選挙戦の展開
東京外国語大学
小笠原 欣幸
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1. 序盤戦−連宋ペアの優勢
2003年2月,それまでライバルの関係にあった国民党の連戰主席と親民党の宋楚瑜主席が連携する「連宋配」が発表された。2000年総統選挙では,宋楚瑜が僅差の2位,連戰は大きく引き離されての3位であった。その時の敗者である2候補が,意表を突く3位2位連合を形成し数的優位を固める戦術に出たのである。事実上の選挙戦が始まった2003年初頭の与野党の勢力比は,おおむね緑色陣営が45%,藍色陣営が55%と見られていた。2001年の県市長選挙および2002年の台北・高雄市長選挙のデータに基づく筆者の試算では,差はもう少し小さく,緑色陣営46.8%,藍色陣営52.3%,無所属0.9%で,藍色陣営が5.5ポイント上回っている状況であった(小笠原:2004総統選挙の見通しT)。このように藍色陣営が優勢であるとはいえ,同陣営から複数候補が立つ余地はなく,候補を1人に絞り込むことが勝利の前提であった。しかし,2000年選挙での連戰陣営と宋楚瑜陣営との激しい戦いを記憶している人々は,「連宋配」の可能性にたいし懐疑的であった。
2002年12月の台北・高雄市長選挙を経て,藍色陣営内部において宋楚瑜の影響力低下が明らかになり,連戰と宋楚瑜との力関係が変化した。宋楚瑜は,高雄市長選挙の候補者選出で主導権を握ろうとしたが失敗し,台北市長選挙では奇妙な跪き戦術を行なったがそれも裏目に出た。一方,連戰は新たな材料を入手した。台北市長として再選された馬英九の人気が再確認され,馬英九が藍色陣営の総統候補として浮上する可能性も囁かれるようになった。
馬英九の人気上昇は連戰にとっても脅威であるが,それ以上に宋楚瑜にとって脅威であった。宋楚瑜と馬英九はともに外省人という背景を持つので,両者は決してペアを組めない関係にある。というのも,外省人の人口比率は小さいので,正副総統候補ともに外省人という組み合わせでは,当選の可能性が低くなるからである。また馬英九は連戰に忠実であったので,連戰は,馬英九を副総統候補にすることが可能であった。あるいは,連戰側の最後の手段として,連戰自身が立候補をやめて代わりに馬英九を国民党の総統候補として擁立する選択肢もありえた。国民党は依然として組織票を有し,宋楚瑜の個人的人気に頼る親民党は不利な立場に置かれていた。藍色陣営の支持者の多くが候補の統一を求めている状況で,連戰と宋楚瑜がともに立候補した場合,宋楚瑜にたいしより強い批判が集まることが予想されるようになった。宋楚瑜は前回選挙で連戰を上回ったというプライドを捨てて,藍色陣営の勝利という大義と自身の政治的将来の確保という計算を両立させたと言える。
こうして,多くの人が「不可想像」と考えていた「連宋配」が実現したのである。この新たな展開の効果により,連戰の支持率は陳水扁を大きく上回り,狙いどおり数的優位を形成することに成功した。「連宋配」発表直後の『中国時報』の民意調査では,連戰・宋楚瑜支持が37%,陳水扁・呂秀蓮支持が24%であった(『中国時報』「本報最新民調−連宋配支持度壓扁呂」2003.2.15)。テレビ局TVBSの調査では,連戰・宋楚瑜支持が50%,陳水扁・呂秀蓮支持が32%とさらに大きな差がついていた(TVBS民意調査2003.2.17)。
しかし,藍色系のメディアは「連宋配」を支持しつつも,必ずしも歓迎一色ではなかった。たとえば,『聯合報』では,2月9日に,「連宋配」の決定に至る過程は,中堅世代の声が消されて,「人治の色彩が濃厚で,民主の精神が浅薄」であると指摘し(『聯合報』「新聞眼−泛藍決策人治濃民主精神薄」2003.2.9),続く2月11日にも,「連宋配」は旧い組み合わせで,両者の執行チームは,国民党政権時代の連戰内閣と省政府にいた古参政治家の集団にすぎず,政見にも新意がないと苦言を呈している(『聯合報』「聯合筆記−国親四月天」2003.2.11)。このように,表現は穏やかでも核心を突く批判記事がいくつか掲載された。「連宋配」の支持母体からこうした消極的な声が上がった理由は,1つには,「連宋配」によって馬英九の可能性が絶たれ世代交代が遅れることへの懸念であり,もう1つは,連宋が理念のない数合わせに向かうことへの懸念であった。
結局のところ,難解な駆け引きの末にようやくまとまった「連宋配」を受け入れ支持することが藍色陣営の大勢となったのだが,しばらくの間,「連宋配」への不満はくすぶり続けた。6月には,「連宋配」に至る過程で「密約」があったとする報道が流れた。その「密約」の内容は,宋楚瑜が副総統と行政院長を兼任する,連戰は1期で退き2008年には宋楚瑜が総統候補になるというものであるが,それに関連して『聯合報』のコラムニストは,「密約」が事実であるなら「連宋配」は直ちに解散すべきであるとするコメントを掲載し(『聯合報』「K白集−不可自誤誤國」2003.6.7),数的優位に安住する「連宋配」に警鐘を鳴らした。こうした懸念は少数意見ではあるが藍色陣営内に確実に存在していた。しかし,選挙戦がすでにスタートし,序盤戦で「連宋配」が大きくリードしていたことで,懸念の声はしだいにかき消されていった。民意調査の支持率の高さは,「連宋配」の構造的問題を見えにくくする効果を持ったと言える。
2. 中盤戦−陳水扁の追い上げ
「連宋配」が実現した以上,基礎票の数で劣る陳水扁陣営は,厳しい選挙戦を強いられた。野党陣営の票を崩さない限り,当選の可能性はないのである。焦点は,陳水扁がどのようにして追い上げるかであった。陳水扁陣営は,もともと政権交代以来の実績を訴える選挙戦略を描いていたが,景気の低迷と改革の遅れが目立ち,逆に野党陣営から無策を厳しく批判され,守勢に立たされていた。陳水扁は2000年選挙であふれんばかりの夢や希望を語って当選したため,現実とのギャップからくる失望感を招来していた。民意調査でも「連宋配」に大きく引き離され,実績をどこまでアピールできるのか疑問であった。
陳水扁陣営にはもう一つの選挙戦略があった。それは,マスメディアを意識した華々しい選挙戦とは別に,水面下で政権与党の優位を利用して地方を隈なく回り,それまで陳水扁および民進党に拒絶反応の強かった地域,および,国民党の地方派閥の力が強かった地域で地道に票を増やす戦略である(『新新聞』860号)。これは,陳水扁の選挙対策本部の邱義仁(総統府秘書長)が主導したもので,特に,桃園・新竹・苗栗の客家地区と嘉義・雲林・彰化・台中などの地方派閥の強い地区を選んで陳水扁は地方入りを繰り返し,それまで民進党とのつながりが薄かった地元有力者たちと懇談を重ね,地方建設のプロジェクトを語り歩いた(雲林県の動向については,小笠原:2004総統選挙の見通しTを参照)。
「連宋配」成立後,支持率が一向に上昇しない陳水扁は,邱義仁の地味な与党的選挙戦術に飽き足らず,しだいに台湾人意識に訴えかける戦術へと切り替えていった。2003年5月のSARS危機は,陳水扁にとって巻き返しの転機となった。その要因は,第1に,SARSが中国から拡がり,中国当局が情報を隠蔽したことで,中国にたいする反感が高まったこと。第2に,台湾での感染拡大のきっかけとなったのは台北市が管理する和平病院であり,馬英九市長の危機管理能力に注意が向けられたことが挙げられる。これを好機と見た陳水扁は,中国批判と野党批判とを連動させ,台湾を愛するか否かという二者択一型の議論を多用して選挙民の関心を高めていった。
陳水扁は,基礎票で劣る不利な局面を打開するため,選挙の争点を拡大し住民投票を提起した。当初言われていた住民投票の議題は,WHO加盟問題と第4原発建設継続問題であった。第4原発に関する住民投票は,2000年選挙の際陳水扁の後ろ盾であった林義雄がライフワークとして取り組んできた課題である。林義雄は台湾中を徒歩で行進して原発廃絶の住民投票を訴え,政府への圧力を強めていた。しかし各種の民意調査を見ると,第4原発の建設中止を議題とする住民投票では過半数の支持を得ることは困難であると思われていた。一方,WHO加盟に関しては,SARS危機に際して台湾が国際社会から締め出されていることを改めて国民に思い起こさせた議題であり,国民の多数が支持していた。陳水扁は,両者を抱き合わせにして不利な要素を中和し,住民投票を警戒する野党陣営にたいして,主権国家として正当な行動を否定するのかという議論を突きつけていった(『中国時報』「特稿−公投算盤 未必好打」2003.5.25)。
連戰陣営は国民党と親民党との寄り合い所帯のため選挙戦略が一貫せず,陳水扁が提起した住民投票への対応策が二転三転して,しだいに選挙上手の陳水扁の術中にはまっていった。次いで陳水扁は,議員定数削減を含む国会改革を主張し改革をアピールし,また,李登輝前総統が呼びかけた台湾正名運動に合わせて新憲法制定を唱え,住民投票を軸として次々に大きな選挙議題を持ち出して藍色陣営を攪乱していった。20%近く開いていた連戰と陳水扁との支持率の差は,一桁の差へと縮まった。加えて陳水扁陣営は,もともと準備していた興票案(宋楚瑜の金銭スキャンダル),国民党の党資産問題,連戰の家族資産問題といった周辺的選挙議題を提起し,いずれも連戰陣営に効果的な打撃を与えた。
国民党と親民党は当初,いかなる議題にせよ住民投票を実施すれば台湾独立を問う住民投票に道を開くことを警戒して反対していたが,実務的な議題での住民投票に肯定的な民意を見て賛成へと方針転換をせざるをえなかった(『中国時報』「搞ロ舎名堂」2003.7.7)。しかし法的根拠を持つ住民投票を行なうためには「公民投票法」を制定する必要があり,立法院で多数を占める野党陣営に反撃のチャンスが巡ってきた。2003年11月27日の立法院で可決された「公民投票法」は,政府案ではなく野党提案によるもので,陳水扁が総統選挙に合わせて住民投票を実施する余地は大きく制約された。
陳水扁は立法院での採決で敗れたのだが,あきらめず,この「公民投票法」の第17条に規定されている「防御的公民投票」を使って,主権と安全を守るための住民投票を行なうと発表した。これは法律が本来想定している条件を拡大解釈しての住民投票の発動であり,疑問視する声が上がった(『中国時報』「新聞切片−公投牛刀何宰雞」2003.12.2)。新聞報道を総合すると,これは陳水扁一人の決断のようである。陳水扁はここで住民投票を封じられれば陣営の戦線後退は必至であることを見て取り,勢いを維持するため新たな攻勢をしかけたと言えるであろう。「勢いを造る」は台湾の選挙戦を勝ち抜く鉄則だ。民進党内から慎重論が出たものの,陣営内のだれもがこの鉄則を知っており,陳水扁の決定を支持した。
陳水扁は,この住民投票は,中国にたいし,台湾に向けたミサイルの撤去と,台湾への武力不行使を求めるものになると述べた(New York Times 2003年12月6日)。この発言にアメリカ政府が素早く反応し,12月9日,ブッシュ大統領が訪米中の中国の温家宝首相にたいし「台湾指導者の言動は現状を一方的に変える可能性を示唆しており,我々は反対する」と表明する事態となった。陳水扁はなおもボルテージを高め,就任時に約束した「四不政策」(独立宣言をしない,国名を変更しない,二国論を憲法に盛り込まない,統一独立を問う住民投票をしない)を取り消す可能性にも言及した(『産経新聞』「台湾・陳総統,"対中挑発"加速−再選へ立場アピール」2003.12.27)。事態を憂慮した日本政府は過去に例を見ない行動を起こし,12月29日,交流協会を通じて「慎重に対処するよう希望する」ことを陳政権に申し入れた(『読売新聞』「"住民投票,慎重に"日本側の窓口機関,台湾へ異例申し入れ」2003年12月30日)。
陳政権は,事情を説明するため訪米団を派遣しようとしたが,アメリカの理解を得られずキャンセルせざるをえなかった。2003年10月の非公式訪米で点数を稼いだ陳水扁であったが,一連の展開は,陳政権の外交処理能力に疑問符がつく結果となった。アメリカとの関係が悪化したことで陳水扁は窮地に追い込まれたのである。国家安全保障会議の康寧祥秘書長は,「全国民一丸となって陳總統が苦境から脱却できるように助けよう」という異例の呼びかけを行なった(『中国時報』「全民應一起幫總統'脱困'」2004年1月10日)。一連の動きは,陳政権が国内政治の観点から住民投票の議題を設定しようとし,アメリカの反応を十分計算に入れていなかったことを示唆するものである(『聯合晩報』「公投傷害−李文忠:扁負全責」2004.1.10)。
このように本来自陣の選挙情勢を有利にするための住民投票が,逆にマイナスに作用する可能性すら出てきた。陳水扁選対本部の邱義仁も思惑が外れていることを認めざるをえなかった(『聯合報』「邱義仁:公投−忽z從大贏轉小贏」2004.1.4)。しかし,選挙への影響は軽微なマイナスに止まった。というのも,陳水扁陣営が,この状況を逆手にとって,中国にもアメリカにも日本にも屈しない陳総統というイメージを作り,事態の深刻さを中和することに成功したからである。また,これまで台湾が国際社会で孤立してきたため,国際情勢は敏感な選挙議題にはならないという要因が指摘できる。安全保障の担当者である康寧祥の発言は,本来なら政権にとって大きなダメージになるはずであったが,それも,選挙戦の喧騒の中で目立たなくなった。陳水扁陣営は落ち着いて危機管理を行ない,台湾を愛するなら住民投票を支持しようという宣伝活動を繰り広げ,あとで触れる2月28日の「人間の鎖」活動に結実させていった。
一方,連戰陣営も決して得点を稼ぐことはできなかった。連戰陣営は陳水扁が提起する選挙議題に振り回され,対応が混乱していた。連戰陣営は,陳政権の失策を批判すること,台湾人意識に訴えかける陳水扁陣営の選挙運動を批判すること以外に,台湾の将来像に関する核心的アピールを提示できなかった。連戰個人のイメージ作りにしても,温厚な指導者をアピールするのか,陳水扁に負けない攻撃的で強いリーダーをアピールするのか,陣営の戦略は一貫していなかった。連戰は,2003年11月29日にアメリカのキング牧師の名言を引いて「族群間の憎しみはここで終わりにしよう」と和解を呼びかけた。しかし,その翌日には「陳総統を防ぐのは盗人を防ぐより難しい」と発言し,イメージ戦略の不安定さを印象づけた(『工商時報』「工商小社論−連戰的和解夢」2003.12.2)。
経済政策も総花的な選挙公約が並べられているだけで,整合性を欠いていた(『経済日報』「社論−在野黨唱高調,彈老調之外能做什麼?」2003年9月8日)。連戰陣営は,陳政権が選挙目当てに国家財政を悪化させたと批判したが,連戰の公約を実現していくと,やはり巨額の財政赤字を招来することは確実であった。国民党の党資産問題でも,民進党が突いてくることは十分予想されていたが,これといって対策が取られていなかった。党資産問題は,2000年選挙でも取り上げられた議題なのでそれ自体は,新味はなかったのだが,国民党の備えのなさと対応の混乱がむしろ注目されることになった(『中国時報』「特稿−國民黨的敵人是自己」2003.12.21)。
3. 終盤戦−藍緑大動員
陳水扁は,2004年1月16日,住民投票の2つの題目を発表した。第1案は,中国が台湾に向けたミサイルを撤去せず,台湾への武力行使の構えを放棄しない場合,台湾はミサイル防衛兵器の購入を増やし自衛能力を高めることに賛成か否か。第2案は,中国との協議を進め,平和で安定した両岸の相互メカニズムの構築を推進することに賛成か否か,であった。これらは,台湾の住民投票を警戒するアメリカに配慮してトーンを下げた結果であるが,逆に,あえて住民投票で問う必然性が弱くなり腰砕けの印象は免れなかった。
陳水扁は自分が落選することになっても住民投票を成立させたいと強調したが(『中国時報』「扁:寧願落選也要公投」2004.1.16),国防大臣が投票結果にかかわらず既定方針に従ってパトリオット・ミサイル(防空システムを構成する地対空ミサイル)の購入を進めると立法院で明言したことに見られるように(『聯合報』2004年2月19日),その位置づけはあいまいであった。野党陣営が,陳水扁は自分の選挙情勢を有利にするために住民投票を利用しようとしていると強く批判したため,住民投票のテーマではなく実施自体が大きな議論を巻き起こし,正当性が疑われる結果となった。
また,住民投票の手続きをめぐる混乱も発生した。中央選挙管理委員会が,総統選挙と住民投票の投票方法について不自然な決定を下しては撤回するということを繰り返し,中央選挙管理委員会の公正・中立が疑われることになった。当初中央選挙管理委員会は,総統選挙の投票用紙と住民投票の投票用紙2枚の計3枚を一度に受領させる方式を決めた。これは,住民投票は白紙投票であっても有効票にカウントされるため,住民投票成立のための考慮を優先させ,投開票の円滑な進行を無視した決定と見なされた。この方法では投票用紙の受け取りで混乱が生じたり,投票箱を間違う選挙民がでたりする可能性があり現場の選挙事務担当者から抗議の声があがった。批判を浴びた中央選挙管理委員会は,結局,総統選挙の投票用紙と住民投票の投票用紙を別々に渡す方式に改めた。
選挙戦は,両陣営の得点がないまま,ネガティブ・キャンペーンの応酬と支持者の数を見せつける大動員へと収斂していった。各種の民意調査を総合すると,連戰が優位であるがそのリード幅は縮小しており,陳水扁がじわじわと追い上げる展開となっていた(参考:両候補の支持率の推移グラフ)。2004年2月上旬に筆者が選挙情勢を調査した際には,選挙の熱気は4年前より低いと感じた。しかし,選挙戦終盤の2月28日(1947年に発生した弾圧事件の犠牲者を追悼する記念日)には,陳水扁陣営が,中国のミサイルに反対し平和を訴える「人間の鎖」で空前の規模の大動員を行ない,連戰陣営も3月13日に政権交代を訴える大動員に成功した。
4年前は,大動員と呼べるものは,選挙戦最終日に陳水扁陣営が行なった20万人規模の大集会であった。しかし,今回の2月28日と3月13日の運動では,それぞれ200万人を超える参加者があったという。有権者数1650万人の台湾で,両陣営合わせて数百万人の人が直接の態度表明をする事態となり,選挙戦の熱気と緊張感は一気に高まったのである。
4年前は候補が3名であったので,支持候補の選択にはさまざまな理由がつきえた。今回は1対1の直接対決のため,日常会話の中でも双方の支持候補がわかりやすい状況になり,支持する支持しないの選択がストレートにぶつかりあうことになった。2月28日と3月13日の活動への参加の有無,あるいはどちらかの活動への関心の有無の情報は,当人の立場を識別する目安となるし,住民投票の投票用紙を受け取るかどうかも識別の情報となる。このため,職場,学校,家庭,あるいは友人関係において,支持候補をめぐっての対立感情がいっそう発生しやすくなった。社会的対立を緩和させる役割が期待される学術会や宗教界の人物までもが次々と態度表明を行なった。
2月28日と3月13日を頂点とする動員合戦が選挙に影響を与えたのかどうかは,判断が難しい。両者とも予想以上の参加者を集め,イベントとして大成功を収めたことは間違いない。まず228については,歴史的悲劇を思い起こし犠牲者を追悼する日であるが,李應元を中心とする主催者は,中国のミサイルに反対するという政治性も極力抑え,北の基隆市から南の屏東県まで手をつなぎ合わせ台湾への愛着を表す活動を演出した。当日の模様を撮影したビデオがテレビコマーシャルで何度も放映され,この台湾始まって以来の大イベントに参加者が興奮し楽しんでいる表情が,広く伝えられた(参考:228ビデオ映像−伊是咱的寶貝)。筆者の問い合わせに回答してくれたA氏のコメントを紹介したい。A氏は政治に無関心でどちらかといえば藍色支持の人物である。「最近陳水扁陣営が放映している228の記録ビデオを見てたいへん感動した。支持政党が何であれ,台湾を愛すること,台湾が独立国家であることを世界に知らせることは非常に重要である。……この228イベントは陳水扁陣営にプラスに作用すると思う。」228のイベントが陳水扁への票を実際にどの程度増やしたのかは不明であるが,この時点で台湾人意識を広範囲に刺激したという評価は可能であろう(『中国時報』「牽手效應−影響心裡層面及社會氣氛」2004.3.6)。
228の成功を見た藍色陣営は急きょ対策会議を開いて,313の大集会を行なうことを決めたが,国民党と親民党とで構成される選対本部の決定機能の問題があり,集会のテーマすらなかなか決まらなかった(『中国時報』「與其焦慮不如正視−藍軍應速重整歩調」2004.3.7)。本格的な準備が始まったのは313の1週間前になってからであった。それにもかかわらず予想を上回るおよそ200万人の参加者があったということは,藍色陣営が依然として大きな基礎票を維持していること,および,選挙民の中に陳水扁総統にたいする強い反対感情があることを物語っている。313の活動のハイライトは,連戰と宋楚瑜がそれぞれ台北と台中で夫人を伴って台湾の大地に接吻したパフォーマンスである。連戰は,母親と同じ(くらい大事な)台湾を命がけで守ることを誓い,中華民国が中華人民共和国に統一されることあるいは併合されることは絶対にないと宣言した(参考:313「換總統救台灣」全台大遊行特別報道)。
藍色陣営の313大動員の成功により,緑色陣営の228の効果は相殺され戦線は元に戻ったが,社会的対立気分がいっそう激しさを増し,各地方での何十票,何百票を争う激しい局地戦が展開された。選挙を左右する可能性があると見られていた中国は,結局,選挙期間中,陳水扁を批判する記事を時折掲載しただけで(例えば『人民日報海外版』「戳穿陳水扁的偽善面具」2004.3.1),前2回の選挙とは異なり直接的行動は起こさなかった。
4. 銃撃事件
陳水扁陣営は,「人間の鎖」で気勢を上げたものの,陳水扁夫人が関係したいくつかの論点が絡み合い選挙情勢は失速しかかっていた。まず,夫人が頻繁に株の売買をしていたことが明らかになった。これは違法ではないが,立場上好ましいことではないうえ,申告漏れもあった。次に夫人は,藍色陣営の313の活動について,228ほど人は集まらないであろうという趣旨で「子猫2,3匹しか集まらない」と発言したが,与野党の対立状況においては反感を煽る失言となり,藍色陣営の格好の結集点となった。実際313には,犬猫を連れた参加者も多数集まり,夫人は相手陣営の盛り上げに一役買ったことになる。
さらに,背任容疑で指名手配され海外に逃亡中の実業家陳由豪が,過去において陳水扁陣営に献金を行なったとする疑惑が浮上した。陳由豪は,国民党政権時代に有力政治家に献金を行なった政商として知られており,「黒金」を批判する民進党にとってイメージダウンにつながりかねなかった。陳由豪は,陳水扁の自宅を訪ね夫人に会ったことがあると,逃亡先から暴露発言を行なった。夫人は完全否定したが,陳由豪を夫人に会わせた仲介者として民進党の長老議員沈富雄の名前も挙がり,状況は夫人の側に不利であった。その沈富雄は3日間雲隠れした後,投票日2日前の3月18日に姿を現し,疑惑を肯定するとも受け取れるあいまいな記者会見を行なった(『中時晩報』「官邸之行−沈富雄:去過,但可能記錯」2004.3.18)。投票日直前,メディアの焦点は沈富雄に集まり,陳水扁陣営にとっては好ましくない状態で選挙戦最終日を迎えた。
しかし,投票の前日に台南市で発射された2発の銃弾が選挙の行方を変えることになった。2004年3月19日午後1時45分頃,オープン・カーで台南市内をパレードしていた陳水扁と副総統の呂秀蓮が何者かに銃撃され,陳水扁は腹部を,呂秀蓮は右ひざを負傷した。陳水扁,呂秀蓮ともに命に別状はなく,台南市内の病院で治療を受けて,同日夜に台北に戻った。この間,テレビは特別報道に切り替わり,心配する支持者が病院前に集まるなど不穏な空気が流れた。両陣営は,この日の夜に大規模な最後の選挙集会を予定していたが,不測の事態を恐れて,両陣営とも集会をキャンセルした。投票は,翌日3月20日に予定通り実施された。
台湾のテレビ局TVBSの民意調査によると,銃撃事件が起る前日の3月18日の支持率調査では,連戰・宋楚瑜陣営が44%,陳水扁・呂秀蓮陣営が34%で,連戰が10ポイントのリードを保っていた。しかし,銃撃事件が発生した3月19日の午後6時30分から10時30分の間に行なわれた調査では,連戰・宋楚瑜陣営が39%,陳水扁・呂秀蓮陣営が38%で,連戰のリードはわずか1ポイントに急落し,選挙情勢が大きく変化したことが示されている(右図は,TVBSの民意調査の数字を筆者が整理したものである)。
では,なぜこのような変化が生じたのであろうか。現時点では本格的な調査がなされていないので,暫定的な仮説に止まらざるをえないが,第一に,総統・副総統が負傷したことにたいする同情心が広範囲に発生したこと。第二に,銃撃の状況が明らかでない中で連戰陣営の一部が自作自演説を主張し,それにたいする反発が発生したこと,の二つの要因を挙げることができる。台湾において総統が銃撃されるというのは前代未聞の大事件であり,多くの人がショックを受けたことは間違いない。しかし,事件当日の夜には総統・副総統とも軽傷ですんだことが明らかになり,自身の無事を伝えるビデオ・メッセージもテレビで放映された。
一方,連戰陣営は記者会見を開き,選対本部に参加していた陳文茜立法委員が銃撃事件の疑点を提起し自作自演を示唆した。陳文茜の発言はニュースで繰り返し流され,それを聞いた藍色の支持者は肯いたが,緑色の支持者は憤り,中間派の選挙民の一部も反感を抱いたと見られる。実際,事件直後から巷では自作自演説が語られていたが,公的な人物が公的な場で表明するかどうかは別問題である。筆者が直接話を聞いた人の中にも,陳文茜の発言を聞き,人がけがをしているというのにこのような発言をするのはとても冷酷だと感じたという人が複数いる。陳文茜は,同日夜のバラエティー番組「當駭客遇到文茜」(中視テレビ)でも,趙少康,李敖らと共に皮肉交じりに銃撃事件の疑点を取り上げ,会場の聴衆の笑いを誘っていた。
この銃撃事件によって投票行動を変えて陳水扁に票を入れた人(棄権するつもりであったが投票に行き陳水扁に票を入れた人を含む)は,熟慮の末の決定というより,驚いて反射的に投票したと考えられる。今回の選挙では,次元が異なる争点がいくつかあり,選挙民は,4年間の陳政権の評価,今後の中台関係,経済,住民投票,個別の利益などの諸問題を考慮して複雑な投票行動を行なうはずであった。しかし,最後の瞬間に発生した銃撃事件によって,およそ1年にわたる選挙戦の効果(特に野党陣営が行なってきた政権批判の効果)や政権にたいする不満は脇に置かれ,本能的感情が働いたと考えられる。その本能とは,同情心,愛着心,一体感,憤りといったもので,同じエスニック・グループにおいて,より発揮されやすい感情とも言えるであろう。
まったく予期せぬ状況に直面して驚いたり,あるいは,自作自演説を聞いたりして反射的に出した結論が陳水扁への一票となったのは,台湾人意識が拡大し浸透していたことの産物であるし,台湾人意識と陳水扁の再選とを結びつける選挙戦を展開してきた陳水扁陣営の選挙戦略の効果が現れたとも言えるであろう。選挙民の投票行動に影響を与えたこの銃撃事件自体の捜査は進展していない。事件の発生から今日に至るまで犯人の手がかりはいっさいなく,犯人像も定まっていない。銃弾の発射位置すら正確にはわかっていない。これは警備を担当していた国家安全局と地元の警察当局の責任であるが,野党陣営は陳政権全体にたいする不信感を強め,選挙後も混乱が続く要因になっている。
銃撃事件が発生してからの10時間は,両陣営の危機管理能力が問われた時間帯であった。陳水扁陣営の幹部らはそれぞれの役割を十分心得ていた。総統が負傷し病院に運ばれるという大事件に遭遇し動揺しながらも,総統府の邱義仁らは短時間に事態を把握し,上手に情報を発表していった。地元台南市の許添財市長は,病院前に集まり心配する群集をなだめ混乱を防いだ。台北市の選対本部前に集まった支持者にたいしても,林義雄前主席ら幹部らが出て,支持者が暴走することのないよう十分なケアをしていた。中央からの指示で大型の選挙イベントは中止されたが,各地方では地下ラジオ(放送免許を得ていない小型ラジオ局)や口コミを使って野党陣営に不利な情報を流した。中央では,総幹事の蘇貞昌らが野党陣営の動向を見ながら記者会見を行なったが,メディアの前でしゃべるべきこととしゃべるべきではないこととをよくわきまえていた。
陳水扁の選対本部の幹部らは,みな,国民党の権威主義体制と素手で闘ってきた人たちである。民主化以前の台湾では言論・結社の自由が制限され,活動ができるのは選挙の時だけであった。彼ら・彼女らは,選挙期間中,警察や情報機関など国家権力を有する国民党からの圧力や情報操作をどのようにはねのけ,どのように選挙民の共感を得るのかを学んできた。台湾の過去の選挙においては,県市議員のレベルから立法委員,県市長のレベルに至るまで,投票日直前や投開票当日に大なり小なりのハプニングがしばしば発生した。彼ら・彼女らは,そうした状況の中で当選・落選につながる要素を判断する視点を共有してきたと言える。こうした過去の経験の蓄積が活かされ,陳水扁陣営は,3月19日夜,多くの人が眠りにつく前に状況をコントロールすることに成功した。
連戰陣営は,最後の瞬間に寄せ集め集団の弱点を露呈した。連宋の選対本部では,即座の対応が求められている時に延々と会議を開き,内容を十分詰めないで記者会見を行ない,根拠を示さないまま自作自演を示唆する手痛いミスを犯した。当日夜に予定していた選挙戦最終日の大集会をキャンセルしたことも失敗であった。そのため,当日夜のニュースは陳水扁・呂秀蓮の動静に関するものだけになってしまった。この会議の時,司令塔となる国民党幹事長の林豊正は,陳水扁が運ばれた病院との電話連絡に追われて討論に参加できなかったという(『聯合晩報』「319那一夜:陳文茜倒帶爆内幕」2004.4.20)。
政府側には,正副大統領が同じ車に同乗したこと,車に防弾ガラスを装備していなかったこと,総統が防弾チョッキを着用していなかったこと,国家安全局の要人警護態勢がずさんであったこと,地元警察の警備が不備であったことなど,問題点がいくつかあった。連戰陣営が,この日の記者会見で,これらの問題点の指摘のみに止めて,最後の選挙集会を「総統の快復を祈る夕べ」に切り替えて平穏に大集会を成功させていれば,あるいは,投票結果は違っていたかもしれない。銃撃事件の真の影響は,両陣営の危機管理能力の差を浮き彫りにしたことかもしれない。(2004.05.04記)
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