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淺田榮次と東京外国語大学

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第三章 淺田榮次とエスペラント


目次
    (1)エスペラントの普及
    (2)エスペラント協会の設立
    (3)日本最初のエスペラントによる演説
    (4)東京外国語学校に随意科エスペラント設置


(1)エスペラントの普及
1887年ザメンホフ(Lazaro Ludviko Zamenhof)により生み出された16か条の文法からなる人工語エスペラントは、20世紀初頭、日露戦争に勝利し欧米諸国との対等な国際関係の構築を目指す日本において、言語上の障害を取り除き外国人とのコミュニケーションの円滑化を図れる容易な国際語として注目を浴びていました。そうした日本におけるエスペラントの勃興に淺田は尽力しました。

             
           淺田が国外のエスペランティストと交わしたエスペラントの書簡


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(2)エスペラント協会の設立
20世紀初頭、エスペラントの存在は英語雑誌・新聞等を通じて日本で知られるようになり、研究者たちの間に個人的関心から徐々に広まって行きました。
1906年、史料編纂所の黒板勝美が中心となって協会設立に向けた活動が活発化します。同年6月12日神田一ツ橋外學士會事務所に淺田榮次を含む10名のエスペランティストが集まり協会の設立を協議し、ここに日本エスペラント協会が発足しました。

 
  淺田・黒板・安孫子共著のエスペラント日本語辞書

   


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(3)日本最初のエスペラントによる演説
淺田がエスペラントを習得した経緯については明らかでありませんが、オコンナー博士の“Esperanto. The Student’s Complete Text-Book”の自習により修得したとされます。彼の日誌によると、1906年3月17日に東京外国語学校教職員で開催された高楠校長の歓迎会・尺教授慰労会の折に「自分は委員の総代となつて、エスペラントで挨拶の辞を述べた」 との記録があり、これは日本最初のエスペラント・スピーチとされています。

 Estimata Direktoro, Karaj Co-profesoroj kaj ceteraj sinjoroj. Pro la Com(m)it(t) atoj mi volas diri malmultajn vortojn. Profesoro Sung estis dironta en la chinesa lingvo. Sed ĉar li estas hodiaŭ malsana kaj ne povas veni, mi diras malmulte en Esperanto. Esperanto estas universala lingvo kaj vi tute, mi kredas, komprenos min tre facile. Sinjoroj, tiu ĉi estas speciala kunveno. Unua ni volas ricevi nian Direktoron Doktoron Takakusu kiu ĵus revenis de Europo post farinta multe pro la regejo jes pro la mondo ; dua ni volas danki Doctoron Seki kiu faris tre fidelan laboran dum la malesto de Doctoro Takakusu ; kaj tria ni volas ricevi tute la novajn profesorojn kaj oficerojn. La plej granda characteristico de la Tokyo lernejo de Fremdaj Lingvoj estas fraternito, harmonio kaj paco. Kie en la mondo ni povus trovi alian domon kun Angloj, Frankoj, Germanoj, Russoj, Italianoj, Hispanoj, Cinesoj, kaj Koreanoj sub lia tegmento? Tial Sinjoroj, trinku, manĝu, parolu kaj ridu laŭ via plezuro, kaj faru tiu ĉi sukcesa kunveno.

【エスペラントによるスピーチ(翻訳)】 (『総研レビュー』(第8号)参照)
学長並びに同僚教授及びその他の諸君、委員一同に代わって簡単にご挨拶を申し上げます。本日は孫氏が支那語でご挨拶をするはずでございましたが、病気のため出席できなくなりましたので、私が代わりにエスペラントでご挨拶申し上げます。エスペラントと言うのは国際語でございまして、私のスピーチを皆様がすべてをやすやすとお解りいただけるものと存じます。諸君、この会は特別な会合であります。先ず、本校のためかつ学界のため多くの成果を収めて帰国されたばかりの我が学長高楠博士を歓迎し、次いで高楠博士の不在中ご精勤の尺教授に感謝し、更にまた新任教授並びに事務官諸君に対し歓迎の意を表するものであります。東京外国語学校の最大の特質は友愛と調和と平安であります。英国人、フランス人、ドイツ人、ロシア人、イタリア人、スペイン人、中国人、また韓国人が、一つの屋根を共にするような家屋は何処の世界にあるでしょうか。されば諸君よ、各人の喜びのままに飲食し、談笑し、盛会裏に終えようではありませんか 。


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(4)東京外国語学校に随意科エスペラント設置
日本エスペラント協会の発足から3ヶ月後の1906年9月、東京外国語学校内に随意科としてエスペラント科が設置されました。授業は淺田自身がその教授に当たり、約200名の生徒が受講し「聴講者講堂に溢るる計りの有様」であったといいます。随意科とはいえ既存の学校単位でエスペラントの教授を開始したのは東京外国語学校が最初でした。
また、東京外国語学校の語学教師が中心となり発行していた雑誌『語学』には、エスペラント講義の枠が設けられていました。この『語学』誌上で講師を担ったのは1903年-1905年に東京外国語学校仏語学科選科に在籍した大杉栄でした。彼は同時に日本エスペラント協会の監理下に設立されたエスペラント語学校(本郷区壹岐殿坂習性小学校内)の講師の任に就き、その普及を図り、淺田は同校の名誉講師にその名を連ねていました。

            
エスペラント語学校第1回卒業式 (1906年12月16日 於:東京外国語学校前、1列目中央が浅田、その左横が大杉栄)



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