尖閣問題と日台関係
 
  

東京外国語大学
小笠原 欣幸

本稿は 馬英九総統の「東シナ海平和イニシアチブ」 の続編です(2012年9月)
こちらもご覧ください→ 馬政権は尖閣諸島問題で中国と連携しない(2013年2月)


   「尖閣水合戦」
 2012年9月25日,前日に宜蘭県蘇澳を出航した台湾の漁船約50隻,およびそれを護衛する台湾海巡署の巡視船12隻が尖閣諸島海域に達した。台湾北東部沿岸の漁民は,伝統的(日本統治時代とアメリカが沖縄を統治していた時代)に,尖閣諸島周辺で漁をしていたが,現在日台間には漁業協定がなく,尖閣諸島周辺で台湾漁船が漁をすると海上保安庁の巡視船に捕まり罰金を科されるため台湾漁民は不満を募らせていた。台湾漁船は「生きるため漁業権を守る」をスローガンとして,魚釣島周辺で日本に抗議する海上デモを行なう目的で出航したのである。日本の領海に侵入した台湾の漁船・巡視船と,警備にあたる海上保安庁の巡視船とが至近距離で入り乱れ,双方の巡視船が警告の放水を行なう事態となった。その後,台湾の船舶は全船が速やかに退去した。この「日台尖閣水合戦」は,映像とともに日台のメディアおよび国際メディアで大きく報じられた。


9月25日尖閣諸島周辺。画像の出所:[MSN産経ニュース]。 [毎日jp]の画像も参照。

 「日台尖閣水合戦」について,日本と台湾とでは認識のギャップがある。台湾では,この海上デモは「成功した」「うまくやった」というのが一般的評価である。台湾側は,この抗議行動によって日本へのうっぷんを晴らし,国有化を一方的に行なった日本に対して反撃したという高揚した気分になった。日本では,「台湾は親日」と思っていた多くの人が驚かされた。中国の大規模な反日デモの直後であったので,多くの船舶が尖閣諸島に押し寄せる映像はショックを与えた。
 台湾においては,選挙や政治集会での大量動員は日常的で,数万人,時には10万人単位の人が狭い場所に集まることも珍しくない。警備当局も現場では無理に法令を貫かず,動線確保を優先する。小競り合いが起こると,はたから見ていると大変危険なことに見えるが,けが人が出るような騒ぎはほとんどなく,毎回うまく収まっている。陳水扁辞任要求デモも,反馬英九デモもそうであった。台湾人にとって,流血に至らない抗議パフォーマンスは手馴れたものであり,今回の台湾漁船の行動は,いつものパフォーマンスの海上版で,集結から撤収までいつものごとく「見事」であったと言える。台湾人の主観では,平和的デモの台湾は,車をひっくり返し放火する中国とはまったく別なのである。
 しかし,日本では,一歩間違えればけが人がでるような事態を引き起こす活動には厳しい目が向けられる。事情を知らない日本人の中には,台湾も中国と変わらないと否定的にとらえた人も少なくない。しかも,この抗議行動は,日本政府が台湾に使者(交流協会の今井理事長)を派遣するその日の朝に行なわれた。日本政府は,台湾側の不満を考慮して漁業交渉について一定の妥協案を今井理事長に持たせていたのに,それが台無しになった。日本政府の関係者が仮に怒り心頭に発したとしても無理はない。日台友好を推進してきた国会議員の中にも反発が出たようである。日本側は,台湾当局には対話の意図も,漁業交渉をまとめる意図もないようだという悲観的判断になり,日台関係は極めて深刻な状況に陥る寸前であった。
 しかし,ここで,日台双方において感情的対立を回避する努力がなされた。10月4日,台湾に一時帰国していた沈斯淳・駐日代表が東京に帰任した。翌10月5日,玄葉外務大臣が「台湾の皆様へ」というメッセージを発表,日台関係の重要性を改めて強調するとともに,日台間に「懸案」があることを認め,馬英九総統が提案した「東シナ海平和イニシアチブ」にもある程度肯定的な受け止め方を示し,台湾への配慮を表した。これに対し台湾の外交部は,10月6日,日本側が善意を示したととらえ,「玄葉メッセージを評価する」とのプレスリリースを出した。日本の外相がこのような形で台湾に直接メッセージを発したのは,日台断交後の40年間で初めてのことである。日本政府は,よく我慢して冷静に球を打ち返したと言える。
 この「玄葉メッセージ」と台湾外交部コメントのやり取りは,領土ナショナリズムが高まる中,関係悪化を防ぐ貴重な動きであるが,日本メディアでの報道はほんのわずかであった。「尖閣水合戦」のような派手な対立の映像があると大きな報道量になり,地味な努力についてはほんのわずかしか報じられないという状況は残念である。

   日台漁業交渉のゆくえ
 日台は,双方が領土の主張を述べ合うがそれによって対立を深めない,しかしぎくしゃくした雰囲気は残っている,という状況にある。次の焦点は,日台漁業交渉である。日本と台湾との間の漁業交渉は過去16回行なわれたがまとまらず,2009年2月以降中断している。交渉が難航しているのは,日台の漁業水域の線引きが双方の主張する排他的経済水域(EEZ)の範囲および尖閣諸島問題と絡むためである。日本が主張する地理的な「中間線」と台湾が主張する「暫訂執法線」は,尖閣諸島を挟む形で大きく重複している。相手の主張する「線」を認めれば尖閣諸島の領有権を認めることにつながるので,双方とも認めるわけにはいかない。

日本が主張する「中間線」と台湾が主張する「暫訂執法線」
《図》 日本が主張する「中間線」と台湾が主張する「暫訂執法線」(作成:小笠原)
※より正確で見やすい図が毎日新聞のニュースサイト[毎日jp]に掲載されている。


 この日台漁業交渉は年内に再開すると見られている(10月22日付の『毎日新聞』は「11月にも再開」と報じた)。今回は,双方それぞれの事情から妥結への意欲は高いと考えられる。漁業権の問題は,もともと日本側よりも台湾側の方が,切実度が高い。台湾の沿岸漁民の多くは零細で,漁場確保への期待は非常に大きい。台湾では2014年11月に統一地方選挙が行なわれる。漁民の人口比率はごくわずかであるが,この交渉に関係する漁民は宜蘭県と新北市に集中している。国民党にとって,県知事ポストを取り返したい宜蘭県と台湾で最大の人口数を擁する新北市は絶対に落せない。漁業関係者の票は軽視できないのである。
 しかも,現在,馬英九総統の満意度(支持率に相当)はわずか13%で,野田内閣よりも低い。馬政権としては,漁業交渉で成果をあげたいというインセンティブはかなり強い。交渉がまとまれば馬総統の「東シナ海平和イニシアチブ」の成果として宣言することもできる。日本側にとっても,尖閣諸島をめぐる日中の対立はこの先も長く続くと想定されるので,台湾とは友好な関係を維持したいというインセンティブが強く働く。交渉にあたり,双方がそれぞれ落し所を用意しているはずだ。
 1つの参考例は2000年に発効した日中漁業協定である。東シナ海を対象とするこの協定は,日中双方が,相手国の漁船が自国の排他的経済水域(EEZ)において自国の関係法令に従って漁獲をすることを認めている。一方,日中の排他的経済水域の線引きが対立する水域のうち北緯27度以北を「暫定措置水域」とし,その水域においては自国の国民および漁船のみを取締りの対象とし,相手国の国民および漁船に対しては取締りその他の措置は取らない,ただし日中漁業委員会が定める操業の規則に従う,と定めた。
 尖閣諸島を含む北緯27度以南の水域は,「暫定措置水域」からも区別され,協定の本文では日中漁業委員会の協議事項にあげられている以外に規定がない。しかし,付随する交換書簡によって,この水域は,日中双方が,相手国の国民に対し漁業に関する自国の関連法令を適用しないとしている。このように,日中漁業協定は,領海には触れず,領土問題を事実上棚上げした形になっている。「暫定水域」は日韓漁業協定においても設定されている。
 これを援用すると,領海には触れない,線引きがもめるところは「暫定水域」とするというのが1つの土台となるであろう。台湾側があくまでも「暫訂執法線」にこだわるのなら成果はなしで終わる。仮に「暫定水域」の設置で合意したとしても,台湾側は尖閣諸島の領海(12海里内)での漁を認めるよう要求してくるであろう。これは日本が認められない。台湾側は次に,接続水域(12海里から24海里の範囲)での漁を要求してくるであろう。馬政権は国内向けに,日本に対して主張を貫いたという形がほしい。それには尖閣諸島周辺で漁ができるという成果が最もわかりやすい。ここは難航が予想される。
 日本側は,交換条件も用意しておく必要がある。台湾漁民にとって,尖閣諸島周辺だけではなく先島諸島周辺も漁場として魅力がある。先島諸島は争いのない日本領土であるから,その周辺のEEZ内で台湾漁船が漁をするなら当然入漁料を払うことになる。台湾漁民には入漁料を払ってでも先島諸島周辺で操業したいという希望がある。日本側は,全体としての漁獲高の割り当てで,漁業資源の保全を損ねない範囲で台湾側に大幅に譲歩すべきである。中台の「経済協力枠組み協定」(ECFA)の交渉にあたり,温家宝首相が「台湾に譲歩する」と号令をかけたことを参考にするとよい。

   日台漁業交渉の意味
 日台漁業交渉が妥結したとしても,領土問題が解決するわけではない。台湾側は領土の主張を続けるであろう。台湾には中華民国としての立場があるし,馬総統は若い時に釣魚台(尖閣)の主権を守る運動の闘士であった。馬政権が領土の主張を変えることはない。しかし,その主張が日台関係を壊すほど激しいものになるか否か,また,台湾社会の強い支持を得るか否かで,その意味は大きく異なってくる。台湾で領土に熱心な人は少数である。日本への抗議活動に一定の支持があるのは,日本が台湾を軽視しているという一般的不満と漁民の現実的な不満とが合わさったからである。
 日台漁業交渉が妥結すれば,日台間の大きなトゲが1つ取り除かれることは間違いない。台湾漁民の利益を代表する台湾省漁会(全国漁業協同組合に相当)のトップである林啓滄・総幹事は,漁会の立場は漁業権であって領有権には関心がないと明言している。台湾の保釣団体(釣魚台(尖閣)の主権を主張する民間団体)のリーダー黄錫麟(中華保釣協会秘書長)も,『台湾通信』のインタビューで,「私たちか求めるのは台湾の漁業権です」と語っている。黄錫麟・秘書長は「台湾人が何も言わないのであれば、私が何かを言えるでしょうか」という言い方で,台湾漁民に実利が約束されれば,台湾における抗議活動は下火になる可能性に触れている。
 逆に,交渉が物別れに終わった場合,台湾漁民と保釣団体の抗議活動は活発化するであろう。海上デモが頻発すれば,海上保安庁の巡視船とのトラブルが増すし,日本に対する反感が醸成され,将来的には中台連携を求める声が台湾国内で拡大していくことになるであろう。
交渉は非常に難しい。予期せぬ事件や不用意な発言によって簡単に頓挫する可能性もある。漁業交渉の進展のためには静かな環境が必要であり,双方とも相手を刺激する行動は控えるべきである。それは,馬総統の「東シナ海平和イニシアチブ」の精神であるはずだ。
 日台が漁業交渉を妥結させた場合,中国の出方が注目される。中国外交部は「玄葉メッセージ」が発表されるや,すかさず「関係国が1つの中国原則を恪守することを希望する」と日台の関係強化に牽制を入れた。しかし,日台漁業協定はそもそも民間協定であり,中国が牽制するのは筋違いである。日本側は,台湾漁民を優遇すれば中国につけこまれるという懸念がある。しかし,中国が横槍を入れれば台湾漁民の利益を侵害することになり台湾での対中感情が悪化するので,中国も慎重にならざるをえないであろう。
 漁業交渉が妥結し台湾側が海上で日本と摩擦を起こすことを避けるようになったとしても,そこで終わりにしたのではいずれ問題が再浮上してくる。馬総統の「東シナ海平和イニシアチブ」を受けて,日台で漁業資源のより良い管理の方法,海底資源の共同開発,海洋環境保護などについて話し合う長期的なメカニズムを検討する必要がある。台湾側には,手始めとしてこれらの問題を研究する専門家フォーラムのようなものを日本と中国に向けて提案することを期待したい。
 馬総統は,領土に関して日本に対して非常に厳しい言葉遣いをしている。にもかかわらず,馬総統は台湾の指導者として「領土問題で中国大陸と連携しない」と明言している。それは,日中台トライアングルの複雑な力学による。台湾は現状維持の枠組の中で存在感を示すことに一生懸命であり,「東シナ海平和イニシアチブ」もその狙いから発している。日本は,このような日中台の複雑なトライアングル,そして日中対立の中での台湾の立ち位置を冷静に分析し,状況を判断していくべきである。(2012.10.25記)

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