北海道を中心に、アイヌ語教室が盛んらしい。
子供達を中心に、カムイ・ユーカラ等を覚えて、
それを発表する場も結構あるらしい。
そこに、我が意識の中で重なってくるのが
いわゆる旧約聖書。
(ユダヤ教徒、イスラーム教徒にとっては
旧約聖書という名称は的外れだろうが
それは、ひとまず置いておく。)
旧約聖書は、長い事口承伝承で伝えられてきて
それが難しくなったのと(どの位のタイムスパンか
わからないが)相前後して文字で書き残すことが
行われるようになって、旧約聖書の各書が
文字として固定されていった。
口承伝承の段階では、話の大筋は変わらないのだけれど
毎回毎回語り部によって朗誦されるときには、
細かい部分では、単語の入れ替えがあったり、
細かい順序の入れ替えがあったりしたのではないだろうか。
まさにそれは、20世紀末の、第一言語話者によって
朗誦されていた、アイヌ語のカムイ・ユーカラの状況である。
カムイ・ユーカラは基本、文字に書かれることは無く、
語り手によって、毎回毎回、ちょっとずつ言葉を入れ替えて
朗誦されてきた。
翻って、今のアイヌ語教室でアイヌ語を習い
カムイ・ユーカラを演じる子供達は、
文字化されたカムイ・ユーカラと、録音れた
古老の朗誦を使って覚えて、それを演じる。
そこには、言葉の自由な入れ替えは起こりにくい筈である。
文字化された旧約聖書とは、それに類似した、
文字化すなわち固定化の過程の産物なのじゃないだろうか。
<コメントへのレス>
人から人へは、伝言ゲームだし、
同じ人だって、毎回毎回言葉遣いは違ったはず。
絵本を見ずに、お母さんが子供に
桃太郎の話をしたって、
やっぱり、毎回言葉遣いは違いますからね。
文字に固定されるまえの旧約聖書は
もっともっと柔軟だったと思いますよ。
あ、印刷技術ができるまえには、
写本されてた訳ですけど、
その写本だって、ちょっとずつ変わっていったんですよね。
口承伝承が変わっていくよりは、
もっと緩やかな変化だったかも知れませんけどね。