1998年度 インターネット講座

メディア・情報・身体 ―― メディア論の射程

第10回
デジタル技術時代のテクスト (1)
人文的価値観と技術

(99/01/15 更新)

テーマの方向付け――デジタル技術文化と文字文化

このインターネット講座の最後の三回は、「デジタル技術時代のテクスト」というテーマのもとに話を進めていきます。このようなタイトルのもとに私が意図しているのは、もちろん、単に新しい技術を称揚することではなく、これまで取り上げてきたようなメディアの展開に基づいて考えるとすれば、二番目の段階として位置づけられている「文字言語」とその文化(「文字文化」)は、結局どうなるのか、どのような方向に向かいつつあるのかを考えることです。では、なぜ、とくに「文字文化」を考えるのか――それは、われわれが引き継いできた文化的遺産(厳密に言うならば、マクルーハンが言うように、とりわけアルファベットという表音文字に支えられてきた西欧的な文化)の多くは、論理性・線状性を顕著な特質とする文字的な思考に基づくものであり、ここでの問題は、単に電子テキストが完全に普及したとき「本」はどうなるかということだけではなくて、「本」を中心的な媒体としてきたこれまでの文化全体がどうなるのか、ということに帰着するからです。

コンピュータ上での作業がさらに一般的になるにつれて、前回言及したようにテクスト以前の身体性(第一段階としての音声文化の身体性)そのものとは別種のものであるとはいえ、モニターやスピーカを通じてのある種の身体的感覚性がますます追求されていますが、それとともに、われわれがコンピュータの画面の上に見ているのは、あいかわらず「文字」です。(ここにもやはり、「メディア内メディア」を見ることができます。)このような状況を考えるとき、メディアの展開の図式において、「文字言語」は「技術メディア」に乗り越えられた形になっていますが、両者の関係はどのようになっているのでしょうか? また、技術メディアにおける視覚や聴覚は、本来的な身体性とは異なる位置づけをとるものであることを強調してきましたが、同じように考えるならば、技術メディア内の文字言語は、本来の文字言語とはやはり異なった位置づけをとるのでしょうか? これらの問いはもちろん、メディアそのものだけでなく、それが担っている文化同士の関係に置き換えることができます。つまり、デジタル技術文化と文字文化の関係、デジタル技術文化における文字文化の位置はどのようなものであるか、という問いです。

このような問いを発するのは、確かに私自身が人文系の研究者であり、その意味で完全に文字的な思考に支配されている人間のタイプだからだと言うこともできるでしょう。文字に関わることがらは、もちろん私にとって仕事上の最大の関心事です。しかし、それは単なる個人的事情である以上に、文字文化に決定的に関わっている人文研究者一般の問題でもあります。いや、もちろん、研究者などに限る必要はありません。人文的な思考・価値観は、それと意識されることなく、きわめて広範に深くこれまでのわれわれの文化の中に染みわたっていますが、そういった思考・価値観に決定的に左右されている人すべての問題でもあります。

文字文化としての人文的思考

人文研究者は文字文化に決定的に関わっていると上に述べましたが、このこと自体はおそらく一般に何の抵抗もなく受け取られることと思います。人文研究の諸分野の中でも、とりわけ文学あるいは哲学などの、文献と取り組むことを第一とするような研究者にとって「文字」は完全に中心に座しているといえるでしょう。あるいは、それは少し不正確な言い方かもしれません。というのも、そういった研究者にとって価値が置かれているものは、ふつうは文字そのものではなく、文字によって表され、形作られた、思想・発想・表現・構成・形式・論理性などなどだからです。そもそも、メディア論的な展開のうちに「文字」を位置づけることをしなければ、文字そのものは、あたかも空気のように当然のごとくそこにあり、それでもって生活しているものであって、ほとんど意識に上ることもないのかもしれません。そのように、「文字」を中心とする人には、ただ単に文字を使うということだけではなく、多くの場合それに伴ってある基本的な考え方・価値観が形成されています。

身近な例を挙げるならば、本(しかも、文学作品であったり、ある「思想」を含むものであったり、社会や人間に対するまじめな視線を注ぐような、とにかく「なかみ」のあるもの)を読むことは価値があるけれども、テレビ番組や漫画あるいは単なる断片的な情報の集積はくだらないという考え方、そしてそのような「なかみ」のある内容こそが重要なのであり、それをもたらす(とりわけ近代)技術自体は、単なる手段であって、より低い価値しか持たないという考え方を指摘することができるでしょう。こういった基本的な価値観は、文字(あるいはとりわけ活版印刷)がはじまった当初から存在したものではなく、むしろ、この文字の文化が頂点を迎えることとなった西欧近代において次第に形成されていったものです。もちろん、テレビや現在見るような漫画はごく最近のものですが、価値あるものとされていったものは、現在の伝統的な人文系の思考において価値あるものとされているものと、基本的にはそれほど変わらないように思われます。それは例えば、「思想」であり、「精神」であり、芸術性、そういったものを体現するような「文化」、そういったものの集積・またそれらを受け入れるものとしての「教養」と名付けられているものです。(この場合の「文化」とは、美術・(いわゆるクラシック)音楽・文学・建築その他の「高級文化」であって、民衆が普段どんな格好をしているか、何を食べているか、食事の時にどのような作法だったか、どのように人とつきあっていたか、といったことをとりあえず意味していません。)

とりわけ19世紀後半のドイツでは、市民は「財産と教養」を身につけることに腐心していました。成功して巨大な財産を得た市民(いわゆる「ブルジョワ」)だけが高級な文化的遺産を享受していただけでなく、中産層の市民にとってもまた、社会的により上の地位を獲得するために「教養」は必要だったのです(「教養市民」)。[註1]そしてその教養を身につける手段は、まさに「文字」を通してに他なりません。まず、「文字」が読めるようになること(「リテラシー」)、そして、その文字を通して、文字によって形成されてきた文化・価値観を身につけていくこと――ドイツ語の「教養」Bildungは、「形成する」bildenという動詞の名詞形ですが、それはつまり自己をより高い段階の人間へと形成していくことを意味します。このような背景のもとに、「教養」は圧倒的に人文(ドイツでは「精神科学」と呼ばれています)的な特質を持つものとなっています。いささか図式的になりますが、ドイツでは、これに関わる価値の二極分化がかなり明確に現れています。つまり、一方で「精神」「教養」「文化」あるいは「統合性・有機性」に圧倒的な価値が置かれているとすれば、それに対して、「技術」「文明」あるいは断片的なこと・末梢的なこと(例えば「情報」)は、しばしば副次的な価値しか持たないもの、あるいは場合によっては、人文的教養によってあからさまな敵対心を持って迎えられていました。[註2] 

例えば、20世紀前半にウィーンできわめて辛辣な筆をふるったカール・クラウスという批評家は、「近代技術」の本質をまさに体現していると彼が考えていた新聞・ジャーナリズムに対して終生激しい攻撃を続けていましたが、近代技術そのものについても、およそ次のように皮肉っています。道路を掃除するのに、ゴミ取りローラー車なる機械が発明されて町中で出くわすが、ただゴミを巻き上げているだけのことだ。「この機械は、埃をまき散らすという偉大な進歩的理念に役立っている。」また、電話が発明されたというのは「進歩」かもしれないが、「進歩は、電話での会話の質に対する影響を何ら及ぼしていない」。[註3] 「機械」や「技術」の「進歩」といわれているものは、結局人間自身の「思想」を高めるものとはなっていない。いやむしろ、クラウスにとっては、「精神の破壊」につながるものでさえあります。 

文字文化の牙城としての大学

 こういった「教養」によって代表されるような文字文化的な価値観を、現在もっとも典型的に保持しているのが、おそらく大学、しかも人文系の諸領域(「文学部」)であると思われます。大学の文学部は、まさに文字文化の牙城といってよいでしょう。それは、ただ単に、文字に関わることを仕事上の最大の関心事とするだけではなく、基本的に、文字文化の価値観をもっとも典型的に示しているといえるでしょう。ドイツにおいては、19世紀的な「教養」の理念は何度かの社会的・思想的な大転換(例えば、第一次世界大戦、第二次世界大戦、68を頂点とする学生運動)によって大きく揺らぎはしましたが、やはり広範に根強く残っているというのも事実です。日本の大学はそれ自体、開国後の創設の際に制度的にも思想的にもドイツの影響を極めて色濃く受けていますが、それ以上にまた、学生はとりわけ書かれた言葉(「文字」)としての「ドイツ語」を通じて、昔は今とは全く比べものにならないほど、ドイツの思想・精神性・価値観を取り入れていきました。

大学が旧来の理念をすべてそのまま引きずっているということはもちろんないのですが、「文字」を中心とする価値観は、「本」を読む、という圧倒的な要請と、「本」に対置されるもの(例えば、テレビ、ビデオ、漫画、ゲームなど)に対する基本的な反感として、とりわけ文科系の学部のうちに強烈に残っています。あるいは現在、近代技術をもっとも体現していると思われるコンピュータに対しての姿勢にも見て取ることができるでしょう。今では、コンピュータはきわめて広範に用いられるようになったために、文科系の大学の先生でもコンピュータを使う人がかなり多くなっています。積極的に使っている人は、データベースを構築したり、インターネットでさまざまな学術的な情報・資料を集めたり、メールで連絡を取り合ったり、学術的なメーリングリストに加わったりしていますが、コンピュータを使う大半の人文研究者にとって、コンピュータは主にワープロとして使われるものとなっています。もちろんそれはそれで、人文研究者のもっとっも本質的な仕事に即したものなのですが、そのように仕事にきわめて役立っているワープロとしてのコンピュータ(あるいはいわゆる「ワープロ」そのものの機械でもかまいません)に対して、人文研究者はどのように考えているでしょうか。まず間違いなく、書かれた「内容」が重要なのであって、それを書いている機械は単なる手段にすぎない、と考えているでしょう。確かにその通りです。しかし、そのことはさらに次のような主張にいたります。書いている「なかみ」は、ペンで原稿用紙に書こうが、コンピュータで書こうが、同じものである、と。あるいは、「本」で読もうが、電子ブックあるいはWeb上の電子テクストで読もうが、どちらが好きか、読みやすいかは別として、中身に代わりはない、と。さらにいえば、「なかみ」が人文的な書物文化の価値にとって意味のないもの(例えば、ゲームをするとか、インターネットで「くだらない」情報やホームページをだらだらとたどっていくとか)であれば、その手段であるコンピュータには何ら価値はない、単なる「おもちゃ」にすぎない、ということになるでしょう。

「文字」を書くための手段としてのコンピュータは、単なる道具にすぎず、それ以上のものではない、という考え方は人文研究者に限らず、おそらくかなり多くの人が共有しているものでしょう。あるいは、人文系の研究者にとって、ある著作家の膨大なテクスト群のうちから、必要な箇所を「検索」するというコンピュータ上の作業は、きわめてありがたいもので、現在、数々の著作のデータベース化がさまざまな研究機関・出版社などで進行しつつありますが、しかし、どんなに電子テクストを磁気/光媒体のうちに蓄えたところで、結局はそのテクストを「読む」ことだけが意味を持っているのだ、と人文研究者は考えるでしょう。確かに、その通りではあります。しかし、ほんとうにコンピュータは単なる道具にすぎないのでしょうか。また「読む」行為だけが意味を持っているのでしょうか。(ここでの「読む」という概念は、第8回講義でコンピュータ上のインターフェースにおいて行っているようなデコードとしての「読む」ことといった、単なる機能的なものをさすのではなく、本来の人文的な意味での「読む」という行為、つまり、書かれたことばに沈潜して、それがいかに表現され、作者がそれによって何を言い表しているかを緻密にたどっていくような行為を意味しています。)

「内容」のあり方・枠組みに作用を及ぼすものとしてのコンピュータ――再び「メディアはメッセージ」

 アメリカの文芸批評家スヴェン・バーカーツは、『グーテンベルクへの挽歌』(1994)という著書の中で、印刷文化からいわばコンピュータ文化への転換を強く確信しながら、その転換のさまざまな局面を取り上げていますが、彼の同僚たち(著者のバーカーツ自身が英米文学専攻で、大学での授業も持っているようですから、いずれにせよ書物文化の担い手ということになります)のコンピュータの展開に対する反応を次のように描き出しています。

単刀直入にいって、私の見るところ、わが教養ある有能な友人と同僚の多くは、まるでほとんど何も変化なぞないかのように、まるでわれわれが基本的には静的な環境のただ中にいるかのように、日々の暮らしを送っている。彼らは私の主張に接すると、両肩をすくめ、じれったい顔つきでこう言う。「君はまだコンピュータとテレヴィジョンのあら探しをしているのかい?」そして、こちらがどんな見通しや証拠をあげようとも、返ってくるのは《それだけじゃないか》という答えばかりだ。ワープロ、ラップトップはどうかって? 「それらは道具に過ぎない。まあ、より能率的な方法のね...」電子掲示板と電子ネットワークはどうかって? 「それらは人々が連絡する別のいろんな方法に過ぎない」《ディスクによる書籍》の見込みはどうかって? 「別に同じことじゃないか。《ことば》は変わらない...」[註4]

こういった反応は、そのまま日本でも、いや世界中どこでも、そのまま当てはまるように思われます。こういった状況において、著者はこの著作で試みようとしていることを、書物をめぐる外的な状況と、読み手・書き手の主観的状況の二つの側面について、次のように言い表しています。

この大変化にしても、文学の実際に直接影響を与えるのは、そのごく一部である。ところが、すべての社会的前提の全体にわたる書き直しが、《読むこと》と《書くこと》にすこぶる影響を及ぼすことは間違いない。以前の安定した制度は――書き手を一方の軸に、編集者、出版社、書店を中間に、そして読み手を他方の軸に持つ――ゆっくりとプレッツェル形に曲げられつつある。何を書き手が書くか、どのように書き、編集され、印刷され、そして得られるか、それから読まれるか――古い前提はすべて包囲され、攻撃を受けている。しかも、これらはほんの外面的な現れにしか過ぎない。さらにより深い交替が主観的な領域で起こっている。印刷された本、その本の書き方と読み方が変更され、エレクトロニクスによるコミュニケーションが支配を主張するにつれ、文学の実際の《感じ》が変化を受ける。読むことと書くことは、前とは異なったことを《意味する》ようになる。それぞれ新たな意味を獲得することになる。世界がその神秘的な待ち合わせ場所に突進するにつれ、まじめな本をゆっくり読むという昔ながらの行為は哀愁の儀式となる。われわれがその行為のことを熟考するにつれ、われわれが人間的だと辞任する諸価値について、また主観性そのものについて、深遠な疑問が次々と生じてくる。(同書、15頁)

つまり、道具は単なる道具ではない、どんな道具を使うかによってその「なかみ」、またそれをとりまく外的状況までも転換させる可能性を持つということです。私にとっての関心事はとりわけ、ここでいわれている後者、つまり「さらにより深い交替」が起こっている「主観的領域」の方にありますが、先取りしていえば、どのように「読む」「書く」ということの意味が転換を遂げつつあるか、転換する可能性を持つか、ということを、残る2回の講義で「テクノ画像」(フルッサー)と「ハイパーテクスト」という二つの側面から取り上げることにしたいと思います。

道具であるコンピュータが「内容」のあり方・枠組み(つまりその内容がどのように位置づけられ、意味づけられるか)に対して作用を及ぼしうる、ということは、しかし、それほど突飛なテーゼなどではなくて、実際には多くの人がそれと気づかずにしばしば体験していることではないかと思います。例えば、ごく些細なことでいえば、ワープロで文章を書くこと場合、どんどん修正したり、ことばを正確に言うために補って、文章が一般的に長くなったり、複雑になったりしやすい、という現象はしばしば指摘されます。あるいは、人によっては(私などはまさにそうですが)そもそもワープロでなければ文章をまとめるのにかなり苦労する、つまりそれは技術的にではなく、思考回路そのものがワープロの要請する文章作成に適応してしまっている、ということもあるでしょう。いや、しかしそれは単に過程上の話であって、書き上げられたもの自体には変わりないではないか、という反論もあるかもしれません。しかし、私が問題としたいのは、思考様式そのものが変わるということなのです。口述文化(オングのことばを使えば、文字以前の「一次的な」口述文化)から文字文化(とりわけ印刷文化・書物文化)へと転換することによって、思考様式が根本的に転換したように[註5]、コンピュータの中で相変わらず「文字」は生き続けながらも(「メディア内メディア」)、「文字」またそれからなる「テクスト」、そしてそれを「読む」「書く」という行為は、コンピュータというメディアを通じて、ある質的転換を遂げることになる――このことが残りの2回の講義で述べていく内容となります。

メディアによる内容のあり方・位置づけの転換ということは、結局のところ、これまでの中心的なテーマの一つであったメディアによる感覚変容に直接につながっています。あるいは、マクルーハンの言葉でいえば、「メディアはメッセージである」ということの例証がここでも確認できるということになるでしょう。先のカール・クラウスのことばを引き合いに出すならば、彼が批判する「進歩」が確かに「進歩」と呼べるようのであるかどうかは疑わしいにせよ、「進歩は、電話での会話の質に対する影響を何ら及ぼしていない」とは言えないのです。つまり、電話という新しいメディアを通じて話すということは、たとえその<伝達内容>が全く同一であったとしても、顔をつきあわせて話すのとは質的に異なる何かを生み出しているのです。

新しいメディアへの抵抗感

その質的に異なる何かとはどのようなものか、質的に転換した「テクスト」がどのようなものか、具体的にはまだ語っていませんが、いずれにせよ、人文研究者の基本的な反応は、従来のじっくりとテクストを追って読んでいくという行為の否定に対して、まず間違いなく拒否的(どう少なく見積もっても消極的)なものとなるでしょう。そもそも、書物文化の担い手にとって、書く道具(おそらくあまり「読む道具」ではないでしょうが)としてのコンピュータは、使うにしても、すでに述べたような「単なる道具」と見なされているのであって、ましてやその単なる道具が神聖なる「内容」を侵害するというのであれば、そういった考え方は許されざることとして拒絶されるに違いありません。しかし、テクストを「読む」あるいは「書く」という行為は、それほどまでに絶対的でまた普遍的なものなのでしょうか。

メディアの転換を語る文脈において、しばしば好んで引き合いに出されたり言及されたりする [註6] ものに、プラトンの『パイドロス』があります。その中の、「ものを書くということについて、それが妥当なことであるとか、妥当なことではないとかいった問題、すなわち、ものを書くということはどのような条件の下においてりっぱなことだといえるのか、またどのような条件のもとではりっぱでないということになるのか、という問題」について述べている、よく知られた箇所を引用してみましょう。[註7] これは、ソクラテスがパイドロスに語った、一つの話ということになっています。

エジプトのナウクラティス地方に、この国の古い神々の中の一人の神が住んでいた。この神には、イビスと呼ばれる鳥が聖鳥として仕えていたが、神自身の名はテウトといった。この神様は、はじめて算術と計算、幾何学と天文学、さらに将棋と双六などを発明した神であるが、特に注目すべきは文字の発明である。ところで、一方、当時エジプトの全体に君臨していた王様の神はタモスであって、この国の上部地方の大都市に住んでいた。ギリシア人は、この都市をエジプトのテバイと呼び、この王様の神をアンモンと呼んでいる。テウトはこのタモスのところに行って、いろいろの技術を披露し、他のエジプト人たちにもこれらの技術を広く伝えなければいけません、と言った。タモスはその技術のひとつひとつが、どのような役に立つものかをたずね、テウトがそれをくわしく説明すると、そのよいと思った点を賞め、悪いと思った点をとがめた。このようにしてタモスは、ひとつひとつの技術について、そういった両様の意見をテウトに向かって数多く述べたといわれている。それらの内容をくわしく話すと長くなるだろう。だが、話が文字のことに及んだとき、テウトはこう言った。
 「王様、この文字というものを学べば、エジプト人たちの知恵は高まり、もの覚えはよくなるでしょう。私の発見したのは、記憶と知恵の秘訣なのですから。」――しかし、タモスは答えて言った。
 「たぐいなき技術の主テウトよ、技術上の事柄を生み出す力をもった人と、生み出された技術がそれを使う人々にどのような害を与え、どのような益をもたらすかを判別する力をもった人とは、別のものなのだ。いまもあなたは、文字の生みの親として、愛情にほだされ、文字が実際にもっている効能と正反対のことを言われた。なぜなら、人々がこの文字というものを学ぶと、記憶力の訓練がなおざりにされるため、その人たちの魂の中には、忘れっぽい性質が植え付けられることだろうから。それはほかでもない、彼らは、書いたものを信頼して、ものを思い出すのに、自分以外のものに彫りつけられたしるしによって外から思い出すようになり、自分で自分の力によって内から思い出すことをしないようになるからである。じじつ、あなたが発明したのは、記憶の秘訣ではなくて、想起の秘訣なのだ。また他方、あなたがこれを学ぶ人たちに与える知恵というのは、知恵のが意見であって、真実の知恵ではない。すなわち、彼らはあなたのおかげで、親しく教えを受けなくても物知りになるため、多くの場合ほんとうは何も知らないでいながら、見かけだけはひじょうな博識家であると思われるようになるだろうし、また知者となる代わりに知者であるといううぬぼれだけが発達するため、つきあいにくい人間となるだろう。

周知のように、ソクラテスは語る人であって、ソクラテスのことばはプラトンによって書き記されたものです。ソクラテスはつまり完全に語ることばの文化の内に生きていた人であって、彼はここで「文字」という新しいメディアに対してその短所を指摘し、否定的な態度を示しています。タモス王の口を借りてソクラテスがここで記憶力について言及し、文字を使うと記憶力が悪くなると主張していることにはあるいはとまどいを感じる人もいるかもしれません。このことはオングやマクルーハンが、ミルマン・パリーら先人のホメロス研究に基づきながら強調していることですが、古典古代の「語り」は、書き言葉であればきわめて冗長で美的でさえないようなことばからさえ成り立っているけれども、それはまさに「文字」として記録されないがゆえに必要であった記憶に関わる特質なのです。それはともかくとして、上の引用で、テウトという神が文字のすばらしさを喧伝し、それに対して、タモス王が否定するその語り口は、[註7] にあげた内のいくつかの文献でも指摘されているように、まるで現代のコンピュータ支持者が、コンピュータを使えばこういうことができる、ああいうことができる、と力説するのに対して、旧来のメディア(つまり「文字」)の支持者が、コンピュータを使えば思考力や記憶力が低下すると警鐘を鳴らすのと非常に似ています。

文字という新しいメディアが出現した際に、ほかにもいろいろ理由はあったでしょうが、その反対者はいました。しかし、それにもかかわらず文字が文化の中心を占めていったのは、文字がやはり圧倒的な力をもっていたからです。その意味で、われわれの目から見れば、テウトの主張の方が正しく映るでしょう。とはいえ、ソクラテスがタモスに語らせたことが誤りであったとは、やはりいえません。「一次的な声の文化oral culture」の価値の視点からすれば、やはりタモスの語ったことは正しいのですが、われわれがやはりいまでももっている文字の文化の尺度で測るとき、それは押しやられてしまわざるを得ないのです。

翻って、現在、「書物」から「コンピューティング」への転換点にあって、この先メディアがどのような展開をたどるか、もちろんまだ見通すことはできませんが、やはり同様のことがいえるように思えます。つまり、書物文化の担い手から、その価値観を脅かしかねない(いや、はっきりと脅かしている)コンピュータ的思考に対してさまざまな批判が投げかけられていますが、コンピュータによるデジタル的処理が圧倒的な力をもち、それが社会と文化においてますます力を増大させていくであろうことは、ほとんど拒みようがありません。実際、「文字」という旧来のメディアは、電子テクストとして例えばモニタに現れる、コンピュータ内のメディアへと次々と吸収されつつあります。それに対して旧来のメディアの信奉者がどのように嫌悪感を抱こうとも、時がたつにつれ新しく育つ子供たちはその新たなメディアの文化の中で自分を作り上げ、結局、大勢としては新しいメディアの思考様式が支配的になるでしょう。

メディア内メディア――文化内文化

とはいえ、こういう言い方をすると誤解を生じるかもしれません。というのも、まるで書物文化がコンピュータのデジタル文化によって乗り越えられ、絶滅させられるかのように聞こえてしまうからです。(書物文化の信奉者にとって、上のことばは、まるでSF的な黙示録のように響くかもしれません。)そうではありません。文字が近代の文化の中心に座していたにしても、文字というかたちをとって定着させられたそもそもの音声が廃れることは決してありませんでしたし、文字文化のなかにもある種の口述文化/声の文化oral cultureが残っています。もちろん、それは文字を知る以前の「一次的な声の文化」(オング)ではなく、文字文化の中に取り込まれ質的な転換を遂げた声の文化です。文字をひとたび覚え、文字の文化の中に生活するものは、どれほど活字から離れて声を中心に生活しているといっても、その思考はすでに文字の論理によって規定されたものであり、「読む」ことを身をもって知っていることによってはじめて可能となったものです。

同じように、コンピュータというメディアが支配的になったとしても、文字が消滅することはあり得ないでしょう。現に、コンピュータの画面のかなりの部分を文字が占めているように。そして、コンピュータを中心とするデジタル文化の中で、文字の文化は質的な転換を遂げて生き続けるでしょう。オングにならって呼ぶならば、デジタル文化を知る前の文字文化を「一次的な文字文化」、そしてデジタル文化の中で質的に変化した文字文化を「二次的な文字文化」ということができるかもしれません。

このような語り口をとっていると、私が来るべき新しい文化を言祝いでいるように聞こえるかもしれません。確かに、私は文学部の教員の中ではかなりコンピュータを使っている人間の一人ですし、その分だけでもコンピュータ的な思考・文化に対するアレルギーはいくぶん少ないかもしれません。しかし、私もれっきとした人文研究者の一人であり、文字文化的な思考にどっぷりとつかった人間であるという一面を強烈にもっています。その意味で、旧来の人文的な思考に対してコンピュータが解体的な作用を及ぼしつつあることに、一方である種の快感を覚えながらも、自分自身が立っている足場が切り崩されていく不安をも感じているのです。

いずれにしても、いかに不安を感じようとも、「文字」そして「テクスト」はコンピュータ的特質のなかで動いていくことになるでしょう。それがどのようなものであり得るかという二つの見取り図を次回以降、示していくのですが、それは、マクルーハンの語り口に感じられたような電子文化に対するユートピア像(例えば、コンピュータを使えばこんなことができる)といったようなものではなく、その理論的な図式と可能性であるということを、ここでも繰り返しておきたいと思います。



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