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淺田榮次と東京外国語大学

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第二章 淺田榮次と東京外国語学校


 目次
    (1)東京外国語学校英語科主任教授
    (2)淺田の英語教育
    (3)教育方針「1年級諸氏に告ぐ」
    (4)授業概要
    (5)『小学校用文部省英語読本』の刊行
    (6)図書室での卒倒



(1)東京外国語学校英語科主任教授
1896年(明治29年)、帝国議会に「外國語學校設立ニ関スル建議」が提出され、翌年には高等商業学校に附属外国語学校が創立されると、同校校長を務めた神田乃武の招きに応じ、翌1897年5月1日東京高等商業学校英語講師、同年8月27日に同校附属外国語学校教授に着任した。2年後の1899年7月15日、同校が分離して東京外国語学校が独立すると、淺田は教務主任となり発足間もない同校の体制整備に大きく関与しました。

            


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(2)淺田の英語教育
淺田はドイツ語・フランス語・ギリシア語・ラテン語・古代セム諸語に通じ、まさに語学堪能でありました。英語についても、東京外国語学校の外国人講師メドレイに「私の知っている日本人の中で最も正確な英語を話す人は淺田先生と神田男爵である」と言わしめる程でありました。淺田の授業・指導に対する厳格な態度はしばしば生徒から恐れを抱かれるほどで、後に東京外国語大学学長を務めた岩崎民平は「私は今でも怠けて充分に下読をしないで先生の時間に出て居た時の不安さを思ひ出す事が出来ます」と語っています。

            
         1910年修学旅行1年生(後列左2番目淺田、前列左2番目1年級の岩崎民平)


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(3)教育方針「1年級諸氏に告ぐ」
淺田は入学直後の生徒に「一年級諸氏に告ぐ」と題した学校生活上の心得を説きました。そこでは教員との人間関係や規律を守ること等の生活指導に加え、「語学専門なるも通辯たるなかれ、西洋の文物を学び世界的人物と作れ、アングロサキソンの精神を学べ。人物養成を旨とす」と、語学習得には言語だけでなくその文化的背景も含めて理解を深めることの重要性を説いています。 

            
                   「一年級諸氏に告ぐ」原稿


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(4)授業概要
淺田の授業概要は以下の通りであったと言います。

【1年次】
◆パラフレーズ(週4時間):教材ベンジャミン・フランクリン『自叙伝(Autobiography)』一節程度を音読後、易しい語で言い換えさせ不十分な箇所を質す。全て英語で実施する為、解釈と会話の練習が同時にできた。
◆講義(週1時間):「中学校時代の悪い発音を早くunlearnせよ」と注意の下、発音の訓練実施。次に雄弁術に移行し、淺田が模範演説を実施。手紙の書き方・エチケットの授業もあり。

【2年次】
◆訳解(週3時間):教材スウィントン 『English Literature』 生徒の誤訳の注意と難解箇所の読解。
◆作文(週1時間):課題作文を1時間で書き上げ提出し、淺田が添削をして返却。
◆講義(週1時間):一般文法書に記載のない文法事項の紹介。
◆スピーキング(週1時間):演説・暗証・朗読等を1時間に4〜5人に当て順番に実施。

【3年次】
◆翻訳(週3時間):教材スウィントン『 English Literature』、Daily Mail紙(海外版)。
◆作文(週1時間):前年通り。
◆スピーキング(週1時間):即席の演説・討論。英語教員志望者向けの英語教授法の講義。


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(5)『小学校用文部省英語読本』の刊行
淺田は東京外国語学校のほか、青山学院及び女学院、法学院(中央大学)で英語を教授していました。加えて英語教授法調査委員(文部省)や文部省視学委員等を務め、主に中学校の英語教育の改革に大きく尽力しました。また1908年(明治41年)には淺田の監修のもと、小学校用文部省英語読本、『THE MOMBUSHO ENGLISH READERS』(第1巻)が刊行され、40万部が採用されたといいます。

             
                『小学校用文部省英語読本』(第2巻)


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(6)図書室での卒倒
1914年11月、淺田は当時、神田錦町にあった東京外国語学校の図書室の書庫で倒れ永眠しました。図書係に対し発した「此所は静かで宜しいから少し勉強しましょう」との言葉が最後の言葉でした。図書室での死去について、東京外国語学校教授山口小太郎は「軍人ならば戦場に、學者ならば書庫書斎に、美しき最後を見るは、好適の死處を得たるものとして聊か慰むるをことを得べけん。」との言葉を遺しています。 (『淺田榮次追懐録』276頁)


 (左)淺田墓地(青山霊園)
 (下)淺田葬儀の様子

   


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