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規範主義と記述主義

「ら抜き」言葉に関するニュースに関して
日記を書いたら、まだ、僕が規範主義者だと
思ってらっしゃる人がいたので。

(「かっけー」とか書いてるのに!)

言語学者というより、「ことばの専門家」の
立場として、規範主義と、記述主義に
分けることができます。

規範主義は、言語政策行政に関わる人たち、
それから、言語教育に関わる人たちに必要な立場です。

一方記述主義は、言語研究者に必要な立場です。

規範主義の、言語を「固定しよう」
「変化を止めよう」という考え方は、
国家が共通の言語を必要とするため
生まれてきました。

国、あるいはもっと他の広さの単位でも
いいですが、「同じ言語」が話されている
地域では、違いはできるだけ少ない方が
お互いに通じ易いし、誤解が生じにくいし、
言語行政、言語教育もし易いです。

言語教育とは、国語教育や外国語教育のことで、
規範があれば、規範に合っていることを教えて、
合っていないことを「直す」ことができます。

一方、言語研究者に必要なのは、記述主義的な
態度です。

言語は日々変化しています。
そうでなかったら、日本人は未だに、
平安時代、あるいはそれ以前の言葉遣いを
ずっと死守しなければなりません。
サピアは、言語変化の原動力をdrift(駆流)と呼び、
クルマスは、言語変化は、選択肢の変化と
選択の変化だと言っています。

言語研究者は、様々な大きさの社会集団において、
(この様々な大きさの社会集団により敏感なのは
 社会言語学者的立場を理解している人ですが、)
規範とずれているとしても、
通用している「共通な何か」があったとしたら、
それを、ありのままの形で、
書き留める(=記述する)のが役目です。

ところで、言語を「固定しよう」
「変化を止めよう」という規範意識は、
国家が共通の言語を必要とするため、
生まれてきます。

そのような、国家の言語(あるいは
それに準ずるもの)とならなかった
「少数言語」には、同様の規範意識は
生まれません。

僕が以前調査していた北米の先住民語では、
少なくとも4~5個の方言がありましたが、
どれが一番「正しい方言」「標準語」
という意識は無く、それぞれの村々で、
「自分が一番正しい言葉を喋っている」
「よその村は変な訛りがある」と
言っていました。

方言差というのは、まさに、言語が
時間の流れの中で変化しているから
出て来るものです。

それら方言群の中から、
威信のある方言=標準語ができてきて、
ある意味の「収斂作用」を起こすのは、
典型的には、国家の国語となる場合です。

しかしながら、言語研究者とて、
あらゆる場面において記述主義を貫くことは
普通しません。

研究対象とする言語に関しては、
もちろん記述主義を採りますが、
それを書き留める媒体の言語
(僕の場合書記日本語・書記英語)に関しては、
大きな程度規範に縛られざるを得ません。

(書記言語において、ときに規範から外れることを
 生業としているのは、詩人、小説家、
 コピーライターなどです。)

とはいえ、口語では、ある程度、
変化する言語に付いていこうとする面もあります。

例えば「ら抜き」は、僕も口語では使ったり使わなかったりです。
しかし、口語的でない書き言葉ではできるだけ使いません。

ここに、書き言葉と話し言葉の乖離が生まれてきますが、
これは、書き言葉が変化に抗する力を持っているのに対し、
話し言葉は変化し易いという非対称性に依っています。

ことばの規範主義は、
学校教育や、マスコミによって
再強化されていますから、
それを内面化している人も
結構多いと思います。

こういう「規範主義」的考え方って、
ことばに限らず、文化や、
社会の様々な側面にも
あるものかも知れないですけどね。
いろんな事柄に関して、
ウエから押し付けられた「規範」を
知らず知らずの内に無批判に内面化してる
可能性も高いです。

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2011年2月11日 08:59に投稿されたエントリーのページです。

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