先日、ラジオに日本語を外国語として習得した韓国人が出演していて
ちょっとアクセントのある日本語を喋っていたのですが、
家人は、その訛りを模倣して発音していました。
僕は、条件反射的に「外国人の訛りを模倣するのは差別的だから
やめなさい」と言ってしまったのですが、相手にとっては
ちょっと論理が飛躍していたように感じたかも知れません。
家人曰く「愛情を持って真似しているんだよ」と。
それでも、やっぱりダメだなあ。
韓国人ではない僕の前だったから、そういう「遊び」をしたので
あって、外国人の面前では、そのようなことはしないのかも知れません。
それであれば、「場所と状況をわきまえている」ことにはなります。
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でも、外国人の訛りの模倣とか、方言話者の訛りの模倣は
やっぱり、僕的には許容範囲を超えています。
外国語の模倣だったり、方言の模倣だったら、問題はかなり少なくなります。
でも、コミュニケーションをする当事者である場合には、
相手の発音の癖をどうこうと考えている余裕はありません。
内容を注意深く聞くことに全神経を集中させるべきです。
家人の場合は、コミュニケーションの当事者ではなかったので
そんな「余裕」もあったのでしょう。
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自分の属さない人間集団の喋り方を模倣して、それを煎じつめると
欧米にある、Ching Chang Chongになったりします。
へフェリン・サンドラ
「イジメ・ドイツ版(チン・チャン・チョーン!)」
http://half-sandra.com/column/2012/02/09/685.php
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これは、方向性は違いますが、「発音の癖の違いに敏感に反応して」
英語で返答した茂木大臣の行動は、差別的と糾弾されてのし方が無いです。
「「日本語分かっていただけましたか」茂木外務大臣の振る舞いをどう見るか」
https://news.yahoo.co.jp/byline/mochizukihiroki/20200901-00196152
政治的に正しいのは、発音の癖がちょっと違った場合でも、
それならそれで、聞くことに集中して、その内容を理解した上で、
日本語で返答するのが良かったです。
まあ、同様の「被害」には外国に出るとしょっちゅう遭遇しますけどね。
ケベック州で、フランス語で話しかけても、英語で応答が返ってくるとか。
バルセロナで、カタルーニャ語で話しかけても、カスティリア語で返答が
返ってくるとか。
その行動の背景には、「外国人は、英語の方が、スペイン語(カスティリア語)
の方がよく通じるはずだと言う思い込みがありますし、
それは、僕の場合には、どちらも正しいです。
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ロシアに行ったときに、ふとテレビのお笑い番組を見ていたら、
ロシア語人のコメディアンが、タタール人のロシア語を模倣して、
Как? [qaːq]
と言っていました。多言語国家、多言語地域では、
少数民族の訛りを模倣することが、「笑い」のタネになったり
することもあるんでしょうね。
政治的には、ギリギリか、アウトですね。
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これが、韓国系アメリカ人2世のコメディアン
マーガレット・チョーの場合だと、
彼女は、いろんな出自の人の英語の訛りを模倣するのですが、
おハコが、彼女の母親の韓国語訛りの英語で、
それは、「母親」だから、「自民族」だからと言うことで
免罪されているところがありますね。
他の出自の人の訛りの模倣もしますが、
根底に、「自民族を笑う」ことがあるので、
免罪されているところがあります。
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外国人の訛りを利用して、異民族を区別するのに役立てることは
古来からよくなされていて、シボレテ(シボレス)と呼ばれています。
ウィキペディア記事「シボレス」
https://ja.wikipedia.org/wiki/シボレス_(文化)
https://bit.ly/3JFR8tN (上の2バイト文字故にリンクに行かない場合用の短縮URL)
訛りがあると「命取り」になることも、各地の歴史上は
あったのでは無いでしょうか。
ところで英語で、「了解」の意味で「Roger」と言うのは、
日本人には発音しにくいので、シボレテ的に採用された
と言う説を聞いたことがあるのですが、
ちょっと検索しても出てこないですね。
と言うことは、ガセネタだったかも。(笑)
Rogerの語源には諸説あるようです。
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と、話が膨らみすぎました。
外国人、地方人の「訛り」が耳につくのは
自然な心理的な過程なんでしょう。
その上で、国際的、族際的な現代人としては、
訛りを超えて、内容でコミュニケーションをすることが
求められていると思われます。
ちょっとの寄り道はしょうがないですけどね。
でも、究極には内容でコミュニケーションをすることが
できないと、何事も先に進めません。