2008年総統選挙の見通し (V)
― 民進党・謝長廷陣営の動向 ―







  • 民進党の予備選挙(2007.11.29記)
  • 謝長廷勝利の傷跡(2007.11.29記)
  • 陳水扁との主導権争い(2007.11.29記)

東京外国語大学
小笠原 欣幸

 フリー素材柚莉湖♪風と樹と空と♪        2007年8月,両陣営の正副総統公認候補が正式に決まった。国民党は馬英九=蕭萬長,民進党は謝長廷=蘇貞昌である。2008年3月22日の投票日に向けて,両陣営の闘いは,序盤戦から中盤戦に移ろうとしている。現時点での情勢を敢えて要約するなら,馬英九が一歩リードしていると見てよいであろう。馬英九陣営は台湾化路線を軸とする選挙戦略を定め,党内の雑音を封じ込め,親民党の取り込み工作も概ね成功しているのに対し,謝長廷陣営は,陳水扁の公民投票路線,游錫堃の台独路線,謝長廷本人の和解共生路線が混在している。民進党は立法委員選挙での苦戦が予想され,友党であった台聯とも対立し,選挙を戦う態勢作りは出遅れている。
 フリー素材柚莉湖♪風と樹と空と♪  


                        

  民進党の予備選挙(1)−総統候補

 2007年3月,民進党の総統候補を決める予備選挙がスタートした。予想通り,蘇貞昌(行政院長),謝長廷(前行政院長),游錫堃(党主席),呂秀蓮(副総統)の4名が立候補した。4候補とも党の綱領や「台湾前途決議文」の作成に関与し台湾アイデンティティを共有していることから,大きな争点はないように思われたが,游錫堃が「国家正常化」を掲げ非常に急進的な立場から論戦をしかけた。蘇貞昌は倒扁運動の際あいまいな態度をとったとして,謝長廷は対中政策が開放志向だとして攻撃された。しかし,予備選挙の論戦をリードしたのは陳水扁であった。2006年以降独立派寄りに軸足を移していた陳水扁は,2007年3月4日,2000年の就任演説で約束した「四不一沒有」を覆す「四要一沒有」(台湾要独立,台湾要正名,台湾要新憲法,台湾要発展,台湾沒有左右路線,只有統独問題)を言い出した(『聨合報』「宣示「四要一沒有」 扁:台灣要獨立」2007.03.05)。これを受けて,蘇,謝,游も「四不一沒有」の公約はしないと表明した。游錫堃は,さらに進んで「台湾前途決議文」の廃棄にも言及した(『聨合報』「酷V王政見會」2007.04.15)。1999年に採択された「台湾前途決議文」は,党外活動から出発した民進党が中華民国の政権を担うことを正当化する基本方針であった。当時,党秘書長として決議文の取りまとめにあたったのは他ならぬ游錫堃である。游錫堃は「台湾前途決議文」に代わって「正常国家決議文」を採択することを自身の公約とした。
 民進党は,総統候補と立法委員候補を決める予備選挙を平行して進めたが,これが思わぬ相互作用をもたらした。二つの予備選挙が連動して民進党の急進化をもたらしたのである。どちらの予備選挙も,第一段階で党員投票,第二段階で民意調査というプロセスは同じで,5月6日に党員投票を実施しその後に民意調査をするという日程が決まっていた。しかし,勝敗に直結するゲームのルールはなかなか決定できず,第二段階の民意調査の対象から国民党の支持者を排除するという「排藍民調」の方式をめぐって候補者間の駆け引きがぎりぎりまで続いた。本来競争のルールはゲームの開始前に党執行部が中立的立場から決めておくべきであったが,党主席の游錫堃も立候補し,党秘書長の林佳龍も游を担いで議論を引っ張ったため,党内の対立は先鋭化していった。
 第一段階の党員投票は,蘇貞昌有利と見られていた事前の予想を覆し,謝長廷が《表1》のように圧勝した。蘇貞昌は直ちに予備選挙からの辞退を表明し,游錫堃,呂秀蓮も続いたため,予備選挙第二段階の民意調査を待たず謝長廷の勝利が確定した。この時,4人の候補者が勢ぞろいし握手する場面を演出したため,民進党は党内の競争はすさまじいが一旦候補が決まれば団結するという従来からの評価が再確認されたと思われた。「やはり民進党は選挙に強い」と多くの人が感じたであろう。ところが,その後の党内の協力体制作りは遅々として進まなかった。

《表1》 民進党総統候補予備選挙の党員投票の結果
謝長廷蘇貞昌游錫堃呂秀蓮
得票率44.7%33.4%15.8%6.1%
主な支持基盤謝派,反新潮流派新潮流派,陳水扁独立派,党系統女性・人権団体

 謝長廷の勝因は,@新潮流派に対する党内他派の反発,A蘇貞昌の資質への疑問,B陳水扁が後継候補を左右することへの違和感,が合わさったもので,謝長廷の和解共生路線が支持されての勝利とは言いがたい。@の新潮流派に対する党内他派の反発から見ていこう。2006年の市民団体および野党による陳水扁辞任要求運動以降,民進党内では新潮流派に対する風当たりが強まっていた。これは,表面的には,新潮流派のメンバーが陳総統周辺の汚職腐敗スキャンダルを批判し,倒扁運動に同調するような態度を見せたことが,苦境にある党への裏切り行為と映ったためである。新潮流派の代表的人物および中間路線を志向する立法委員が,党内の強硬派から「11人の賊」と名指しで批判された。より深い次元では,民進党内の最大派閥である新潮流派とそれに対抗する他グループとの党内抗争である。陳政権成立後,新潮流派は常に主流派の位置にあり,新潮流派のメンバーが政権内部で要職に就いていた。新潮流派は中間寄りの路線を掲げているのでメディアの受けも比較的よく,選挙にも強かった。反新潮流派のグループや個人は,反発とともにやっかみのような感情を抱いていた。新潮流派は人数は少ないものの結集力が強く,他派閥はバラバラであるから,党内の主導権争いでは新潮流派が優勢であった。
 倒扁運動を境にその勢力バランスが変化した。新潮流派以外は,何があっても陳水扁を守るという「保皇派」の言動に傾いた。多くの党員にとってこの問題は単なる政治腐敗の問題ではなく,台湾の本土政権を守るかどうかの問題と認識されたためである。立法委員候補の予備選挙を控えていた党内の空気は一気に反新潮流派へと転換し,新潮流派は袋叩きの状態に陥った。台独路線をめぐる主導権争いも加わった。立法委員の公認候補を目指し同じ選挙で競合する候補者は,これを好機として急進的な立場から新潮流派の候補にネガティブ・キャンペーンをしかけた。中国への投資制限の緩和を主張していた洪奇昌は「西進昌」,民進党の国際事務部主任の蕭美琴は「中国琴」と中傷された。長年にわたり新潮流派と対立してきた謝長廷は,この状況を巧妙に活用し,新潮流派と連携する蘇貞昌の足場を切り崩していった。
 蘇貞昌は行政院長として有利なポジションにいたのだが,予備選挙を意識しすぎてか,政府の政策展開にパフォーマンスを見せたり,メディアに踊らされたりする局面が見られた。また,蘇貞昌が閣僚や県市長らを動員した大掛かりな応援態勢をとったため,何の役職もなく選挙活動をしている謝長廷と対比され,行政院の資源を過度に利用しているという批判を招いた。予備選挙を有利に運ぼうとするあまり,一部の選挙民やメディアに批判されると態度を変えるという印象もできて,本人の信念やビジョンが伝わらなくなり,Aの蘇貞昌の資質への疑問が出てきたのである。その点,謝長廷は,したたかさ,狡猾さを備えていて,窮地にあっても動じないという評判が定着していた。
 そしてBの陳水扁要因であるが,陳水扁は公式には中立を保った。しかし,水面下で蘇貞昌を支持していることは周知の事実であった。陳水扁と謝長廷とが長年のライバル関係にあることも周知の事実であった。游錫堃は陳水扁の支持を期待していたが,陳が蘇を支持していることを知り陳水扁に反旗を翻すようになった。游,謝,呂の3人は連携して陳=蘇に対抗し,陳が水面下で蘇を支持していることは不公正であるという暗批を繰り広げた。党内には陳水扁が調停し後継者を指名することを期待する声もあったが,民進党内にはストロングマンを警戒する政治文化があり,党員の陳水扁に対する支持は無制限ではない。党員は,腐敗が相次いでも陳水扁政権を擁護したが,陳水扁が後継候補の決定で過度に影響力を行使したり退任後に院政を敷くことは望んでいなかった。陳水扁陣営の幹部は,「陳水扁が本気でてこ入れをしていれば蘇貞昌が勝ったはずだ」と言っているが,党員投票の直前に陳水扁の意向を受けた県市長らが大々的に蘇貞昌を担いだりしたことが,かえってひいきの引き倒しのような結果につながった側面がある。

  民進党の予備選挙(2)−立法委員候補

 立法委員候補を決める党内予備選挙は,第一段階の党員投票(比重30%)と第二段階の民意調査(比重70%)を合計して決定する。民意調査の方法は,総統予備選と連動して党内の駆け引きが続き,中間寄りの新潮流派に不利になるように,国民党の支持者を排除する「排藍民調」方式が導入された。73の選挙区のうち予備選挙に立候補者があったのが52選挙区で,2名以上が立候補したのが29選挙区であった。うち27選挙区で予備選が実施されたが,この中で,新潮流派vs反新潮流派の対決パタンとなったのは,《表2》のとおり15選挙区であった。新潮流派の主要対抗馬は,陳水扁派6名,謝長廷派5名,游錫堃派2名などである。党内他派から集中砲火を浴びた新潮流派は,党員投票で雪崩を打って敗北した。新潮流派で1位になったのはわずか3名で,勝敗で言うと3勝12敗という惨敗であった。

《表2》 民進党立法委員予備選挙で新潮流派vs反新潮流派の対決となった選挙区
主要候補者党員投票1位公認獲得者
台北市第1 林濁水(前)【新】, 高建智(現)【謝】,鄭運鵬(現)【蘇】高建智【謝】同左
台北市第2蕭美琴(現)【新】, 王世堅(現)【謝】, 藍美津(現)【扁】王世堅【謝】同左
台北県第2 林淑芬(現)【新】, 黄劍輝(現)【謝】黄劍輝【謝】 林淑芬【新】
台北県第10李文忠(前)【新】, 尤清(現)【-】尤清【-】李文忠【新】
台北県第12 沈發惠(現)【新】, 陳朝龍(現)【扁】陳朝龍【扁】同左
宜蘭県 陳金コ(現)【新】, 陳歐珀(前宜蘭県党部主委)【扁】陳金コ【新】同左
桃園県第2彭紹瑾(現)【新】, 郭榮宗(現)【扁】郭榮宗【扁】同左
台中県第3 簡肇棟(前)【新】, 謝欣霓(現)【謝】謝欣霓【謝】簡肇棟【新】
台中県第5 郭俊銘(現)【新】, 許水彬(県議員)【-】郭俊銘【新】同左
彰化県第4 魏明谷(現)【新】, 江昭儀(現)【游】江昭儀【游】同左
雲林県第2 林樹山(現)【新】, 劉建國(県議員)【-】, 簡光甫(雲林県扁友会会長)【扁】劉建國【-】同左
台南県第1 鄭國忠(現)【新】, 葉宜津(現)【扁】葉宜津【扁】同左
台南市第2 ョ清コ(現)【新】, 王定宇(市議員)【-】ョ清コ【新】同左
高雄県第2 李清福(前高雄県党部主委)【新】, 余政憲(前高雄県長)【謝】余政憲【謝】同左
高雄市第3 李昆澤(現)【新】, 林進興(現)【游】林進興【游】李昆澤【新】
 ただし,第二段階の民意調査で2名(李文忠,簡肇棟)が逆転勝利し,その後相手候補の不正の発覚・辞退により,さらに2名(林淑芬,李昆澤)が浮上したので,新潮流派の勝敗は7勝8敗となった。他に,予備選なしで新潮流派が公認を得たのが8名いる。最終的に民進党第一次公認52選挙区のうち,新潮流派は23名を擁立し15名が党公認を獲得した。このように最終結果は必ずしも新潮流派の敗北ではないのだが,党員の意向を直接反映する党員投票のインパクトはあまりに大きかった。加えて,比例区候補を決める予備選挙でも,新潮流派の代表的人物である洪奇昌が「落選」したので,蘇貞昌の敗北と合わせ新潮流派の退潮は強く印象付けられた。また,新潮流派ではないが中間路線志向の沈富雄,羅文嘉も「落選」した。この二人は知名度が高く「当選」が確実視されていたが,陳水扁を批判したため「11人の賊」に入れられ「落選」の憂き目を見たのである。民進党は本来百家争鳴の党であり,相互批判はごく普通のことであったが,この時は魔女狩りにも似た非寛容の雰囲気が蔓延した。
※「11人の賊」と名指しされた候補のうち,予備選挙で勝てたのは李文忠だけである。林濁水,鄭運鵬,沈發惠,林樹山,沈富雄,羅文嘉,洪奇昌の7名は予備選挙で敗退した。段宜康,郭正亮,蔡其昌の3名は,対抗馬がいなかったので予備選挙をする必要がなかった。
 この予備選挙が異様な雰囲気になったのは,立法委員の定数半減と小選挙区制の導入が原因である。中選挙区制での予備選挙は,通常数名の候補が公認を得られるので,有力議員にとって競争はそれほど熾烈ではなかった。予備選挙は単なる通過点で,勝負はあくまでも本番の選挙であった。ところが,小選挙区制が採用され個々の選挙区の範囲が発表されたことで,民進党の地盤の選挙区では公認を得ることがすなわち当選という状況となり,党内の予備選挙が事実上の決戦の場となったのである。加えて,議員定数の半減で現職議員の半数が失業するという状況に直面し,予備選挙がパニックにも似た極端に熾烈な競争になったのである。
 このような雰囲気の中で,少なからぬ候補者が,党員投票にターゲットを絞り党員にアピールするため急進的な路線に傾いた。それらは,台独の主張であったり,反中国の言動であったり,外省人への批判であったり,国民党の罵倒であったりで,様々なパフォーマンスを伴って展開された。予備選挙に参加する党員は,台湾の選挙民の一般的傾向よりも高い割合で台独路線を支持しているから,候補者らが急進的立場を強めたことは決して不合理なことではない。新制度の導入前,台湾の政治学者の中には,小選挙区で当選するためには中間票の獲得が不可欠なので候補者の主張は穏健な中道路線に向かうという予想があったが,予備選挙ではそれとは逆の状況が生じたのである。

  謝長廷勝利の傷跡

 予備選挙で敗北した蘇貞昌は,1週間後に行政院長を辞任した。蘇貞昌が発表した辞任理由は,任期が残り1年となった陳総統が情勢の変化に対応して新しい布陣を敷けるようにするため,というものであった。蘇貞昌のあっさりした性格から考えればこの説明に肯ける部分はあるが,予備選挙での遺恨があったことも否定できないであろう。蘇貞昌の辞任は,謝長廷に対し,謝派だけで総統選挙を闘えるなら勝手に闘えばよいという突き放しの宣言でもあった。およそ2ヶ月の選挙期間中,激しい個人攻撃の応酬が続いた。候補者間の人格否定の発言はあまりに劣悪で,誰が公認候補になってもイメージダウンは避けられそうになかった。党員投票の直前には,謝長廷の政治献金疑惑に関する検察の捜査資料が週刊誌に報じられるという事件も発生した。予備選挙に突入すれば党内の団結にひびが入ると心配する声があったが,その懸念が現実のものとなったのである。民進党の総統予備選挙が行なわれたのは,1995年以来12年ぶりである。その時の予備選挙も「やらないほうがましだった」という声があがるほど内部対立が深刻化し,公認を得た彭明敏は本選挙で惨敗している。
 勝利した謝長廷の課題は,@党内の亀裂を修復し挙党体制を作ること,A候補として独自色を出し,より広範な選挙民にアピールすること,B陳水扁総統との役割分担を定めてその複雑な関係を整理していくこと,の3つに整理できる。@とAの課題は馬英九にもあてはまるが,Bの課題は長年のライバルが現職にいるという謝長廷ならではのものだ。5月から7月にかけて,党内では楽観的な見方が多かった。それは,この時期馬英九も,王金平,連戦との亀裂の修復に苦労していたし,候補としてアピールするため自転車で台湾を縦走するなど模索を続けていたからである。『中国時報』論説委員の夏珍が5月17日に「馬英九打不過謝長廷」という論説を書いているが,それは,激戦を勝ち抜いた謝長廷の計算や手腕は馬英九より上であるという見方と,予備選挙で敗れた蘇貞昌や新潮流派にしても,陳水扁にしても,民進党政権の継続で謝長廷と利害が一致しているので,時間が経過するにつれ協力体制ができあがるという見方に基づいたものだ中時電子報網路主筆室。謝長廷自身も,新聞のインタビューで「予備選挙で党内多数の賛同を得たのだから,忍耐を持って意見交換を続けていけば自分の声が民進党の主軸となる」と語り,自信を見せていた(『聨合報』「謝長廷:我的聲音 將成民進黨主軸」2007.06.18)
 蘇貞昌が辞任し長老の張俊雄が後任の行政院長に指名されたことは,謝長廷にとって悪いことではなかった。行政院の人事では,新潮流派の邱義仁と陳景峻がそれぞれ副院長と秘書長に起用され,新潮流派の取り込みも行なわれていた。謝長廷は,副総統候補に謝派の葉菊蘭を指名し,党秘書長には李應元を送り込み,党内基盤を強化しようと考えていたようだ。謝長廷は,時間をかければこの人事配置が可能になると考えていたが,時が過ぎても党内は謝長廷を中心にまとまる気配はなかった。確かに選対本部が設置され有力者が名前を連ねたが,動きは鈍かった。陳水扁は,謝長廷にかまわず「台湾名義での国連加盟公民投票」で突っ走った。游錫堃はますます急進化し,謝長廷の反対を無視して「正常国家決議文」を推進した。蘇貞昌と新潮流派の多くは,そっぽを向いたままであった。陳水扁が亀裂の修復を考えなかったわけではない。むしろ陳水扁は,積極的に蘇や游の支持者をなだめたり予備選挙で敗北した立法委員にポストを与えるなどして党内融和の努力をしていた。しかし,亀裂は修復されるどころか拡大していた。
 謝長廷は,蘇貞昌を副総統候補に指名すれば亀裂の修復にプラスになることはわかっていたが,蘇派を入れることで選対本部の動きが重くなること,謝蘇配を主張する陳水扁の圧力に屈した形になること,蘇貞昌があくまで拒否する可能性があったことなどから,躊躇していた。副総統候補を指名するぎりぎりのタイミングである8月になって,謝長廷は考えを変え,自分から蘇貞昌に歩み寄った。こうして,かろうじて謝−蘇の関係は修復に向かった。ところが,党内は別の嵐に巻き込まれていた。「主席問題」である。蘇貞昌が予備選挙敗北後,行政院長を辞任し謝長廷に何の注文もつけなかったのに対し,游錫堃は敗北後も党主席に留まり,予備選挙で自分が公約した「正常国家決議文」の採択に固執した。「決議文」は,謝長廷の中間路線に対する牽制という意味があるが(『中国時報』「民進黨提出 正常國家決議文草案 國號台灣 破除憲法一中」2007.08.02),予備選挙で勝ったのは謝であって游ではない。
 游主席の強い態度の裏には,独立派が党内で影響力を拡大したという事情がある。予備選挙のプロセスを通じて,民進党のイデオロギー的位置は,台湾アイデンティティから台湾ナショナリズムへと動いていった。独立派は「中華民国在台湾」の矛盾を表面化させて,中華民国を廃棄し台湾共和国への移行ないし台湾国の建国を主張している。決議案の文言にこだわるのもそのためである。一方,陳水扁は,独立派に接近したといっても,その基本的発想は選挙に勝つために使えるものは手段として利用するというものである。現実主義者である陳水扁は,文言をいじったからといって独立が近づくわけでないことも知っている。陳水扁はこれまでも急進的な発言をしてきたが,台湾アイデンティティと台湾ナショナリズムの境界のグレーゾーンのところで留まり,それを越えて台湾ナショナリズムの領域に入ることはなかった。これまでは陳水扁が急進路線の最前列を走っていたので,選挙情勢や国際情勢を見ながら自分がブレーキをかけたり方向を変えたりすることができた。今度は游錫堃が独立派の支持を受けて陳の前を突っ走ったので,陳水扁もコントロールできなくなった。
 陳水扁陣営の幹部は,游の台独路線について,「当初は予備選挙の選挙戦略であったが,しだいに内在化していったようだ」と解釈している。游は,穏健路線の人から信念の人へと変身を遂げたのである。游主席は,「中間派の選挙民がいるとは限らない。いたとしても,投票意欲が低い」として,深緑の支持者を結集する選挙戦略が必要と主張した(『今日晩報』「游錫堃:沒有決議文 民進黨選舉反不利」2007.08.07)。これは,「民進党は省籍意識,統独意識を超越して支持基盤を拡大しなければならない」として中間票を重視する謝長廷の選挙戦略とはまったく異なる。游主席は,9月30日に予定されている党代表大会での決議採択を目指し,党の地方支部の支持を取り付けていった。謝長廷は議論を総統選挙後に先送りすることを求めた。両者の対立は,党中央執行委員会を舞台にして抜き差しならない状態になっていった。
 本来,9月30日の党代表大会は,民進党が挙党態勢を作り謝長廷の選挙情勢を盛り上げるためのものであったのだが,決議文問題で対立が深まり,それどころでなくなった。陳水扁が調停に乗り出し,ぎりぎりのところで《表3》の案文を取りまとめたが,游主席は,《わが国は新憲法を制定し,国号の正式名称を「台湾」とし,台湾が主権独立国家であることを国際社会に正式に宣告すべきである》という一文を盛り込むことを最後まで主張して譲らなかった。游主席の文案は独立宣言に等しく,民進党が台湾ナショナリズムの立場を採用したことになるので,陳水扁自身が火消しをしなければならなかった。例えて言うならば,「台湾を愛するのか愛さないのか?」という陳水扁の焚きつけ戦術が高じて,自分の足元にも飛び火したのである。陳水扁は游を懸命に説得したが果たせず,採決で游を止めるしかなかった。游の修正案は,328名の党代表のうち43名しか賛成せず否決された。游は党主席を辞任し,謝長廷の選挙決起集会は中止となった。

《表3》 民進党の「正常国家決議文」
 台湾は主権独立国家であり,中国とは相互に隷属せず,相互に統治しない。[省略] 民主進歩党は,独立自主を確保し,[省略] 台湾を正常な国家とするため「正常国家決議文」を提出する。
  1. 「運命共同体」という台湾アイデンティティ観から出発し,民主的価値を深化させ,台湾意識を強化し,また,「中華民国」という国号がもはや国際社会で通用しないことに鑑み,「台湾」の名義で国連,WHO等の国際組織への加盟を申請し,その上で早期に台湾正名を完成させ,新憲法を制定し,適当な時期に公民投票を実施し,台湾が主権独立国家であることを顕彰する。
  2. 世界の潮流に順応するため(民国暦に代わり)西暦を採用すべきである。
  3. 政府は,学校課程において台湾の国家アイデンティティ,本土文化,母語を積極的に推進し,教育の台湾化を実現すべきである。
  4. 経済発展は,国家の安全,社会の公義,永続的発展を前提とし,台湾国民が尊厳と幸福な生活を享受できるようにすべきである。
  5. 政府はトランジショナル・ジャスティスを全面的に推進し,権威主義統治の遺留である政治符号と資源分配の不公正を除去し,司法検察体制を革新し,中国国民党の不当党資産の返済を迫るべきである。ならびに,白色テロ時期の政治事件の真相を調査し名誉回復すべきである。
 民主進歩党は,次のように認識する。台湾は時代の進歩に従い,強権的支配と不合理な制度の束縛から脱却し,積極的に正名,憲法制定,国連加盟を追求し,トランジショナル・ジャスティスを実現し,台湾の主体性を建立し,一致団結して一つの正常で偉大な民主国家を建立する必要がある。 【2007年9月30日 民進党全国代表大会採択】

  陳水扁との主導権争い

 民進党が「決議文」で内部対立している間に,国民党は立法委員選挙の準備を着々と進めていた。国民党は,難航が予想された親民党や無党籍候補との選挙区調整をほぼ終えて,陣営内の共倒れの可能性を最小限に抑えることに成功していた。それに対し,游主席と林秘書長による立法委員選挙準備は立ち遅れていた。日本の郵政選挙の刺客候補をまねて「雷雨奇兵」作戦なる候補者公募が行なわれたが,知名度も実績も低い若手候補が集まっただけでまったくの失敗に終わった。台聯との選挙協力も何の進展もなかった。予備選挙で勝った候補者がその後起訴されるという問題も生じたが,その処理も遅れていた。加えて,游錫堃主席,呂秀蓮副総統,陳唐山総統府秘書長の3名が,特別費問題で起訴された。これは,馬英九の市長特別費問題と同じ性質の問題である。
 体調不良を理由に党代表大会を欠席した謝長廷は,そのまま10日間公の場に姿を見せず,事実上の「雲隠れ」をした。足の捻挫がその理由とされているが,本当の理由はわからない。游の辞任を受けて,陳水扁が党主席に復帰した。混乱を収拾できるのは陳水扁しかいないという党内の声に推されての復帰であるが,陳水扁もすぐに復帰を発表するのではなく,10日間ほど熟慮してからの復帰であった。これは,ちょうど謝長廷の「雲隠れ」の時期と重なる。両者の間でどのような駆け引きがあったのか,今もまだ明らかになっていない。
 游が主席を辞任した後も,謝長廷の路線問題は解決しなかった。独立派は謝長廷への不信感を強めていた。台湾社,北社,中社,南社,東社,台湾教授協会などの独立色の強い民間団体が連名で声明を発表し,謝の路線は中華民国法統政府を維持していくものだとして,謝にただちに台湾国建立の公約をするよう求めた(『自由時報』2007.10.06)。謝長廷が,対中投資規制の緩和,過去に違法に対中投資をした業者の免責などの両岸交流政策を発表するたびに,党内からは反発の声があがっている。台湾企業の対中投資一律規制を緩和し産業ごとに投資上限を決定するという謝長廷の公約に対し,陳水扁はすぐに「自分の任期中にはやらない」と冷水を浴びせかけた。民進党の中央常務委員会でも,独立派寄りの蔡同榮や黄慶林が,これ以上台湾企業が中国に投資することを奨励すべきではない,「台湾主体意識を優先すべきだ」として謝長廷を批判した。謝長廷が台湾経済の活性化を目的として提案した相続税,贈与税を10%の水準に引き下げるという公約についても,新潮流派の楊秋興が「社会公正に反する」としてやはり反対した(『聨合報』「扁謝不同調》扁:經濟搞好 未必選得上」2007.11.08)。独立派寄りの『自由時報』は謝長廷の対中政策を批判的に報じてきたが,11月16日,ついに「涙を流してもこの一票は投じられない!」という社論を掲載し,謝の路線は台湾への裏切りだとする徹底批判を行なった(『自由時報』「含涙也投不下這一票!」2007.11.16)
 予備選挙で勝ったのは謝長廷なのに,なぜ謝の路線が問題にされるのであろうか? それは,激烈な予備選挙で党内に二重三重のねじれが生じてしまったことによる。予備選挙での党内の関心は新潮流派叩きに集中し,謝は自分の中間路線をあいまいにすることができた。民進党は,選挙で勝つために現実的な判断をする党だ。陳水扁の忠臣のイメージが強い游や蘇では勝てないと多くの党員が判断したから謝長廷が浮上した。しかし,党内の最大の実力者はやはり陳水扁であり,謝長廷が後継候補となったことはねじれである。 そもそも対中経済政策では,謝長廷と新潮流派は考え方が近かった。しかし過去の派閥対立の怨念があり,今回の予備選挙でも両者は激しく対立した。ここに政策と人物のねじれがある。そして,謝派自体も政策と人物のねじれをかかえている。謝派の立法委員には過激・急進的な言動で知られる人物が含まれている。これらの人物が新潮流派の候補を攻撃し,その流れに乗って謝は予備選挙に勝った。だが,その謝長廷自身は穏健路線を唱えているというねじれがある。民進党は選挙に勝つことを重視する党であるが,予備選挙を通じてイデオロギー論争が展開され党員の心の奥底にある台湾ナショナリズムも刺激されてしまった。現実主義と理想主義のねじれである。こうしたねじれが重なっているため,党内のがたつきがなかなか収まらないのである。
 とはいえ,民進党がねじれたまま動かなくなるわけではない。中国との経済関係を拡大すべきか規制すべきかという論争は,李登輝政権時代からずっと続いてきたことで,目新しいことではない。民進党でもずっと議論が行なわれてきた。総統候補として自分の特色をアピールする謝長廷は,「政府がこのまま(中台の経済関係を)管理し続ければ,台湾は一文無しになる」であるとか「台湾の競争力がなくなれば,どうやって台湾を愛するのか?」という刺激的発言をして,陳水扁との間に線を引こうとしている。一方,陳水扁は,公民投票の投票方式,党資産問題など様々な問題で馬英九や国民党に論戦をしかけている。両陣営の闘いが陳水扁と馬英九との争いへと転じて泥仕合になっていけば,謝長廷の和解共生のアピールが効いてくる局面も考えられる。 選挙情勢は,まだまだ変わりうる。(2007.11.29記)【続く】

馬英九の台湾化路線については,12月末UP予定の「総統選挙の見通し(W)」で論じます。
国連加盟公民投票については,来年2月UP予定の「陳水扁再選後の中台関係(その3)」で論じます。

2008年総統選挙の見通し(T)は こちら   (U)は こちら

                        
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