活動報告

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報告「裁判所における方言」社会言語部門主催講演会 2011年10月21日(金)

 10月21日(金)、18:00から社会言語学研究者で京都教育大学附属高校教諭の札埜和男氏を招いて、「裁判所における方言」と題した講演会を行った。平日の開催は特に学生に聞いてもらいたいと考えたためで、30名を超える参加者を得ることができた。

 札埜氏は高校での授業の一環として取り入れた法廷見学で、そこで取り交わされる様々なやりとりの中で、関西方言が効果的に、そして戦略的に使われていることに気づき、裁判を傍聴し記録を取り、判事、検察官、弁護士などへのインタビューを試み、その膨大な資料から博士論文をまとめあげた。この論文を基にして書かれたものが、2010年度、法務省の「法教育懸賞論文」で、優秀賞を受賞している。講演では、実際に札埜氏が記録した法廷であった事例を基に話が進められた。関西方言は映画やドラマの中での描かれ方で、「ガラが悪い・怖い」などのイメージがつけられていると言っていいだろう。実際に検察官は被告や証人を追い詰めるために関西弁を使う。しかし、またそれは法廷にいる人々の心情に訴える言葉でもあり、緊張を緩和する作用ももたらす。特に少年審判では、最後の「説諭」は優しく語りかけるために、何よりも少年の更生を願う気持ちから関西弁が使われるのである。裁判員制度が始まった今、これらの「戦略的機能」により、関西以外でも、方言は違う意味を持つ可能性が示唆された。

 印象的だったのは関西出身以外の者も、こういった機能を利用すると言うことであった。「標準語対方言」という単純な二項対立では、方言にすぎない関西弁が、権力を持つこと、「標準語」と同じようにそこに住む人々に使うことを「強いる」ことがある言語であることが見えてくる。講演の中では、被告側の通訳をつける要求が受け入れられなかった「うちなあぐち裁判」や大分の「豊前環境権裁判」の事例も詳しく触れられたが、それらは日本語の様々な変種を「方言」でなにもかも一つに括ってしまうことへの警句でもあった。

 また日本の法律としては唯一「言語規定」を持つ裁判所法がコントロールする法廷は、「日本語とはなにか」を考える場でもあることを認識させられた。速記を廃止し、音声認識装置による記録に置き換えようとする動きは、法廷では「標準語」しか使えないようになることだと札埜氏は指摘する。法廷は人の一生を左右する場である。日本語を解さない人のための法廷通訳の重要性は理解しやすいが、誰もが自分の「母語」を保証されるという観点からも、我々の想像上のものでしかない「標準語」よりも生活言語の「方言」のほうがより実態を持ち、安易な「日本語」=「標準語」といいう図式は危険だと言うことに改めて気づかされた。フロアからの感想も、裁判そのものの公平さにについて、言葉に関わる者は、問題意識を持つことが要求される、という内容のものが多かった。

(前田達朗)

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