2004年総統選挙の見通し (U)

小笠原 欣幸

陳水扁政権の実績(2003.03.09記 2004.04.07追記)

陳水扁政権の実績

   2000年5月に陳水扁政権が発足し,まる3年が過ぎようとしている。この間,陳政権は,浮揚と失速のアップ・ダウンを繰り返してきた。陳水扁政権が直面した課題は,大きく分けると,@政治構造の改革,A経済構造の転換,B中台関係の安定化,の三つである。いずれも李登輝時代末期の行き詰まりを招いた非常に困難な課題である。
   @政治構造の改革は,(a)金権腐敗,(b)政党政治,(c)憲法体制の問題に分類できる。(a)の金権腐敗の問題は,民進党が長く取り組んできたもので,法務大臣に辣腕の陳定南を据えたことで一定の成果をあげている。選挙違反の取り締り,議員や地方政府の首長の起訴,財団の不正資金の捜査など,従来の国民党政権とは比較にならないほど積極的に取り組んでいる。これはまぎれもなく政権交代の成果である。
   しかし政治の質が向上したと感じている有権者は少ないであろう。すなわち,(b)の健全な政党政治の発展が期待されていたのに,以前にも増して硬直した与野党対決型政治に陥り,政治的議論は罵倒・悪態のパフォーマンスに取って代わられている。政治の刷新を期待した有権者は,政党にも政治そのものにも失望している。この責任は与野党双方にあるが,大きな希望と高い理想を謳った選挙キャンペーンを展開して当選した陳水扁の側に不利に働く可能性がある。
   陳水扁政権の苦難の要因の一つは,立法院で与党陣営が過半数を確保できないことにある。中華民国憲法は,権力行使の牽制メカニズムが数多く組み込まれ,実際の権力運営は容易ではない。蒋介石・蒋経國の時代は,国民党の圧倒的な力を背景に事実上憲法を無視していたので問題が表面化しなかった。李登輝時代,国民大会の形骸化を進めるなど改革は一定の前進を見たが,大統領制と議院内閣制の混合である半大統領制および立法委員の選挙制度という根本的問題については,解決の方向を見いだせなかった。そのため,(c)の憲法体制の問題は,そのまま陳水扁政権にのしかかっている。
   台湾政治の質の向上を計る抜本的な改革は,大きな制度改変と憲法修正なしにはできないが,その憲法修正は,陳政権登場の直前に,憲法制定機関である国民大会が唐突に自ら事実上の解散を決め,憲法修正の権限を立法院に移したことで問題解決の糸口すらつかめなくなった状態にある。民進党は立法院の議席削減,選挙制度の改革などを提案しているが,選挙前に実現する可能性は低い。政党法,政治献金法,政党不當取得財産処理條例など,現在準備中の法案が立法院を通過すれば政治改革の実績となるが,民進党陣営も不明朗な金の問題,議員の資質の問題を抱えているので,成果が相殺される部分もある。それでも,総合してみると,政治改革に関してはプラスがマイナスを上回っている。
   Aの経済構造の転換は,(a)ハイテク・IT産業の問題,(b)中国経済への依存に分類できる。90年代の台湾経済は,コンピュータ,半導体などのIT産業の躍進と中国市場の拡大によって支えられてきたが,その構造がいまや台湾経済の重荷となっている。  陳水扁政権の発足は,折悪しく世界的なIT不況の始まりと重なってしまった。台湾経済は高度成長から低成長への移行期にある。その歪みは失業率の突然の上昇という形で現れている。1999年の失業率(年平均値)は 2.92%であったが,2001年には5%を突破した。株価は,2000年2月のピーク時の10000ポイントからほぼ半減し5000ポイントを割り込んだまま低迷している。地方経済も,農産物価格の低落の影響で打撃を受けている。消費者物価がマイナスになり,販売数量が増えても売上高が伸びないというデフレの兆候も見られる。経済成長率は,2001年のマイナス成長(-1.9%)を脱却し,プラス成長に転じているが,多くの人は身近なところで景気の悪い話が増えたと感じている。
   行政院は,2002年5月に「挑戦2008−国家発展重点計画」という六カ年計画を定め,人材育成,研究開発,産業構造高度化など包括的な競争力強化政策を打ち出しているが,過去何度か大々的に開催された経済発展諮詢會議などと同様に,数週間もすれば忘れ去られ,蔓延している先行き不透明感を払拭するには至っていない。脆弱な地方金融機関の再編成も農漁民や野党の反対で頓挫している。政権発足以来,財政部長が許嘉棟,顏慶章,李庸三と交代し,現在の林全で4人目であるということも,経済運営で苦戦していることを象徴している。経済の分野で総じて言えることは,景気後退という不利な環境の中で経済構造の転換に取り組んでいるが,目に見える成果は少なく,多くの人の目にはマイナスに映っている可能性がある。
   一方,中国経済との相互依存はますます深まっている。中国経済の急速な拡大により,台湾経済が大中国経済圏に組み込まれる潮流ができている。中国経済は磁石のように,台湾の金,人,物を引きつけている。半導体やノートパソコンなどこれまでの台湾経済の発展を支えてきた有力企業が,次々と生産拠点を中国に移している。中国を拠点とする台湾人実業家の数は数十万人に達していると言われている。台湾においては,経済のグローバル化は中国化を意味する状況にすらなってきている。こうしたことが重なり,台湾経済の将来にたいする信頼が揺らいでいる。
   李登輝政権は,台湾の安全保障の観点から対中投資にブレーキをかけようとした。この「戒急用忍」政策には経済界からの不満が高まり,一部の企業家は2000年総統選挙の際,国民党に見切りをつけて陳水扁の支援に回った。陳政権は,こうした積極的対中政策の展開を求める企業家グループと,李登輝や台連などの反対勢力との間で微妙な舵取りを迫られ,慎重な姿勢に終始している。陳政権は,政府の管理を前提に大陸投資を積極的に認めていく「積極開放・有効管理」政策を打ち出したが,はやり過度の中国依存を回避しようとして,投資を東南アジアにシフトさせようとする南向政策も提起している。しかし,現実的には対中投資を管理することは困難であるし,政府の方針に従って東南アジアへの投資を増やす企業も多くはない。国民党は野党に転落した後,いち早く李登輝路線を放棄し,親民党や新党とともに中国との経済関係拡大を主張するようになり,陳政権に圧力をかけている。むろん,中国経済への傾斜をさらに強めれば台湾経済が活性化するという保証もない。巨大化する中国経済に呑み込まれることは避けたいが,かといって背を向けることもできないという閉塞感が台湾経済の重荷になっている。
   次に,Bの中台関係を見る。これほど経済の相互依存が深まった中台の関係はどうなったのであろうか。一言で言えば,2000年5月の就任演説で陳水扁が現状維持を宣言して以来,中台関係はこの3年間ほとんど何の変化もない。陳水扁は,金門地区の大膽島を訪れ「中国の指導者をここに招いてお茶を飲みながら話し合いたい」(2002.5.9)と呼びかけてみたり,逆に国内の独立派向けに「一辺一国論」(2002.8.3)を語ったりしたが,中国側からは大きな反応はなかった。1999年に李登輝の「二国論」で緊張が高まった時期に比べると,中台関係は改善もないが落ち着いた状態にある。
   これは選挙戦の展開という視点からは二つの意味がある。一つは,先の総統選挙の期間中,連戰陣営は,陳水扁が当選すれば戦争になると激しく攻撃し,陳水扁陣営は有権者の不安を解消するのに大変な苦労を強いられた。実際には波風一つ立たなかったことで,このようなネガティヴ・キャンペーンには根拠がなかったことが示され,陳水扁の弱点が一つ減ったことになる。しかし,陳水扁はもともと新中間路線を唱えて,中台関係の膠着状態の打開にも意欲を示したので,その点では,3年間何の変化もないという事態に不満を募らせている支持者もいる。陳水扁政権が内に台湾独立派を抱え,対中関係の大胆な政策展開ができないのを見越した野党陣営が積極的な北京詣でを繰り返し,中台関係改善の期待を膨らませることで攻勢をかけているので,陳政権は受け身になっている。このように中台関係での実績は,プラスとマイナスが相半ばしている。以上簡単ではあるが,台湾が直面している三つの課題の処理という点で陳政権の実績を評価すると,@(+),A(−),B(+−)となる。
   さて,それでは陳水扁政権の統治能力そのものはどのように評価できるだろうか。陳水扁の政権運営の問題点は,政策決定の型が定まらないことである。陳水扁は台北市長時代,若く有能な人材を抜擢して政権運営チームを形成し,そこで政策決定をしていた。そこでは民進党の影は薄く,市議会(野党が多数派)と対立していたが,大統領的な市政運営が可能であった。実際に台北市長として,捷運(都市高速交通)の開通,市内の渋滞緩和,市政府職員の綱紀粛正など市民に印象が残る成果をあげている。陳水扁は国政でも同じようなことをイメージしていたであろうが,国政レベルの権力構造は,総統府,行政院,立法院,与党民進党,それぞれに権力組織の不備と複雑な内部事情を抱え,思うに任せないのが実情だ。
   陳水扁は選挙戦で全民政府を掲げ,民進党の党活動から離脱することを表明した。組閣に際しては,政党間の政権協議は一切行なわず,李遠哲,李登輝,林義雄ら少数の有力者の意見を聴き,民進党に正式に諮ることなく組閣人事を進めた。その結果発足した唐飛内閣は,国民党,民進党,学者,官僚の寄せ集め内閣となった。2,3日の研修では理念を共有することは難しいし,実際,閣僚らの発言はバラバラであった。政権の最初のつまずきとなった7月の嘉義県の水難事故の際には,事故発生から何時間もたち多くの人がテレビ中継を見ているのに,だれも内閣の新聞局長(報道官)と唐飛行政院長に事故のことを伝えなかったというお粗末な実態が明るみに出た。
   唐飛の辞任後,陳水扁は民進党の張俊雄を行政院長に指名し,事実上,全民政府の旗を降ろし,民進党少数政権で行くことにした。これにより与野党対決はさらに激しくなったが,唐飛内閣時よりは協調体制がよくなった。陳水扁は同時に意思決定の機関として,総統,副総統,総統府秘書長,行政院長,行政院秘書長,民進党主席,民進党秘書長,民進党議員団長,民進党議員団幹事長の九名で構成される九人小組を発足させた。この九人小組は2001年末の立法委員選挙・県市長選挙に向けて一定の調整機能を発揮したが,依然として円滑な政権運営ができなかった。そこで陳水扁は,2002年7月に民進党の主席を兼任することにした。これは「党政同歩」と表現されたが,要は,国民党統治時代,李登輝が国民党中央常務委員会を主宰して一元的意思決定をしていた型を目指したものである。しかしこの「党政同歩」も,ほどなくして,うまく機能しないことが農漁協信用部改革問題で露呈した。
   この農漁協信用部の改革は,金融改革の一環として,資金繰りが悪化していた農漁協信用部を淘汰・整理しようとする政策である。陳政権はこれを突破口として金融機関全体の不良債権処理を進めようとした。しかし農漁民の生活に直接影響するので,李登輝が「このまま進めていけば政権を失う」と警告したが,陳水扁は「政権を失ってでも改革を進める」と大見得を切った。だが陳水扁は,2002年11月の農漁民の抗議デモを前にして急遽方針転換を余儀なくされ,メディアで叩かれ,閣僚4名が辞任し,改革のアピールが傷つくなど大きな痛手を負った。この場合,金融行政,農漁協,地方政府,与党それぞれの立場と改革の方向を調整する機能がなく,それぞれが陳水扁に直接訴え,陳水扁は事態を十分掌握できないまま政治決断をし,政策決定の混乱を招いたのである。これほど大規模ではないが,政策決定をめぐる混乱はその後も続いている。つい最近も,世界貿易センターの第二展覧館の建設場所をめぐって経済部と経済建設委員会との間で混乱が生じ,陳水扁自ら沈静化に乗り出さざるを得なくなっている。行政院,党本部,議員団それぞれが政権運営チームとしての意識が希薄であるため,幹部や閣僚が勝手な発言をして陳水扁が自ら火消しに回るという構図が繰り返されている。
   こうした政権運営の問題は,陳水扁政権の問題というより,民主化後の台湾の政治制度,政党構造の整備が追いついていないことの問題である。憲法体制上,陳水扁は直接行政院を指揮することができない。しかも行政院の組織は50年前とほとんど同じで,経済部と経済建設委員会との重複のように非効率な構造がある。一方,立法院で過半数を確保しようとすれば,無所属や野党の一部議員の利益交換要求に応じなければならない。そもそも陳水扁は,民進党の議員団を十分掌握することができない。民進党は歴史的経緯から派閥の集合体で権力の集中を嫌うので,総統といえども議員団の運営に介入しようとすると激しい反発にあうからである。
   陳水扁は2001年12月の立法委員選挙に向けて,国家安定連盟の構想をぶちあげたが結局何も起こらなかった。また,自分が民進党主席を兼任する際,3人の副主席を置いて民進党の機動的運営にあたるという構想を語っていたがいつの間にか立ち消えになった。これまで,大溪会議,三芝会議など政権運営に関する大型の会議が何度も開催されたが,2003年に入っても「総統府は5名から7名の新しい決策機制を検討中」と報道されている(『中国時報』2003.01.12)。結局,3年たっても政権運営の型が定まらず,構想が語られては消えてゆくことの繰り返しなのである。
   このように政権運営の評価は高いとは言えないが,このまま選挙のマイナス要因になるかどうかは別問題である。まず,陳政権は失策はいくつもあるが,統治能力そのものを問われるような致命的大失策はない。政権運営の試行錯誤のことを細かく分析しいつまでも記憶している有権者は少ないであろう。次に,民進党は選挙に照準を合わせた宣伝とパフォーマンスが非常にうまい。民進党は戒厳令時代から,国民党の圧倒的な権力と,選挙を通じていわば素手で闘ってきた経験があるので,この要素は侮れない。李登輝が陳水扁を「選挙はできるが治国はできない」と揶揄したが,それは大筋で間違ってはいない。
   3年間の陳水扁政権の実績はプラスとマイナスが交錯し,現段階では勝敗の行方を左右する決定的要因とはなっていない。台湾の有権者は業績本位ではなく属性を重視する傾向があるので,陳水扁政権についても,見る人の立場により評価は分かれたままである。もともと野党支持の有権者は批判的に見ているし,民進党の支持者は肯定的にとらえている。しかし残りの1年も,さしたる実績が上がらないままだと,政権交代は失敗だったとする野党陣営の主張が浸透し中間派の有権者の投票行動に影響を及ぼす可能性もあるので,陳水扁としてはどうしても年内にいくつかの実績を作りたいところだが,まだ見通しは立っていない。
   政治改革関連法案が成立すれば一定の成果となるが,野党は当然陳水扁の得点になりそうなことを阻もうとするであろうから審議の行方は予断を許さない。農漁会信用部改革は頓挫したままで金融改革全体に遅れが目立つ。国内政策でほかに打つ手は,公共事業の増額,福祉政策の発表などであろう。一方,中台関係では,三通に向けての施策が考えられるが,やはり立法院で野党の抵抗に遭うであろうし,中国も選挙前は陳水扁に手を貸すような動きはしないであろうから,選挙期間中に大きな成果は望めないと考えるのが妥当であろう。

《図1》陳水扁総統の満意度
《出典》TVBS民意調査(http://www.tvbs.com.tw/

   実際の支持率はどの程度であろうか。台湾では支持率の代わりに満意度の調査が行われているので,支持率とは意味が異なるが満意度の数字を見てみよう。《図1》は,陳水扁の総統就任以来TVBSが行ってきた民意調査である。陳水扁の満意度は就任後から急降下し,立法委員選挙後一度盛り返したが,再び低空飛行の状態にある。この数字を比較すると,李登輝が総統であった時の満意度,陳水扁自身が台北市長であった時の満意度,現在の馬英九台北市長の満意度よりかなり低い。また,他国の大統領支持率や内閣支持率に置き換えて考えると十分危険な領域にまで下がっていると言える。
   しかし,台湾の総統選挙においては,アイデンティティ,族群,権力争いの要素があり,それらを踏まえた上で,数字では計れない陳水扁政権の《意味》を考える必要がある。皮肉なことに,陳水扁は,高い満意度と目に見える実績をあげて再選に臨んだ台北市長選挙では失敗し,低い満意度でさしたる実績のないまま再選に臨む総統選挙では成功するかもしれない。(2003.03.09記 2004.04.07追記)


2004年総統選挙の見通し(T)はこちらです。
2004年総統選挙の見通し(V)はこちらです。


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