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理論言語学と言語人類学のずれ

理論言語学の雄、チョムスキアンの生成文法では、
バイオプログラミングという考え方が、
「実験等によって証明されたわけではないが」
浸透していて、一定の支持を得ている。

曰く、幼児の言語獲得の時間は非常に短い。
これは、赤ん坊の脳の中に全ての言語に対応する
ことができる可塑性をもった「普遍文法」が
事前に存在していて、それが、幼児期に
周囲の人間達から言語のシャワーを浴びることに
よって、様々なパラミターが選ばれていき
言語が獲得されると考えないと
その「超短期間の言語獲得」を説明することは
できない、と。

つまり言語は、nurtureではなくnatureである。
言い換えると、言語は、後天的に獲得されるものではなく、
先天的に(=生得的に)脳内に存在するという
考え方である。

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一方、言語人類学的立場からすると、
言語は、文化の一部である。
文化とは、natureではなくnurtureである。
文化の特質はいろいろあるが、その中には
社会的な獲得、後天的な習得、
集団的な共有、世代的な継承などがある。

例えてみると、人間がものを食べるとき、
木になっている実に口を近づけて齧って食べるという
行為には、文化的な要素は殆どないだろう。
「本能」だけですることができる。

木から、実を手でもいで食べることは、
どうだろうか?それを文化と言うのならば、
猿にも「文化的行動」があることになる。
それともこれも、「本能」だけですることが
できることであろうか。

ちょっと飛ぶが、
他方、器に容れた食物を、箸、ナイフ、フォーク、
スプーンを使って食べることは、
これは、周囲の人間を真似て、あるいは
教わって、学習しなければできることではない。
これは、後天的であるし、文化である。

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言語にnature的な部分が一切無いとは
私も言わない。

もちろん、言語を処理する「言語脳」が
備わっていなければ、言語を獲得して
使用するようになることはできない。

そうなってくると、言語獲得に関して
natureとnurtureの間の境界をどこに
置くかの理解に関して、バイオプログラミング派と、
言語人類学派の間には、大きな隔たりがあり
歩み寄りは難しいと考えられることになる。

バイオプログラミング派は、
言語の文法のかなりの部分が
natureであると主張している。
nurtureであるのは、脳内に「先天的に」
存在する「普遍文法」の上で、
パラミターを選択していくことだけである。

一方、言語人類学派の立場からすれば、
「言語を獲得して話す」という非常に
ベーシックな骨組み的レベルにおいては、
nature的である部分があるかもしれないが、
言語の殆どの部分は文化的な特質、即ち、
社会的な獲得、後天的な習得、
集団的な共有、世代的な継承
を有していると考える。

これら2つの考え方の間の溝は
非常に深く、埋めることは難しい。
また、脳をかち割って調べることもできないし、
実際にかち割ったところで、何もわからないであろう。

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2012年2月11日 13:00に投稿されたエントリーのページです。

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