてこのようなことになってしまったのだろうか。
この疑問に答える上で重要なポイントは、「アウリンの力」である。前にも触れたように、アウリンを胸にかけた瞬間から、バスチアンは弱虫の少年から一国を支配する強力な権力者へと変貌を遂げたわけだが、この「アウリン」は、無償でバスチアンの願いを叶えているわけではなかった。さらに悪いことに、バスチアンはそのことに全く気付いていなかったのである。具体的に言うと、アウリンの力によって彼の望みが一つ叶えられる度に、彼の持っていた記憶が一つずつ失われていったのである。だんだんと彼は自分の過去を忘れて行き、それを失ったことにも気付かず、ひたすらあらゆるものを望みつづけていった。

ここで、物語からは少し離れて、ファンタジーと現実を考えてみる。言うまでもなく私たちは、常に「現実の世界」の中で生きていて、それぞれが属する社会の中で定められた規則(ルール)に従って生きている。例えば法律などがそうだ。そして、つい見落としがちであるのだが、ファンタジーの世界においても、ある一定のルールが存在していて、登場人物たちは必ずそのルールに従わなければならないのだ。私はこの点に、ファンタジーと現実の境界を曖昧にさせる最大の理由があるのだと思う。ファンタジー作品の中にも、どうにも動かし得ないルールが存在するからこそ、主人公たちがその中で苦しんでは喜び、その姿が私たち読み手に感動を与えるのではないだろうか。逆に、ファンタジーの世界には、現実とは違って何の束縛もルールもなかったら、その作品を読み終えた後、私たちの心に何か感銘といったものが残ることはないだろう。優れたファンタジーというのは、どれほど現実ばなれした、奇想天外なストーリーになっているのかということではなく、そのファンタジー世界では、現実とは違うルールがどのように存在するのか、そのルールがどれほどユニークであるかによって決まってくるのではないだろうか。『はてしない物語』の場合、アウリンはどんな望みでも叶えてくれる。しかし、それと同時に記憶も失われる、という堅固なルールが存在するのである。

ミヒャエル・エンデは、このファンタジー世界の「ルール」について次のように述べている。

 《ファンタスティックな物語の中で、…極めて重要なことは、読者も従うことになる、明快な遊びのル―ルを決めることです。つまり、物語が、もはや外的な〈ほんとうらしさ〉の世界によって立つことができなくなった瞬間から、内的な論理を展開し出さなければならないのです。明快な遊びのルールとは、この内的論理のことであるはずです。…》M・エンデ 「ファンタジー神話と現代」より

ここでエンデが言う「遊び」は広い意味を持っていて、単に子どもの遊びだけでなく、《人間が所有する、最も重要な生の要素のうちの一つとなるもの》を意味している。ファンタジー文学が現実を描く世界よりも自由であるのは、物語の中のルールまで作者が創造するからである。(リアリズム文学では、作者がルールを決めるのではなく、既に社会で決められた法則に従ってストーリーを展開させなければならない。) そして現実世界と同様に、ファンタジーの世界にも定まったルールというものが存在する、という点が、ファンタジー世界に現実味を帯びさせているように感じられ、ファンタジー世界と現実世界が全く切り離されるわけではないと考えられるのである。

ファンタジーと現実の境界

アメリカの作家、ロバート・ネイサンは、ファンタジーを次のように定義している。
『ファンタジーとは、起こったことなどなく、起こり得るはずもないこと。だが、起こったかもしれないと思わせるもの』
この定義の後半部分こそ、現実とファンタジーを辛うじてつなぎとめているポイントと言えそうだ。
さて、再び「はてしない物語」に戻ってみよう。アトレーユと戦った後、バスチアンの心は真っ暗な闇に閉ざされてしまう。彼はこの時点で初めて、アウリンにまつわるルールを知り、自分の記憶がなくなると、何も望めなくなることを悟るのである。過去のない者には未来もないというわけだ。ようやく彼は、あらゆるものを手に入れたいと思う傲慢な感情を捨て去り、真の望みは何なのかを考え始めるのである。そして、今まではずっとファンタージエン国にいて、強い自分のままでいたいと願っていたが、やがて、あるがままの自分を愛してほしいと思い直すようになる。彼の意志のこのような変化が、最終的には彼をもといた現実の世界へと導くことになった。結局、人間の世界とファンタジーの世界の境界線は、アウリンそのものだった。彼は本の中へ入ってきてアウリンを受け取ったが、その出口は常に彼自身が持っていたことになる。したがって、ファンタージエン国で大いに権力を振るっていた頃のバスチアンの傍には、常に「現実世界への出口」があったのである。
このことをふまえてみると、リアリズムとファンタジーも表裏一体であると言えるかもしれない。両者は対照的であるのだが、どちらか一方が欠けると他方はうまく機能しないのだ。ファンタジーは人の豊かな想像力から生まれるものだが、この「想像する」という行為は、自分が現実に経験したことを踏まえて、あの時こうであったら…と仮定して生じるものである。要するに、ファンタジーを創るとき、人はまず自分の過去の経験を思い浮かべ、それに空想的なことの断片を取り入れてファンタジー文学を創るのである。したがって、ファンタジーの基盤として、常にリアリズムが存在することになるのである。逆に、ファンタジー的な要素の全くないリアリズム小説は、確かにそれなりの価値を持っていることもあるかもしれないが、やはり面白味に欠けるだろう。なぜなら、バスチアンがファンタージエン国から現実世界に戻った後、あれほど精神的に強く、大人になったのを見れば分かるように、ファンタジーは人の心をより豊かにする働きを持っているからである。

最後に、「はてしない物語」から考えられる、ファンタジーと現実の関わりをもう一度まとめ直してみる。ポイントは次のニ点だ。
まず一つ目が、「ファンタジー世界におけるルール」。魔法や妖精などといった、現実的な世界には決してありえないものが、ファンタジー世界には当たり前に存在するので、ルールや制限のない自由な世界と考えられがちだが、作者が明言しなくても、やはりファンタジーには作者流のルールがしっかりと定めてあって、それによってファンタジーが勝手きままに飛び回らないようになっている。その意味で現実の世界との共通項をもっている。
二点目は、ファンタジーが生み出される原点。作者は、現実に自分が経験したことを、ファンタジーを通じて別の形式で表し、それを素材にファンタジー文学を創りあげていく。エンデの場合、人間の精神を限定し、窒息させかねない、現実の実証的即物的な考え方を打ち破ろうとする意識が、ファンタジーに味付けされて、希望のない学校生活から抜け出して、ファンタージエン国へと飛び込んでいくバスチアンという少年を創りあげたといえる。このように見てくると、ファンタジーと現実の境界は曖昧であるどころか、両者は密接に結び付きあっていて、互いになくてはならない存在になっているように感じられる。


《参考文献》

・M・エンデ、他『ミヒャエル・エンデ ファンタジー神話と現代』樋口純明編、人智学出版社、1986 
・佐藤さとる『ファンタジーの世界』講談社現代新書、1978
・犬飼和雄監修『世界の中の児童文学と現実』ぬぷん児童図書出版、1987
・工藤左千夫『ファンタジー文学の世界へ』成文社、1992
・小原信『ファンタジーの発想―心でよむ5つの物語―』新潮選書、1987
・出雲路猛雄『ファンタジーと子どもの本』創樹社、1985


3.エーリヒ・ケストナー『点子ちゃんとアントン』..........多田真理子

エーリヒ・ケストナー作、『点子ちゃんとアントン』は、彼の二冊目の児童文学作品として1931年に出版された。

舞台はベルリン。点子ちゃんは裕福な家庭に生まれ育った女の子だ。父親のポッゲさんはステッキ工場の社長をしている。点子ちゃん一家の屋敷はベルリンのど真ん中、帝国議事堂河岸のそばにあり、部屋は十もある。住み込みのメイドや養育係もいれば、運転手付きの自家用車もある。
 一方アントンは、点子ちゃんの家からシュプレー川を挟んだ向こう側、アルティラリー通りにあるアパートに母親のガストさんと二人で暮らしている。暮し向きは楽ではなく、通いの家政婦をしている母親が病気になったため、母親に代わってアントンが家事をし、靴紐を売ってお金を稼いでいる。
 点子ちゃんは、夜、両親に隠れて養育係のアンダハトさんと共にヴァイデンダム橋でマッチを売っていた。アンダハトさんが婚約者のローベルトに渡すお金を稼ぐためだ。橋の向こうではアントンが靴紐を売っている。
 ある夜、マッチを売っていたアンダハトさんがローベルトに鍵を渡すところをアントンが目撃した。ローベルトはアンダハトさんをそそのかし、点子ちゃんの家に盗みに入ろうと企んでいたのだった。しかしアントンが機転を利かせ、犯罪は未遂に終わる。
 ローベルトは逮捕され、アンダハトさんに替わってガストさんとアントンが点子ちゃんの家へ移り住むことになり、物語はハッピーエンドとなる。

この物語は、舞台設定や登場人物が現実離れしていない。物語全体を通してもファンタジー的要素はあまり見当たらず、比較的現実的なお話だ。それもそのはず、この作品は現実を基に書かれたものなのだ。ケストナーは、この作品を、新聞の「良家の少年、夜、ヴァイデンダム橋で、物乞いと一緒のところを保護される」という記事からヒントを得て書いたという。

 ケストナーはこの作品の中で、「金持ち」と「貧困」の社会の層を浮き彫りにし、そのような貧富の差が生じている社会を風刺しようとしていたと思われる。実際に当時のベルリンでは、シュプレー川を挟んで裕福な者と貧しい者が目と鼻の先に住んでいた。アントンの母親のように家政婦として働く者は屋敷街のそばに住んでいる必要があるからである。

 点子ちゃんの両親は毎晩のように芝居だ、映画だ、ダンスパーティーだと言って出かける。アントンのようにソーセージを買うお金も無い人々がいることなど考えもせず、都市の華やかなナイトライフを楽しむ金持ちは多かった。

「こっちへ来なさい!ものごいの子どもとなんか、いっしょにいちゃ、だめじゃないの」(エーリヒ・ケストナー『点子ちゃんとアントン』池田香代子訳、岩波書店、2000年、164頁)

この言葉は、アントンと一緒にいる点子ちゃんを発見したポッゲ夫人が点子ちゃんに言ったものだが、これは実際の金持ち達の姿を反映していると思われる。

 ケストナーは、こうした社会を何とかしたいと考え、それには大人にではなく子どもに訴えかけるのが効果的だと考えたようである。人格が形成されるのは子ども期で、子どもの頃にはもう、大人になったときの性質を備えているからだ。
 彼は作品の中で、貧しさの現状や人間の醜い心を見事に描き出している。現実を知り、考える子どもを育てることがケストナーの狙いだったのだ。

 さて、この作品が現実社会を描いていることは述べたが、それではこの物語はファンタジーとは言えないのであろうか。
 人物やストーリーは現実的だが、点子ちゃんの空想好きは現実離れしている。この物語は点子ちゃんが壁にマッチを売っているところから始まるのだが、その様子はこんな風である。

「わたしども貧しいものを、あわれとおぼしめせ。ひと箱たったの十ペニヒ」

犬のピーフケは、耳のうしろをかいた。たぶん、それは高いよ、と思ったのだろう。それとも、あいにくいまは持ちあわせがないな、と考えたのかもしれない。
点子ちゃんは、両手をいっそう高くあげて、おじぎをし、おずおずとうったえた。

「お母さんは、まるで目が見えません。まだ年は若いのに。はい、三箱で二十五ペニヒです。ありがとう、奥さま!」
どうやら、壁が点子ちゃんからマッチを買ったらしい。(13-14頁)

このように、金持ちの家の少女がまるで本物の乞食の様な言葉を使って壁に向かってマッチを売っている。しかもそれを冷静に眺めている犬がいるという現実離れした描写で話が始まる。この他にも点子ちゃんは、ダックスフントを狼役にして赤ずきんちゃんを演じてみたり、お腹の中にモミの木が生えてきたと思い込んだりした。
 この点子ちゃんの妄想癖や奇妙な行動はファンタジー的であると言えるであろう。

また、強盗事件の解決の部分も非現実的である。養育係が恋人に鍵を渡すのを見て強盗だと気づく人はほとんどいまい。しかし少年はこれに気づき、事件を防ぐべく屋敷に電話をかけてメイドに知らせた。そして、メイドが子ども部屋にあった体操の棍棒で頭を殴っただけで犯人はあっけなく御用となる。

 ケストナーは、このように、現実に起こった話を基にして現実的な話を書きながらも、所々に非現実的事柄を織り交ぜている。ケストナーが子どもに現実を学ばせたかったという事は先にも述べたが、ではなぜ現実を学ばせるための話をファンタジーにする必要があったのだろうか。

点子ちゃんのおかしさやアントンによる事件の解決は、作品が実話ではないと思わせると同時に、読者を作品に惹きつけることに成功していると思われる。

誰でも面白い作品を読みたいと思う。ケストナーは、点子ちゃんの茶目っ気を誇張して描くことで、この作品の面白さを増幅させている。ほかの登場人物も個性的で面白く、作品全体的にとてもユーモラスだ。子どもたちに楽しく学んで欲しい。ケストナーはそう思っていたのかもしれない。

 話の面白さから、物語にどんどん惹き込まれていくが、各章の最後には「立ち止まって考えたこと」を付けて読者を現実に引き戻し、考える時間を与える。ケストナーが本当に言いたい事は、ここに凝縮されている。
例えば、第4章の「立ち止まって考えたこと」は、「勇気について」である。

 ここでは、勇気について、ちょっと話をしよう。アントンは、自分よりも大きな男の子に、パンチを二発、くらわした。アントンは、勇気のあるところを見せた、と考える人がいるかもしれない。でも、これは勇気ではない。蛮勇だ。このふたつは、ひと文字ちがうだけでなく、ちょっと別の物だ。(68頁)

 このように、子どもたちのお手本として描かれているアントンの間違いをも指摘し、本当の勇気とは何かを考えさせている。この他にも、友情について、家庭について、嘘について、尊敬についてなど、様々な問題を読者に考えさせている。

ケストナーは、社会がより良い方向へ進むように、子どもたちに現実を学び、考えて欲しかった。そのために、現実にあった出来事を題材として、子どもたちが楽しく読めるようにファンタジー的要素を取り入れた話を書いた。この場合ファンタジーとは、現実を楽しく学ぶための一つの手段であったのではないかと思われる。


《参考文献》

・エーリヒ・ケストナー『点子ちゃんとアントン』池田香代子訳、岩波書店、2000
・クラウス・コードン『ケストナー −ナチスに抵抗し続けた作家−』那須田淳、木本栄訳、偕成社、1999

 


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