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2011年4月20日

論集 『ロシアの文化・芸術』

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今年2011年は、ソ連が崩壊して20年目にあたる。
新生ロシア20周年と日本におけるロシア文化フェスティバル5周年を記念して、長塚英雄責任編集 『ロシアの文化・芸術』(生活ジャーナル、2011年4月)という論集が刊行された。音楽、オペラ、バレエ、演劇、文学、美術、建築、ファッション、映画、工芸、写真、サーカス、言語、マスメディア、食文化など、現代ロシア文化のさまざまなジャンルについて27本の論考が並んでいる。
私も、「攪拌の後に――現代ロシアの作家たち」という文章を書かせていただいた。

2011年4月21日

オーランドー・ファイジズ 『囁きと密告』


すごい翻訳が出る。ロンドン大学教授で歴史学者の Orlando Figes オーランドー・ファイジズ(1959年生れ)による大著 『囁きと密告(上・下)』 染谷徹訳 (白水社、2011年5月)である。
この本は、「警察国家のシステムがどのようにしてソヴィエト社会全体に深く根づいたか、数百万の平凡な市民が沈黙の傍観者または協力者に仕立て上げられてテロル支配を支えたのは何故か」を解明しようとしたものだが、最大の特徴は、膨大なインタビューや資料を文字どおり縦横無尽に駆使して、スターリン時代の抑圧の様相をどこまでも「私的」な立場から捉えていることだろう。

原題は "The Whisperers, Private Life in Stalin's Russia".
ロシア語で「囁く人」を意味するふたつの語 шепчущий(ひそひそ囁く人)と шептун(密告する人)を英語の題名は一語 whisperer であらわしているが、邦題はロシア語の意を汲んで「囁き」と「密告」としたようだ。
20世紀のロシアに関わる人は必読!

2011年4月25日

『ピエリア』 外大生にすすめる本

東京外国語大学出版会発行の冊子 『pieria(ピエリア)』(2011年春号)は情報満載! 
外大の先生たちの知恵袋に詰まっている膨大な知識の一端を垣間見ることができる。図書館などで無料配布中。
この中の「外大生にすすめる本」で私があげたのは現代ロシア文学から選んだ次の3冊だが、はたして「暗くて重くて難しい」というロシア文学のイメージ(三重苦)を払拭できるか?

セルゲイ・ドヴラートフ 『かばん』 ペトロフ=守屋愛訳(成文社、2000年)。
伝説的な亡命作家ドヴラートフ(1941―1990)の繊細にしてどこか切ないユーモアに満ちた自伝的短編集。スーツケースたったひとつで出国することになった「ぼく」が、スーツケースに入っていた靴下だの、ベルトだの、ジャンパーだの、帽子だのにまつわる物語を語っていくというそのアイディアが抜群だ。


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ヴィクトル・ペレーヴィン 『チャパーエフと空虚』 三浦岳訳(群像社、2007年)。
現代ロシアで圧倒的な人気を誇る作家ペレーヴィン(1962年生れ)の代表的長編。ロシア革命後の内戦と現代の精神病院と妄想世界という重層的な小説空間を、スピード感あふれる文体に導かれるまま彷徨っていると、どれが現実でどれが夢かわからなくなる。めくるめくゲーム感覚を味わいたいという人にお誂え向き。 


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Андрей Курков. Пикник на льду. Харьков: Фолио. 2009.
ウクライナ出身の越境作家クルコフ(1961年生れ)の人気小説(邦訳のタイトルは『ペンギンの憂鬱』)。わりと平易なロシア語なので、ロシア語を勉強している人はぜひ原書でどうぞ。キエフを舞台に、主人公の分身のような憂鬱症のペンギン(ミーシャ!)を巻きこんで繰り広げられる物語はミステリアスで、不条理で、とても魅力的だ。

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2011年4月30日

『ロシア文学 名作と主人公』

新学期なので、読書ガイドを紹介しよう。
「ドストエフスキーを読んで面白かったので何か他のロシア文学作品も読んでみたい」と考えている人に参考になると思うのは、水野忠夫編 『ロシア文学 名作と主人公』 (自由国民社、2009)だ。アメリカ文学、フランス文学、イギリス文学、ドイツ文学とともにこの出版社の 「知の系譜 明快案内シリーズ」という読書ガイド・シリーズを成している。


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ほぼ執筆された順にロシア文学の「名作」が並べられ、あらすじ、主人公、作者について解説がほどこされたうえ、印象的な一文が引かれている。

プーシキン『エヴゲーニイ・オネーギン』に始まり、ゴーゴリ『死せる魂』、トゥルゲーネフ『父と子』、トルストイ『戦争と平和』、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』、ゴーリキー『どん底』、チェーホフ『桜の園』、ベールイ『ペテルブルグ』……。
ロシア革命後は、ザミャーチン『われら』、ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』、バーベリ『騎兵隊』、プラトーノフ『ジャン』、ブーニン『暗い並木道』、パステルナーク『ドクトル・ジバゴ』、ソルジェニーツィン『イワン・デニーソヴィチの一日』、イスカンデル『チェゲムのサンドロおじさん』、ブロツキー『大理石』、ソローキン『ロマン』と続く。

後半の「名作」たちの大部分を、今年度金曜4限の講義「ロシア文学概論」で取りあげる予定。
もちろん、あらすじを読んで小説を読んだ気になってはいけない。ぜひ作品そのものを手にとって一語一語味わってほしい。「神はディテールに宿る」のだから!

2011年5月 1日

『まとまるはずのない作家たちがまとまった本』

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『Книга, ради которой объединились писатели, объединить которых невозможно(まとまるはずのない作家たちがまとまった本)』(モスクワ、2009) は、ロシアの現役作家21人が短編をひとつずつ出しあったアンソロジー。
Людмила Улицкая リュドミラ・ウリツカヤ (1943年生れ)が序文を書いている。モスクワ第一ホスピスを運営している「ヴェーラ基金」のことを知ったウリツカヤは、「わが国の複雑な情勢のもとでもこうした絶望的な事業を手がけることができ、それによって混乱の中に意味と美と尊厳を形づくることができるのではないかと思った」という。治療の見込みもなくどの病院からも見放された人々に人間らしく生を締めくくってもらえるようにしようという気高い取り組みに「まとまるはずのない作家たち」が共鳴し、その結果できたのがこの短編アンソロジーなのである。収益はすべてヴェーラ基金に寄付されるという。

集まったのは第一線で活躍している作家ばかり。抜群の人気を誇るヴィクトル・ペレーヴィンとボリス・アクーニン、短編の名手タチヤーナ・トルスタヤ、語りの巧妙なエヴゲーニイ・グリシコヴェツと、いずれも私の大好きな作家たちである。イスラエル在住のジーナ・ルービナやカリスマ作家ウラジーミル・ソローキンも参加している。
ファンタジー作家マクス・フライの「クラコフの悪魔」が面白かった。

2011年5月 2日

古川哲 『繁茂する革命―1920-1930年代プラトーノフ作品における世界観―』

昨年12月、院生だった古川哲くんが、ロシア文学の分野ではたぶん初めてだと思うが、東京外国語大学で博士号(学術)を取得した。
博士論文 『繁茂する革命―1920-1930年代プラトーノフ作品における世界観―』 は、プラトーノフの主要作品5編を取りあげ、「飛翔する花粉」という美しいイメージを手がかりに自然と人間の関係を探ったオリジナリティあふれる力作だ。


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これは、古川くんではなく(!)、Андрей Платонов アンドレイ・プラトーノフ(1899ー1951)。

博士論文の要旨はここで読める。
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http://www.tufs.ac.jp/common/is/kyoumu/pg/pdf/Furukawa%20Akira.pdf

プラトーノフ作品は次の2冊が日本語になっている。
 『土台穴』 亀山郁夫訳(国書刊行会、1997)
 『プラトーノフ作品集』 原卓也訳(岩波文庫、1992)
前者はやや晦渋。
お薦めは、後者に収められている短編「ジャン」。中央アジアの砂漠を舞台に、絶滅しかけている少数民族ジャンを救い幸福にすべしという指令を受けた主人公が奔走し苦悩する献身と絶望の物語だ。
なお、古川くんはこの4月から東京外国語大学の非常勤講師として「ロシア語表現演習」を担当している。

2011年5月 5日

ジョレス・メドヴェジェフ 『チェルノブイリの遺産』

Жорес Медведев ジョレス・メドヴェジェフ(1925年生れ)の 『チェルノブイリの遺産』 吉本晋一郎訳(みすず書房、1992)を携えて福島に行ってきた。
メドヴェジェフはロシア出身の生物学者だが、1973年に反体制活動を理由にソ連を追放されてからイギリスで研究を続け、1990年チェルノブイリ原発事故を総括的に検証する本を上梓した。その翻訳がこれである。



いわきの「勿来の関」に泊まり、文学歴史館で素晴らしくセンスのよい展示に感銘を受けた後、海岸線を北上して小名浜や四倉をまわった。いまだに道路脇でひっくり返っている乗用車。家財道具が根こそぎ流されて空ろな表情をしている家々。ここに住んでいた人たちは今どうしているのかと思うと悲しみがこみあげ胸を衝かれた。
さらに北上すると、交通量はめっきり減り、「災害派遣」と書かれた何台もの装甲車に白い防護姿の人たちが乗っていて、ものものしい。

福島原発から30キロ圏というすぐ手前まで行って思いだしたのは、メドヴェジェフの本に、チェルノブイリ事故直後「何千人もの妊産婦が堕胎を希望していた」と記されていたことだ。そこで1986年5月キエフやその周辺の町から15歳以下の子供、母親、乳幼児、妊産婦を避難させる措置が取られたという。
もちろん単純な比較は控えるべきだが、現時点で私たちにとって何より大事なのはやはり、乳幼児や妊産婦を放射能汚染から守ることだろう(チェルノブイリの子供たちが甲状腺ガンでどれほど苦しんできたかを思いださなければいけない)。
事故現場に近い地域の学校における放射能汚染度の暫定基準を「年間被曝量20ミリシーベルト」に引きあげるなどというのはそれに逆行する愚行であると思われる。

ちなみに 『チェルノブイリの遺産』 の表紙カバーは、7歳の子供たちがガスマスクをつけている写真。

2011年5月 8日

ロシアの「物くさ太郎」?

19世紀ロシアの作家 Иван Гончаров イワン・ゴンチャロフ (1812-1891)が 『Обломов オブローモフ』 (上・中・下)米川正夫訳(岩波文庫)という小説を書いている。
主人公のオブローモフはものすごく怠惰な「ぐうたら」である。これを、日本の御伽草子『物くさ太郎』と比べてみると、けっこう似ているので面白い。
物くさ太郎は、最初まったく働かずに寝てばかりいて、垢やシラミだらけの汚い体をしている。オブローモフも寝てばかりで、部屋は埃まみれ、蜘蛛の巣が張っている。物くさ太郎は餅を落としても面倒なので拾わず、だれかに拾ってもらおうとする。オブローモフもハンカチを自分で取らず下僕に取らせる。それどころか幼い頃から靴下すら自分で履いたことがない。貴族だからである。じつは物くさ太郎もやんごとなき貴族であることが、物語の最後のほうで明らかになる。
また物くさ太郎は美しい女房を嫁にしようとし、オブローモフもいっときはオリガという女性との結婚を真剣に考える。その過程で物くさ太郎は詩の才能を発揮し、オブローモフもなかなか文才があってオリガに立派な手紙を書くのである(恋は人を詩人にする!)。

でも、共通しているのはこのあたりまでで、その後の物語の展開はかけ離れている。物くさ太郎は女房と一緒になるために猪突猛進(もうまったく「物くさ」とは呼べない)、ついには思いが叶って結ばれる上、帝の覚えもめでたい。物くさ太郎は、室町時代の庶民の出世願望が生みだした「夢の体現者」「シンデレラ・ボーイ」といえるかもしれない。
それに対して『オブローモフ』では、主人公の圧倒的な無気力を前にして恋愛は為す術もなく崩れてしまう。このようなオブローモフの性格を、ゴンチャロフ自身わざわざ作中で「обломовщина オブローモフ気質」と名づけている。19世紀ロシア文学に特徴的な「余計者」の典型である。

ちなみに、Никита Михалков ニキータ・ミハルコフ監督(1954年生れ)がこの小説(の一部)をもとに『Несколько дней из жизни И.И.Обломова (オブローモフの生涯より)』というチャーミングな映画を撮っている。

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2011年5月 9日

アレクサンドル・ペトロフ『春のめざめ』

Александр Петров アレクサンドル・ペトロフ(1957年生れ)は、ガラス・ペインティングによるアニメーションの巨匠である。
ペトロフ監督の作品は、うっとりするほど美しい場面とときに激しい幻想的な場面の交替が印象的で、ほとんどが文学作品にもとづいている。『雌牛』はアンドレイ・プラトーノフの同名の短編、『おかしな男の夢』はフョードル・ドストエフスキーの小説、『老人と海』はご存知アーネスト・ヘミングウェイの小説といった具合だ(2000年に『老人と海』でオスカー賞受賞)。
『ルサールカ(邦題は「水の精――マーメイド」)は、ロシアの現役作家マリーナ・ヴィシネヴェツカヤがシナリオを手がけている。


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2007 年に日本で公開された『Моя любовь(邦題は「春のめざめ」)』は、Иван Шмелев イワン・シメリョフの『История любовная(愛の物語)』を原作にして作られたアニメーションだが、シメリョフの小説では Иван Тургенев イワン・トゥルゲーネフの『Первая любовь(初恋)』に言及されているので、ペトロフ監督は両方の小説に依拠しているといえる。つまり、トゥルゲーネフ→シメリョフ→ペトロフという入れ子のような仕組みになっているのだ。


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19世紀末のロシアを舞台とし、レヴィタンやクストージエフといったロシアの画家たちの作品を想起させる場面も多いが、思春期の少年が「愛」に憧れと畏れを抱き、聖と穢れのはざまで揺れる姿は、時と場所にかかわりのない永遠のテーマであろう。一度見たら忘れられない名作である。


2011年5月13日

本橋成一 『ナージャの村』

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本橋成一(1940年生れ)監督の映画 『ナージャの村』は、チェルノブイリ原発事故によって汚染されたベラルーシのドゥヂチ村の「日常」を描いたドキュメンタリーだ。
この村は政府の定めた立ち退き区域にあたるのだが、少女ナージャの家族を含む6家族が残り昔ながらの暮らしを続けている。畑を耕し、豚や鶏を飼い、リンゴを採り、薪を割って。牧歌的にも見える美しい情景だが、観ている者はつねに目に見えぬ放射能を意識させられる。井戸水は大丈夫なのか? 森で採ったキノコの汚染は? ナージャの健康は?
福島第一原発の周囲にも「ナージャの村」が現われるのではないかという絶望感に襲われる。

それにしても、ベラルーシの自然と人々の暮らしぶりを淡々と撮ったこの作品は、声高にメッセージを掲げているわけでもないのに、なんと雄弁に語りかけてくることだろう。豊かな大地に慎ましく生きてきたこの愛すべき人々を、こんな理不尽な状況に追いやったものはいったい何なのか、と。
ナージャの家の近所に住む初老のニコライが Сергей Есенин セルゲイ・エセーニン(1895-1925)の詩を口にするのが印象的だ。

  Если крикнет рать святая:
  "Кинь ты Русь, живи в раю!"
  Я скажу: "Не надо рая,
  Дайте родину мою".

  たとえ神聖な軍勢が
  「ルーシを捨て天国に生きよ!」と叫べども
  私は言うだろう。「天国は要らぬ。
  故郷を与えたまえ」と。    

2011年5月15日

イリヤ/エミリア・カバコフ 『プロジェクト宮殿』

現実から逃避したくなるときがある。何か突拍子もないことを考えたくなることがある。
そんなときにうってつけの本がこれ。

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イリヤ/エミリア・カバコフ 『プロジェクト宮殿』 鴻野わか菜・古賀義顕訳(国書刊行会、2009)。
Илья Кабаков イリヤ・カバコフ (1933年生れ)は国際的に名の知られたコンセプチュアル・アーティストだ。ウクライナ出身で、ソ連時代は非公式芸術家として活動した。
『プロジェクト宮殿』は、「世界を変革するというアイディアを持つプロジェクトを集めた宮殿をつくる」というプロジェクトが記されている奇想天外なアーティストブック。しかも、それらのプロジェクトは旧ソ連の市井の人たちが考えついたものという「体裁」をとっている。いってみれば、メタ・プロジェクトである。

ここには、「自分を変える方法」プロジェクト(天使の翼を作って装着する)、「他人を信じてみる」プロジェクト(アパートの窓から、買い物を頼むメモとお金を入れたバスケットを垂らす)、「木々や石や動物たちとの共通言語」プロジェクト(レインコート型アンテナを着て自然が発するシグナルを認識する)、「どこでもマシン」プロジェクト(天井も壁もどこでも走れる乗り物)、「前向きや姿勢と楽天主義を照らす」プロジェクト(生命力あふれる絵を貼り付けたブースを公共の場に置く)、「プロジェクト育成箱」プロジェクト(アイディアが閃いたら、それを書き留めその紙片を土に埋めておく)等々といった破天荒な思いつきが詰まっていて、何しろ面白い! カバコフ夫妻は人間の想像力の限界に挑戦したかったのだろう。驚異のアイディア・ブックなのである。
これらのプロジェクトを模型にして、カタツムリのような形の「宮殿」に並べたインスタレーションが、ドイツのエッセンに常設されているという。一度訪れてみたいものだ。
鴻野・古賀夫妻が、カバコフ夫妻のこのユニークな作品をセンスのよいこなれた日本語に訳し、素晴らしい解題を付している。

2011年5月21日

ワシーリエフ 『ロシアン・ファッション』

Александр Васильев アレクサンドル・ワシーリエフ (1958年生れ)は、ロシアの服飾史研究家で衣装コレクター。 2009年の春、多摩美術大学の美術館で彼のコレクションによる「革命とファッション-亡命ロシア、美の血脈」 展が開かれたとき、パリでファッション・メゾンを開いた亡命ロシア人たちがいかに優雅なドレスを制作していたかを知った。これについては、彼の著書『Красота в изгнании(亡命の美)』(モスクワ、2008) 参照。

ワシーリエフのもう1冊の労作 『Русская мода - 150 лет в фотографиях(ロシアン・ファッション――写真で見る150年)』(モスクワ、2004)は、19世紀半ばから20世末にいたる150年間のロシアン・ファッションを無数の写真で追った大型写真集である。
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帝政時代の着飾った貴族、ソ連時代のお洒落な女優やモデル、現代ロシアの自由なデザイナー。
ここには、身体と「皮膚の拡張」である衣服とのさまざまな関係が提示されている。

2011年5月24日

ロックオペラ 『ユノーナとアヴォーシ』

ソ連時代ほとんど唯一だったロックオペラが 『Юнона и Авось(ユノーナとアヴォーシ)』。
1960年代の花形詩人 Андрей Вознесенский アンドレイ・ヴォズネセンスキー(1933ー2010)の作品をもとに、1981年マルク・ザハーロフの演出で上演されて以来ロシアの人たちにずっと愛されてきた。


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物語は史実にもとづいている。ロシアとアメリカの交易事業を進めていた Николай Резанов ニコライ・レザーノフ(1764-1807)が1806年スペイン領サンフランシスコに行き、総督の娘コンチータと愛しあう。でも結婚するためには、宗教上の違いからロシア皇帝とローマ法王に許可を得なければならず、レザーノフはまた航海に出るのだが、途中で悲運の死を遂げる。本当にあった国際的な悲恋の物語なのである!
「ユノーナ」と「アヴォーシ」は帆船の名前。

ふたりは別れるとき、不吉な予感を感じるのか、繰り返しこう歌う。
Я тебя никогда не увижу...  あなたとはもう二度と会えない……
Я тебя никогда не забуду...  あなたのことはけっして忘れない……

ちなみに、レザーノフとは、ロシアと日本の正式な国交樹立をめざしてアレクサンドル1世に派遣され日本にやってきた、あの全権大使である。

2011年5月26日

リュドミラ・ウリツカヤ 『嘘をつく女たち』 翻訳中

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Людмила Улицкая リュドミラ・ウリツカヤ(1943年生れ)の『Сквозная линия』 ただいま翻訳中。原題は「貫く線」というくらいの意味だが、たぶん日本語のタイトルは「嘘をつく女たち」になると思う。
6つの短編からなっているが、いずれもジェーニャというひとりの主人公を中心に話が進んでいくので、1本の線(ジェーニャ)に貫かれた「連作アンソロジー」と考えていいだろう。彼女は、お人好しで思いやりがあり、ロシア20世紀初頭「銀の時代」の詩人を博士論文のテーマにした知的な女性だ。
 
ところが、まわりに現われる女たちがじつに巧みに嘘をつくので、ジェーニャはいつも騙されてしまう。読んでいると「いるいる。こういう人!」と納得させられてしまい、なぜか嘘をつく人に対してあまり嫌な感じを抱かない。
嘘をつくというのは虚構の世界を作りあげるということである。これはまさに小説を書くことにもつながる。女たちが自分自身の人生を題材にして織りあげる虚構の世界、それは、あり得たかもしれないもうひとりの自分(悲劇の主人公、素敵な恋物語のヒロイン、才能ある詩人など)についての物語なのだろう。

2011年5月27日

エカテリーナ・ジョーゴチ 『20世紀ロシア芸術』

沼野ゼミ(4年生)の授業で読んでいるのが、Екатерина Деготь エカテリーナ・ジョーゴチ 『Русское искусство XX века(20世紀ロシア芸術)』 (М.:Тридистник. 2002) の中の「社会主義リアリズム」の章だ。


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夏の課題は、この本を参考にして具体的な社会主義リアリズムの作品にあたること。
たとえば、マクシム・ゴーリキーの長編小説 『母』(1906)、それを原作にしてフセヴォロド・プドフキン監督が制作した映画 『母』(1926)、同じタイトルのアレクサンドル・デイネカの絵画 『母』(1932)を比べてみるのも面白いかもしれない。


mother%2C%20Deineka%20aleksandr%201932.jpg デイネカ 『母』

2011年5月28日

オストロウーモワ=レーベジェワ 『自伝的回想』

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これは、ペテルブルグの画家Анна Остроумова-Лебедева アンナ・オストロウーモワ=レーベジェワ(1871-1955)が1910年に制作した木版画 「クリューコフ運河」。
彼女は『自伝的回想』で、20世紀初頭ペテルブルグの画家たちが日本の浮世絵に夢中になっていたことに触れ、彼女自身も強い関心を持っていたことを次のように書き残している。

「1900年から1903年にかけて、ペテルブルグに日本人たちが現われ、昔の日本の巨匠たちの浮世絵を売りだした。それから、マンガ(訳注:「北斎漫画」のこと)、木や象牙で作る小さな彫像ネツケも売るようになった。もちろん、これらの中で私がいちばん注目したのは浮世絵だ。浮世絵に見られる日本芸術の特徴が魅力的だと思った。現実的なものと幻想的なもの、約束事と実際のものが結びつけられ、動きの瞬間がとてつもなく軽やかに伝えられているからである」
А.П.Остроумова-Лебедева. Автобиографические записки. Ⅰ-Ⅱ тт. М.: ЗАО Центрполиграф. 2003. С.262.

つまり、この時代のロシアに「ジャポニスム」とも呼ぶべき現象が見られたということだ。ほぼ100年後の現在ふたたびロシアでは日本文化が愛されている。マンガ(マンガ違い!)、アニメ、村上春樹、日本料理。ちょっとこそばゆい感じがするけれど。

2011年5月30日

「ロシアの女」シリーズ

『日本経済新聞』に、美術の「十選」というシリーズがある。特定のテーマのもとに10作品選び、連載で紹介していく欄だ。2010年6月から7月にかけて、この欄で「ロシアの女」シリーズを担当させていただいた。その中からいくつか紹介しよう。
描かれているのは、農婦、女優、公爵夫人、画家、商人の妻、労働者とさまざま。


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Алексей Венецианов アレクセイ・ヴェネツィアーノフ(1780-1847)『Девушка с косой и граблями (Пелагея) (鎌と熊手を持つ農婦(ペラゲーヤ))』(1824、ロシア美術館)
ヴェネツィアーノフは、ロシアにおける風俗画の創始者と言われる。農村に移り住み、田園風景や農民たちの肖像を手がけた。前景に置かれた大きな手が、ペラゲーヤの勤勉さと逞しい生命力をあらわしているかのようだ。


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Михаил Врубель ミハイル・ヴルーベリ(1856-1910)『Царевна-Лебедь(白鳥の王女)』(1900、トレチャコフ美術館)
プーシキンの叙事詩『サルタン王物語』を作曲家のリムスキー=コルサコフがオペラにしたとき、ヴルーベリが美術を担当し、画家の妻でオペラ歌手のナジェージダ・ザベラが王女を演じた。ここには、白鳥が王女に変身するその瞬間が刻みこまれている。


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Валентин Серов ワレンチン・セローフ(1865-1911)『Портрет княгини О.К. Орловой(オルロワ公爵夫人の肖像)』(1911、ロシア美術館)
肖像画家として名高いセローフの最高傑作とされている絵。オルロワ夫人はペテルブルグ社交界きっての麗人と言われていたが、たいへんな気取り屋だったらしく、セローフはあまり被写体に好意的ではなかったようだ。


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Зинаида Серебрякова ジナイーダ・セレブリャコワ(1884-1967)『За туалетом. Автопортрет(身支度、自画像)』(1909、トレチャコフ美術館)
セレブリャコワが展覧会に初めて出品して一躍注目を浴びた作品。女性が被写体でしかなかった時代が終わり、ようやく描く主体として活躍できるようになった。その喜びが率直にのびのびと表現されているように感じられる。


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Борис Кустодиев ボリス・クストージエフ(1878-1927)『Купчиха за чаем(お茶を飲む商人の妻)』(1918、ロシア美術館)
あまりにも有名な絵だが、豊饒な食卓を強調しながら、遠くに「古き良きロシア」を思わせる風景を配して、一種神話的な雰囲気を醸しだしている。商人の妻の肩のラインがサモワール(ロシア式湯沸かし器)の滑らかな輪廓と呼応しているとは言えないだろうか。


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Кузьма Петров-Водкин クジマ・ペトロフ=ヴォトキン(1878-1939)『1918 год в Петрограде (Петроградская мадонна)(1918年ペトログラードで(ペトログラードのマドンナ))』(1920、トレチャコフ美術館)
革命直後、プロレタリアートとおぼしき若い母親が赤ん坊をひしと抱きしめている。母子の姿は、聖母マリアと幼いキリストを描いたイコン(聖像画)を思わせる。この絵に「ペトログラードのマドンナ」という副題がつけられているのも頷ける。

2011年6月 2日

「ミンスクの台所」で課外ゼミ

六本木にあるベラルーシ料理の店「ミンスクの台所」で課外ゼミをおこなった。
ベラルーシの食文化の特徴は何といってもジャガイモ料理の豊富なこと。レストランのオーナーであるヴィクトリアさんの話では、ジャガイモの消費量は、日本が年間24キロなのに対して、ベラルーシは300キロ以上だという。

ポルチーニ茸やトマトのピクルス、「毛皮をまとったニシン」のジャガイモサラダ、パプリカの肉詰め、ジャガイモのドラニキ、サーモンマリネのクレープ巻き、ソバの実のシチューの壺焼き、コッテージチーズ入りブリンチキ、揚げ菓子、白樺の樹液ジュース……どれも美味しかった!
ゼミを終えて、満腹の1枚がこれ。
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2011年6月 4日

ユーリイ・ロトマン 『ロシア文化講話』

沼野ゼミ(3年生)の授業で読んでいるのは、Юрий Лотман ユーリイ・ロトマン 『Беседы о русской культуре: Быт и традиции русского дворянства (XVlll - начало XlX века) (ロシア文化講話:18世紀から19世紀初頭ロシア貴族の日常と伝統)』(Санкт-Петербург: Искусство-СПБ, 1994) の中の「舞踏会」の章。


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学生は担当した箇所を翻訳し、「ロシア貴族社会の演劇性」についてプレゼンテーションをおこない、論点を提出(ここまで要レジュメ)、最後に全員でその論点について議論する。
先週の授業で出された論点は、「ロシアにはなぜ女帝が多いのか?」

2011年6月 5日

「ポスト t.A.T.u. のロシアン・ポップス」

『群像』 7月号の「私のベスト3」というコラムでロシアのポップスを3つ紹介した。題して「ポスト t.A.T.u. のロシアン・ポップス」。駄文は『群像』で読んでいただくとして、独断と偏見で選んだその3曲を、歌詞の一部とともにご紹介しよう。

① Юлия Савичева ユリヤ・サヴィチェワ "Если в сердце живет любовь (もし心に愛が生きているなら)"

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連続テレビドラマ "Не родись красивой (可愛く生まれなかったら)" の主題歌となった曲。ヒロインのカーチャはメガネをかけ歯列矯正をしているダサい女の子だが、最後には綺麗で素敵な人だと判明するという「醜いアヒルの子」みたいなドラマだ。この曲はカーチャへの応援歌になっている。

http://www.youtube.com/watch?v=jU-f4rvak1c

♪ Не смотри, не смотри ты по сторонам,
Оставайся такой как есть, оставайся сама собой.
Целый мир освещают твои глаза, если в сердце живет любовь.

♪ まわりを見ないで、見ないで、
あるがままでいいの、あなたらしくしていればいいんだから
あなたの瞳が世界中を輝かせる、もし心に愛が生きているなら


② Дима Билан ジーマ・ビラン "Все в твоих руках (すべてはきみの手に)"

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1994年よりロシアは「ユーロヴィジョン・ソング・コンテスト」に参加している。ジーマ・ビランは2008年この曲の英語ヴァージョン(タイトルは "Believe")で優勝した。ビデオクリップに登場しているのは、フィギュアスケートのエヴゲーニイ・プルシェンコとバイオリニストのエドヴィン・マルトン。

http://www.youtube.com/watch?v=ipNt0KTdoVo

♪ И сбудется однажды твоя мечта
Как бы далека не казалась она
Надо только сделать к ней первый шаг
Доказать себе, что нет
В этом мире невозможного для тебя.

♪ いつかきみの夢はきっと叶う
どれほど遠くにあるように見えても。
夢に向かって最初の1歩を踏み出し
自分自身に証明するんだ
この世に不可能なことはないって


③ Серебро セレブロー "Дыши (息をして)"

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ビデオクリップが芸術的、シュール、幻想的で何しろ素晴らしい! ロシアのフォークロアには、男たちを水の中に引き入れて溺れさせるルサールカという水の精がいるが、このクリップでは「セレブロー」の美女3人を「現代のルサールカ」に見立てているのではないかと思う。

http://www.youtube.com/watch?v=kGSjofooXnQ&playnext=1&list=PL8E43BA98B3368824

♪ Дыши со мной
Отражая тени - мы танцуем под водой
Дыши со мной
Может быть, когда-то мы увидимся с тобой.

♪ 私と一緒に息をして
影を映して、水面の下で踊りましょう
私と一緒に息をして
いつか私たち会えるかもしれない

2011年6月 7日

アレクサンドル・ゲニス 『研究 2!』

大学院の授業で読んでいるのは Александр Генис アレクサンドル・ゲニス  『Расследования: Два! (研究 2!)』 (М.:Подкова, Эксмо, 2002)。今年はヴィクトル・ペレーヴィンで修論を書く院生がいるので、この中のペレーヴィン論を選んだ。章のタイトルは "Поле чудес"。これをどう訳すか、授業でああでもない、こうでもないと議論したあげく、「奇跡が原」とすることにした(妙案!)。
ちなみに、これがゲニスの本の表紙だが、6人の顔写真のうちペレーヴィンは左下。彼はたいていサングラスをして顔を半ば隠している。
 ↓

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ゲニスが、ペレーヴィンの手法を「境界の詩学」と呼び、シュールレアリスムの画家ルネ・マグリットの方法と同じだと指摘しているのは興味深い。たしかにペレーヴィンは、夢と現実、芸術と自然、人間と虫、生きているものと死んでいるものの境界線上で戯れているし、たとえば裸婦と木目のハイブリッドを描いた『発見』(1927)では、マグリットも人間と植物の境界を探っているように思える。


magritte.jpg マグリット『発見』

2011年6月12日

ユーリイ・ガガーリン 『宇宙への道』

古川聡さんが、Союз ソユーズ(「結束、結合」を意味する)宇宙船で国際宇宙ステーションに旅立った。
今年は、1961年にソ連のユーリイ・ガガーリンがВосток ヴォストーク(「東方」を意味する)宇宙船で人類史上初めて宇宙飛行に成功してからちょうど50年目という記念すべき年にあたる。

Юрий Гагарин ユーリイ・ガガーリン (1934-1968)は、『 Дорога в космос 宇宙への道 』という著書の中で、宇宙から見た地球の姿をこう描写している。

Лучи его (Солнца) просвечивали через земную атмосферу, горизонт стал ярко-оранжевым, постепенно переходящим во все цвета радуги: к голубому, синему, фиолетовому, чёрному. Неописуемая цветовая гамма! Как на полотнах художника Николая Рериха!

「やがて地球の大気をとおして太陽の光線がもれてきた。地平線上が明るいオレンジ色に輝きはじめた。空色、青色、すみれ色、黒と移りかわる七色の虹のかぎろい。とても言葉にはつくせない色の諧調! まるでニコライ・レーリヒの絵を見るようだ!」 『宇宙への道』江川卓訳(新潮社、1961)

ここに出てくる Николай Рерих ニコライ・レーリヒ (1874-1947) とは、サンクト・ペテルブルグ出身の画家で神秘思想家、探検家。1913年に初演されたバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の『春の祭典』(作曲ストラヴィンスキー)で台本や美術を担当したアーティストでもある。チベット、ヒマラヤを訪れて描いた作品が素晴らしい。
いったいガガーリンが念頭に置いていたのは、レーリヒのどの作品だったのだろう。


Rerich%20Prevyshe%20gor.jpg 『Превыше гор (山々よりはるかに高く)』


rerih%20Gimalai%2C%201941%20iz%20serri%20Gomalai.jpg 『Гималаи (ヒマラヤ)』


Rerih%20Gimalai.%20Everest.jpg 『Еверест (エヴェレスト)』


reriha%20Gimalai.%20Golubye%20gory.jpg 『Гималаи. Голубые горы (ヒマラヤ、青い山々)』


reriha%20Kniga%20zhizni.jpg 『Книга жизни (人生の書)』


Rerich%20Gimalai.%20rozovye%20gory%201933.jpg 『Розовые горы (バラ色の山々)』


Rerih%20Jemchug%20iskanii%201924.jpg 『Жемчуг исканий (探求の真珠)』


Rerih%20Sokrovishcha%20snegov.jpg 『Сокровища снегов(雪の宝物)』


ちなみに、自分のことをユーリイ・ガガーリンの実の母だと思いこんでいる(らしい)女性を主人公にしたニーナ・サドゥールの奇想天外な短編「空のかなたの坊や」を、『新潮』 2009年6月号で翻訳・紹介した。サドゥールの天を突き地を裂く想像力がフル回転しているような作品だ。

2011年6月27日

ズヴャギンツェフ監督 『エレーナ』 でカンヌ映画祭審査員特別賞受賞!

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2011年5月カンヌ国際映画祭で、Андрей Звягинцев アンドレイ・ズヴャギンツェフ監督の新作 『 Елена エレーナ 』が審査員特別賞を受賞した! 続いて6月23日より現在、第33回モスクワ国際映画祭がおこなわれているが、ロシア・プログラムの冒頭で『エレーナ』が上映され、たいへんな評判だという。日本でも封切らないものか。

ズヴャギンツェフ監督は1964年ノヴォシビルスク生れ。2003年のヴェネチア国際映画祭で、デビュー長編 『 Возвращение 帰還 (邦題は「父、帰る」)』が金獅子賞(グランプリ)に輝いている。

『父、帰る』のテーマは「父と子」だ。
ある日突然帰ってきた父が、息子ふたりを連れて湖に浮かぶ無人島に行く。父は「神」のイメージに重ねられており、「父」に対する息子たち(兄アンドレイと弟イワン)の態度が、「神」に対する人間の二様の姿勢をあらわしている。つまり、強い父に素直に憧れる兄は信心深い純朴な人間、父を胡散臭い思いで見る弟は誇り高く懐疑的な人間をそれぞれ象徴しているのだ。

この作品には、最後まで明かされない謎がいろいろある。父が帰ってきたのは何故なのか? 無人島で意味ありげに父が掘り出したカバンの中身は何だったのか? 父が話していた電話の相手はだれなのか? 
2004年にズヴャギンツエェフ監督が来日した折、記者会見で、自作の「謎」について聞かれ、次のように答えていたのが印象に残っている。「芭蕉は弟子の曾良に、全部を言い尽くしてはいけない、想像のための空間を残しておくべきだと語ったそうではありませんか」。
見事な受け答えだった。

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2011年7月 3日

「ロシア語ソーシャルネットワーク」の提言

7月2日(土)スラヴ人文学会の大会が無事終了した。午後のパネル企画「大学と社会の狭間でロシアを見つめる」は大勢の学生、院生、OBの参加を得て想像以上の盛会になった。このパネルを聴くためにわざわざ京都から来てくれた学生がいたのも嬉しい!

報告・討論・質疑応答がおこなわれ、ロシア語を使う仕事にはどういうものがあるか、現場でロシア語を使って仕事をするとはどういうことか、ロシア関連企業に就活してどういうことを経験したかなどが具体的に示され、いずれの報告者からも人的ネットワークの重要性が指摘された。
早稲田大学の院生である江端沙織さんからは、大学の枠を越えた「ロシア語ソーシャルネットワーク」を作れないかという提言がなされた。学生・院生と社会が双方向でサービスや情報を提供しあうのが目的だ。facebookを用いて、ロシア語関連の仕事について情報を共有するとともに、学生・院生の側から翻訳や通訳を提供したり、ロシア文化講座を開催したりする。

院生たちのイニシアティヴで始まった画期的なこの試み。何らかの実を結ぶよう私も微力ながら応援したい。

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2011年7月 4日

ブラートフ 『危険』

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これは、モスクワ・コンセプチュアリズムの非公認芸術家だった Эрик Булатов エリク・ブラートフ (1933年生れ)が1973年に制作した『 Опасно 危険 』というタイトルの作品だ。一見どこか郊外ののどかな風景のように思えるが、遠近法にのっとって四方に赤字で書かれているのは、ロシア語で「危険」を意味する言葉。人々が楽しげに語らいのんびり散歩する牧歌的な情景が、この赤い文字によって「異化」され、何やらきな臭くただならぬ気配に包まれている。

福島第一原子力発電所の事故を経験しているさなかの私たちにとって、この作品は、ソ連という全体主義国家の特殊な事情を揶揄しただけのものとはどうしても思えない。これは、目に見えない放射性物質が周囲に蔓延して「危険」なのにのほほんと暮らしている私たち自身の姿ではないだろうか。
原発の危険性、高コスト、放射性廃棄物処理の絶望的な困難さがだれの目にも明らかになったという今の今、それでもまだ原発を再稼働させようというのか。

2011年7月 9日

姜信子講演会 「『空白』をつなぐ旅」

7月7日(木)七夕の夕べ、姜信子さんに東京外国語大学で講演をしていただいた。「『空白』をつなぐ旅~記憶の彼方、コトバの行方」。
ちょうど前日の6日(水)、『東京新聞』夕刊に姜さんのエッセイ「生きなおす言葉」が載った。陸前高田で水道の蛇口やネジを洗浄するボランティアをしながら観察し思索したことが綴られている。

「よみがえれ、よみがえれと念じつつ水道管を洗った。水を想い、命を想った。水とともにある命を語りなおす言葉を産み育む私たちであれと強く願った。そうしてつながりなおし、生きなおしていく私たちであれと」


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講演は、震災ボランティアにも触れつつ、旧ソ連ウズベキスタンに暮らすコリャサラム(高麗人)や、カザフスタンに暮らすチェチェンの人たちとの出会いを紹介しながら、「語りえないもの」「封じこめられた記憶」とどう向きあったらいいか、という重い問いを投げかけるものだった。一言ひとことが心に響き、さまざまな「考えるきっかけ」を与えられた素晴らしいお話だった。

2011年7月14日

『プロコフィエフ短編集』

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ロシアの作曲家 Сергей Прокофьев セルゲイ・プロコフィエフ (1891-1953)が小説を書いていた。しかもロシア革命直後の1918年日本を経由してアメリカへ渡る最中に!
それら短編と日本に滞在していたときの日記が1冊の本になっている。『プロコフィエフ短編集』サブリナ・エレオノーラ・豊田菜穂子訳(群像社、2009)だ。

中でも面白いのは短編「彷徨える塔」。パリのエッフェル塔が突然歩きだすというアイディアもユニークだが、パニックに陥る人々や大変なスピードで歩くエッフェル塔を追いかける「変人」学者のどたばた喜劇の様相といい、擬人法を突き抜けて塔が空を飛ぶ愉快な場面といい、とぼけたユーモアと魅力にあふれている。
プロコフィエフが「戦争も革命もない、花咲き匂う国」日本に滞在し、束の間とはいえ日本の文化人と交流したりコンサートを開いたりしてロシアの最先端の芸術的息吹きを伝えるとともに、こんな独創的でチャーミングな物語を書いていたとは、何か歴史の思いがけない贈り物のような気がする。

ちなみに、今年はプロコフィエフ生誕120周年にあたり,11月1日(水)18:30より紀尾井ホールにて記念音楽祭「プロコフィエフへのオマージュ」が催されるという。
詳しくはこちら。
  ↓
http://nextar.jp/page/event/1054864

2011年7月18日

栗山民也演出 『太陽に灼かれて』

2011年7月24日(日)から8月9日(火)まで天王洲・銀河劇場にて、栗山民夫演出による『太陽に灼かれて』が上演される。キャストは成宮寛貴、鹿賀丈史、水野美紀。東京公演の後、愛知、兵庫でも公演が予定されている。

これは、ロシアのНикита Михалков ニキータ・ミハルコフ監督が1994年に制作したロシア・フランス合作映画 『 Утомлённые солнцем 太陽に灼かれて 』 (カンヌ国際映画祭最高賞グランプリ受賞)のシナリオをピーター・フラナリーが脚色、舞台化したもの。ロンドンで大当たりしたという。

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物語は、1936年のモスクワ郊外を舞台に、ロシア革命の英雄だったコトフとその妻マルーシャ、マルーシャの幼なじみでНКВД(秘密警察)で働くミーチャの3人をめぐって繰り広げられる。狂気を帯びたスターリン時代の粛清という政治的背景と、恋愛と嫉妬に根ざした個人的な復讐劇とが絡みあい、終盤はとくに息をのむ展開だ。
自らコトフ大佐を演じるミハルコフと、ミーチャ役の人気俳優 Олег Меншиков オレーグ・メンシコフが、迫真の演技を競いあっている。

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さらに興味深いのは、恐怖と絶望の時代を象徴するかのような哀切を帯びたタンゴがドラマの悲劇性をいっそう際立たせていること。このタンゴは1930年代のソ連で実際に流行っていたもので、「Утомлённое солнце(疲れた太陽)」という。映画のタイトルと言葉は似ているが、意味が違う。映画のほうは逐語訳すると「Утомлённые солнцем(太陽によって疲れさせられた人々)」となる。
「太陽」が共産主義の理想をあらわしているとするなら、太陽はその圧倒的な威力で人々を疲弊させたということか。

タンゴは Ежи Петербургский イェジー・ペテルブルクスキー作曲、Иосиф Альвек ヨシフ・アリヴェク作詞で、Александр Цфасман アレクサンドル・ツファスマンのジャズ・オーケストラによって演奏された。

 Утомлённое солнце
 Нежно с морем прощалось,
 В этот час ты призналась,
 Что нет любви.

 ♪ 疲れた太陽が
 そっと海と別れた。
 そのとき君は告白した、
 愛なんてないの、と。

1937に録音されたレコードをここで聴くことができる。
 ↓ 
http://www.youtube.com/watch?v=8cTLRYTVvl8


2011年7月24日

オープンキャンパス

2011年7月23日(土) 東京外国語大学でオープンキャンパスがおこなわれ、約5000人の人が来校した。イリーナ・ダフコワ先生によるロシア語体験授業は大教室が満杯だったし、「ロシア語相談コーナー」も一日中、受験生の相談が絶えなかった。

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本学は、これまでひとつだった「外国語学部」を、このポスターにもあるとおり、「言語文化学部」と「国際社会学部」の2学部に再編成する作業を進めており、文部科学省に認められたら2012年度より実施する予定だ。
亀山郁夫学長によると、改革により「本学が中期目標に掲げる『ダブルメジャー』教育を可視化し、言語・地域のスペシャリストのみならず、人文科学と社会科学のそれぞれに通じた国際教養人と国際職業人という2タイプの『グローバル人材』育成が可能になる」(『日本経済新聞』2011年6月27日)という。
ひらたく言えば、「外国語」に加えてもうひとつ専門分野を持とうということ。その必要性はずっと以前から痛感していた。

サーカスの後で

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7月23日(日)国立ボリショイサーカス東京公演にゼミの3年生たちと行く。席の関係で、午前の公演に6人、午後の公演に8人と分かれた。
なるほど、鞭が届く13メートルのアリーナね、などとゼミのプレゼンテーションで知ったことを確認しあう。
やはりロシアのサーカスの特徴は熊の曲芸か、音楽(『カリンカ』)も衣装もロシアの伝統にのっとったもので、空中ブランコやジャグリングの現代的な演出とはひと味違っていた。

上の写真は、サーカスが終わった後、千駄ヶ谷駅近くのカフェで休んでいるところを外から写したもの。
「緊張のあまり憔悴した!」と言っていた人、回復したかな?

2011年7月25日

多文化主義

ようやく夏休み!
去年の今ごろは、スウェーデンのストックホルムで開かれたICCEES(中央・東ヨーロッパ研究協議会)第8回世界大会という大規模な学会に行き「ロシア文学と東アジア」というパネルで研究発表をしていた。これがとてつもなく「多文化」的なパネルだった。

パネリストは3人。韓国出身で東大大学院に学びアメリカ在住のキム・ヒョンヨンが「韓国映画におけるドストエフスキー的モチーフ」について(ロシア語で)、ブルガリア出身で東大大学院に学び香港の大学で教えているデンニッツァ・ガブラコワが「トルストイと魯迅」について(英語で)、日本人の私が「ピリニャークと日本の関わり」について(ロシア語で)それぞれ報告し、ロシア人で日本史を専門とするロシア人文大学のアレクサンドル・メシチェリャコフ教授がコメンテーターを務めてくださった。

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(左からキム、ガブラコワ、沼野恭子、メシチェリャコフ、司会の沼野充義)

学会の懇親会がノーベル賞のレセプションと同じ由緒ある会場でおこなわれたというのも印象的だったが、キムさんとふたりでガムラ・スタン(旧市街)やノーベル博物館を、ガブラコワさんとふたりで民俗学博物館を訪ねたのも大変楽しかった。

それにしても、スウェーデンとともにノーベル賞を運営してきたノルウェーで(平和賞の授賞式はオスロでおこなわれる)「多文化主義」に挑戦するテロ事件が起きたとはなんという不幸だろう!
神様、地震や津波や原発事故だけでは人類にとってまだ試練が足りないとでもいうのでしょうか。


2011年7月29日

不条理で魅惑的なハルムスの世界

担当している講義「ロシア文学概論」のレポートを採点中(全部で130本くらいあるだろうか)。
課題は「20-21世紀に書かれたロシア文学の作品を分析すること」である。
前期の授業で紹介したベールイ、マヤコフスキー、アフマートワ、ツヴェターエワ、パステルナーク、ザミャーチンの作品を選んだ学生もいれば、後期で扱う予定のナボコフやソルジェニーツィンの小説を「先取り」した学生もいる。

そうした中で Даниил Хармс ダニイル・ハルムス (1905-1942) について書いている人がけっこういるというのが嬉しい。何しろハルムスは、一般的な「ロシア文学」のイメージを根底から覆すほどの破天荒なアウトサイダーなのだ。

掌編をひとつ訳してみよう。

 Одна старуха от чрезмерного любопытства вывалилась из окна, упала и разбилась.
 Из окна высунулась другая старуха и стала смотреть вниз на разбившуюся, но от чрезмерного любопытства тоже вывалилась из окна, упала и разбилась.
 Потом из окна вывалилась третья старуха, потом четвертая, потом пятая.
 Когда вывалилась шестая старуха, мне надоело смотреть на них, и я пошел на Мальцевский рынок, где, говорят, одному слепому подарили вязаную шаль.

 ひとりの老婆が度外れな好奇心のため窓からころげ、落下してお陀仏となった。
 別の老婆が窓から顔を出し、お陀仏になった老婆を見おろしたが、度外れな好奇心のためやはり窓からころげ、落下してお陀仏となった。
 それから3人目の老婆が窓からころげ、それから4人目が、それから5人目がころげ落ちた。
 6人目の老婆がころげ落ちたとき、私は見ているのにうんざりし、マルツェフスキー市場に出かけることにした。市場で盲人が手編みのショールをもらったという話だからだ。

これがかの有名な「 Вываливающиеся старухи 落下する老婆たち 」(全編)である。
ハルムスの作品は、たいていこんなふうにシュールで不気味かつ不思議にキュートだ。ハルムスの醍醐味を味わいたいなら、ダニイル・ハルムス『ハルムスの世界』増本浩子・ヴァレリー・グレチュコ訳(モンキーブックス、2010)を読むといいだろう。本を開いた瞬間から目の前に不条理で魅惑的な世界が広がるはずだ。


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2011年8月 5日

アナトーリイ・キム 『リス』

カザフスタン出身の朝鮮系ロシア語作家 Анатолий Ким アナトーリイ・キム(1939年生れ)が昨年珍しくあるインタビューに出ていた。このところ新しい作品を見かけないと思っていたら、65歳になったときに(つまり2004年)「断筆宣言」をしたという。
「東洋の芸術家がよくそうするように、私も筆を折り人前に出ることもやめて完全に自由な状態になりました」とのこと。

とはいえ、もちろんキムは文学を見捨ててしまったわけではない。「人間の言葉も生きている存在だということを思い知りました。人間の生きた魂が生きた言葉と交流することこそ芸術の本質です」とも熱く語っている。これは彼自身の書いた小説、たとえば代表作『リス』によくあてはまる。
日本語に訳されている唯一の長編だ。アナトーリイ・キム 『 Белка リス 』 有賀祐子訳(群像社、2000)。

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この作品は、変身したり人に憑依したりする能力のあるリス(動物)が「愛しい人」に語りかけるという形式の「長編おとぎ話」である。語り手は、何人もの登場人物の内的世界を自由に行き来してさまざまな声を響かせ、ときに集合的な合唱となって、生と死の境をまたぎ、時空間を彷徨う。この実験的な語りが、かぎりなく叙情的でもあるというところが素晴らしい。
キムは、時空を越えて異質なものを共存させる手法を自覚的に用いており、それをバッハの音楽とのアナロジーから「ポリフォニー(多声)」と呼んでいる。「りす」の奏でる多声の調べに身を委ねていてバッハのフーガが聞こえてくるような気がするのは、だから偶然ではないのだ。

2011年8月11日

NHKのロシア語教育番組

「日本におけるロシア語教育」を考える場合、大学や一部の高校、語学学校のほかに、公共放送であるNHKの語学番組の存在も忘れるわけにはいかない。放送局が語学教育をおこなっていない国ももちろんあるわけで、それを思えば、さまざまな外国語を学ぶ機会を多くの人に提供する放送局が日本にあるというのは素晴らしいことだ。

では、NHKの外国語講座はどうあるべきだろうか?

私はこれまで、ラジオのロシア語講座を2シリーズ(2001年4月から2003年9月まで)、テレビのロシア語講座を2シリーズ担当させていただいた。テレビは、2007年4月から「ロシア語会話」のモスクワ編、2009年10月から「テレビでロシア語」のシベリア編だ。モスクワとイルクーツクのロケに同行し、優秀なスタッフと才能ある出演者に恵まれ、とても楽しく貴重な経験をさせていただいた。
でも、モスクワ編は4回も再放送され、シベリア編は現在すでに3回目の再放送。いくら予算がないからといって、これではテレビだけでロシア語の勉強を続けたいと思う人のやる気を削いでしまう。ロシアの現状や文化を伝えて学習意欲を高めるのもテレビならではの使命だと思うが、同じ映像ばかりではその効果もあまり期待できないだろう。初級の文法だから何度再放送をしてもいいということにはならない。
どんどん講師を変え新しい発想で新しい番組を作っていくべきだと思う。

「グローバリゼーション」の進む昨今、英語の意義はいくら強調してもしすぎることはないが、同時に、英語以外の外国語の重要性も高まっている。本当の国際化というのは多くの言語や文化に触れて初めて生まれるものだ、などと今さらあらためて言うまでもないだろう。
人的資源に頼らざるをえない日本の将来のためにも、NHKは外国語教育番組の予算を減らしてはならないと思う。むしろ逆に予算を増やして語学番組専任スタッフを充実させ、テレビとラジオの番組のバランスを考えたり、委員会を作って教育内容や番組構成を検討したり、大学等と連携したりしていろいろなプロジェクトを実践していくべきではないだろうか。


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2011年8月13日

賢いロバ「ワグリウス」の功績

ソ連崩壊直後の1992年、Вагриус ワグリウスという文芸出版社が設立された。
1990年に АСТ アスト、1991年に ЭКСМО エクスモという出版社が現れ、市場原理にもとづき人目を引く派手な装丁で内外の推理小説や大衆小説を次々に売りだして急成長をとげたのに対して、いわゆる純文学作品の出版に照準を定め、新しいロシア文学の育つ場を提供し続けたのがワグリウスである。規模は小さかったが、質の高さは群を抜いていた。

「ワグリウス」の名は、評論家で翻訳家の Васильев シリエフ、ジャーナリストで出版・放送・マスコミ副大臣を務めた Григорьев グリゴリエフ、編集者の Успенский ウスペンスキーという創業者3人の苗字冒頭をつないだもの。

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会社のロゴはロバのシルエットで、粘り強さと勤勉のシンボルだという。
1990年代の経済危機を乗り越え、驚異的な粘り強さで、アンドレイ・ビートフ、ワシーリイ・アクショーノフ、リュドミラ・ペトルシェフスカヤ、リュドミラ・ウリツカヤ、ヴィクトル・ペレーヴィン、エヴゲーニイ・ポポフ、エドゥアルド・リモーノフその他さまざまな作家の小説を数多く世に送り出し、文字通り孤軍奮闘でロシア文学を引っぱった。だから私は、現代ロシア文学が活気を取り戻したのは、賢いロバのおかげだと思っている。

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ワグリウスが15年間の成果として上梓したのがこの本『主要文学賞受賞者』である。 Лауреаты ведущих литературных премий/ О.Славникова, Д.Быков, А.Кабаков, М.Шишкин. М.: Вагриус, 2007.  「常連」作家4人(オリガ・スラヴニコワ、ドミートリイ・ブィコフ、アレクサンドル・カバコフ、ミハイル・シーシキン)の短編が収められたアンソロジーだが、4人ともロシアの主要な文学賞を受賞しているのである。優れた作家たちを発掘して育ててきたワグリウスの功績の大きさを端的に象徴するものではないだろうか。

そのワグリウスが2008年末から財政難に陥り、売却されることになったようだという噂があるのは残念でならない。内部分裂が原因で編集者や作家が離れていったという。
どうやらロシアでも(日本でも?)良心的な文芸出版を続けることはとても難しいらしい。

2011年8月14日

冷たいスープ、赤いスープ、白いスープ

夏バテを予防する食べ物といえば、ロシア人ならたいてい окрошка オクローシカというスープを思い浮かべるだろう。
キュウリやタマネギ、ジャガイモ、ハムなどを小さく切って混ぜあわせ、それに квас クワスというライ麦を発酵させた微炭酸飲料をかけるだけで出来上がり。普段クワスは冷たく冷やしてそのまま飲むから、日本の「麦茶」のようなものと思っていただけばいいだろう。
そう、オクローシカは火を使わずに作れる、ロシア料理の中でも「冷たいスープ」の代表だ。
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「熱いスープ」の代表には「赤いスープ」の борщ ボルシチと「白いスープ」のщи シチーがある。

ビーツの持つ鮮やかな赤紫色が特徴のスープ、それがボルシチである。もともとは18世紀末か19世紀初めからウクライナで作られていたものだが、ロシアの南部や中央部に広まった。
地域によってヴァリエーションがあるが、主な違いは肉や野菜の種類。たとえば、「キエフ風」なら牛肉でブイヨンをとってマトンを加え、「ポルタワ風」なら鶏やカモでブイヨンを作り、「モスクワ風」なら牛肉のほかにハムやソーセージを入れる。そうした差を越え、ボルシチをボルシチたらしめている不可欠な食材がビーツで、ビーツの他に共通して用いられる野菜はニンジン、キャベツ、ジャガイモ、タマネギ、トマト。ヴァリエーションを添える素材としてはインゲンマメ、リンゴ、カブ、ズッキーニなどがあげられる。

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いっぽう、シチーに用いられるのは、主に発酵させてすっぱくしたキャベツで(生のキャベツを加えてもよい)、独特の酸味はここから出る。野菜やキノコを冬の保存食として漬け物にしておくのは、昔ながらのロシア人の知恵だ。基本的にシチーは、保存用に作っておいたキャベツの漬け物を、肉やキノコで作ったブイヨンに入れてことこと煮込めばいい。食卓で сметана スメタナと呼ばれるサワークリームをたっぷりかけてシチーを「白く」する。
この簡単な調理法、毎日食べても飽きのこない素朴な味わい、すっぱいものは体にいいという庶民の信念――これらがあいまって、シチーは長くロシアの国民的なスープとして不動の地位を占めてきたのである。


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ちょっと宣伝させていただくと。
こうしたロシアのさまざまな料理がロシア文学の作品の中でどのように描かれ、どのような役割を担っているかということを、拙著『ロシア文学の食卓』(NHK出版、2009)で紹介している。
工夫したのは、目次をロシア料理レストランで出されるようなメニュー仕立てにしたところ。
ロシア料理とロシア文学を二重に味わいたいという方、そもそもロシア文学にグルメ小説なんてあったっけという方、『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフが何を食べていたのか知りたいという方、よかったら手に取ってみてください。

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【はじめに】
ペリメニ・スープ суп с пельменями 谷崎純一郎『細雪』
【前菜】
ピロシキ пирожки ゴーゴリ『死せる魂』
ブリヌィ блины チェーホフ『おろかなフランス人』
牡蠣 устрицы レフ・トルストイ『アンナ・カレーニナ』
【スープ】
シチー щи ドストエフスキー『罪と罰』
ボルシチ борщ イリフ&ペトロフ『十二の椅子』
ボトヴィーニヤ ботвинья ブーニン『日射病』
【メイン料理】
ハクチョウの丸焼き лебедь アレクセイ・К・トルストイ『セレブリャヌィ公』
シャシルィク шашлык ギリャロフスキー『帝政末期のモスクワ』
カワカマス щука バーベリ『オデッサ物語』
チョウザメとキャビア белуга и икра ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』
【サイドディッシュ】
ピローク пирог ゴンチャロフ『オブローモフ』
ソーセージ колбаса オレーシャ『羨望』
ジャガイモ картошка ソルジェニーツィン『マトリョーナの家』
カーシャ каша トルスタヤ『鳥に会ったとき』
【デザート】
ワレーニエ варенье アクサーコフ『家族の記録』
プリャーニク пряник シメリョフ『神の一年』
コンポート компот ウリツカヤ『ソーネチカ』
【飲み物】
クワス квас プーシキン『エヴゲーニイ・オネーギン』
ワイン вино レールモントフ『現代の英雄』
紅茶 чай トゥルゲーネフ『猟人日記』


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ロシア料理を作ってみたいという方はこちらをどうぞ。
料理研究家・荻野恭子さんのレシピは、本当に家庭で美味しく、しかも簡単に作れるよう工夫してある。
荻野恭子(料理)、沼野恭子(エッセイ)『家庭で作れるロシア料理 ダーチャの菜園の恵みがいっぱい!』 (河出書房新社、2006)


2011年8月17日

芸術系スポーツ

先日、『日本経済新聞』(電子版)の取材を受けた。
日本スポーツ界の芸術的な要素を重視する競技でロシアの存在感が大きくなっているという。そう言われてみると、たしかに4種目(シンクロナイズドスイイング、体操、新体操、フィギュアスケート)の日本代表チームが、こぞってロシアやウクライナ、ベラルーシなど旧ソ連圏出身のコーチを迎えている。

シンクロ: Гана Максимова ガーナ・マクシモワ
体操: Алина Козич アリーナ・コジチ
新体操: Инна Быстрова インナ・ブィストロワ 
フィギュア: Татьяна Тарасова タチヤナ・タラソワ Николай Морозов ニコライ・モロゾフ

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(タラソワ・コーチと浅田真央選手)

ソ連時代ずっと国が手厚く庇護してきたスポーツと、もともとレベルが非常に高いロシアの文化・芸術。その接点にあって「演劇性」の重んじられる競技だけに、ロシアの面目躍如といったところなのだろう。
日経の記者でこれらの競技を取材している原真子さんは、ロシア人の「美へのこだわり方がすごい」と驚いていた。たぶんロシア文化圏のコーチは1回1回の演技を芸術作品と捉え、技術的なことだけでなく「精神性」も選手たちに伝えているのではないかと思う。

日本経済新聞の記事「フィギュア、体操、シンクロ…なぜロシア流がもてるのか」はここで読める(要登録)。
 ↓
http://www.nikkei.com/sports/column/article/g=96958A88889DE1E1EBE5E4E3E0E2E3E7E2EAE0E2E3E3E2E2E2E2E2E2;p=9694E3E0E2E6E0E2E3E2EAEAE2E2

 

2011年8月23日

はらだ たけひで 『放浪の画家ニコ・ピロスマニ』

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『週刊読書人』(2011年9月2日号)に、はらだ たけひで さんの著書『放浪の画家 ニコ・ピロスマニ 永遠への憧憬、そして帰還』(冨山房イナターナショナル、2011)の書評を書かせていただいた。
Нико Пиросмани ニコ・ピロスマニ(本名はНиколай Пиросманашвили 1862-1918)は、グルジアが生んだ孤高の天才画家である。生前はあまり高い評価を得ることができず貧しかったが、何に束縛されることもなく自由に生きた。その誇り高く清廉な精神のありようが美しいと思う。

本書は、ピロスマニの魅力に取りつかれた著者がこの孤独な芸術家に捧げたオマージュといえるだろう。ピロスマニの作品を読み解く鍵をいくつも与えてくれ、図版も豊富なのでとても楽しい。読んでいるうちに、エキゾティックな情景の中に暖かさと懐かしさを感じさせる彼の作品をまた見てみたくなり、はるか遠くで営々とワインを作り続けているグルジアの人々に会いたくなる。


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2011年8月26日

『皇帝の愛したガラス』展

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目黒の東京都庭園美術館で開かれている『皇帝の愛したガラス』展に行き、サンクト・ペテルブルグのエルミタージュ美術館が所蔵する至宝の数々を堪能してきた。

ロシアでは、エリザヴェータ女帝(ピョートル大帝の娘で贅沢が大好きだったロマノフ朝第6代目の皇帝、在位1741-1762)の時代に、エングレーヴィング技法(ガラスの表面にレリーフ状に彫刻を施したりダイヤモンド針で線刻する技法)が発達。その後、エカテリーナⅡ世(ロマノフ朝第8代目の啓蒙専制君主、在位1762-1796)治世下の1977年に、女帝の側近だったポチョムキン公爵がガラス工場を貰い受けてガラス産業を拡充した。のちにこれが「帝室ガラス工場」となる。

面白いのは、「ロシアのレオナルド・ダ・ヴィンチ」ともいえる博学の天才 Михаил Ломоносов ミハイル・ロモノーソフ(1711-1765)が、ゴールド・ルビー・ガラスを発見したこと。ガラスを金の塩化物とともに溶融していったん冷やし再び加熱することで得られる鮮やかな赤が特徴の「色ガラス」である。

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ロモノーソフといえば、科学者で天文学者(金星に大気圏があることを予測したという)、絵も描けば詩も書いたうえ、ロシア語文法書を残した教育者でもある。1755年にモスクワ大学を創設したので、МГУは今でも「ロモノーソフ名称モスクワ国立大学」というのが正式な名称だ。

上にある美術展のポスター右側に写っているのは1810-1820年代に帝室ガラス工場で作られた花器だが、まさにそのゴールド・ルビー・グラスにエングレーヴィングが施されている。

ちなみに、左側の青と金の美しいガラスは、18世紀後半にやはり帝室ガラス工場で制作された栓付きデカンター。よく見ると、王冠の絵の下にМЯというロシア文字のモノグラム(組合せ文字)があるが、いったいだれのイニシャルなのだろう?

展覧会について詳しくはこちら
 ↓
http://www.teien-art-museum.ne.jp/exhibition/glass/index.html

2011年8月27日

『R25 EXTRA』 ロシア特集号

リクルート社のフリーペーパー 『R25 EXTRA』 7月28日特別号が全ページをあげてロシア特集を組み、ロシアにおける日本のサブカルチャーや寿司や日本製品の人気のほか、ロシアの資源、シベリア鉄道、料理、サーカス、宇宙開発、バーニャ(ロシア式サウナ)、アネクドート(小咄)などを紹介している。2014年のソチ冬季オリンピック、2018年のサッカー・ワールドカップ(モスクワをはじめとする13都市)を睨んでの企画だという。
「後藤謙次×福澤朗対談」では、日本には「ロシア情報」が少なすぎる、もっと「大衆レベルの文化交流」が大切だと指摘されているが、まったくそのとおりだと思う。

「ロシアがよ~くわかる本!」のページに、ミハイル・ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』、レフ・トルストイの『イワン・イリイチの死』、ロシアの絵本などが取りあげられていたのがよかった。


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2011年9月 2日

ロシアのピノッキオ

翻訳をしていたら、"пахать как папа Карло" という表現に出くわした。「(カルロ・パパのように)がむしゃらに働く」という意味で、 Алексей Николаевич Толстой アレクセイ・ニコラエヴィチ・トルストイ (1883-1945)の『Золотой ключик, или Приключения Буратино 金の鍵 あるいはブラチーノの冒険』 (1936)という童話から生まれた慣用表現だということがわかった。

アレクセイ・トルストイという作家がふたりいるため父称をつけて区別しているが、この童話を書いたのは、『アエリータ』(1924)の作者でソ連SFの創始者のひとりとも言われるアレクセイ・ニコラエヴィチ・トルストイのほう。

じつはこの『ブラチーノの冒険』、イタリアの作家カルロ・コッローディの『ピノッキオの冒険』(1883)を翻案したものである。だから「カルロ・パパ」というのは、原作者への敬意が込められているのだろう。
作中、カルロは手回しオルガンの奏者ということになっており、「しゃべる薪」を削って人形を作り、ブラチーノと名付ける。
ブラチーノは「ロシアのピノッキオ」なのだ!

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(アレクセイ・トルストイ 『金の鍵 あるいはブラチーノの冒険』 絵レオニード・ウラジミルスキー、アムフォラ社、 2010年)

ブラチーノの物語の前半は、ほぼピノッキオの物語を忠実に再現しているのだが、後半がだんだん異なってきて、最後に決定的な違いが用意されている。それは、ピノッキオが最終的には人間になるのに対して、ブラチーノは最後まで人形のままでいること。
人間になることが幸せなのか、それとも人形は人形としてそれで素晴らしいのか、難しいところだ。

ブラチーノは出版された当初から子供にも大人にも大人気だったという。
人形劇、芝居、アニメ、オペラ、バレエといろいろなジャンルに広がったが、とくに有名なのは、セルゲイ・オブラスツォフの人形劇だろう。
下は、イワン・イワノフ=ワノ監督によるアニメ(1959)。


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2011年9月 5日

ロシアのファッションデザイナーの祖

Надежда Ламанова ナジェージダ・ラマノワ (1861-1941)。ロシアのファッションデザイナーの祖ともいうべき才能ある芸術家である。
帝政時代には皇后アレクサンドラ・フョードロヴナのお抱えデザイナーでいながら、革命後もロシアにとどまり、ワフタンゴフ劇場やモスクワ芸術座で衣装を担当したり芸術映画の衣装に腕をふるったりとソ連時代も活躍を続けた。その生きざまにも、作品にも、そしてロシア文化におけるデザイナーとしてのラマノワの位置にも、興味が尽きない。

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(コンスタンチン・ソモフ 『ノーソワの肖像』 1910-1911)

この絵の被写体が身に着けているのは、革命前にラマノワがデザインしたドレスである。
ラマノワは、「女性の身体をコルセットから解放したデザイナー」として有名なフランス人ポール・ポワレと親交があった。1880年代にパリに留学したとき知り合ったのだが、ポワレのほうも1912年にロシアを訪れ旧交を温めている。

面白いことに、ロシアでは1890年代より「ジャポニスム」に似た現象が起こったが、ファッション界でも日露戦争の頃に日本の影響が見られた。それはキモノの裁ち方を取り入れることなどに現れたというが、1910年代末にデザインされた下のような作品を見ると、ポワレの影響とジャポニスムの両方が絡みあっているのではないかと思えてくる。


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革命後、亡命したロシア人はヨーロッパで服飾関係の仕事に就くことが多かった。マリヤ・パーヴロヴナ公女やユスーポフ公爵夫妻はパリで高級メゾンを開いている。ロシアのオートクチュールはパリに移ったのである。
しかし1925年に開かれたパリの万国博覧会では、そうした並みいるライバルたちと競ったあげく、ラマノワのファッションがグランプリを獲得した。

ひるがえって現代のロシアでは、これまであまり振るわなかった自国のファッション産業を盛りあげようと、年に2回「ロシア・ファッション・ウィーク」が開かれ、若手デザイナーを発掘・奨励するコンクールがおこなわれている。大御所ボリス・ザイツェフが主催するこのコンクールには「ラマノワ」の名前が冠されている。

2011年9月 8日

モスクワ国際ブックフェア潜入

モスクワに滞在している。
「モスクワ国際ブックフェア」(9月7日~9月12日)の初日にあたる今日、会場となった全ロシア展示センター(ВВЦ)の第75パビリオンを訪れ、出版社のブースを覗いてまわり、作家たちのプレゼンテーションを聞いた。21世紀の詩についてのラウンドテーブルもあった。


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ロシアにこれほどたくさんの出版社があるのかと驚嘆するほどさまざまなブースがびっしり並んでいる。通路に、ドストエフスキー・アヴェニュー、マヤコフスキー・アヴェニュー、ゴーゴリ・アヴェニューなどと文豪たちの名がつけられているのは、やはりロシアらしいと言うべきか。


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(これはチェーホフ・アヴェニュー)


そんな中で、入り口近くの最も目立つ場所に大きなブースを構え、自分のところから本を出したスター作家たちを招いて人々の注目を集めていたのが АСТ(アスト社)と ЭКСМО(エクスモ社)である。下の写真は、アスト社のスタンドで、Захар Прилепин ザハール・プリレーピン(1975年生まれ、向かって左)と Антон Уткин アントン・ウトキン(1967年生まれ、右)がプレゼンテーションをしているところ。

プリレーピンはリャザン州(スコピン地区)のイリインカ村に生まれ、ニジニ・ノヴゴロド大学卒業。「ナショナル・ボリシェヴィキ党」という非合法の政党に所属し「反体制」を標榜している。 『Санькя サニキャ』(2006)で才能が認められたが、これは作者を思わせる主人公が深く政治にコミットしているいわゆる「社会派小説」だ。
一方、ウトキンはモスクワ出身、 19世紀を舞台にしたロマン主義的歴史小説である『輪舞』(1996)で高い評価を受けた。
ふたりとも「ヤースナヤ・ポリャーナ」文学賞を受賞しており、ウトキンは1990年代、プリレーピンは2000年代を代表する作家と見なされている。


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2011年9月10日

モスクワ現代美術館

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モスクワ現代美術館を訪れた。
現在進行中のブックフェアが今年を「イタリア年」としているのに連動してか、ここ現代美術館では、イタリア現代アートの巨匠アゴスティノ・ボナルミ特別展が開かれている。キャンバスに裏側から針金で凹凸をつけて赤や白や緑一色の作品に驚くほど多彩な表情を与えている。

もうひとつの収穫は Александра Экстер アレクサンドラ・エクステル(1883-1949)の作品 『Женщина с рыбой 魚を持つ女』(1932-34) が見られたこと。原作は美術館の中だが、入り口近くにそのコピーが飾ってあった(上の写真)。
エクステルはキエフ出身のアヴャンギャルド芸術家。1910年代から1920年代前半にかけて、ロシアのアヴャンギャルド・シーンで華々しい活躍をしたのは有名だが、1924年にパリに去った後はどうしていたのかあまり知られていない。
東郷青児を思い起こさせるこの作品は、1930年代のエクステルが、抽象絵画を極めた後どこに向かおうとしていたのかを暗示しているように思えた。

モスクワ現代美術館は1999年に創設された。ロシア芸術アカデミー総裁で彫刻家の Зураб Церетели ズラブ・ツェレテリ(1934年生れ)が館長を務めている。屋外に展示されているツェレテリの作品のひとつが下。伝説の俳優で吟遊詩人ウラジーミル・ヴィソツキー(1938-1980)の彫像である。


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2011年9月12日

モスクワのシャーマン

小雨の降りつづくモスクワ、9月11日深夜10時。有名なアングラ文化スポット「オギ」に、自他ともに認める「シャーマン」の歌を聴きに行く。
シャーマンの名は Вера Сажина ヴェーラ・サージナ
1960年にモスクワ郊外で生まれ、モスクワ大学心理学部を卒業してから長く病院に勤めていたが、1980年代後半より音楽パフォーマンスや絵画展への出品を始める。2003年には 『По обе стороны невода 魚網の両側』 という詩集も出しているから、多彩な才能の持ち主である。

「天に向かって祈ることを私に教えてくれたのはアメリカ・インディアンやトゥヴァの大草原。オオカミのラジオに耳をすますことを教えてくれたのはモスクワ郊外の松林。深く瞑想的に歌うことを教えてくれたのはクリミアの海」だという。


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サージナ(写真右)は大小のアコーディオンやバラライカを使い分け、次々と歌を披露した。共演者は入れ替わり立ち代わり、サックス奏者 Сергей Летов セルゲイ・レトフ (写真左)だったり、ギタリスト、パーカッション奏者だったり。
彼女の歌声は、美しく澄んだ高音と、ユニークな発声法の野生的な(少々野卑な感じもする)低音。じつに独特の、しかしたしかな世界があり、聴いているうちに「癒し」のような感覚を覚える。
その憂愁を帯び祈りにも似た歌が、10年前の今日起こったニューヨークの同時多発テロの犠牲者や、ちょうど半年前の東北地方の震災で亡くなった方々の霊を慰めてくれることを願った。

下はサージナの新しいCD 『Подземные воды 地下水』。


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2011年9月14日

ヴィンザヴォード

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Винзавод ヴィンザヴォード=「ワイン工場」を訪れた。とはいえ、ワインを飲みに行ったわけではない。
1889年、クリミアやコーカサス産のブドウでワインを製造する工場がモスクワに設立され、ソ連時代もずっとワインを作りつづけたが、今では生まれ変わり、画廊、フォトギャラリー、ブティック、書店、カフェのあるコンテンポラリー・アートの一大拠点となっている。


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いくつか面白いギャラリーがあった。
アレクサンドラ・エクステルに師事したアヴャンギャルド Борис Аронсон ボリス・アロンソン(1900-1980) が1922年にロシアを去るまでのユダヤ劇場での活躍に注目した展覧会、「アート・クヴァルタール」の現代美術展(上の写真)、コンスタンチン・ラティシェフのコセプチュアルな個展など。
下は、ラティシェフの「現代アートってきらい」というタイトルの何とも自虐的な(?)作品。


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2011年9月16日

イリヤ・グラズノフ 『永遠のロシア』

今モスクワのプーシキン美術館では「サルバドール・ダリ展」が催されており、正面入口から建物に沿って長蛇の列ができるほどの大変な人気を博している。
そのダリ展を尻目に、向かいにあるもうひとつの美術館に行った。コバルトブルーの美しい建物。イリヤ・グラズノフ・ギャラリーである。


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Илья Глазунов イリヤ・グラズノフ (1930年生れ)は、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』を初めとする作品にイラストを描いて有名になった画家。1987年から絵画・彫刻・建築アカデミー総裁を務めている。かなり保守的な志向の持ち主で、君主制を支持していると言われる。
館内に、グラズノフがロシア1000年の歴史をすべて描きこんだという作品が展示されていて度肝を抜かれた。縦3メートル、横6メートルの巨大な作品で、『永遠のロシア』(1988)と名づけられている(下)。
磔にされたキリスト、最前列には聖者たちとともにドストエフスキー、トルストイ、ゴーゴリ、プーシキン、レールモントフらが並び、トゥルゲーネフ、マヤコフスキー、チェーホフ、チャイコフスキーなど名だたる作家や芸術家、ピョートル大帝、エカテリーナⅡ世らツァーリ、レーニン、トロツキー、スターリンといった政治家の顔が見える。クレムリン、ルブリョフのイコン『三位一体』、タトリンの「第3インターナショナル記念塔」、青銅の騎士、そして顔を覆っている(なぜか)裸体の女……
描かれているのがだれなのかを考えるのは面白いが、絵画作品としての価値はどうなのかやや疑問だ。


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この他、ロシアの資本主義的な傾向を揶揄したかなりどぎつい『わが国のデモクラシー市場』(1999)というやはり巨大な作品もあった。

2011年9月17日

ボリス・グリゴーリエフ展

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トレチヤコフ美術館でグリゴーリエフの生誕125年を記念する特別展が開かれるとテレビで報じていたので見に行く。トレチャコフの本館ではなくエンジニア館のほうだった。
Борис Григорьев ボリス・グリゴーリエフ (1886-1939)は、「芸術の世界」に所属していた画家だが、1919年に亡命。以後、ベルリン、パリを経てアメリカに渡り、肖像画家として人気を得た。
最も有名なのは、アヴャンギャルド演出家 Всеволод Мейерхольд フセヴォロド・メイエルホリド(1874-1940)を描いた 『メイエルホリドの肖像』(1915)だろう。20世紀初頭ロシア文化の絢爛たる祝祭的気分が伝わってくるような作品で、迫力があった。


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もう1点、今回の展覧会で印象に残ったのは、作曲家 Сергей Рахманинов セルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943)を描いた『ラフマニノフの肖像』(1930)である。
頭部のいびつな形、異様なほどに浮き出た血管、刻みこまれた皺。ここには対象を「美化」する意図はまったく感じられない。ラフマニノフもグリゴーリエフ同様、1917年にロシアを後にして、ついに最後まで故郷に帰ることはなかった。作曲に専念することもできず、ロシアへの郷愁を抱いたまま半ば演奏活動を強要された。画家はラフマニノフの苦悩に深く共感をおぼえていたにちがいない。


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ちなみに、1920年代にグリゴーリエフが取り組んだ大作は「Лики России ロシアの面立ち」と名づけられている。лик という言葉は лицо(顔)の古い言い方で、複数形だと「特徴」という意味がある。
グリゴーリエフは、メイエルホリド、フレーブニコフ、レーリヒ、シャリャーピン、ゴーリキーらの肖像を描くことを通してロシア文化の特徴そのものを探っていたのではなかろうか。

2011年9月19日

セルゲイ・シャルグノフ 『写真のない本』

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モスクワの「ビブリオ・グロブス」という書店に行ったら、店を挙げての「イチオシ図書」だったのがこの本。
Сергей Шаргунов セルゲイ・シャルグノフ 『Книга без фотографий 写真のない本』(アリピナ・ノンフィクション社、2011)である。

シャルグノフは1980年生れ。モスクワ大学ジャーナリスト学部の学生だった2001年 『Малыш наказан 子供は罰せられる』 という中編で、新人のための文学賞である「デビュー賞」を受賞した後、作家、評論家として活躍している。政治活動にも携わっており、2007年より野党「Справедливая Россия 公正ロシア」の幹部を務める。『Птичий грипп 鳥インフルエンザ』はロシアの若者の政治活動を描いた本だという。


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端整な顔立ち、華麗な経歴、さらに新刊が自伝的な内容とくれば話題にならないはずはない。しかし、この『写真のない本』はまったく浮ついたものではなさそうだ。日本に戻ってくる飛行機の中で拾い読みしただけだが、抑制のきいた語り口で過去のエピソードを鎖のように連ねたシャルグノフの方法には、何よりも「誠実」という言葉が似合うような気がする。係争地へ出向いた経験にもとづく「チェチェンへ、チェチェンへ!」という短編がよかった。

2001年に『新世界』誌に寄せた評論でシャルグノフは、ペレーヴィンやソローキンらの「ポストモダニズム」も大衆文学もほとんど評価せず、すでにはっきりとオーソドックスな純文学的「リアリズム」の復活を明言していた。こんなふうに。

「結局のところ、根も土壌も昔のままなのだ。土壌はリアリズム、根は人々である。
目を凝らしてみよう。華やかな色とりどりの中にリアリズムの蕾がある。リアリズムは芸術の庭におけるバラである。
私は呪文のように繰り返そう。新たなリアリズムと!」

いい意味でロシア文学の伝統を受け継ぐ「大物」作家に成長するのではないか。そんな予感がする。
今回のモスクワ出張の最大の収穫であった。

2011年9月25日

アルセーニイ・タルコフスキー詩集 『白い、白い日』

Арсений Тарковский アルセーニイ・タルコフスキー (1907-1989)の素敵な訳詩集が刊行される。前田和泉訳、鈴木理策写真 『白い、白い日』(Ecrit、2011)。


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詩人アルセーニイ・タルコフスキーは、現代ロシアの生んだ最も優れた映画監督アンドレイ・タルコフスキー(1932-1986)の父。アンドレイの映画 『鏡』や『ストーカー』や『ノスタルジア』の中では、父アルセーニイの詩がいくつか朗読されている。

本書は、じつにセンスのいい、しかも贅沢な詩集である。厳選されたロシア語作品が前田和泉さんの美しい日本語の「詩的言語」に変身し、そこに鈴木理策さんの素晴らしい写真が添えられているからだ。詩と写真の絶妙なコラボレーションによって、アルセーニイ・タルコフスキーの哀しみに満ちた抒情の本質がよく伝えられている。雨に濡れたライラックのようにしっとりとした感情に浸ることができる。
集中私がいちばん好きな「初めの頃の逢瀬」の冒頭部分を原詩とともにあげておこう。『鏡』で朗読されている作品である。

Свиданий наших каждое мгновенье
Мы праздновали, как богоявленье,
Одни на целом свете. Ты была
Смелей и легче птичьего крыла,
По лестнице, как головокруженье,
Через ступень сбегала и вела
Сквозь влажную сирень в свои владенья
С той стороны зеркального стекла.

逢瀬の一瞬一瞬を
僕らは祝福した、まるで神の顕現のように、
世界にただ二人きりで。君は
鳥の羽よりも大胆で軽やかだった、
階段を、まるでめまいのように、
一段飛ばしで駆けおり、そして導いてくれたのだ、
濡れたライラックの茂みを抜け、自らの領地へと、
鏡のガラスの向こう側の。    (前田和泉訳)

なお、来る10月8日(土)15:00より 馬喰町ART+EAT で、刊行記念イベントとして、訳者と滝本誠さんのトークショーが予定されている。詳しくはこちら。
 ↓
http://www.art-eat.com/event/?p=1591

2011年9月29日

ギャラリー「ナシチョーキンの家」

モスクワで訪ねたギャラリーのひとつ「ナシチョーキンの家」で面白い展示を見た。
ギャラリーの名の由来は、建物が、プーシキンの友人で芸術のパトロンだったパーヴェル・ナシチョーキンの屋敷だったこと。プーシキンは最後のモスクワ訪問の際、この家に滞在したという。
1994年に美術館としてオープンして以来、Михаил Шемякин ミハイル・シェミャーキン、Олег Целков オレーグ・ツェルコフ、Эрнст Неизвестный エルンスト・ネイズヴェスヌィら亡命して国際的に認められたロシア出身の現代アーティストたちの作品をいち早く精力的に紹介し「ロシアに取り戻し」てきた。

私が行ったときは、ギャラリーの創設者 Наталья Рюрикова ナターリヤ・リュリコワの「一族」の作品を集めた「Семейные Ценности 家族の価値」展が開かれていた。


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映画『罪と罰』(1969)や『赤と黒』(1976)などで美術を担当した映画美術デザイナー Петр Пашкевич ピョートル・パシケーヴィチ(1918-1996)を初めとする7人のアーティストは、ひとつの家族・親戚を成しているのに世代も作風も違い、それぞれとても個性的だった。

ピョートルの息子で画家の Андрей Пашкевич アンドレイ・パシケーヴィチ(1945-2011)は、1980年代後半のペレストロイカ期に 「Политэкология 政治エコロジー」というシリーズで一連の作品を描き、当時の社会の混乱を独自の視点から写しとった。そのうちの1枚が下。
イコンを運び去るワシが、眼下に急流を見下ろす位置で描かれている。双頭のワシが帝政ロシアの国章だったことや、槍で竜を退治する聖ゲオルギーが古来モスクワの庇護者とされてきたことを思い出せば、ワシが、どこに流れ着くかわからない川=ロシアから、聖ゲオルギーのイコンを救い出す図は、あまりにわかりやすすぎるような気もするが、象徴性、寓意性、ダイナミックな構図は興味深いと思った。他にゴルバチョフやプーチンを「人間的」に描いた作品もあるこのシリーズには、改革への期待も希求も失望も込められているという。


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ピョートルの孫にあたる画家の Анастасия Рюрикова-Саймс アナスタシヤ・リュリコワ=サイムスは1969年モスクワ生まれ。1993年から舞台美術デザイナーとしてアメリカで活躍しており、これまでに 『巨匠とマルガリータ』や『父と子』などの舞台を手がけたという。
画家としての才能もなかなかのものだ。下は『神の夢』と題する彼女の作品で、私はいたく気に入った。


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2011年10月 1日

マリアム・ペトロシャン 『ある家の出来事』

モスクワから航空便で送った本が2週間ちょっとで東京の自宅に届いた。
小包を開けると、Мариам Петросян マリアム・ペトロシャンの分厚い小説 『Дом, в котором... ある家の出来事』 (Livebook / Гаятри, 2009) が出てきた。サイン入りである。
作家のサイン本を集める趣味はとくにないのだが、モスクワ滞在中、ネットでペトロシャンのサイン会があることを知って一目本人を見てみたくなり、950 ページもある重い本を持って会場に出かけたのだった。


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そこは"Dodo" という趣味のいい小さな本屋さんで、川端康成や安部公房や三島由紀夫のロシア語訳書も棚に並んでいた。
店の奥のウナギの寝床のような狭い一角にはもう人がひしめいており、作家が現れると、びっしり両脇に人がすわるわずかな隙間に行列を作ってサイン会が始まった。

ペトロシャンは、苗字からも明らかなとおりアルメニア系で、1969年アルメニアの首都エレヴァンに生まれた。アルメニアやモスクワの映画スタジオでアニメ―ションの制作をしていたが、1991年このロシア語小説の執筆に取りかかり、10年以上の歳月をかけて完成させたという。2009年に出版されるや注目され、同年「ボリシャヤ・クニーガ(大きな本)」賞の読者特別賞を受賞した。

一種のファンタジー小説といっていいだろう。
あたかも自らの意思を有しているかのような「家」(文中でもつねに Дом と大文字で書かれる)は、障害を持つ子供たちが暮らす養護施設である。この「家」に転入してきた男の子を中心に、ニックネームで呼ばれる住人たちの生態が描かれる。「家」には「家の内側」と呼ばれるパラレルワールドがあり、そこに自由に出入りできる子がいる。子供たちはこの家を出るか留まるか、選択を迫られているのだった……。


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サイン会の後、ペトロシャンが読者からの質問に答えたが、その中で、この作品はかならずしも子供のために書いたのではないと言っていたのが印象的だった。
作者は飾り気のない小柄な女性だが、著書は分量も中身も賞の名前のとおり「ボリシャヤ・クニーガ(大きな本)」である。

この小説については岩本和久さんが、平成22年版 『文藝年鑑』 (新潮社、2010年、91ページ)でいち早く紹介している。

ついでながら、ペトロシャンは Мартирос Сарьян マルチロス・サリヤン(1880-1972)の曾孫だという! サリヤンは、どこか懐かしいような(ロシア人にとってはたぶんエキゾティックな)南国の風景、豊饒の大地、花々や果物をあふれんばかりの鮮やかな色彩で描いたアルメニアを代表する画家である。

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(サリヤン 『壁の前、暑い日』1908)


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(サリヤン 『秋の静物、熟した果物』1961)


2011年10月18日

ウラジーミル・リュバーロフの最新画集

Владимир Любаров ウラジーミル・リュバーロフは、現代ロシアの素敵なナイーヴ画家だ。
ロシアの古い木版画ルボークを思わせる「へたうま」絵と言ったらいいだろうか。ソヴィエト時代へのノスタルジーをユーモアとペーソスで異化して独特の世界を作りあげている。
下は、彼の最新の画集 Владимир Любаров. Рассказы. Картинки. М.: ГТО, 2011. の表紙だが、ここでは「画家」として絵画作品を描いているだけでなく、「作家」として自伝的な物語もたくさん載せている。


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リュバーロフの絵に出会ったのは、リュドミラ・ウリツカヤのお伽噺『Детство Сорок Девять 1949年の子供時代』がきっかけだった。彼はこの本にイラストを描いていて、それが物語と合っているような合っていないような、なんとも微妙な「距離感」を保っていたので、とても惹きつけられたのである。もちろん何よりも気に入ったのは、絵自体のユニークで神話的な雰囲気だったけれど。


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「小春日和」


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「パン」


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「魚の日」


ウラジーミル・リュバーロフは1944年モスクワ生まれ。ソヴィエト時代は本の挿絵を描いて生計を立てていた。ホフマン、ポー、レム、ゴーゴリ、ストルガツキー兄弟の本を初めとして何百冊もの本にイラストをつけたという。
1991年ペレミロヴォ村に移り住んで本格的なイーゼル絵画に取り組むと、まずベルギー、ドイツ、フランスで注目され、それからロシアでも高く評価されるようになった。

上の「魚の日」という作品をよく見ると、壁にピロスマニの絵が描きこまれているのがわかる。人魚のいる不思議な居酒屋空間とグルジアの宴の光景が何の違和感もなく融合していることからしても、リュバーロフがピロスマニの系譜に連なる画家であることは明らかである。

「私は自分が過去のモノを入念に選んでばかりいるノルタルジックな画家だとは思っていません。(私の絵には)1950-1960年代の細々したものもあれば、1930年代の石油コンロや立襟シャツや厚布長靴もあるし、1990年代初めのひどい行列やシャベルみたいな携帯もある。2000年代の男のストリップショーや女のサッカーもある。それに、人魚やうちの菜園で栽培した野菜といった『永遠に価値あるもの』もありますからね」と語る画家自身、とてもチャーミングな人のようだ。


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2011年10月19日

映画 『5頭の象と生きる女』

10月6日から13日まで山形市でおこなわれた 「山形国際ドキュメンタリー映画祭2011」 にボランティアで参加していた3年ゼミの福島里咲子さんが授業で、その模様や日本のドキュメンタリー映画の歴史を報告し、「ドキュメンタリー映画」とは何か、テレビのドキュメンタリー番組とドキュメンタリー映画はどこが違うのか等いろいろなことを考えるきっかけを提供してくれた。被写体の心情への配慮、ノンフィクション小説との類似性、、ドキュメンタリー映画の「作家性」といった問題も出された。

この映画祭は、1989年から隔年で開催されており、回を重ねるごとに注目度が上がっているという。今回、最高賞である「ロバート&フランシス・フラハティ賞」を受賞したのは、イスラエルのルーシー・シャツ、アディ・バラシュというふたりの監督による『密告者とその家族』。パレスチナとイスラエルの狭間で苦悩する家族の姿が描かれている。

私たちにとって大ニュースだったのは、バディム・イェンドレイ監督の『5頭の象と生きる女』が、インターナショナル・コンペティション部門の優秀賞と市民賞を受賞したこと。
この映画の主人公は、ウクライナ出身でドイツ在住の80歳を越える女性翻訳者だ。ドストエフスキーの長編を「象」に見立て、『罪と罰』から『カラマーゾフの兄弟』までの5大長編(=5頭の象)を「ロシア語からドイツ語に翻訳することにより凄惨な過去の悲しみと苦しみを乗り越えようとする」姿を描いたものだという。
来年日本で公開されることになっている。
 ↓
http://www.yidff.jp/2011/ic/11ic15.html

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2011年10月24日

シンポジウム「ソヴィエト崩壊20年」

10月23日(日)東京国際大学で開かれたロシア・東欧学会とJSSEES(日本スラヴ東欧学会)の合同研究大会において、JSSEES主催のシンポジウム「ソヴィエト崩壊20年――生活の変化、思想の変容」がおこなわれた。三浦清美さんの司会のもと、この20年間のロシア文化とその変化について、本田晃子さん(建築)、神岡理恵子さん(アート)、岩本和久さん(文学)による非常に興味深く刺激的な報告がなされた。情報は多岐にわたるが、それぞれの報告から1点ずつ絞ってごく一部を紹介したい。
 
建築では、既存の建物(廃墟)をほとんどそのまま利用して新しい用途に役立てる「コンヴァージョン」の優れた例がいくつかあるという。代表的な「廃墟の建築家」は Александр Бродский アレクサンドル・ブロツキー(1955年生まれ)で、彼の手がけたものとしては、古いワイン工場を新しく甦らせたギャラリー・コンプレクス「ヴィンザヴォード」や、下のカフェ「アプシュー」など。
そう言えば、9月にモスクワで「ヴィンザヴォード」と「ガラージ」を訪れたが、両方とも今や現代アートの拠点となっているようだ。1926年にメーリニコフとシューホフが建てた構成主義風のバス専用ガレージが廃墟と化していたのを、最近になってアレクセイ・ヴォロンツォフがギャラリーとして甦らせたのが「ガラージ」である。
「ブロツキーは『建てる』ということへの批評的な姿勢を貫いている」「こうした建物は一種のオブジェとして前景化されている」という本田さんの指摘が印象的だった。


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アレクサンドル・ブロツキー『カフェ・アプシュー』


美術界ではアーティストと宗教の関係が先鋭化している。ソ連崩壊後ロシア正教のステータスが変化して「抵抗すべきイデオロギー」に成り果ててしまったと考えるアーティストたちがいるということだ。Александр Косолапов アレクサンドル・コソラポフ(1943年生まれ)はニューヨークからグローバリゼーションや宗教を題材にソッツアートの作品を発信している。
下は『Икона-икра イコン=キャヴィア』(1996)という作品。タイトルのふたつの言葉(イコーナとイクラー)は、и, к, а の3文字が共通で音遊びになっている! 聖像画(イコン)の聖母子像の金枠(オクラード)にキャヴィアが盛られたフォトモンタージュ。なお、神岡さんによると、同じタイトルの作品が2009年にも作られていて、それは実物の金枠に何かで固められたキャビアが盛られたミクストメディアだそうだ。
面白いのはコソラポフの解説。「これはアンディ・ウォーホルへの注釈なんです。アメリカでは大統領から貧しい人たちまでコカコーラを飲んでいるとウォーホルは言う。でも、ロシアでは大統領はキャヴィアを食べるけれどふつうの人は食べられない。つまり消費に関するロシアのコンセプトは階層的なんですよ、というね」。コソラポフは宗教を揶揄するつもりで制作したのではなかったかもしれないが、正教会側はこの作品を「冒涜的」と見なしている。
信仰の自由と表現の自由。神岡さんは、こうした宗教をめぐるアートの問題は今後も続くだろうと予想している。


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アレクサンドル・コソラポフ『イコン=キャヴィア』


文学界では、リアリズムの復活が大きなうねりになっている。たとえば、Роман Сенчин ロマン・センチン(1971年生まれ)という作家は、2008年ネット上に発表した「新たなリアリズムは新たな世紀の潮流」と題する評論で、「今日の作家たちは伝統的な言葉、伝統的なフォルム、伝統的で永遠のテーマや問題に戻っている」と論じている。
センチンは、シベリアの中央に位置するトゥヴァ共和国の首都クズル出身。
現代のリアリズムにふさわしい主題は戦争、「ちっぽけな人間」、辺境だろうとの岩本さんの指摘が興味深かった。辺境を描いた作品として、センチンの長編 『エルトゥイシェフ家』が挙げられていた。都会の家族が農村に移り住み大変な苦労をする物語のようなので、ソヴィエト時代の「農村派」作家と比べながら読んでみよう。

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2011年10月29日

「生きたロシアの言葉」

10月28日(金) 大学の講義を終えてから銀座のヤマハホールに行き、「Живое русское слово (生きたロシアの言葉)」と題された「ロシア文化と音楽のフェスティバル」のコンサートを満喫した(主催は E.K.LINGUADAR CULTURE CENTER)。


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グリンカから、チャイコフスキー、ラフマ二ノフ、ショスタコーヴィチ、ゲディケ、現役のシチェドリンまでロシアの作曲家の作品が、 ロシアと日本の音楽家たちによって奏でられた。出演者は、ヴャチェスラフ・スタロドゥプツェフ(テノール)、インナ・ズヴェニャツカヤ(ソプラノ)、アレクセイ・トーカレフ(トランペット)、生野やよい(ソプラノ)、レオニード・グリチン(チェロ)、ユリヤ・レフ(ピアノ)、ヤロスラフ・チモフェーエフ(ピアノ)、マキ奈尾美(ピアノ・ヴォーカル)、堺裕貴(バス・バリトン)、原田絵里香(ピアノ)。

声楽とチェロとトランペットが組み合わされたプログラムはバラエティに富んでいてとても楽しかった。ホール全体に轟くズヴェニャツカヤの艶のある豊かな声に心を揺さぶられ、リムスキー=コルサコフの「熊蜂の飛行」を奇跡のような超絶技巧で演奏するグリチンのチェロに驚嘆し、伝説的なオペラ歌手フョードル・シャリャーピンはどんな声だったのだろうと勝手に想像しながら堺裕貴が歌うムソルグスキーの「蚤の歌」を聞いた。

モスクワ音楽劇場「ゲリコン・オペラ」のソリストであるスタロドゥプツェフ(下、1981年生まれ)は、プーシキン原作、チャイコフスキー作曲のオペラ『エヴゲーニイ・オネーギン』よりレンスキーの有名なアリアを熱唱。
かつて大学1年生のときロシア語学生劇団「コンツェルト」にいた私は、現早稲田大学教授の伊東一郎さんが当時院生でレンスキーを演じられこのアリアを歌われたときにピアノ伴奏をさせていただいたので、よく知っている(つもりの)曲だ。スタロドゥプツェフの透明感のある上品なアリアを聞いていたら、学生時代のあれこれが懐かしく蘇ってきた。
総じて素晴らしいコンサートだった。


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2012年6月 2日

現代ロシア映画における宗教

2011年度「指導教員が勧める優秀卒業論文」として、私のゼミから御園生みのりさんの卒論『現代ロシア映画における宗教』が東京外国語大学のHPに掲載されている。
 ↓
http://www.tufs.ac.jp/insidetufs/kyoumu/doc/yusyu23_10.pdf

ソ連崩壊後のロシア社会に「宗教復活」とも言える現象が見られ、ロシア映画に宗教のモチーフが目立つようになってきたことを踏まえ、激変する現代ロシアで映画が宗教にどのように向き合おうとしているのかを分析し、その意味するところを考察したアクチュアルな研究だ。
扱っているのは3人の映画監督の作品それぞれ2本ずつ、計6作品。

ウラジーミル・ホチネンコ(1952年生れ) 『司祭』『イスラム教』
バーヴェル・ルンギン(1949年生れ) 『ツァーリ』『島』
アンドレイ・ズヴャギンツェフ(1964年生れ) 『追放』『エレーナ』

ホチネンコ監督の『司祭』(2010)は、ロシア正教を共産主義イデオロギーに替わるものと見なす国家の後押しを受けて作られたもので、聖職者たちが高潔な人物として描かれている。『イスラム教徒』(1995)は、異教徒に対する不寛容をテーマとしており、現代ロシア社会の矛盾を象徴している。
ルンギン監督の『ツァーリ』(2009)は、イワン雷帝を主人公にすることで、信仰心が篤くても残虐でもあり得るという矛盾した人間の姿を現代に通じる問題として突きつけ、『島』(2006)は、教会という制度から逸脱した主人公に現代の「貧しき人々」の救済を見出そうとしている。
ズヴャギンツェフ監督の『追放』(2007)は、表面的には宗教を扱っているようには見えないが、「楽園追放」「神殺し」といった宗教的モチーフを象徴的に用いており、『エレーナ』(2011)は、現代ロシアの日常に潜む「黙示録」的な要素を描きだしている。

このようにホチネンコ→ルンギン→ズヴャギンツェフと進むにしたがって、宗教的モチーフが「内在化」していくところが面白い。
『島』の主人公には、自らに過酷な苦行を課すことによって神に近づき時に奇跡を起こす力を得る「聖愚者(ユロージヴイ)」の面影が感じられる。


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           ルンギン監督『島』より


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