2002年度 谷川・山口ゼミ(卒論演習・ヨーロッパ文化論演習I・ヨーロッパ文学I演習合同授業)


(注意:これは学生の発表原稿です。無断転用禁止)


グループワーク:「子供とファンタジー」

文学におけるファンタジーと現実


序論

本論文のテーマ

本論文のテーマは、「ファンタジーとは何か?」である。
ファンタジーとは、非現実を扱った文学であり、現実の対極に位置するものと考えられがちである。しかし、ファンタジーの中にも現実的要素が含まれており、ファンタジーは非現実のみを描いたものとは言えないのではないのか?
 最近のファンタジー文学では『ハリー・ポッター』が有名であるが、その主人公ハリーは魔法使いであり、それは非現実的な存在である。しかし、ハリーが魔法使いであることを自覚するまでは、普通の少年として育てられ、その生活は現実的である。
 このように、非現実的世界の中にも現実的日常が描かれており、ファンタジーは現実と全くかけ離れているとは言えない。ファンタジーと現実の境界は曖昧なのではないか?また、それはどのように曖昧なのか?そして、ファンタジーの中に現実がどのように組み込まれているのか?現実の中にファンタジーは無いのか?これらの疑問点について考えていくのが本論文のテーマである。

本論文の構成

 第一章では、これまでファンタジーがどのように捉えられてきたかを検証する。
 第二章から第五章では、文学作品のジャンル別に、具体的に作品をとりあげ、ファンタジーと現実の関わりを検証する。
 まず、第二章では、グリム童話をとりあげ、昔話や伝承におけるファンタジー性、及びその現実との関わりを考察する。
 第三章では、ファンタジー的要素を多く含む、一般的に「子どもの本」と呼ばれているもの、具体的にはミヒャエル・エンデの『モモ』、『はてしない物語』、エーリヒ・ケストナーの『点子ちゃんとアントン』をとりあげる。
 第四章では、ファンタジー文学よりもより現実に近い、小説というジャンルをとりあげる。例としてあげるのは、フランツ・カフカの『変身』、ヘルマン・ヘッセの『デミアン』である。
 第五章では、さらに現実に重点を置き、自伝というジャンルをとりあげる。作品例は、ヒトラーの『わが闘争』である。
 第六章では、第二章から第五章で論じたことを踏まえて、ファンタジーと現実の関わりについてまとめてみたい。


第一章 ファンタジーとは何か

 まずこれまで提唱されているファンタジーの定義をあげてみよう。

1.ファンタジーの定義

まず始めにこれまでファンタジーがどのようにとらえられてきたか検証したい。

@ファンタジーの作品には、決まって型どおりの人物(魔法使い、ドラゴン、魔法の剣)
が登場し、型どおりの道具立てが見られる。逃避的な大衆文化の一つであるファンタジーではこのような要素が組み合わされて、話の結末がいつも予想通りに筋立てられる。
                    つまり

        数少ない正義が、多数の悪に打ち勝つというストーリー

Aファンタジーはおそらく20世紀後半の主要なフィクションの様式(モード)といえる。
その物語構造は、けっして単純ではなく、文体の遊戯性・自己言及性・既成の価値観や思考の逆転などが目立った特徴である。また象徴体系や意味の非決定性などの、現代的な観念を取り込むのも特徴である。

    叙事詩や民話、ロマンス、神話などの過去の非写実的な口承文芸の
        もつ活力と自由さを自在に取り入れている。


ファンタジー    文学の「形式」 (一般に読者がフィクションととらえているもの)
          「様式」(モード)  神話的
                    ロマンス的
                    低度に写実的 と文学を5つの様式に分類
                    高度に写実的
                    アイロニー的

2.ファンタジーの形式

 ファンタジーの形式としては2つの形が挙げられる。1つは魔法のような現象が可能な、現実とは違う異世界を創造し,そこを舞台にした物語のハイファンタジー。その代表作としてはトールキンの「指輪物語」がある。
もう1つは、現実世界を舞台にして、そこに超自然的な力が進入するさまを描いているローファンタジーである。例えば,墓場や古い屋敷で起こる現象を扱ったものだ。

3.ファンタジーの系譜

ファンタジーとは文学体験(原初の時代から体験していた、一種の心的体験)の対象となる文学の一形態であり、現実と非現実を巧みに交流させながら超越的なある種の世界を創造した。またファンタジーは「非現実の中の現実」「信じがたい世界の真実」を表現しようとするものであり、創作としてのファンタジーとは見失った真実を取り戻す文学、見えないものを見る文学体験の対象となるものである。

 ファンタジーはその発生の根源を同じくしながら、これが創作文学として結実してみると、その内容や作品の傾向からいくつかの系譜に分けることができる。

@ F型
昔話、伝説、説話(Falktale,Fairytale)から作品となる。
* エリナ・ファージョン 「ガラスのくつ」「銀のしぎ」
* アンデルセン 「雪の女王」「小クラウスと大クラウス」
* J.M.バリ 「ピーターパン」
* メアリ・ノートン 「床下の小人たち」
* E.ネズビット 「砂の妖精」
* J.R.R.トールキン 「ホビットの冒険」

A N型(Nonsence tale)
伝承としてはJocular taleの雰囲気があり、鋭い風刺や深い寓意を持つ。
* L.キャロル 「不思議の国のアリス」
* T.ヤンソン 「たのしいムーミン一家」
* M.ドリュオン 「みどりのゆび」
* サン・テグジュぺリ 「星の王子さま」

B R型(realistic)
リアリズムに接近していると思われる作品や、これを含みこもうとする作品群。
* C.S.ルイス 「ナルニア国物語」
* R,アーサー 「シロクマ号となぞの島」

C M型
詩的心象(Metaphological Approach)としてのドリームランド(純真な心意の所有者たちの心から心へ語りかけ、受け止められていく世界)をそのまま表現しようとする作品。詩的心象とはそれを表現する人が直接に経験する二つ以上のこと、或いは者の心象が重なり合い、一つになった表現である。
* 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
* キャロル・ジェイムズ 「マツの木の王子」

4.ファンタジーの流れ

 文学の世界にファンタジーと分類される作品が生まれてから、現在までの流れを追っていきたいと思う。ここでは「ファンタジー要素を含んだ作品」ではなく、一般的に「ファンタジー作品」と理解される児童作品に的を絞ることにする。
その始まりは19世紀初頭のグリム兄弟による「子供と家庭のためのグリム童話集」といえる。この頃ようやく「子供」という概念が生まれ,児童は「小さな大人」から「養育し,保護すべき存在」となったのだ。19世紀半ばにはデンマークでアンデルセンが数々の童話を生み、イギリスではルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』(1865)が発表される。
そして20世紀初め,児童文学最良の時代といわれるときが訪れる。ボーム(米)の『オズの魔法使い』(1900)、ポター(英)の『ピーターラビットのおはなし』、グレアム(英)の『たのしい川べ』(1908)、バリ(英)の『ピーターパン』(1911)、ミルン(英)の『クマのプーさん』。
今日、良き児童書として親しまれている作品の数多くがこの時期に集中して発表されたのだ。またその作家がなぜかイギリスに集中していたため、イギリスはファンタジーの国と称されるようになるのである。
20世紀中ごろになると、トールキン(英)の『指輪物語』(1954)、C.S.ルイスの『ナルニア国物語』(1950‐1956)とハイファンタジーが隆盛していくようになる。
そしてその流れは20世紀末のエンデ(独)による「はてしない物語」(1979)、更には現在もシリーズ刊行の続けられている『ハリーポッターシリーズ』(1997‐)へと受け継がれているのだ。

5.ファンタジーにおける登場人物

 ここでは、ファンタジーにおいて登場人物がどのような役割を持っているか見ていきたい。
 普通の小説における登場人物は、読者側から見れば「他者」である。一方、ファンタジーの中の登場人物は内に隠された「自己」と見ることが出来る。ファンタジーの書き手は現実の人間の行動を観察することから人物像を作り上げているのではない。ファンタジーの登場人物は、人の心のうちなる存在であり、それぞれの心の中で互いに相争いながら次第に統合に向かう心の働きを実体化したものなのである。それは個人の自己意識−アイデンティティ−に基づくものなのである。我々はファンタジーに自己を投影させることがある。
以前のおとぎ話・昔話における登場人物は物語の本質的な要素そのもの、「機能」そのものである。登場人物の存在と行動とは同一であった。彼らの属性は普遍でなくてはならないという前提があった。しかし、現代のファンタジーはそれに限っていない。確かにファンタジーにおいても登場人物は機能そのものとしてあるのだが、彼らの属性が普遍であるという前提がないのである。ストーリー上の役割より、自らの個人的特質に関心が集中する人物をアクター(actor)、ストーリーを進める要素となる登場人物をアクタン(actant)とA,J,グレマスは呼んだ。アクターは現実の人間の写しである。物語の中でアクターは「他者」と出会って行く。「他者」が自分の存在を脅かす。するとアクターである登場人物の内部にアイデンティティの揺らぎ、変化が起こり、属性が普遍であることの必然性が突き崩される。アクターである登場人物は物語中、「自己」と「他者」の境界線上をさまよい、アクターからアクタンへと変化を遂げて行く。自分が何者であるのかという問いに答えが出せなかった登場人物が「他者」と出会って行く中で迷いとその克服を体験し、「自己」と「他者」の境界線上でせめぎあいながら自己を確立して行くのである。その時、その登場人物はストーリーを進める要素となり、役割を全うしうるのである。物語の構造を通して、「自己」や、「自己」と「他者」の関係を決定できるのである。そういった意味で、我々はファンタジーの中の登場人物を内に隠された「自己」とみて、自らをも投影させることができるのである。ファンタジーが現実の人間がもつ自己確立の過程と同じような過程を経験する役割を果たしうるのである。

6.ファンタジーとポストモダニズム

 ここでは、ファンタジーを検証する際に重要となってくるポストモダニズムとの関係について見ていきたい。
モダニズムとは世の偽りを暴くために、伝統的な物語技法(コンベンション)を廃し、より純正な自己を再創造することを目指す運動である。詩的な文体や「アイロニカル」であることを重要視する。しかし時に難解なものとなりがちである。一方ポストモダニズムは幻想を意図的に利用し、物語技法を復活させ、モダニズムに逆行する運動である。複雑な仕組みを巧みに単純なものの中に隠そうとする。(例:コミック・初級読本など)しかし、自己言及的ないしメタフィクション的になりがちで、文学によって現実を描きうるのかという疑問を持っている。
 エドマンド・ウィルソンなどモダニズムの批評家はJ・R・R・トールキンやC・S・ルイスの作品を批判している。真面目な動機を持たない、エピソードの展開が欠ける、個性的な人物として訴えかけてくるものがない、文学の形式への配慮がない、アイロニーの要素がないなど。つまりモダニズムの立場からJ・R・R・トールキンやC・S・ルイスの作品、ファンタジーは正しく評価できないのである。ポストモダニズムによるファンタジーの読解は最近の作品だけでなく、古典的な作品にまで光を当てる。
 トールキンはモダニズム世代の生まれであり、第一次世界大戦は彼の「指輪物語」に大きな影響を与えたといえる。トールキンは、過去から受け継いだ文芸の方法を巧みに用いることは、新しい分野を切り開くのと同じくらい困難であるが、その見返りも大きいと考えた。そして、彼は作品の中で日常生活への言及を避けているが、そのことによって魔法の世界や、そこで起こる出来事を描く「準創造(サブクリエーション)」を成し遂げている。
 しかし、トールキンのように擬似中世的世界を舞台にせずとも、現代の日常世界とファンタジー世界を交錯させることは可能である。その代表例がジョン・クロウリーの「リトル・ビッグ」である。この作品は禁断の掟や魔法の援助者、探索の旅といった神話的要素を若者の成長問題と結びつけ、その上に人口的な現代アメリカの建造物や言語風景や価値観をユーモアを伴って的確に描き出している。
 この作品の優れた所はまず、昔話の語り口で始まることでファンタジーの読み方へと読者を導く。古風な語り口や題の飾り枠などでメタフィクション的な仕掛けが施されている。様々な語り口で語ることで、アイロニーを感じさせ、読者に必ずしもそのまま受取れないぞ、と思わせる。読者が慣れ親しんだものを使う(写実主義のレトリック)ことで、読者に明らかにあり得ないものを受け入れさせる。ファンタジーの異化作用を用いて見慣れたものをまるで違うものに思わせる。また、超自然的な出来事だけは率直に語っている。ポストモダニズムの多くの作品で、物語の途中で不思議な出来事をたとえば、「俺達は大人なんだから、馬が空を飛ぶなんて本当は信じられるわけないさ。」と登場人物に言わせて、不思議な力をそぐことがよくあるが、それは好ましくない。本来『あり得ないこと』を扱うファンタジーはそれを作り事だと思わせたり、暗示したりするのは物語の設定に本質的にそぐわないのである。この作品は、ファンタジーがなぜ生まれたのか、またなぜいつまでもファンタジーを必要としているのかということを問いかける。
 また、同じくクロウリーの作品で、「エンジン・サマー」という作品があるが、この作品はフィクションを用いるのは物語の外の現実世界を理解するためであることをファンタジーによって説明しようとする。クロウリーはファンタジーという形式をとること自体がすでに自己言及的であり、作者が現実を操作することを意味することに気づいていた。ファンタジーが日常の生活に構造をもたらし、それによって驚異をうみだすとしている。
 ポストモダニズムの大きな成果の一つは、文学的な作品と大衆文学との区分を解体し、「美学的民主主義」をもたらしたことである。カルヴィーノによれば、文学作品の意義とは、見たままの現実を忠実に記録することで生じるものではなく、自然の諸現象に形を与え、人々の体験に秩序と価値を付与する語りの能力そのものを信頼することだという。ポストモダニズムがファンタジーを正当化するのであり、とるに足らない素材が神話へと昇華する機会を作るのがファンタジー作家であると言えよう。

7.最後に

このように、ファンタジーのこれまでの捉えられ方を様々に見てきたが、ではいったいファンタジーとは何か、現実とファンタジーの境界はどこかというと、その問いに一言で答えることはできない。そもそも、この現実の世界こそ、ファンタジーに充ちみちた世界なのだ。つまり、ファンタジーの世界とは書物の中だけにあるのではなく、今この現実がファンタジーであると言えよう。私達が普通現実とみなしているものは、せいぜい目に見えるもの(事物、データ、身振り、文章、言葉)のことであり、その人とかそのことの大切な部分はいつも見えないところに隠れている。その人の心の中の現実は、言葉として表現されるよりもはるかに大きな広がりと奥行きを持つ。そして、一人一人は自分の肉体の中に多くの世界を内包していて、普段は他人には気づかせないものなのだ。
今我々が生きている実際の世界は、魔法と奇跡、欲望とやっかみなど、色とりどりの広がりをもった多重構造になっている。我々のまわりにあって実在すると思われているものは、すべて我々の思いの及ぶものばかりではない。むしろ、人間が予測しうるたぐいの世界とか宇宙というのは、人間が考えつくり出したものに過ぎない。本当に実在するものは、しばしば小説やドラマよりはるかにドラマティックであり、神秘的なこと、不思議なことに満ちている。
こうして考えてみると、ファンタジーが、ただのお話ではなく、ただ現実離れした世界を描いたものでもないことに気づくだろう。ファンタジーとは、むしろ我々が普段何気なく心に描いていることで、起こりうるかもしれないこと、起こってほしいと思っていること、また、実際に自分に起こったことなど、いささかフィクション仕立てにしてドラマ化したようなものなのである。そしてそれは、心の中の現実を扱い、現実の人生の解釈にもなっている。つまり、ファンタジーとは人生そのものだと言えるかもしれない。ファンタジーは、見えないものが見え、聴こえないものが聴こえる力を与えてくれ、現実が神秘であり奇跡であることをわからせる力を持っているのである。このように、「ファンタジーと現実」、と二つのものを対立させて捉えるのではなく、二つは複雑に絡まりあい、その境界は非常に曖昧であるということを、以下、童話や児童文学、小説、自伝といったジャンルにおいて、それぞれ作品を取り上げながら具体的に見ていきたいと思う。そして、それはどのように曖昧なのか、ファンタジーの中に現実がどのように組み込まれているのか、現実の中にはファンタジーはないのか、という視点から「ファンタジーと現実」という問題に取り組んでいきたい。


《参考文献》


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