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2011年10月 アーカイブ

2011年10月 1日

福島行ってきました!

いつぞや拙ブログに書いた「ウチでやるかもしれなかった企画」の関連で、28.29日と一泊で福島に行ってきた。企画に関しては西谷ボスのブログに詳しいが、エジプト出身のウード奏者、ムスタファ・サイッドさんのボランティア・コンサートである。ご両親が受けた劣化ウラン弾のために盲目で生まれたサイッドさんは、今年はじめのエジプトの革命の際にはタハリール広場に駆けつけて演奏し、このたびは自費で福島まではるばるやってきたという見事なフットワークのアーティストである。昨晩は東京でライブ&トークがあり、そのスタンスを「そんなご大層な」ものではなく、人間としての義務というか当然のことだという。

伝統的なウードという楽器で伝統的な曲も奏でるが、ジャズやクラシックその他もろもろのパッチワークをほどこした曲も作り、タハリール広場で演奏した曲には、あまりにしばしば乞われるので(BBCの取材もあって、一躍有名になった)、「もう飽きちゃったよ」とさらりと言ってのける明るいキャラだが、革命前のエジプトでは音楽が、社会の矛盾など考えずに過ごしていくための単なる気散じになっていたと痛烈に批判する。音楽というものに対するはっきりした考えがあるのだ(えー哲学を語れってか?と茶化していたが、ほんとうは相当な哲学だ)。福島についても、たくさんのいい人たちに会って、ポジティブな活力をたくさんもらったというが、実は津波の来たところではタハリール広場で感じたのと同じ「死の臭い」をかぎ分け、自然が怒りをあらわにしているのだと思ったという。そして、日本は今ここで根本的に変わっていかなければ、いつまでもグローバル資本主義の金の亡者たちが跋扈するままだと力説するのである。それでも「エジプトの革命だって、まだ始まったばかりだよ」と付け加えるのを忘れない。うーん、勇気もらえるー!

それで、福島である。五大院というお寺のお堂の縁日にひっかけた「までいライブ」(近くに避難してきている飯館村の人々も招待されてきていた)は、土地の人々の暮らしを垣間見た素敵な体験だったが、その後と翌日の午前中は、現地で子どもたちの避難を進める人々や、何度も現地入りしてそれを助けている人々などに会って、話しをうかがった。身を粉にして動き回っている彼らがしばしば口にするのは、その活動をふくめ情報が伝わっていかないもどかしさである。たしかに大手メディアからは、政府のやっていることと個別の被災者の様子、そしてその間にわずかに「反権力」としての「脱原発」の動きがあるような、ないような、ということばかりで、権力とかなんとかはどうでもいいから現実を動かすというさまざまな取り組みは、ほとんど伝わってこない。また彼らがいうには、力を尽くして段取りを進めても、「特定の色(イデオロギーとか宗教とか)がつくから」といわれて、いざ実現の段階でとん挫することも多いそうだ。メディアの問題もあるとはいえ、この国のいわゆる「常識」は、どうしようもないほどに、実のない「中立」幻想に凝り固まっている。今まったなしの死活問題だというのに!

さて、2日目午後には、周辺の村などを車で回るところへ同乗させてもらったが、線量計が「興奮」する避難地域でも、草木は伸び放題で枯れた田畑もあるものの、場所によってはまだ暮らしている人もあり、去った跡形もまだ新しい。ただ車を降りてしばらくみていると、見回りの車が「ここで長く止まってると、尋問されっから」と警告に来る。再び車に戻り、その場所を離れるとやがて線量計の数値がすっと下がるのである。そのときの、なんというかほっとする感覚は忘れがたい(そして数値が急上昇したときのぞっとする感覚は、もっと忘れがたい)。しかし線量のかなり高い場所で、「光ケーブルの工事をしています」という看板のある長い区間、マスクもせず交通整理をするおじさんたちが何人もいた。光ケーブルをひくことは今、そんなに大事なのか?!

サイッドさんも言ったように、わがDNAのいくつかも「影響を受けた」にちがいない。しかし、それがなんだというのだろう。福島のことを前よりも少し深く、理解できたことには代えがたい。行ってみなっせ(なぜか熊本弁)、福島! -ただし子どもと若者は除く

2011年10月 7日

卒業生来訪

10月に入り、後期の授業も無事に滑り出した。大学は久しぶりに若者たちでにぎわっている。そんな折、数年前に卒業した元ゼミ生のYちゃんが久しぶりに外大を訪ねてくれた。

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卒業後は某企業に就職したが数年後に一念発起して転職し、ラオス滞在の後現在まで在ベトナム、今回は仕事のための一時帰国だという。生き生きと仕事の様子を語ってくれて、充実ぶりがうかがえた。そういえば、なぜか彼女の同期のゼミ生は3人がたまたま似たような経歴を辿って海外在職中(えーっと一人はフィリピン、一人がセネガルかな)である。現在はグローバルスタディーズである当ゼミの看板が、2005年か2006年頃まで「国際協力論」であったことをなつかしく思い出す(制度的枠としてそうだったのだが、その後内実に合わせて変更)。

大学主催の「ホームカミングデイ」とは無関係に、ふと卒業生が「帰ってくる」のを迎えるのは、なんとも懐かしく嬉しいものだ。ときどきそんなことがあるのだが、いつも後から「ああ、写真を撮ればよかった!」と後悔する。今日はかろうじて最後に思い出し、506にて無事撮影ー(カメラマンのHくん、サンキュー!)。

2011年10月13日

若者とお母さん革命

昨日は大学の会議を早々に失礼して、「市民・科学者国際会議:放射線による健康リスク」の第二部円卓会議を聴きに行ってきた。3.11直後にとあるメーリスで「日本における放射線リスク最小化のための提言」 (原文はドイツ語)の邦訳者をつのっていたのでお手伝いをしたが、その発信者の松井英介先生がファシリテーター(という呼び名が、なんとも市民運動系の催しものであることを感じさせる)を務められていたからだ。朝からその松井先生による講演を含む講演4本が行われた後の第二部ということで、パネリストたちはややお疲れの様子だったが、声を挙げたい市民の方々が多数来場しており、相当に迫力のある発言を多々展開していた。勇気もらったー(最近そればっかり?)。

興味深いことに、このプロジェクトの呼びかけ人の一人Sさんは、NPOを主宰する某(外大のご近所H)大学の大学院生であるそうだ。弱冠24歳という彼はパソコンを扱いつつ松井さんや他の主催者とずっと進行を切り盛りしており、海外ゲストたちも温かい目を注いでいた。へえ、日本の若者もやる人はやってるじゃん!当方も温かい目を注ぐ気分であった。

3.11以降、日本を変える担い手は母たちであるというのは、広河さんの見方のみならず一般にもそろそろ浸透しており、これをアイスランドの「キッチン革命」などとならべて「お母さん革命」というらしいが、お母さんたちとの連携には、若者もコミットしやすいのかもしれない。「子どもを守ろう」というすっきりした方針で動けばよろしく、ギトギトしたイデオロギーやマッチョは不要だからだ。そういえば福島でお目にかかった男性諸氏も、バリバリ働きつつも「ぼくたち、マッチョじゃないんですよね。気も弱いし…」と言っていたっけ。
さらに思い返せば、3月以降しばらくの間、原発問題を扱って充実の紙面を展開していた『週刊現代』さんが、「女子どもを放射能から守れ」という記事あたりから、トーンダウンしていったことを思い出す。マッチョ男性的にかっこいいはずのその理屈はウケなかった、というかリアリティを欠いて立ち消えたということだろうか。まーわたしはオジサンではないから(えっ ときどきオジサン化するって?)いいのだが、いや、決してよくはない。オジサン的理屈が「女子どもが逃げるとはけしからん」に転化するとすれば、問題の根はかなり深いだろう。小児科ネットのY田先生いわく、福島では心配する人々を相手にしなかったり笑い飛ばしたりするだけでなく、バッシングして退職にまで追い込む「戒厳令」状態がすでに6月ぐらいから出始めて、今や相当の圧力となっているそうだ。

円卓会議の最後に、三春町から避難しているお母さんが発言した。「福島の人々は御用学者になだめられたから逃げないのではなく、『土と生きる、土があれば生きられる』という自信が裏目に出ているのではないかと思います。その土がもうだめになってしまったという事実を、受け入れられないのです」。参加者各位はそれぞれの持ち場で相当に尽力している人々に違いなかったが、一同、水を打ったように静まり返った。かける言葉が見つからなかった。

2011年10月19日

時代よ!

家ご飯を済ませて、たまたまぼーっとBSプレミアムを見ていた。カザフの国民的女性歌手お二人をおっかけた番組である。まずは1人目のマクパルさんの歌声が素晴らしく聞き惚れていたら、2人目のローザ・リムバエワさんに移ってしまい、あーもっと聴きたかったなーと思いながら、ちょっとカザフの綾戸智恵さんみたいなお顔立ちのリムバエワさんの経歴をみていた。セミパラチンスクの出身で、独立20周年のカザフとともに歩んできた歌手生活。家ではふつーのお母さんである。ふーん。と、最後に「今、日本に行くことがあったなら、この歌を歌うでしょう」というメッセージの後、スタジオで「時代よ! -ザマナイ(カザフ語)」が歌われた。

これが、す、すごかったのである。文字通り、魂をガーンと揺さぶられました、はい。聞けば、セミパラチンスク核実験の廃止を求める運動の際にずっと歌われてきた歌であるという。で、1991年かの核実験は停止された。ほえええ なりゅほどー。生まれ育った場所が汚れてしまい、身内が死に、と取り返しのつかない事態を語るテクストと声とメロディーと、いや人ひとりの存在ぜんぶを賭けた絶唱に、聞く者の理性はぶっとぶ。福島のこと、六ヶ所村や核施設を抱える各地のこと、沖縄のこと、考えれば考えるほどにつのる無力さを、一挙に突き破る圧倒的な力であった。

この番組、日曜日に再放送があるらしいので、拙ブログを読んでくださった方には、ぜひ見ていただきたいですー。よろしくー。

2011年10月25日

E. ジョリー氏闘う!

さる2011年3月前後、グンナル監督の『溶けてしまった氷の国は』というドキュメンタリー映画を精力的に拙ブログで紹介させていただいたが(3.10に監督は離日、はあ間一髪;)、その映画の中でアイスランドの不正を正すと静かに強く語るE.ジョリーの姿が印象に残っている方々も多いかと思う。そのジョリー氏、いまやフランス緑の党を背負って立つ覚悟でフランスで脱原発!という頼もしいメッセージを発信している。実は10月19日から23日まで来日して福島に赴き、決意を日本にて語ったのである。たしか22日あたりの朝日新聞にも小さな記事があったが、本日(25日)の東京新聞に大きな記事が載っている。上記イベントを手伝ってくれたゼミ生諸氏も多い(ジョリー氏に関するガーディアン紙の記事を要約して資料にしたのがなつかしい)わがゼミでは、思わずコピーを配ったぜい。

そういえば先週土曜日(22日)、シルヴィ・ギエムのバレエ@東京文化会館を観てきたが、ギエムの来日も被災地支援のためということだった。これまた、すごい存在感でしたわー(演目はうっとりするようなヤツだったんだけど)。うーん、みなさんそれぞれの持ち場で、文字通り身体をはってますよねー。

そこで!不肖ナカヤマも一大決心をして、ニコ生に出ることにした!(は?) 実は上記のアイスランド映画の字幕のご縁でゲストにも来ていただいたNさんから、デモクラシーナウの「ショックドクトリン」特集に出てほしいという依頼をいただいたのである。『ショックドクトリン』は言わずと知れたN.クラインの最新作で、先ごろ邦訳が出てバカ売れしているところ。この本は当方も原著刊行の頃から注目していて、2008年だったか、院ゼミで読んだり、そのメンバーで邦訳しようかというハナシをしたりした(某出版社に交渉したものの関心もってもらえず、その頃にはきっとすでに版権とられていたのだが、いやー手を出さなくてよかった。北京のアダムスミス邦訳プロジェクトとかぶってたらと思うと背筋がさむくなる)。しかもテーマは、「惨事便乗型資本主義」つまり大災害があった直後に、とんでもない「復興」が進められるというハナシである。ある意味、絶妙のタイミングで邦訳が出たことをあらあらと思いつつ、基本的には喜ばしいとみていたところだが、でもなー、ニコ生かー、うーん… まじガラじゃないよなー、と二の足、三の足、四の足ぐらいまで踏んでいた。しかし!みんながんばってるし(誰と較べてるんだ?)、クライン氏の超力作だし、せっかく声をかけてもらったんだし、フリードマンとか経済学に関係するところをというハナシだし、えーいっ 

はい、清水の舞台から飛び降りて、さっきN氏に受諾のお返事しました。ひょえーひょえー(ええ、気が弱いんです、ワタシ) 

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