2008年総統選挙の見通し (T)
― 国民党・馬英九陣営の動向 ―
  • つまずいたサラブレッド(2007.3.7記)
  • 起訴のインパクト(2007.3.13記)
東京外国語大学
小笠原 欣幸

 2008年の台湾総統選挙まであと1年となった。台湾政治はすでに総統選挙に向けて走り出している。与野党ともに公認候補を決定する予備選挙が間もなく始まる。最終的には与党民進党,野党国民党の公認候補による一騎打となる見込みであるが,公認候補がどのように決まるかそのプロセスは本番の選挙戦に大きな影響を与える。2004年に続き,2008年も勝敗のゆくえは予断を許さない激戦となるであろう。2004年選挙は良くも悪くも陳水扁が主役であった。2008年選挙は馬英九が主役となり,馬英九への評価,馬英九の選挙戦略の成否が当落を決定するであろう。まずは,馬英九陣営の現状から分析を進めていきたい。

つまずいたサラブレッド

 馬英九(56歳)は国民党の最後の政治エリートである。父親馬鶴凌は,中国湖南省の出身で国民党の党職員を勤めていた。馬英九は台湾大学法律学科を卒業後アメリカに留学し,ハーバード大学で博士号を取得,帰国して蒋経國総統の英語秘書,国民党副秘書長を歴任し,李登輝政権では40代前半で法務大臣に抜擢された。いわゆる雑巾がけのような仕事はしていないことからクリーンなイメージを得ている。また,顔立ちがよいこと,温和な印象を与えることから女性の支持が高い。このためメディアの注目度は高く,台湾のマスコミの寵児となった。
 1998年には台北市長選挙に出馬し,民進党のホープであった現職の陳水扁を破った。馬は台北市長に就任したことで,人気だけではなく政治力も拡大させていった。2002年,再選に臨んだ台北市長選挙で馬英九は圧倒的な強みを見せた。選挙戦最終日の馬英九の集会は,台湾の各種の選挙集会の中でも女性参加者の比率が最も高かった選挙集会であった。
 2005年,連戰が国民党主席を退任し,その後継をめぐり,馬英九ともう1人の党内実力者王金平(立法院長)が争い,党主席選挙が行なわれた。馬英九は,党員の直接投票で73%の支持を獲得し王金平を圧倒した。陳水扁は政権運営の不手際が目立ち,汚職スキャンダルも相次ぎ,民進党への幻滅が広がっていた。次期総統候補に関する民意調査で馬英九は常に高い支持率を得て,2位以下の候補を大きく引き離していた。馬は,総統選挙のレースにおいてサラブレッドのごとく先頭を走り,そのまま2008年のゴールまで疾走しそうな状況であった。
 雲行きがあやしくなってきたのは2006年に倒扁運動(陳水扁辞任要求運動)が盛り上がってからである。馬英九はじっと待っていれば2008年に総統の座が転がり込んでくるという判断があったため,倒扁運動を支持しつつも,陳水扁のリコールや内閣不信任案を可決して立法院の解散総選挙という事態を招くことは望んでいなかった。このため野党陣営の強硬派から弱腰と批判される憂き目にあった。さらに,苦境にあった民進党は,反撃のためやっきになって馬英九周辺のスキャンダルを探し始め,民進党の議員らが,馬市長に毎月34万元(約120万円)支払われている市長特別費を問題にし,検察当局に不正使用がないかどうか捜査を要求した。しかしこの追及は,陳総統の国務機要費スキャンダルの焦点を逸らすための戦術と見なされ,煙は立ったがさほど深刻には受け取られなかった。
自由時報ホームページ画像
馬英九市長と馬小九(1999年)
『自由時報』2006年9月23日
 発火点はささいな不正使用問題であった。1999年,馬英九は台北市主催の野犬引き取り活動に協力し一匹の子犬を引き取り「馬小九」と名づけた。当時馬英九は子犬の検査,入院費用,飼育費用はすべて私費であると説明し,市長の美談となっていた。2006年9月,民進党の立法委員が「馬小九」のえさ代が市長特別費から出されていると暴露した。馬英九は,公費から支出されていたとは知らなかったとして,当時支出された費用9900元(約3万5千円)を市に返却したと発表した。しかし,市の主計處がこの経費を「公務用途」として「合法的に」処理していたことから,市長特別費に関する疑惑は燃え上がった。そしてついに,陳総統の国務機要費の捜査を担当していた台湾高検の汚職特捜本部が馬英九の捜査を開始した。
 台北市の規定では,市長特別費は月額34万元の半分が領収書で清算し,残り半分は申告のみで領収書の必要がない。両方のカテゴリーで問題が発生していた。市が保管していた領収書の調査をすると,不適切な支出を示す領収書および架空の領収書が見つかった。領収書の必要のない17万元は馬英九の個人口座に毎月振り込まれ,馬英九はそれを給与とともに夫人の口座に送金していた。そして馬英九は,夫妻の口座の預金残高を「公職人員財産申報法」に基づき毎年監察院に個人の財産として申告していた。民進党の議員らは,市長在任7年半に振り込まれた特別費の合計約1500万元(約5250万円)を公務に使わず私物化したのではないかとたたみかけた。これが横領の容疑となった。
 この疑惑にたいして,馬英九の説明は二転三転した。馬英九は,領収書の必要のない市長特別費は公益活動に寄付したと説明していたが,その証拠となるものは示せなかった。検察は11月14日と23日に馬英九本人,11月17日に夫人の事情聴取を行なった。馬英九は,検察の事情聴取後にあわてて1150万元を各種公益団体に寄付したが,かえって疑惑が深まる結果となった。台北市政府は,市長特別費は個人所得と見なせるという解釈を示し批判を浴びた。検察は関係者の事情聴取を進め,馬英九の口座の流れを解明し1117万元(約3900万円)の横領の証拠を固めた。2007年2月13日,検察は業務上横領の容疑で馬英九を,詐取と文書偽造の容疑で台北市市長室秘書の余文を起訴した。馬英九は陳水扁の国務機要費スキャンダルを批判し自身の清廉さを強調してきたが,同じ種類の泥沼にはまってしまったのである。 (2007.3.7記)

 台湾高検が起訴を発表した直後,馬英九は緊急記者会見を開き,国民党主席の辞任と2008年総統選挙への立候補を宣言した。馬は,捜査が政治的な考慮でなされたと示唆し,起訴はとうてい受け入れられない,潔白を証明するためとことん闘い続ける,私は倒されない,悲憤を力に転化する,と非常に強い口調で表明した。馬の憤りは理解できる部分がある。犯意がなかったのに汚職で起訴されるのではたまらないという気持ちであろう。もし横領の意図があれば,市長特別費は現金で受け取り,辻褄の合う使途を用意しておいたであろう。
 馬英九は清廉正直という評判に違わず,隠し口座も開いていないし,へそくりも作らず,無駄づかいもしない日々を過ごしていたようだ。もし,馬が夫人に隠して金を別に保管していたなら,公務に使うつもりであったと言い訳ができたであろうし,金づかいが荒ければ,遊行に使っていたとしても公務に必要との言い訳ができたであろう。しかし,馬は,収入はすべて夫人に預け,夫婦の所得を正直に申告していた。こうしたことが動かぬ証拠となり,検察は,馬が受領した市長特別費のうち本来の用途での支出を特定し,余った分を返却していないという容疑を固めた。馬は,他の県市長らも同じような状況にあるという政治的抗弁を続けていくであろうが,法的には極めて厳しい状況に置かれたと言える。 (2007.3.13記)

起訴のインパクト

 馬英九起訴の影響を,@法的側面,A国民党の党則,B民意の動向,C党内予備選挙,の4点から検討してみたい。
 @法的側面: 台湾の「総統副総統選挙罷免法」で定める立候補不適格の諸要件で馬に抵触する可能性があるのは,第26条第2項の「汚職の罪で刑が確定した者」,同じく第26条第6項の「死刑,無期懲役または懲役10年以上の有期刑の判決を受けなお確定していない者」の規定である。つまり,有罪判決が確定した場合,または,一審で懲役10年以上の判決が出た場合,それが仮に投票日直前であっても馬は候補資格を失う。これは立候補資格の規定であるが,第28条では,当選後にこの状況が発生すれば,関係機関が当選無効訴訟を起こすことが規定されている。訴える期限は,不正選挙にかかわる当選無効訴訟は投票後30日以内であるが,資格取消の当選無効訴訟は総統の任期満了まで有効である。
 馬英九は「貪汚治罪條例」第5条の「職務上の機会を利用し財物を詐取した」容疑で起訴された。この罰則は「懲役7年以上の有期刑に加えて6000万元(約2億円)以下の罰金」と規定されている。馬の裁判は4月3日に始まる(台北地方法院の発表)。なお,担当判事3名は抽選で決定されたが,偶然にも,陳水扁夫人の国務機要費事件の担当判事3名がそのまま馬の事件を担当することになった。裁判期間については,馬の法廷戦術にもよるが,容疑事実が比較的単純なため数ヶ月で一審判決が下るのではないかという観測が流れている。ただし,台湾は日本と同じく三審制を採っているので,被告または検察が控訴することになるであろう。
 裁判所の判断は軽々に予測はできないが,筆者は,起訴状から見て一審有罪の可能性は高いのではないかと考えている。その場合の量刑が注目される。台湾では汚職に対し重い刑罰が科されるのが通例で,懲役10年以上の判決も珍しくない。しかし今回検察は,起訴状の中で馬が「連続犯」であると認定しつつも,事件後各種公益団体に寄付し「この犯罪から利得を得ていない」とし,犯罪後の態度を斟酌し量刑を軽くすることを求めている。立候補資格を失う懲役10年以上という判決にはならないであろう。
 次に判決の確定がいつになるかである。台湾では一審判決は比較的早いが,高等法院,最高法院と上がるにつれて当然時間がかる(また,判決のゆくえも不透明になる)。馬の裁判も,判決確定には数年はかかるであろう。したがって,馬が法的に直ちに候補資格を失う可能性は低いと言える。しかし総統に当選した場合,当選無効訴訟が発生する可能性はあるので,裁判のゆくえが時限爆弾のように重くのしかかることは否定できない。
 A国民党の党則: 党則の問題は2種類ある。一つは党章,もう一つは党の内規である。国民党の党章は,第43条で「汚職,組織犯罪等の罪で有罪判決を受けた党員は,判決が確定したかどうかにかかわらず,一律に党の予備選挙に参加する資格を失い,党の公認候補になることはできない」と規定している。国民党は馬の党主席就任後,黒金問題への一層の取り組みを示すため,2006年7月,「起訴された段階で党の公認を取り消す」という,より厳しい内規を策定した。この内規の正式名称は「中国国民党党員参加公職人員選挙提名弁法」で,通常「排黒條款」と呼ばれている。党章の制定改変権は党代表大会にあり,内規は中央常務委員会が決定している。
 馬英九が起訴された当日,国民党は臨時の中央常務委員会を召集し,この内規について「党章と一致しない部分は党章に回帰する」と決定した。これにより「起訴→公認取消」が「一審有罪→公認取消」となり,馬英九は党内予備選挙に出られなくなるという最悪の事態を免れた。しかし,依然として党章第43条は有効で,馬が一審で有罪判決を受けた場合,党の公認を受けられなくなる。そこで,馬英九派は,党代表大会を召集し「判決確定→公認取消」へと条件をさらに緩和することを考えている模様だ。秘書長の呉敦義も,法律上の不適格要件は「刑が確定した者」で,民進党の党規もそれに準じている,国民党の党章は現行法より厳格である,という認識を示し改変に含みを持たせている。
 国民党がこのように馬個人の状況に合わせて党の制度を改変することには当然批判も多い。実際,馬英九への捜査が本格化した2006年11月,党則改変の観測気球が上がったが,メディアは国民党寄りの『聯合報』『中国時報』も含めて批判的な論調が多かった。そこで,馬英九派が掌握する国民党執行部は,馬起訴の事態を受けて即日即決で正面突破を図ったのである。王金平派は,虚を衝かれ阻止することができなかった。党章の改変は党代表大会の召集が必要であり,内規の改変のようにたやすいことではないが,これも決定的な障害とはならないであろう。確かに党内外で批判の声は上がるが,国民党はかつて蒋介石に合わせて党則ばかりか憲法を改変・停止した経緯があり,また,台湾には民主化後も「人治」の政治文化があるので,党員および支持者の多くは政権奪還のためやむをえないことと受け入れるであろう。党章の改変が頓挫した場合でも,馬はかつての宋楚瑜のように無所属での立候補が可能である。
 B民意の動向: それでは,馬英九の支持率がどうなっているかを見ておこう。起訴は一大事件であったが,各種民意調査での馬の支持率は依然として高い。年代テレビが2月26-27日に実施した民意調査では,国民党から出る候補として誰を支持するかという質問への回答は,馬英九53.9%,王金平26.0%,わからない/回答拒否20.1%であった。『中国時報』が2月27-28日に行なった民意調査は,馬英九44%,王金平21%であった。『聯合報』の3月7日の調査も馬英九55%,王金平17%で,馬の優勢は揺らいでいない。馬英九が民進党の蘇貞昌または謝長廷と競うという前提での調査でも,馬の支持率は圧倒的に高い。
 現時点で,起訴の民意への影響はそれほど現れてはいない。だが「馬英九=クリーンな政治家」というイメージに傷がついたことは間違いなく,今後有権者の選好・判断にどのような変化が現れるか観察する必要がある。また,裁判が始まれば,馬は刑事被告人として台北地方法院に出頭しなければならない。その映像はワイドショー的ニュースを好む台湾メディアの格好の餌食となり,馬の支持率にもじわりと影響が及んでくるであろう。王陣営はそれを期待しているであろうが,王の支持率が急速に上昇する要因も見あたらない。国民党内の支持構造も2005年の党主席選挙の時と変わりがないので,党内予備選挙が実施されれば馬英九の圧勝は間違いない。それゆえ,馬陣営は予備選への突入を目指し,王陣営は予備選を回避し調停での公認候補決定を目指している。
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王金平立法院長
立法院ホームページ
 C党内予備選挙: 国民党の総統候補を決める予備選挙日程は次のとおりである。4月2日に予備選挙の公示,4月19日〜22日が立候補受付期間である。5月26日に党員投票(比重30%)の実施ならびに民意調査(比重70%)の結果発表があり,この日に公認候補が決まる。そして5月30日の中央常務委員会にてこれを承認する手続きが取られる。当初,党執行部は予備選挙の公示を3月1日としていたが,2007年1月17日の中央常務委員会にて1ヶ月後送りすることが決まった。これは王金平の意向を入れたものである。国民党内では,馬英九と王金平の対立を憂慮し両者の連携を図る動きが続いている。両者の対立は,2005年7月の党主席選挙での激しい争いに遡る(党主席選挙については,松本充豊「馬英九体制の中国国民党とその課題」『問題と研究』2006年1・2月号を参照)。恐らくは,両者の政治家としての背景・経歴の違いも影響しているであろう。
 王金平(66歳)は高雄県出身の本省人で,馬とは対照的に雑巾がけをする議員の道を歩んできた。王金平は家業の関係で高雄県工業組合に入りそこから頭角を現した。王は瞬く間に理事長に就任し,1975年,34歳の時に国民党高雄県支部に担ぎ出され立法委員選挙(当時は全面改選前の増補選挙)に出馬し当選を果した。以後王金平は一貫して立法院で勢力を築き,1999年2月ついに立法院長(国会議長に相当)の座を獲得した。王は党の内外に広い人脈を持ち,政治的気配りが巧妙で李登輝とも連戰とも良好な関係を維持した。王金平は調整型で待ちの政治家,理念先行型で疾走する馬英九とはタイプが異なる。
 2000年以降,王金平と馬英九は連戰体制を支える実力者となっていたが,特に対立することはなかった。2001年の党代表大会の際には「将来の国民党の権力機構は王金平と馬英九が掌握し,王馬体制が徐々に形成されていく」という観測が出ていた(『中時晩報』「國民黨 王馬合 揮軍總統府?」2001.07.31)。ところが,ポスト連戰が注目されるようになった2004年には,早くも「王と馬が争う局面がすでに隠然と形成されている」という記事が出ている(『中國時報』「王馬相爭局面已定」2004.06.23)。これは,李登輝体制末期に,連戰派と宋楚瑜派が党内で激しく主導権を争ったのと同じ構図である。「勝った者がすべてを取る」のが台湾の政治文化であり,両者とも政治生命をかけて闘うしかなくなるのである。
 加えて,台湾政治の権力構造と国民党の権力構造における省籍の差異も見逃せない。党主席選挙の際,王金平はどれほど外省人に歩み寄っても外省人党員の鉄票は動かなかった。王陣営からは省籍の問題を指摘する発言も飛び出している。王金平には多数派は本省人であるという自負がある。王は野球,馬はバスケットボールのファンである。これは単に両者の趣味の違いではなく,台湾での本省人と外省人の一般的なスポーツ選好を反映している。馬陣営の中核には外省人が多く集まり,王陣営の中核には本省人が多い。両者の妥協は容易ではない。
 王金平にとって馬のスキャンダルはまたとないチャンスであった。上述の「排黒條款」により馬が資格を失うからである。王金平はこれを材料にして話し合いの調停に持ち込むシナリオを描いていた。しかし,起訴の当日ここを勝負どころと見た馬陣営が中央常務委員会で一気に攻勢に出て,事実上勝敗を決した。予備選挙を前に,王金平は大きなチャンスを逃したのである。今後の馬陣営の戦略は,1審判決の前に党公認候補の座を確保し既成事実を作ることである。王陣営は,1審有罪判決により馬英九が党章で資格を失うことを期待する待ちの戦略である。馬陣営のやり方は,圧倒的な強さを見せつけて相手に降伏を迫るというもので,追い込まれた王金平が窮鼠猫を咬むという行動に出ないとも限らない。どのように公認候補争いが決着するのか,そのプロセスは総統選挙本番に影響を与えるだけにゆくえが注目される。(2007.3.13記)
 【続く】

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