2002年度 谷川・山口ゼミ(卒論演習・ヨーロッパ文化論演習I・ヨーロッパ文学I演習合同授業)


(注意:これは学生の発表原稿です。無断転用禁止)


グループワーク:「子供とファンタジー」

文学におけるファンタジーと現実


第二章 現実の変革を許す童話

1.グリム童話(1).................大山真季

童話のアンビバレントな特質

グリム童話は今や世界中で親しまれているが、果たしてグリム童話とは何なのか、という問いからはじまって、様々な研究がなされてきた。童話はMarchenという語を用いて表されてきた。Marchenという語はそもそもはインド・ゲルマン語の語根で、「偉大な、声望のある」を意味するme-,mo-にまで遡り、二つの語根に基づいて「偉大な、重要な、有名な」という意味をもつ形容詞が作られ、ここからやがて動詞や名詞が派生させられてゆくことになったという。Marchenという語は、「報告、知らせ、物語」という意味をもつMar[e]の縮小語として15世紀以後確認され、19世紀に入るまで「報告、噂、(信じがたい)小さな物語」という意味で用いられてきた。現代においては、「(歴史上の人物、あるいは特定の場所に結びつかない)物語、空想文学、虚構による物語、嘘」という意味で使用されている。童話の語源に関して、報告・知らせという現実的内容から空想文学・虚構による物語・嘘という非現実的な内容への移行が見られるのは、一見矛盾しているかのように思われるが、しかし、童話のこうしたアンビバレントな特質は、童話が近代文学史上に登場し始めた頃からすでに、童話に内在していたものであったと言える。つまり、グリム童話などMarchen的なものが単なる架空の産物ではなく、現実と 何らかのつながりがあるということの裏付けとなりうるのではないか、ということである。

ファンタジーの中の童話

 童話はファンタジー(空想文学)の中に位置づけられている。ファンタジーは文学の正典と呼ばれているものから排除されてきたとも言われているが、逆にファンタジーの存在によって文学の正典のあり方が問い直されるという事実もある。またファンタジーは書き手の意図にとらわれない自由さを持っている。それゆえ階層性を越えて広がる共通性がファンタジーの特徴と言えるのだ。ファンタジーは共通性を持つゆえ読み手を選ばず、しかも素朴な物語であるだけに逆にそこに重層性を許し現実的な人間の思考が介入する余地を生んでいるのだ。ファンタジーは現実と密接に関わりあう可能性があるといえる。そうしてみると、童話が現実を反映することの手がかりが?めそうである。

童話の構造上・文体上の特質

 1960年代の西ドイツでは合理的思考を重んじ、昔話といわれているものは軽んじていられていた。しかし1980年代になる頃は、グリム童話が勢いを盛り返してきている。グリム童話が子どもたちの、いや、大人たちの心をも捉えて離さなかったのは一体何に起因しているのだろうか。それは構造や文体が単純であることに関係している。悪い意味で単純なのではない。良い意味で単純なのだ。昔話一般に言える事なのだが、構造上の特質として、登場人物の行為(機能)がどれをとっても同じということが挙げられる。その機能として不可欠なものは、「《加害・欠如》とその解消」である。この構造は昔話の構造というだけでなく、人生一般の構造と重なっているので、昔話のリズムが非常に受け入れやすいものとなっているのだ。

現実世界に対する願望と童話

昔話の構造という分野では、ウラジミール・プロップが一役かっている。昔話の文体という分野では、マックス・リューティの研究がよく知られたところである。彼は、「昔話に出てくる人物は、肉体を持たず、心の内部を持たない抽象的存在である」と言っている。確かに昔話に登場する人物は、血が通った人間であるということを感じさせない。昔話は単純な構造を持っているから、主人公に対する加害に釣り合う敵対者への処罰と、主人公の幸せの対照を明確にするために、一見かなり残酷と思われる場面もある。しかし二項対立しているものを明確に描き出そうとするあまり、写実的な文体が放棄されている。例えば手を切られるときも血の描写がない。さらに、一度で切れなかったとか、そういう詳しい描写もない。登場人物は人間くさいものとしてあるのではなく、抽象的な存在として、構造上の機能を果たしているのである。つまり、構成要素の一つなのだ。だから残酷な描写が教育上よくないといって子どもから遠ざけるのはナンセンスなのである。子どもは童話の単純な構造、文体によって生きたリズムを感じ取るのだ。現実的で写実的な文体による描写は、「《加害・欠如》とその解消」という単純明快な構造を曖昧なものにしてしまう。飾り気のない構造・文体こそが、世の中がこうあってほしい、という純粋な願望を浮き彫りにするのである。

現実の変革エネルギー

 このように童話が人間の幸福への欲求を満たす可能性があることが解った。ドイツにおいてMarchenと言われているグリム童話の中でも、構造上の「《加害・欠如》」の部分は、苦痛に満ちた現実を反映しているのである。聞き手の形象化された欲求と不安の助けを借りて物語は進められる。そして構造上の「解消」に至るわけなのだが、苦痛に満ちた現実が、幸福な世界へと組替えられる構図がここで出来上がる。こういうことから童話が現実の変革に傾いていると言えるのである。童話は現実逃避の産物であるという考えは捨て去るべきだ。現実逃避的であるどころか、現実の変革エネルギーを含んだ、現実よりも生き生きした「現実」がそこに存在している。

現実との関わりに於ける童話と伝説の差異

 童話を含む昔話(Marchen)は、いつも伝説(Sage)と隣り合わせで生きてきた。しかし昔話と伝説との間には、相容れない大きな差異があるのだ。ドイツの伝説は、彼岸の力が周囲の世界の倫理的規範を破った者に罰を下す様を描いたものが多いようである。伝説においては、人間には狭い限界が与えられていて、その限界を踏み越えると、死が待ち受けている。人間の行動欲と、自然を認識し征服しようと尽力することは、人間の思い上がりとして、彼岸の力、謎めいた力によって罰せられるのだ。人間の自己実現が自然を制御する道を通って行くものであるとするなら、ドイツの伝説は、合理的な自然の認識と自然の制御に反するものといわざるを得ない。伝説の見方には、啓蒙と開放を目指す現代の考え方に反するところがあるのである。その一方、昔話はそれとは逆の役割を果たしているのである。前にも述べてきたが、現実の変革の可能性であり、それがひいては自己実現の可能性とリンクして広がって行くのである。伝説も昔話も出だしは似ている。話がよく知っている世界から始まっている。しかし昔話の主人公は、よく知っているこの世界を飛び出し、危険に満ちた世界を進んで行く。(前でも述べた加害・欠如を経験しながら。)そしてその道の果てには幸せがあるのだ。その一方で伝説は、よく知っている世界にとどまったままで(伝説は特定の場所と結びついているという大きな特徴がある。)そこへ外から得体の知れない力が侵入してきて破壊的な作用を及ぼす。伝説の主人公は否応なく災いに巻き込まれ、打ち負かされる。人間の可能性は、結局実現されない。社会的機能という立場から見ると、伝説は今ある支配状況を固めるのに役立つ。過酷な君主を非難することはあっても、支配機構そのもの批判することはないのである。ドイツの伝説において、農民が精神的にも肉体的にも圧迫されていることを示す話が少なからず存在する。農民は宗教的拘束と労働によって押さえつけられ虐げられている。こうした規範によって誰が利益を受けているかを考えてみると、伝説の目指しているところがわかる。規範やタブーは、農民の側でなく主人の側の利益につながっている。伝説は、人が従わなくてはならない社会的状況を、変わらないものとして描いているばかりでなく、むしろ今ある状況を支持しているとさえいえるのである。昔話は今ある支配状況の束縛を破る役割を担っている。昔話の語り手は、しあわせを求めて出かけて行くもの(現実に満足せず変革を求めるもの)の側にたっているのだ。社会の枠を破ろうとし自由への努力を表す昔話は、社会の枠を固める圧力となる伝説と比較され、更に現実を変革する可能性を広げ、現実とのつながりを確固たるものとした。

 以上、昔話が単なる空想の産物ではなく、人間のもつ現実の変革の願望を反映したきわめて現実的な、社会の伝達手段であることがわかった。昔話は現実の変革の鏡といったが、ほかの捉え方も出来る。例えば昔話の主人公を自分に投影させ未成熟のものから成熟なものへの発展の過程とみなすことも出来る。グリム童話に出てくる継母は実際は実の母親の一側面を表しているとも言える。子どもの成長につれて母親の役割が保護者から拒絶者へと変化し、子どもの自立を促していると考えられる。いずれにせよ人間の自己確立の道筋であると言ってよい。童話は能動的側面と共に受動的側面も持ち合わせていると考えられる。能動的側面とは童話のイメージによって子どもの心に人生の喜怒哀楽を焼き付け、素朴な道徳を教える機能を指す。受動的側面とは大人に対して解釈されることを求める局面である。こうしてみても昔話が単一な構造を持ち、抽象的な文体で書かれていることによって多様な解釈を許しているように思う。これまで挙げてきたものは一つの解釈に過ぎない。昔話は多大な可能性を孕んで現実の我々とのつながりを開示しようとしている。


《参考文献》
・野村?『グリム童話-子どもに聞かせてよいか?』筑摩書房、1989
・野村?『グリムの昔話と文学』筑摩書房、1997
・梅内幸信『童話を読み解く-ホフマンの創作童話とグリム兄弟の民俗童話』同学社、1999


2.グリム童話(2).........................................榎本 茜

 グリム童話やフランスのペローの童話は、子供のための夢物語として捉えられがちである。しかし、これらのメルヘンもある時代を背景として生まれ、歴史情報を含んだ、史料的価値もあるものなのだ。つまり、当時の『現実』を知ることが出来るのである。現代に生きる私たちには空想の産物としか思えない「魔女」も「呪い」も、それが語られ始めた時代には実在していたのだ。もちろん、こういった超自然的現象が実際に繰り広げられていたという意味ではなく、民衆がそういった力を信じ、認めていたため、それらが共通意識として現実世界に繰り入れられていたのだ。

 メルヘンは終始一貫して常に決まりきった立場から語られる。親よりも子、母よりも若く美しい娘、という風に。その語られ方はときにあまりにも一方的だ。したがって、逆の立場に立ったとき、もう一つの全く違った物語が見えてくるかもしれない。

 そこでひとつのメルヘン『白雪姫』を取り上げようと思う。魔術を使う継母に迫害され、死の危険にさらされながらも王子との結婚にたどりついた可憐で美しい娘の物語である。
このメルヘンには子供たちの想像力を刺激する、(現代人にとっては)非現実的なファンタジー要素がいくつも登場する。「魔法の鏡」に「毒りんご」、「7人の小人」に「ガラスの棺」、「山の向こうのお城」に「白馬の王子様」・・・・こういった数々の夢にあふれたファンタジックな小道具を寄せ集め、この基本的で典型的なメルヘンが形成されている、といってもいい。
もし、このメルヘンを、女の子の憧れをさそう白雪姫の目線からではなく、「悪役」とされてきた継母の目線から見るとどんな物語に姿を変えるのだろうか。

 『白雪姫』は、母と娘の美をめぐった葛藤の物語として捉えられて来た。ただ「かわいらしい」幼少期を卒業し、「美しく」成長していく娘と、そのことに妬みを感じる母。思春期ゆえの無邪気な驕慢さを見せる娘とそんな娘にいらだちを募らせる母の物語。
またもう一歩踏み込むと「美」を介しての「父」をめぐった葛藤の物語でもある。現代と違い、男性の性衝動が今よりずっと無軌道で、タブーに服さなかった時代、父の好色さや独占欲が美しく成長した娘に向かっても何の不思議もなかった。娘がそのゆがんだ愛を受け入れ、その溺愛を受けつづけた場合、娘は結婚のチャンスを逃すことにもなりかねない。よって母はその問題解消のため、娘を家から出さざるを得ない、というわけだ。
このことを踏まえた上で『白雪姫』という物語をもう一度見てみよう。

 継母が毎日自分の美を確かめる魔法の鏡の声は、家長である夫(父親)の声と捉えることが出来ないだろうか。当時、家長の下す判定こそが全てであり、その家の中にいる全ての女性の評価も決定してしまった、というわけだ。再婚当初は、新しい妻の美しさを褒め称え、愛を語った王も、娘が成長するにつれ、その気持ちは変わっていく。つまり、成長した娘の若々しい美しさと、そこに見え隠れする亡き妻の面影に、許されない愛の成就を願うようになるのである。それを知った妻は、父と娘の誤った愛を消し止め、夫の愛を取り戻すためにも娘を引き離さざるを得ない。また娘の結婚という将来を案じる母親の立場としても、一刻も早く娘を家から出さねばならないというわけだ。とすれば、娘の美を妬んだ母の暴挙という疑いは晴らされる。
 となると、継母が白雪姫に対して行った数々の悪行はどう解釈されうるだろうか。ここでひとつ振り返ってみてほしい。継母が白雪姫に対して行ったとされる行為は全て未遂に終わっている、ということを。
城から連れ出された白雪姫は狩人にも殺されず、森で狼などの恐ろしい獣や、あるいは盗賊などの悪人に襲われることもなく小人たちの小屋へ無事にたどり着いている。ここに手厚い保護と庇護の影は感じられないだろうか。「捨てられ、殺されそうになった。」というのは白雪姫本人の証言である。愛する父から、また住み慣れた家から引き離された恨みからの発言と捉えることも出来るのではないだろうか。
 次に、小人とともに暮らす白雪姫に対する継母の3度に及ぶ殺害未遂について見てみよう。ここでひとつの疑問が生じる。なぜ妃という地位にある人物が、変装までして森に出かけ、白雪姫を殺さねばならなかったのか。彼女の権力を持ってすれば、もっと簡単な方法があったはずである。だとすれば、彼女が森へ向かう目的が白雪姫の殺害ではなく、別の所にあったのではないだろうか。継母が嫉妬に狂った女ではなく、娘の身を案じ、家から引き離した賢明な母だったとすると彼女の訪問の目的が見えてくる。
彼女は白雪姫を隔離したあとも、夫に知れぬように身をやつし、女の子の喜びそうな小物を土産に、白雪姫を訪ねていたのだ。それは娘を家から隔離せざるを得なかった母の心の痛みを癒す行為であったかもしれない。
しかし若い白雪姫にその真意は伝わらず、継母が胸紐をきつく結んだといっては気絶してみせたり、髪の毛を梳いてもらう際に櫛が頭皮をちょっと傷つけたといって大げさに昏倒してみせたのではないだろうか。後に小人たちが手当てともつかないちょっとしたことをしただけで、白雪姫が元の状態に戻っていることを考慮しても、継母に殺意があったとは考えにくいのである。「毒りんご」事件にしても、喉のつかえが取れたら生き返ったのだから、ただりんごのかけらを喉に詰まらせただけで、毒ではなかったとも考えられる。
 白雪姫と王子の結婚披露宴で継母は赤く焼かれた鉄の靴を履かされ、死ぬまで踊らされる。この光景は明らかに結婚披露宴ではなく、魔女裁判のものだ。しかし、これまで見たように継母が何一つ魔法を行っていないのは明らかである。
ここから当時の魔女告発の情景が見えてくる。
16、17世紀のヨーロッパでは魔女の告発を奨励するために、証言能力の年齢制限を撤廃していた。結果、娘、息子が母親を告発することも珍しいことではなかったのだ。
この物語で、白雪姫は母を魔女として告発したからこそ、善人として描かれるのである。けれど、彼女は「誰が来ても家に入れてはいけない」という小人の言いつけを3度までも破り、美しいものやおいしそうな物の誘惑に簡単に負けてしまう、あまり利口とはいえない娘である。
とすれば、『白雪姫』の物語自体が被害妄想気味でわがままな女の子が継母の真意を曲解し、魔女裁判に追いやったという別のストーリーが見えてくるのだ。

 このように、ただのおとぎ話、メルヘンとして読まれてきた物語に歴史の「現実」の光を当て読み解いていくと、全く違った顔を見せてくるのである。
現代の読者にとってはただのおとぎ話として読まれるメルヘンも、それが語られ始めた当時にはリアリティに溢れていた、というわけだ。巧みに「魔法の鏡」や「お菓子の家」といった愛とファンタジーに満ちた非現実的な言葉に置き換えられた事象の一つ一つに、現代の言葉を当てはめてみると美しい正義と、醜い悪に割り切れない現実の陰が浮かび上がってくるのだ。このようにメルヘンは、現実の上にファンタジーという薄い膜がかけられた物語であり、ただの絵空事ではない、ということがわかる。つまりファンタジーと現実に境界をつける、ということ自体が無意味なことであり、現実のひとつの見せ方としてファンタジーが存在するといえるのである。


《参考文献》

・鈴木晶『グリム童話/メルヘンの深層』講談社現代新書
・高木昌史『グリム童話を読む事典』三公社
・プロップ『魔法昔話の起源』せりか書房


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