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鄭麟趾後序

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有天地自然之聲,則必有天地自然之文。所以古人因聲制字,以通萬物之情,以載三才之道,而後世不能易也。然四方風土區別,聲氣亦随而異焉。盖外國之語,有其聲而無其字。假中國之字以通其用,是猶鑿之鋙也。豈能達而無礙乎。要皆各随所處而安,不可強之使同也。

天地自然の声有れば,則ち必ず天地自然の文有り。古人声に因りて字を制り,以て万物の情を通じ,以て三才の道を載せて,後世の易(か)ふる能(あた)はざる所以(ゆゑん)なり。然れども四方風土区別し,声気亦た随ひて異なる。蓋(けだ)し外国の語は,其の声有りて其の字無し。中国の字を仮(か)りて以て其の用を通ずるは,是れ猶ほ鑿(ぜいさく)の鋙(そご)するがごときなり。豈に能く達して礙無からんや。要するに皆各々処する所に随ひて安らかなりて,強いて之(これ)を使ふこと同じくすべからざるなり。

天地自然の声があれば,必ず天地自然の文があるのである。いにしえの人は声に基づいて字を作り,これで万物の様子を知り,これに三才の道理を載せたので,後世の者が換えることのできないものなのである。しかしながら,四方の風土が異なると,声気もまたそれに従って異なる。そもそも外国の言葉は,声があっても字を持たず,中国の文字を借りてその用を足しているが,これはあたかも,ほぞとのみが食い違っているかのようである。どうしてゆきわたって支障なくいられようか。要するに,そえぞれが処するところに従って安泰であり,無理に同じく使う必要はないのである。

鄭麟趾の文は,本文の末尾にある文なので,形式的に見れば「跋文」であるが,『世宗荘憲大王実録』(巻113)に「禮曹判書鄭麟趾序曰」としてこの文が収録されているので,通常は「鄭麟趾序」と呼んだり,あるいは冒頭の世宗序と区別して「後序」と呼ぶ。


吾東方禮樂文章擬華夏。但方言俚語,不與之同。學書者患其旨趣之難暁,治獄者病其曲折之難通。昔新羅薛聡,始作吏讀,官府民間,至今行之。然皆假字而用,或澁或窒。非但鄙陋無稽而已,至於言語之間,則不能達其萬一焉。

吾が東方の礼楽文章は(ひと)しく華夏に擬たり。但だ方言俚語は,之と同じからず。書を学ぶ者は其の旨趣の暁(さと)り難きを患ひ,獄を治むる者は其の曲折の通じ難きを病む。昔新羅の薛聡(せっそう),始めて吏読(りとう)を作り,官府民間,今に至るまで之を行ふ。然れども皆字を仮りて用ゐ,或は渋り或は窒(ふさ)ぐ。但だ鄙陋無稽のみに非ず,言語の間に至りては,則ち其の万一にすら達する能はず。

わが東方は礼楽・文章がどれも中国に似ているが,方言・土着語はこれと同じでない。書を学ぶ者はその内容が理解しがたいことを悩み,獄を治める者はその込み入った事情のまとめがたいことを憂える。昔,新羅の薛聡が初めて吏読を作り,役所も民間も今に至るまでこれを用いてきた。しかし,みな漢字を借りて用を足し,あるときは言葉に戸惑い,あるときは言葉に詰まる。下品ででたらめであるばかりか,日常の言葉に至っては,漢字の1万分の1にも及ばない。

癸亥冬。我
殿下創制正音二十八字,略掲例義以示之,名曰訓民正音。象形而字倣古篆,因聲而叶七調。三極之義,二氣之妙,莫不該括。以二十八字而轉換無窮,簡而要,精而通。故智者不終朝而會,愚者可浹旬而學。以是解書,可以知其義。以是聴訟,可以得其情。字韻則清濁之能辨,樂歌則律呂之克諧。無所用而不備,無所往而不達。雖風聲鶴唳,鶏鳴狗吠,皆可得而書矣。

癸亥冬。我が
殿下正音二十八字を創制し,略々(ほぼ)例義を掲げて以て之を示し,名づけて訓民正音と曰ふ。形を象(かたど)りて字は古篆に倣ひ,声に因りて七調に叶ふ。三極の義,二気の妙,該括せざる莫(な)し。二十八字を以てして転換窮まり無く,簡にして要,精にして通ず。故に智者は朝を終えずして会し,愚者は浹旬(せふじゅん)にして学ぶべし。是を以て書を解さば,以て其の義を知るべし。是を以て訟を聴かば,以て其の情を得べし。字韻は則ち清濁之(これ)を能く辨じ,楽歌は則ち律呂之れ克(よ)く諧(かな)ふ。用ゐて備はざる所無く,往きて達せざる所無し。風声,鶴唳,鶏鳴,狗吠と雖も,皆得て書かくべからん。

癸亥年(世宗25年,1443年)の冬,わが国王殿下は正音28字をお作りになり,おおまかに例と意味を掲げてこれをお示しになり,訓民正音と名づけられた。(発音の)形をかたどって字は古篆をまね,声に基づいて音階にも合っている。(天地人の)三極の意味も(陰陽の)二気の妙も,含まれないところがない。28字をもってすれば自在に変化して極まりがなく,簡潔にして要領を得ており,精密にしてすみずみまでゆきわたっている。だから,知恵ある者は午前中に会得し,愚かな者でも10日で学ぶことができる。これを用いて書を読めば,その中味を知ることができる。これを用いて訴えを聞けば,その心を知ることができる。中国語の字韻は清音と濁音が区別でき,音楽は旋律がきれいに調和する。用いて不備なところはなく,行って到達しないところはない。風の音,鶴の声,鶏の声,犬の鳴き声でも,みな書き取ることができるのである。


命詳加解釋,以喩諸人。於是與集賢殿應教,副校理彭年叔舟,脩撰三問,敦寧府注簿希顔,行集賢殿副脩撰善老等,謹作諸解及例,以叙其梗概。庶使観者不師而自悟。若其淵源精義之妙,則非等之所能發揮也。

遂に
命じて詳しく解釋を加へ,以て諸人を喩さしむ。是(ここ)に於て臣は集賢殿応教臣崔恒,副校理臣朴彭年,臣申叔舟,脩撰臣成三問,敦寧府注簿臣姜希顔,行集賢殿副脩撰臣李,臣李善老等と,謹みて諸解及び例を作り,以て其の梗概を叙す。庶(こひねがは)くは観る者をして師あらずして自ら悟らしめんことを。其の淵源精義の妙の若(ごと)くは,則ち臣等の能く発揮する所に非ざるなり。

詳しく解釈を加えて諸々の人を諭すようにと命じられたので,わたくしは集賢殿応教の崔恒,副校理の朴彭年,申叔舟,脩撰の成三問,敦寧府注簿の姜希顔,行集賢殿副脩撰の李,李善老らとともに,謹んでもろもろの解説と凡例を作り,その概略をつづった。見る者に師なくして自ら悟らせることを願う。その奥深い詳しい意味の妙味などは,わたくしどもが物を申せるようなものではない。

恭惟我
殿下,天縦之聖,制度施為超越百王。正音之作,無所祖述,而成於自然。豈以其至理之無所不在,而非人為之私也。夫東方有國,不為不久,而開物成務之
大智,盖有待於今日也歟。

恭(つつし)みて惟(おも)ふに我が
殿下は,天縦の聖にして,制度施為は百王を超越す。正音の作,祖述する所無くして,而自然に成る。豈(そ)れ以て其の至理の在らざる所無く,人為の私するに非ざるなり。夫(そ)れ東方に国有り,久しからざりたらずして,開物成務の
大智は,蓋し今日を待つこと有るなりや。

謹んで思いまするに,わが国王殿下は生まれながらの聖人であられ,制度や施しはいかなる王をも超えていらっしゃる。訓民正音をお作りになるにも,先人の言ったことを受けずして,自ずとできあがった。まさに至極の道理のないところがなく,人のわざを一人のものとすることがない。東方に国があって,すでに久しいが,物事を開き,事を成す大いなる知恵は,今日という日を待っていたことだろう。

正統十一年九月上澣。資憲大夫禮曹判書集賢殿大提學知春秋館事 世子右賓客麟趾拝手稽首謹書

正統十一年九月上澣。資憲大夫・礼曹判書・集賢殿大提学・知春秋館事・世子右賓客臣鄭麟趾拝手稽首し謹書す。

正統11年9月上旬,資憲大夫・礼曹判書・集賢殿大提学・知春秋館事・世子右賓客である臣下・鄭麟趾,拝手稽首して謹んで書す。