2012年7月7日 第2回若手研究者セミナー「<サバルタニティ>の射程」の報告

掲載日 | 2012年08月22日

7月7日に行われました2012年度第2回若手研究者セミナー「サバルタニティの射程」の報告です。

テーマ:

「<サバルタニティ>の射程―インド社会における被抑圧世界の断片から」

報告者1.杉本浄(東海大学)

報告者2.鈴木真弥(中央大学)

報告者3.小西公大(東京外国語大学)

報告者4.木村真希子(明治学院大学)

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報告者1.杉本浄(東海大学)

タイトル「サバルタニティの空間:オリッサ州鉱山開発の過程と被開発者」

要旨:

本報告では近年急速な開発の進むオリッサ州丘陵部の鉱山とそれによって大きく翻弄されてきた被開発者に焦点をあてることで、サバルタニティの空間がいかなる状況のもとで歴史上形成されてきたのかを明らかにした。

報告のはじめでは、オリッサ州鉱山開発の現状と問題を概観した。1990年代以降、インドの高い経済成長に伴う旺盛な需要の下で、特にボーキサイト、クロマイト、石炭、鉄鋼石、石灰石、マンガンのオリッサ州からの採掘量が急速に伸張した。1994年から2008年までの間に、各種天然資源の総採掘量で4倍強の伸びを示した。こうした背景には州政府の積極的な外資導入による鉱山開発が進められた結果でもある。

その一方で鉱山の拡張や新たな一体開発によって生じる、立ち退き、耕作地減少、環境破壊、水質汚染といった問題が浮上し、森林破壊によるトライブの生活圏喪失に反対する運動などが現われた。例えば、アルミナの原料であるボーキサイトが埋蔵する南部のラヤガド県やカラハンディー県では近年国際資本による積極的な開発投資が行われたが、NGOなどの協力の下で根強い反対運動を展開することで、開発が困難になるケースが目立っている。

次に、こうした鉱山開発の起源と経過を知るために、特にオヌグル県にあるタルチェル炭鉱に注目しつつ、オリッサの鉱山開発史を概観した。まず、1911年から採掘がはじまったタルチェル炭鉱とその問題化の軌跡を独立以前から以後にわたって跡づけた。1990年以降は周辺の発電所だけでなく、アーンドラやタミルナードゥ州に石炭を供給するために規模が拡大化され、2006年には年5000万トンの産出量を達成している。15年前は1800万トンであったため、実に2.8倍近くになった。

むろんここでも大規模化によって、立ち退きの補償問題や耕作地および森林の減少、水質汚染、露天堀りによる粉塵拡散(大気汚染)、土壌汚染といった問題が生じている。1990年代以前よりは、被開発者の声が聞こえるようにはなったが、資源開発による利益を経済成長の要とすることに、沿岸地域の世論は支持する傾向にある。

以上、本報告では被開発者に不利益をもたらす鉱山開発自体をサバルタニティの空間形成として紹介したが、状況説明のみで、具体的な被開発者の声が拾われていないなど、方法論上の問題点を指摘されたため、今後の課題としたい。

報告者2.鈴木真弥(中央大学)

タイトル「『ポスト』ガンディー/アンベードカルの『不可触民』:『ハリジャン』と『ダリット』の交錯」

要旨:

本報告では、現代インドにおけるカーストや不可触民問題をテーマに、従来のダリット(運動)研究の視点では捉えにくい不可触民の事例としてデリーのバールミーキ(清掃カースト)の動向が検討された。報告者は、デリーで実施してきた調査(2005-11年)に依拠して、バールミーキの社会組織の歴史展開を20世紀の不可触民解放運動の思想的支柱であったM.K.ガンディーとB.R.アンベードカルの潮流に位置づけ直すことで、両指導者の影響下で揺れ動いてきたバールミーキの「サバルタン的状況」を論じた。

コメンテーターの押川氏からは、両指導者の思想の捉え方について、国民や国家概念も視野に入れることで不可触民解放思想の解釈を再吟味する必要があること、今日の「ガンディー主義者」、「アンベードカル主義者」との思想の連続性と断絶性にも注視すべきであるなどの指摘がなされた。粟屋氏からは、本報告が関係性のなかでサバルタニティを捉えようとしながらも、実際には対象集団を「サバルタン」として固定化する傾向がみられるなど建設的な意見や質問が多く提出された。

報告者3.小西公大(東京外国語大学)

タイトル「欲望は歌にのせて:タール砂漠ムスリム芸能集団にみる『語り』の可能性」

要旨:

本報告は、インド北西部に広がるタール沙漠エリアに存在するムスリム芸能集団マーンガニヤール社会を事例とし、その社会的変革に伴う芸能コンテンツの変化を「語りの可能性」という視座から分析することを目指した。マーンガニヤールに留まらず、タール沙漠エリアにもいわゆる「グローバル化」の波が訪れており、人びとの社会関係からライフスタイルまで大きな変貌を遂げている。同地の芸能集団は、旧来のパトロン―クライアント関係を基盤とした社会構造の崩壊とともに、また同地における急激な観光化現象により、儀礼的意味が捨象された「パフォーマンス」による生計手段をとり始めている。こうした状況下において、彼らの芸能の様式やコンテンツ、レパートリーにまつわる解釈や、彼らの考える「伝統性」が大きく揺らいでいる。
本報告では、この状況を明確にするために、一つの歌の形態と歌詞の変遷を詳細に明示した。この歌は、そもそも女性たちの儀礼歌だったものが、同集団の男性によって「編曲」され、さらに大ヒットしたヒンディー映画の挿入歌として全国的に知られるようになった。また、マーンガニヤール芸能の「ワールドミュージック」という名における世界的な受容は、この歌を「Rajasthan Folk Music」の最も有名な楽曲の一つとならしめた。それぞれの段階における歌詞やスタイル、歌に対する解釈は大きく異なり、様々なアクターがその記号性をめぐって競合してきた状況をみいだすことができる。
果たしてこの歌は誰のものか。その歌に込められた主題はなにか。解釈をめぐる権力関係が、その歌を歌い継いできた人びとの「語りの可能性」をいかに抑圧してきたか。本発表では、文化的コンテンツをめぐるアリーナ間のポリティクスを明らかにするとともに、そこで「声」を消されていく人びとの「サバルタニティ」にも焦点を当てた。

報告者4.木村真希子(明治学院大学)

タイトル「環境のガーディアンか、森林の破壊者か:アッサムの森林地帯における先住民族『不法居住者』を事例に」

要旨:

本報告では、アッサム州の森林(保留林)における先住民族(トライブ)の「不法居住者」を事例に、先住民族の土地権、自治権運動とエスニック紛争、そして森林減少の関係を捉えることを試みた。同時に、ボドランド運動によりボド領域自治県を獲得したボド民族内部におけるエリートと、領域自治外で政治的代表性から排除される人々のあいだの関係も考察した。

1990年代前半から半ばにかけ、ボドの民族組織が武装活動を展開した保留林地域において、多くのボドの土地なし農民が環境森林局の許可なく居住を始めた。これらの人々は、紛争終了後、特にボド領域自治県外では「不法居住者」とみなされ、森林現象の主な原因と批判されて取り締まりの対象となっている。本報告では、大規模な森林伐採には政治家や官僚、木材業者などの広範なネットワークが関与していることが多く、従って「不法居住者」のみに原因は帰せられないこと、また「不法居住者」は故郷の西部アッサムで土地がなく他県や他州で日雇い労働者、農業労働者となっていたものであり、彼/彼女らに代替地を提供しない限り、追い出しは困難であることを指摘した。

同時に、ボドランド運動は先住民族の間の土地問題が大きな原因となって始まったものであり、「不法居住者」の人々の問題を解決することも運動の大きな目的の一つであったはずだが、実際に領域自治県が発足すると自治県外の人は投票権を持たず、そのため彼/彼女らのニーズが反映されない状態である。このように、森林の「不法居住者」のボドの人たちは、政治的代表性がなく、そうした人達に「森林伐採者」としてのレッテルが貼られ、取り締まりの対象者となるという二重の意味で声が代表されていない。ボドランド領域自治県の発足とともに、先住民族の政治家や官僚など、エリートにとっては活躍の場が増える一方、土地なし層などの下層民の問題が見えにくくなっている。

各報告は、全体として権力の構図を歴史的に述べながらサバルタニティを最大限に解釈しているようなものであった。また今回の報告では、ある集団内の重層性-つまり固定性と流動性とが同時に立ち現れてくるということ-も垣間見ることができた。報告で取り上げた対象はいずれも80年代後半~90年代に変化の契機をむかえるが、これはグローバル化の浸透が、あるいはグローバルな言説がサバルタニティの空間に入り込んできたためであると思われる。多様な場所における様々な運動が個別化している傾向が見られるが、それらが個別化した先に、相互にどのようになつながり方があるのかということが見えてきづらい、という意見も出された。

Kiyoshi Sugimoto

Maya Suzuki

Kodai Konishi

Makiko Kimura

2012年度 第1回FINDAS研究会(4月15日(日))の報告

掲載日 | 2012年06月13日

4月15日(日)に行われました、2012年度第1回FINDAS研究会の報告です。

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テーマ:ダリト・フェミニズムの現在―文学の視角から

発表者1:粟屋利江(東京外国語大学)
タイトル:「グローバル状況下のダリト運動概観:ダリト文学・フェミニズム研究動向を中心に」

要旨:

本報告では、ダリト文学・フェミニズム研究動向を中心に、グローバル状況下におけるダリト運動の概観を行った。

1990年代以降、ダリト運動に新たな展開が見られることが指摘された。第1は、運動・言説のグローバル化であり、2001年のダーバン会議におけるダリトの活動や、National Campaign on Dalit Human Rights, International Dalit Solidarity Networkなどの組織化が典型である。こうした中でダリトの権利主張は国際人権言説に結合される。第2にグローバル資本の展開に対応するように、2002年のボーパール会議では、アメリカのアファーマティブ・アクションをモデルとした(留保reservationではなく)Diversity(多様性)というコンセプト導入が提起された。第3は、ダリト・フェミニズムの登場である。3重に疎外された存在としてのダリト女性の主張は、既存のインド・フェミニズムならびに、ダリト運動に対する異議申し立てといえる。ダリト・フェミニズムはカースト秩序とジェンダーとの不可分の関係性について、さらなる考察を要求している。

次に、ダリト文学の登場の略史がサーヴェイされ、近年のダリト文学の英語翻訳出版ラッシュについて指摘された。ダリト文学をめぐる議論のなかで、ダリト文学とは何か?ダリト文学を書くのは誰なのか?ダリト文学固有の美学とは?といったテーマが論じられてきた。留意すべき点としては、「ダリト」という語は多様であること、ダリト文学の「ダリト」が女流作家の「女流」をめぐる議論と共通すること、すなわち、無徴のものがメインストリーム文学とみなされる前提のもとで「ダリト」、「女流」文学が想定されるという、ある種の権力構造が存在すること、さらに、ダリト文学における「主体」の在り様が、「個人」であるよりも「集団」であること、地域ごとの歴史状況・政治状況・社会状況に左右されて、ダリトの主張も変わってきていることなどが指摘された。

そのほか、グローバルな舞台におけるダリト運動や、ダリト・フェミニズムにおける女性の主張において、「暴力」の問題が前景化されていること、アカデミック、あるいは出版界からの反応からは、「ダリト・インテリ」の存在感が増し、彼ら/彼女たちの発言に真正性が付与されつつあることがみてとれること、ただし、ダリト文学の英語翻訳ラッシュは、グローバル市場におけるメディアのマーケティング戦略ともかかわっているという側面もあることなどにも注意が喚起された。

1990年代以降のダリト運動の中で、「カースト」を公けの場で論ずることを「後進的」とみなしてきた状況に対して異議が唱えられつつあるともいえ、ダリト文学、ダリト・フェミニズムの動向は、インド民主主義の動態と行方を考えるときに決して無視してはならない問題であると提起された。

報告後の討論では、言論における政治的対抗関係が1990年代以降に変化したこと、新自由主義の言説のなかではカーストについて語らない傾向が強くなったこと、そしてカーストについて明示的に語ることが対抗的言説としての意味を持つようになったことが確認された。また、ダリト文学が集団的な試みとして受容されるかどうかについての、地域的な違いについても今後の議論の課題として提示された。

発表者2:石田英明
タイトル:「ヒンディー・ダリト文学と女性」

要旨:

本報告では、1990年代以降のヒンディーのダリト文学作品における女性という存在の多様な描かれ方を、具体的な作品をもとに検証していった。

そもそもヒンディー語のダリト文学というものは、古くは20世紀初頭に雑誌等にも出ている。しかしこれはほとんど例外的なものであり、低カーストの人々が書いた作品というのは1970年頃からみられはじめ、1985年頃から雑誌に発表されるようになった。それでもこれらの作品が広く認知されていたとは言い難い。ヒンディーのダリト文学の存在が公の場に出てくるようになるのは1990年頃からである。

今回は、主としてRamanika Guputaの編集した作品集(1997)とKausalya Baisantriの自伝(1999)、そしてRajat Rani Minu編の作品(2001)を取り上げた。報告では各作品を丹念にみつめ検証していったので、ヒンディーのダリト文学作品を読んでいない人にとっても大まかなイメージをつかむことができるものとなった。

たとえば、Ramanika Guputaの編集した作品集(1997)Dusri Duniya Ka Yatharthに収められている、Ratankumar SambhariyaのShartという作品の内容は以下のようである。

地主の息子がBhangiの娘を犯し、結婚間近であったその娘は破談になってしまった。地主がBhangiに和解を申し入れると、Bhangiはその条件として地主側も一晩娘を差し出すよう言った。その後地主は息子を銃殺し、自らも心臓麻痺で死んでしまう。Bhangiは、その死んだ地主を踏みつけ、地主の息子の死体に唾を吐く。

このような女性に対する暴力的描写は他の多くの作品に見られる特徴である。

討論では、ダリト女性と中間層の女性の自伝にみられる特徴の違い、アカデミアで活動するダリト女性が英語と現地語を使い分けている点、ヒンディー語出版物におけるローカル色の大きさ、左翼文学との関係などが議論された。また、ダリト女性がどのような意図のもとに書くのか、その社会的意味とインパクトはどのようなものか、そしてそれを出版する出版社の意図はどのようなところにあるのか、といった論点が提出された。

下記、クリックされますと、ご報告資料がダウンロードできます。

粟屋先生 報告資料

石田先生 報告資料

当日の研究会風景

報告される粟屋利江氏

報告される石田英明氏

2012年度 第1回FINDAS若手研究者セミナー<教育とポリティクス>(4月28日(土))の報告

掲載日 | 2012年05月23日

4月28日(土)に行われました2012年度第1回FINDAS若手研究セミナー<教育とポリティクス>の報告です。

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テーマ:
<教育とポリティクス――現代南アジアの教科書にみる言語・歴史・宗教>

報告者1.澤田彰宏(東洋大学東洋学研究所)

報告者2.須永恵美子(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)

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報告者1.澤田彰宏(東洋大学東洋学研究所)

タイトル「近年のインドの歴史教科書の記述をめぐって―2つの政権下での異なる歴史像」

要旨:

本報告では、インド人民党(BJP)連立政権下の2002‐04年にかけて起きた歴史研究・教科書介入問題を受け、この介入後に作成・出版された国立教育研究訓練評議会(NCERT)の中等教育用歴史教科書と現国民会議派連立政権成立後に新たに出版された歴史教科書の記述を比較し、その内容とそこに表れる歴史観はどのようなものであるかを検討した。

まずBJP政権時の教科書では、例えば、ヒンドゥー教文化がインダス文明期にすでに存在していたこと、中世のムスリムのインド進出についての「侵略(invasion)」という表現、カースト差別などヒンドゥー教に内在する問題には触れず、さらに印パ分離独立に関してはムスリムを元来の分離主義者と位置づけるような記述があることから、インドにおけるヒンドゥー教文化の卓越性や土着性を主張し、イスラームを外来勢力と位置づけるものであった。

会議派政権時の教科書では、インダス文明の担い手は未だ明確ではないこと、古代にもバラモン主義による差別があったこと、中世のムスリム進出はインドに新しい宗教が「出現した(appeared)」と表現し、カースト問題についてもアンベードカルらの社会運動の存在などに触れている。分離独立(パキスタン建国)は、会議派とムスリム連盟に代表される政治的駆け引きの末に選択されたとしていて、この教科書は、先の教科書のインドにおけるヒンドゥー教の無謬性やイスラームの外在性の主張とは相容れない内容であった。

歴史観については、前者の教科書では古代をヒンドゥー教の黄金時代、中世はムスリムの侵略と破壊、近代はヒンドゥーを中心とした反植民地主義運動の栄光という位置づけであるが、後者の教科書では、古代、中世、近代ともヒンドゥー教中心的に優劣をつけるような叙述ではない(ただし、近代の反植民地主義的姿勢はある)など、インド文化・コミュニティ全体への価値中立的な叙述であることがわかった。

フロアからは、本報告は教科書をテキスト分析するという研究である以上、報告者の解釈は恣意的であって、そのように判断・解釈する思考の過程を明示すべきではないか、また、新しい会議派政権の歴史教科書の叙述は、単にヒンドゥー・ナショナリズム的記述に反論しているだけではなく、世界的な歴史研究・教育の潮流を反映した結果ではないかなどの批判があった。さらに、これらの教科書を使った学校での実際の授業はどのようになされているのかも重要であり、その点については第10と12学年時の試験問題と教科書の比較をすることにより、求められる学習到達度が計れるのではないかなど、今後の研究の方向性を示す意見も出された。

報告者2.須永恵美子(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)

タイトル:「多民族国家パキスタンの歴史観と国民像:学校教育において共有される言説の事例を通して」

要旨:

 本発表では、現代のパキスタンで共有されている国民像の一旦を明らかにするため、学校教科書を取り上げ、その中でムスリム社会がどのように描かれ、評価されているのかを分析し、その特徴や通時制を明らかにした。分析対象は、初等・中等教育で使われているウルドゥー語と社会科の教科書とした。パキスタンでは学年が上がるにつれて進学率が低くなっているため、初等教育の教科書は、パキスタン国内で最も広範に共有されている本であり、かつ、彼らの思想教育に一定程度の影響を与えていると推測される。まず、パキスタンにおける教育史や教科書制度を確認した上で、イスラーム王朝史、イギリス植民地支配と独立運動、カシュミール問題とバングラデシュ独立、諸民族・諸宗教の平等の4項目に焦点を絞り、教科書の記述を整理・検討した。これによって、自らをインド人とは異なる民族と認識する(1)アラビア半島から続くムスリムとしての自覚、ガズナ朝以来イギリスの支配が及ぶまでインド亜大陸の統治者としての役割を負ってきた(2)ムガル朝の継承者としての誇り、思想家シャー・ワリーウッラーや改革主義者サイイド・アフマド・ハーン、詩人イクバールなど南アジアで生まれた(3)19世紀から続くイスラーム復興思想を重要視する歴史観が明らかになった。これら3つの歴史言説を支えるイスラームという緩い紐帯によって、国家の理念的矛盾を包括してきたことを指摘した。

下記、クリックされますと、ご報告資料がダウンロードできます。

須永さん 報告資料

澤田さん 報告資料

当日の研究会風景

報告される澤田彰宏氏

報告される須永恵美子氏

2012年1月28日 第2回FINDAS若手研究者セミナー「「伝統」と「制度化」」の報告

掲載日 | 2012年02月09日

1月28日(土) に行われました第2回若手研究者セミナーの報告です。

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「伝統」と「制度化」 ―宗教・医療・モダニティ

報告者1. 平野久仁子(上智大学アジア文化研究所共同研究所員)

タイトル: 「ヴィヴェーカーナンダとヒンドゥー教:19世紀インドのヒンドゥー教復興運動における思想と展開」

要旨:
本報告では、ヒンドゥー社会において伝統的なサンニャーシン(出家遊行者)という立場であったスワーミー・ヴィヴェーカーナンダ(1863-1902)が、近代化の影響のもと、宗教・社会改革が進む中で、また、自身の海外生活の経験をもとに、どのようにヒンドゥー教を改革しようと試みたのか、さらに、自らの宗教思想をどのようにインド社会において具現化しようとしたのか、生涯をたどりながら、その言説や実践について考察した。
まず、ブランモ協会による運動やシュリー・ラーマクリシュナの思想に触れるとともに、1893年にアメリカ・シカゴで開催された万国宗教会議でのヴィヴェーカーナンダの演説を考察した。それによれば、ヴィヴェーカーナンダは宗教としてのヒンドゥー教について述べただけでなく、インドへの援助も求めている。また、それに続いてヴィヴェーカーナンダはアメリカ・イギリスでの伝道活動においてヴェーダーンタ哲学やヨーガなどについて講演したが、そのような活動に対する反響は、インドの数々の新聞報道からも見出されることを提示した。次に、そうした海外での活動を通して、ヴィヴェーカーナンダは祖国インドを「内省と霊性の国」と顧みつつも、その再生のためには活動への強い意志や教育、奉仕活動などが必要であり、サンニャーシンがそのような活動に貢献できるという理想を持ち、具現化させていったことについて述べた。そうしたカルマ・ヨーガ実践の背景には、ヴィヴェーカーナンダの「ブッダ観」が少なからず関与している、と考えられ、ヴィヴェーカーナンダの一連の言説や行動は、個人的な魂の救済のみならず、社会的、物質的な救済にも目を向けた、新たなサンニャーシンのあり方を示したものでもあった、と考察した。
本報告に対して次のようなコメントや質問をいただいた。「ヴィヴェーカーナンダの描くブッダ像は興味深い。」「海外でインドの思想を伝え、喝さいを受けたヴィヴェーカーナンダ像と、社会問題に対する厳しい言説にはギャップがあり、それらの矛盾を指摘することも論点の一つになる。」「カーストについての言説を検討する必要がある。」「サンニャーシンのバックグラウンドはどのようなものか…」等である。また、ダルマパーラや仏教僧との接触、儀礼実践について、当時のサンニャーシンの社会的役割、キリスト教布教についてのヴィヴェーカーナンダの言説、ダヤーナンダ・サラスヴァティーらとの違い…などの問いかけもいただき、ヴィヴェーカーナンダについて色々な研究がなされている中で、今後、新たな視点を盛り込みつつ、さらに研究を進めていく上で、様々な刺激と示唆をいただいた。改めて感謝申し上げたい。

報告者2. 梅村絢美(首都大学東京人文科学研究科博士後期課程)

タイトル: 「土着医療のアーユルヴェーダ化 スリランカにおける土着医療の制度化と実践をめぐって」

要旨:
本発表は、スリランカにおける土着医療が、アーユルヴェーダに取り込まれていくことを、土着医療のアーユルヴェーダ化であるとして議論した。土着医療のアーユルヴェーダ化は、➀法制度上、②教育内容、 ③研究者たちの言説、④実践 の四つに区分される。
スリランカでは今日、アーユルヴェーダやシッダ、ユナーニー、土着医療が伝統医療として政府主導の伝統医療保護政策のなかで制度化されている。この制度化は、その開始当初からアーユルヴェーダの医師を中心に進められてきた。本発表が対象とする土着医療は、特定の家系の内部で継承される治療実践であり、各家系により治療法や診断法、薬の処方などは大幅に異なるため、ひとつの体系化された理論や知識、治療術をもつ医療システムではない。ところが、スリランカにおける伝統医療保護政策は、その開始当初から、生物医療をひな形として近代化・再編成されたインドのアーユルヴェーダを輸入することで成立していた。このことにより、独自の知識の継承形態や治療法・倫理などをもつ土着医療が、学校教育や医師免許制度など近代的枠組みを反映した法制度にとりこまれることで、その実践においてアーユルヴェーダ化が進んでいることを指摘した。さらに、実際に行われた伝統医療保護政策は、概念的・制度的に土着医療をアーユルヴェーダの一部とすることを前提にすすめられてきた。これは、1961年のアーユルヴェーダ法における、アーユルヴェーダが他の伝統医療を含む医療体系であるとする定義に象徴的である。そして、土着医療を包含するというアーユルヴェーダの法制度上の定義が、人文社会科学の研究者によりそのまま踏襲されることで、土着医療のアーユルヴェーダ化を補強・再生産していることを指摘した。また、現地のアーユルヴェーダ学部における調査をつうじて、教育の現場においても土着医療がアーユルヴェーダ化されていることを示した。
以上の議論をつうじて、今日のスリランカにおける土着医療のアーユルヴェーダとはすなわち、統一的な知的システムを希求する近代的枠組みへの包摂であるという結論を提出した。

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梅村さんご報告資料

梅村さんご報告資料 参考文献

2011年11月23日 第6回FINDAS研究会「静かならざるマジョリティー」の報告

掲載日 | 2011年12月07日

11月23日(水・祝)に行われました、第6回FINDAS研究会「静かならざるマジョリティー」の報告です。

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「静かならざるマジョリティー
―インドにおける農民運動、非バラモン/ドラヴィダ運動、ダリト運動の展開
(Unquiet Majorities: Peasant Movement, Non-Brahmin/Dravidian Movement
and Dalit Movement in India )」

共催:
科研費補助金基盤(B) 「ポストコロニアル・インドにおける社会運動と民主主義」(代表:石坂)
NIHUプログラム「現代インド地域研究」東京外国語大学拠点

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報告者1.小嶋常喜(法政二高)

タイトル:「植民地期インドにおける農民運動の再検討―社会運動論の視点から」

報告:
本報告ではまず、マルクス、レーニン、毛沢東、中農論、モーラル・エコノミー論、日常的抵抗論といった「農民」や「農民運動」をめぐる諸理論を概観したうえで、それをうけたインドの農民運動史研究の展開を跡づけた。植民地期の農民運動を対象とする研究は、その多くが1960年代から80年代までに集中し、マルクス主義と民族主義を二つの軸として議論が行われた。その中で、第一世代の研究は実際に運動に関わった人々の記述にみられる「民族主義的マルクス主義」を受け継ぎ、植民地期の農民運動を「反帝・反封建闘争」として位置付けた。その後登場した第二世代の研究は、より厳格な階級論を適用して変革的主体としての農民諸階層の可能性を議論し、また民族主義運動については農民運動を抑制するものとして評価した。1980年代はじめに登場した初期サバルタン研究に現れる農民運動論は、民族主義運動に対する否定的な評価に加えてマルクス主義理論からも次第に撤退し、運動や集合行為を説明するうえでその内的論理を重視した。結果としてコミュナルな意識やローカルな権力関係などが複雑に絡んだ運動は、「階級」に基盤を置いた「農民運動」とは表現されなくなった。現在では農民運動の研究自体が激減している
次に社会運動論の立場から、植民地期の農民運動の再検討を試みた。これまでの農民運動研究は個別の事例研究は豊富だが、各地の運動の連関や長期的な趨勢といった点はほとんど分析されていない。社会運動論で多用されてきた分析概念をつかうと、農民諸階層をゆるやかに包摂する「キサーン農民」という名の下に、小作法改正や穏健な土地改革を掲げる「農民運動」という「フレーム」を持った社会運動の「サイクル」を、植民地期の最後の30年間に見出すことができる。この運動の「サイクル」では、まず1910年代後半から1920年代にかけて、インド各地でローカルな農民組織が設立され、また民族運動はそれらの農民組織との関係構築を模索した。ローカルな農民組織はその後政治的機会を得て州レベルの組織を立ち上げ、さらに1930年代半ばにはナショナル・センターとしての全インド農民組合を発足させる。1930年代後半に入ると各州では「州自治」の下で小作法が改正され、独立直後には第一次土地改革が実施されることで、運動は要求が徐々に実現していく「制度化」局面を迎える。いっぽうで「制度化」の恩恵をあまり受けなかった運動の一部は「急進化」していく。下級小作や農業労働者のための別個の組織の設立や、独立前後に起きたベンガルのテーバガ運動やテランガーナー農民闘争などの暴力を伴う激しい運動は、この「急進化」の一端を示すものとして理解できる。そしてこの「農民運動」のフレームを持った運動のサイクルは、制度化と急進化に伴う「農民」の分解や政府の弾圧によって1950年代には終焉を迎えたといえる。

報告者2.志賀美和子(専修大学)

タイトル:「非バラモン/ドラヴィダ運動の評価をめぐる議論の整理」

報告:
1990年代以降、旧「不可触民」への暴力増加とそれへの旧「不可触民」の合法・非合法的抵抗を契機として、非バラモン/ドラヴィダ運動の意義を問い直す動きが活発化している。19世紀末に起源を有する非バラモン/ドラヴィダ運動は、バラモンの政治・宗教的権威に対抗するべく、一貫して、<インド先住民であるドラヴィダ民族は、侵略民族アーリヤ人が創出したカースト制により低カーストに位置付けられ、特に最後まで抵抗した者が「不可触民」に貶められた>と主張してきた。この主張を基軸としつつ、同運動は、文化運動、政治運動、社会宗教改革運動など多様な活動プログラムを実施してきた。しかし今、その実質的成果について、「不可触民」が異議を唱え始めている。
非バラモン/ドラヴィダ運動が最初に学術的関心を集めたのは、同運動の流れを汲むドラヴィダ進歩連盟(以下DMK)が1960年代に州政権を獲得するに至ったことを契機とする。この時期に著わされた一連の研究は、近代(国民)国家形成過程におけるドラヴィダ運動の意義を検討し、その地域/言語ナショナリズムとしての側面を評価する一方、反カースト、反宗教などの社会改革的側面は軽視する傾向にあった(Hardgrave Jr. 1965, Barnett 1976)。運動の起源を追究したケンブリッジ学派は、派閥理論に立ち、非バラモン運動の興隆および正義党と会議派の対立を純粋な利害対立に還元し、思想の役割を否定し、正義党が推進した社会改革運動も「権力闘争の副産物」と断定した(Baker and Washbrook 1975, Baker 1976, Washbrook 1975)。
以上の研究が欧米の研究者によるものであったのに対し、1980年ごろから次第に、インド人自身による、運動の歴史的変遷をその背景を含めて丹念に追い評価しようとする一連の研究が現れた(Arooran 1980, Mangalamurgesan 1979)。ただし、それらはいずれも、非バラモン/ドラヴィダ運動の多様性に注意を喚起しつつも、その多面性を経年的な変化として把握していた。
1990年代に入り、「不可触民」に関連する暴力が顕在化すると、社会改革運動としての非バラモン運動を再検討する動きが生じる。Geetha & Rajadurai(1998)は、「不可触民」解放運動の主要人物の一人として、非バラモン運動の一潮流である自尊運動指導者であるE.V.Ramaswamiを位置づけた。Pandian(2007)は、非バラモン運動の思想と展開において現れる「バラモン」と「非バラモン」とは、実際のカーストではなく比喩・象徴であるとし、「非バラモン」は、劣勢化された多様なアイデンティティ(ジェンダー、職業、言語、地域)を統合し歴史的ブロックを形成する基盤になったという興味深い指摘を行った。
 以上の先行研究は、非バラモン/ドラヴィダ運動を否定的に評価するものであれ、肯定的に評価するものであれ、いずれも、運動の指導層の思想分析に力点を置き、運動の参加層、および運動の受益層にまで分析の目が及んでいない。指導者によって「非バラモン」という範疇に糾合された「静かならざるマジョリティ」の中に「沈黙を強いられ受益できないマイノリティ」が存在することは、思想分析だけでは看過されがちである。近年、Gorringe(2005)やViswanathan(2005)がダリトの立場からタミル・ナードゥの現代政治社会分析を行っているが、非バラモン/ドラヴィダ運動の歴史的影響については考察していない点が惜しまれる。なお、Anandhi の一連の論考は、ダリト女性という二重に抑圧された存在が抱える問題について述べており、非バラモン/ドラヴィダ運動からこぼれ落ちてしまった人々について重大な問題提起を行っている。
 今後の研究は、植民地期から今日まで続く非バラモン/ドラヴィダ運動の影響を、運動参加層、受益・非受益層などの複数の視野から分析評価していくことが課題となろう。

報告者3.舟橋健太(京都大学)

タイトル:「アンベードカル以降のインドにおけるダリト運動の諸潮流の概観と論点の整理」

報告:
本報告においては、アンベードカル以降のインドにおけるダリト運動の趨勢を概観し、その特徴を整理したうえで、現代インドのダリト運動が直面する課題とその展開可能性に関して検討・考察を行った。アンベードカル以降のダリト運動を考えるにあたって、特に重要と思われるのが、いずれの「名」が掲げられているか、ということであろう。「名」(すなわち旗標)とは、自己意識(アイデンティティ)であり、他者(研究者を含む)による認識であり、運動の理念・主張でもある。またこれらは、それぞれ相互にずれ、重なり、運動の展開とともに変容していくものでもある。ダリト運動の分析においては、いかなる「名」の下に運動が形成・展開され、またその「名」の内実がどのように変容していくか(運動の理念と実践)、仔細に検討する必要があろう。
 こうした観点から、本報告では、まずナーガラージ(Nagaraj, D. R., 1993, The Flaming Feet: A Study of the Dalit Movement in India, Bangalore: South Forum Press & ICRA)の提起した「文化的記憶」にまつわるダリト運動の三様態――(ⅰ)文化的記憶を消去する「プラグマティズム」、(ⅱ)歴史・過去の再興を志向する「急進的復興」、(ⅲ)既存の伝統を否定する「代替的記憶」――を検討した。この検討を踏まえたうえで、具体的に、アンベードカル、ダリト・パンサー、大衆(多数者)社会党、インド仏教徒協会を取りあげ、それぞれの運動について考察を行った。特にインド仏教徒協会に関しては、仏教への改宗行為は文化的記憶を「生きた現実」にするものであるというナーガラージの言を受けて、仏教改宗運動が代替的な文化的記憶の創造・確保につながり、これはすなわち、理念的には異なる文脈の導入/への移行であり、実践的には異なる文脈の融合・混淆として捉えられることを指摘した。

コメントでは、社会運動の前提として市民を位置づけた時に、見えなくなる点に自覚的であるべきと評された。さらに、マジョリティーの持つ不満については、具体的な部分に踏み込んでいくことが不可欠であると指摘された。今回の報告は、研究動向の調査であったため、個々の事例については今後の研究が期待される。質疑応答では、個々のテーマにおける女性参加や、社会運動の定義、社会運動の時間軸についての議論が行われた。

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石坂晋也氏 趣旨説明資料

小嶋常喜氏 ご報告配布資料

志賀美和子氏 ご報告配布資料

舟橋健太氏 ご報告配布資料

趣旨説明をされる石坂晋也氏

ご報告される小嶋常喜氏

ご報告される志賀美和子氏

ご報告される舟橋健太氏