1998年度 インターネット講座

メディア・情報・身体 ―― メディア論の射程

第7回
メディアと身体 (1)
感覚変容

(98/10/20 更新)

メディアと人間の接続――身体論

 電子的・デジタル的な技術メディアは、一方では0と1による完全な離散性、他方では直接的な感覚性という両極のあいだを動いていることを前回取り上げました。0と1の世界はデジタル的な技術メディアの本質ですが、それが(線的・面的・空間的・時空的)感覚性を備えるものとなっているのは、いうまでもなく、機械(技術メディア)と接続するわれわれ人間の身体にとって知覚・認識可能なものとなるためです。メディアとは、文字通り、ある人間とある人間とのあいだを「媒介」するものとして、それ自体、人間のあいだの界面を形成するものですが、まずそれ以前に、人間と機械とのあいだにこの二つの異なる世界が接する界面が存在します。この接続の界面がすなわち、いわゆる「インターフェース」です。コンピュータにおけるインターフェースについては、また後ほど取り上げることにしたいと思いますが、いずれにせよメディアを考えるためには、人間の身体性との連関について語ることを抜きにするわけにはいきません。その意味で、メディア論の文脈においてしばしば、いわゆる「身体論」が問題となってきます。[註1] とはいえ、メディアと人間との接続というのは、たとえばテレビ・電話・コンピュータといった技術メディアにおいてのみ問題となるわけではありません。確かに、「メディア」とは現代のわれわれにとってまず電気的/電子的メディアを指すものではありますが、その特性を考えるために、われわれはこれまで音声メディア、文字メディアそして電気的・電子的な技術メディアという展開を追ってきました。メディア論における身体性の問題は、一般に技術メディアとの関係で語られていることが圧倒的に多いのですが、ここでは、これまで取り上げてきたすべてのメディア段階においてメディアと人間との接続が問題となることを見ていきたいと思います。

電話・テレビ・コンピュータにおける感覚の変容

といいながらも、その前に、メディアの問題と身体の問題がどのように関わってくるのか具体的なイメージを得るために、まず、われわれにとって非常に身近な電気/電子メディアを例にとって話をしてみたいと思います。大澤真幸は『電子メディア論 身体のメディア的変容』の中で、電話をかけている人が経験するある種の感覚の変容について興味深い考察を行っています。電話は本来、離れた場所にいる人に対して、あるいはその人から、ある用件・情報を伝えたり、受け取ったりするという実用的な目的のために使用されるものです。しかし、電話は、そういった内容伝達の手段という道具的な使用、つまり内容そのものが目的となって使用されるだけではなく、しばしば、会話の内容自体はほとんどどうでもよく、電話で話をするということ自体が楽しくて、つまり手段そのものが目的となって使用されています。こういった即自充足的な使用は、道具的な使用の場合の実用性に対して、快楽がモーティベーションであるといえるでしょう。そして、その結果として「長電話」という現象を生み出していきます。恋人同士の電話はその典型的な例でしょうが、恋人のあいだに限らず、学生同士ではごくふつうにあることです。大澤氏はそういった学生の体験から次のような例を引き合いに出しています。[註2]

「長電話をして二時間、三時間喋っていると、自分の所在がわからなくなる様な不思議な錯覚に陥ることがある。電話での話題は、実際に自分がいる場所や時間とは異なる時空をもっている。…そこで展開する話に没頭しているうちに、いわばその世界にトリップしてしまい、ふと我に帰ってみて現実の自分の所在に違和感を感じる。(大学三年 女)」ここでは、電話をしている現実の自分と、その電話という行為の中でいわば「声だけの存在」として別の時間・空間に「トリップ」してしまった別の自分について語られています。そういった別の自分が生じるのは、電話と接続することによって(電話によって他の人と接続する、というのが一般的な考え方でしょうが、すでにふれたように、その前に、人間が電話というメディアに接続しているのです)、電話をしているという現実の自分が本来感じるような感覚――たとえば、いま部屋の中にいて、椅子に座り、机の上の写真を見ているといった現実感覚――とは別の感覚へと引き込まれるからです。「ここに書かれているような自己離脱感――自己が自己から分離して異なる宇宙へと没入していくような感覚――を、声において表現すれば、まさに声へと純化され、声として分離された存在の感覚を得ることになるだろう。」(大澤『電子メディア論』50頁)

大澤氏は、現実の自分から分離した別の自分が存在するありかたを、声だけがいわば実体化した<声>と呼び、そこではもはや本来の自己ではなく、「自己における他者性」が現れているのだと分析していますが、その問題については、後ほどまた立ち返ることにしましょう。

大澤氏はまた、テレビに接続した人間の感覚が独特の変化を遂げることを、分裂病者の妄想的な体験のうちにはっきり見ることができると指摘しています。

「電子メディアは、しばしば、分裂病者の妄想を誘発する。たとえば、多くの分裂病者は、テレビを見ているうちに、奇妙な妄想的な異常を体験することが、報告されている。ある専門家は、この体験を「テレビ体験」という名のもとで、一括している。それは、次のように告白する分裂病者の症例のうちに、典型的に見て取ることができる。テレビでニュース解説者の表情を見ていると感情が通じているなと直感します。その人の顔をにらんでいると、向こうでもこちらをにらんでいるんです。アナウンサーの感情がこちらに伝わってくるばかりでなく、自分の感情もアナウンサーに伝わり、その反応が声にでます。
何か自分を引きつけるものを感じて、テレビの前から離れることができない。自分がテレビを見ているのか、テレビが自分を見ているのかわからなくなってひどく混乱してしまう。」(同書62-63頁)

こういった状況が映像的にかなりグロテスクに誇張されたものを、たとえばデビッド・クローネンバーグ監督の映画「ビデオドローム」のうちに見ることができるかもしれません。それはともかくとして、上の引用において分裂病者の体験が取り上げられているからといって、それは一般の人とはかけ離れた異常なものとして語られているわけではありません。「それは、むしろ「正常」とされる身体が自覚なしにすでに体験していること――つまり識閾下の水準で知覚していること――を判定可能な水準にまで引き上げる、増幅装置のようなものなのである。」(同書64頁)「正常」であっても、テレビにそれこそ「トリップ」するほど没入して見ている人がテレビから現実に戻ったときに、電話している人がはっと我に帰って現実を感じたときと同じような違和感を覚えるとすれば、上に挙げたような妄想的な体験に通じるようなものを体験していることになるのではないでしょうか。

テレビの場合のようにある種の「増幅装置」を用いた例ではなくても、コンピュータにおいてはもっと簡単に、一種のトリップ状態――別の感覚状態への自己の分離――が生じます。そのもっとも典型的な例の一つは、とりわけロールプレイング、アドベンチャー、アクション、シミュレーションといったジャンルのゲーム(要するにパズル以外のほとんど全部?)でしょう。もともとそういったゲームにおいては、コンピュータの中でのある仮想的な状況において別の自己を演じることが想定されているわけですが、ゲームに没入するにしたがって、演じている別の自己に対する本来の自己のまなざしの距離は失われてゆき、「自己」として意識されているものは完全にゲームの世界の中で動き始めます。つまり、本来の自己のもつ現実感覚とは切り離されて、メディアと接続することによって生じた、別の世界に対する感覚をもつようになります。こういった現象は、初期のファミコン時代の粗雑な画面と無機的な電子音においてさえ劇的に生じていたのですが、現在のきわめてリアルな三次元的運動を表示する画面やリアルな音声においては、さらに容易にしかも深く引き起こされることになるのではないかと思います。このような別の感覚状態へのトリップがテレビよりもはるかに容易に引き起こされうる決定的な理由の一つは、コンピュータにおいては、テレビのように単に受動的に画像を見るのではなく、自分からの働きかけが画像や音声に直接の反応として現れるということにあります。その意味で、インターネットにおけるウェブ上のネット・サーフィンもやはり同様の効果を引き起こしていると思われます。リンクを形成している箇所をクリックすることにより、次々と新たなサイトにたどり着くときに感じる感覚は、コンピュータのモニターを前にして座っている本来の自己の現実感覚からまったく分離して、いわば自己の意識だけがコンピュータのネットの中を泳いでいるかのように移動している感覚といえるかもしれません。それはまさにサーフィンの快楽であり、電話の場合と同じように、圧倒的な情報収集能力や、時間的・空間的距離を圧倒的に短縮してデジタル的に一元化された情報を交換する能力といった、インターネット本来の道具的使用そのものの価値のためだけでなく、むしろインターネットをするという行為自体の楽しみのため、つまり本来は単に手段にすぎないものの即自充足的な価値のために、これほどまでにインターネットが一般に広まったといえるでしょう。

道具を媒介とした身体空間の感覚変容

 さて、これらの例において確認できることは、いずれの場合も、メディアと接続することによって別の感覚状態へと移っていくこと、つまり感覚が変容するということです。つまりそれは、ひとつの身体的な現象です。いや、感覚・意識が問題となっているのだから、心身二元論[註1参照]でいえばむしろそれは心的な現象というべきなのではないか、という反論も可能かもしれません。しかし、メディア論においてはまず、メディアに接続する身体という言い方自体に端的に現れているように(つまりそこでの「身体」は、「精神」のない単なる「物」などではありません)、人間において精神と物体(身体)をべつべつに考えるのではなく、知覚の対象として身体は確かに物の世界のうちにありながらも、身体はそこにおいて対象世界が知覚されて現出するような媒体として捉えられているといえます。[註1参照] また、上で例として挙げたような技術メディアを用いる場合は、いわゆる身体的な活動が顕著でないため、精神とか意識だけの問題に見えるのですが、もっと身体的な活動に直結するような道具を媒体とする場合、身体性と感覚の変容の結びつきがさらに顕著に見えてくるでしょう。日本での西洋近代哲学の文脈における身体論におそらくもっとも早くから関わってきた市川浩氏は、道具によって媒介された身体空間の拡大について、たとえば次のような例を挙げています。 「われわれが道具を使って作業し、行動する場合、道具は、はじめ身体の外にある補助具として働いているにすぎないが、やがて習慣的身体のうちに内面化され、統合されて、<媒介された身体>を構成する。熟練した外科医にとって、ゾンデは外的な道具であるにとどまらず、肉体化された二次的な指先となる。彼はゾンデの伝える動きを指先で判別するのではない。働きとしての彼の身体は、ゾンデの先までのび、ゾンデの尖端で感じているのである。盲人の杖についても同じことがいえよう。またドライバーにとって、新しい車の車幅は、自分の体の外にある対象化され、計量されうる広がりにすぎないが、なれるにつれて、かれの身体は車の大きさにまで広がり、車幅はかれの身体空間のうちに内面化される。そしてちょうどわれわれがせまい戸口をとおりぬけるとき、自分の体の幅を捉えるのと同じような仕方で、ドライバーは自分の車の車幅を捉える。車がせまい空間を通り抜けるとき、かれは、あたかも車の身をすぼめるかのように、軽い筋肉の緊張によって、身をすぼめる筋肉の収縮を素描する。」(市川浩『精神としての身体』講談社学術文庫 78-79頁)同じようなことは、ほかにもたとえば、スポーツ選手や音楽家についてもいえるでしょう。スキーを始めたばかりの人にとって、スキーの板もストックも自分の身体の動きを束縛する忌まわしい道具にすぎませんが、熟達するにつれ、それはもはや道具という外在的なものではなく、まさに自分の身体の延長となります。きわめて高度に熟達した音楽家の場合も、楽器という音楽の道具music instrumentはまさに自分の身体の一部として感じられ、またコントロールされ、逆に誰かが演奏しているのを(たとえばレコードであっても)聴く場合であっても、その音が生み出されるために、たとえば管楽器であれば、どのような横隔膜の収縮、口腔の容積、唇を支える筋肉の緊張によって息がコントロールされているかを、自分自身の肉体的な感覚のうちにも感じ取ることができます。これらの例において確認できることはつまり、もともとその「道具」に対して感じていた感覚が、その道具に対する熟達に応じて変容していき、身体の外部であった物が、いわば身体の内部へと取り込まれるような感覚の変化が起こっているということです。ここでは「熟達」「習熟」という要素が決定的な役割を果たしていますが、これについてはまた後でふれることになるでしょう。

そういった意味では、皮膚という外界との境界面の内側における身体の各部分、つまりわれわれが通常自分自身のうちに内在化されているものととらえている身体部分――たとえば手・足・目――も、特殊な状況下にあっては、逆に、いわば自己とは疎遠な「道具」のような外在化されたものとして感じられることさえあり得ます。たとえば、事故や病気で何ヶ月も入院して起きあがることがなければ、しばらくは歩くことができず、まるで自分の足ではないかのように感じるでしょう。その場合は、上に挙げたとは逆の身体の感覚変容が生じているといえます。

さて、話を技術的コミュニケーション・メディアに戻しましょう。医療器具、自動車、スポーツ用品、楽器といった道具も身体と接続するメディアなのですが、コンピュータというコミュニケーション・メディアにおいてもやはり習熟が問題となります。機械の苦手な人が、必要に駆られてコンピュータと格闘する場合、何とかマニュアルや他の人の指導によってインターネットをしても、先ほど述べたような感覚の変容を経験することはなかなか難しいでしょう。そこでは習熟によって、キーボードやマウスの操作が、身体的にごく自然なものとなったとき、つまり道具が自分の身体のうちに感覚的に内在化されたときにはじめて、その道具を使用する際に感じ取られる拡張された身体空間の感覚――インターネットでいえば、自分自身の現実の肉体からいわば意識が幽体離脱するがごとく、ネット空間の中を駆けめぐる感覚――が可能となります。電話やテレビの場合、これらのメディアと肉体との接続が一般的にいってあまりに容易で、習熟をことさらに意識して必要としないため身体性の要素が目立たないだけのことで、ここでも事情は同じです。つまり、コミュニケーション・メディアとの接続による感覚変容は、身体性に関わる現象であるということです。

感覚変容の二つのありかた

これまで単に「感覚変容」といってきましたが、これからそれぞれのメディアの段階に応じて、メディアと身体との接続を考察していくに当たって、とりあえず次の二つの感覚変容のあり方を分けて考えたいと思います。

  1. 実際の現実感覚から分離した新たな感覚の経験(一時的な仮想的経験)
  2. 新たな感覚様式の枠組みの獲得(根本的な感覚様式の転換)

たとえば、コンピュータでゲームをしているときに、1) 実際にそのゲームの世界の中にいるかのような仮想的体験をするわけですが、そのゲームの世界内での感覚は、現実に戻ったときには基本的には失われます。しかし、その経験が積み重ねられ、内在化されていくことによって、2) いわゆる現実に対する見方も部分的に少しずつ変わっていくとすれば、そこでは新たな感覚様式がいわば常態的に形成されていることになります。その場合、その新たな感覚様式の獲得は、一時的な仮想的経験による感覚変容の積み重ねによって――基本的には、現実に戻ったときに失われるにせよ、記憶のうちにあるいは身体的に少しずつ蓄積されることによって――可能となるわけですから、とりあえず分けてはいますが、両者は密接に結びついています。ただ、なぜここでこのように分けることを強調するかというと、これまでの例ではとりわけ 1) の意味で感覚変容について言及してきたのですが、あるメディア段階から次のメディア段階に移ったときに問題となるのは、とくに 2) のほうだからなのです。

 今回は、ほぼ前置きのようになってしまいましたが、次回と次々回にかけて、音声メディア、文字メディア、技術メディアのそれぞれの段階における、メディアと身体の接続について述べていきたいと思います。


* 参考文献は、今回は註のほうにすべて書いてあるので、そちらをご覧ください。


第8回講義へ インターネット講座目次 HOME