1998年度 インターネット講座

メディア・情報・身体 ―― メディア論の射程

第6回
チューリングの銀河系 (2)

(1998/08/16更新)

デジタル・メディアの特質――離散的か、感覚的か

ボルター自身は、例えば、「われわれは、コンピュータと仕事で長く深く付き合うようになり、機械が示唆するような言葉使いで考えたり、話したりするようになると、だいたいこのチューリング型人間になりがちである」(『チューリング・マン』p.19)という言い方をし、また非コンピュータ人間と「チューリング型人間との共生」(pp.360) についても語ってはいるのですが、チューリング型人間が現代のコンピュータ文化の思考様式によって規定されているとすれば、それに当てはまる人間は、単にコンピュータに染まっている技術者だけを指しているのではなく、むしろ、何らかの形でコンピュータと関わっている現代のわれわれのほとんどが(もちろん人によって程度は相当異なるでしょうが)、彼のいう「チューリング・マン」だといえるかもしれません。というのも、現代社会にあってコンピュータとまったく関わらないということはほとんど不可能だからです。つまり、一般に使われているようなパーソナル・コンピュータを使っていないにしても、われわれはさまざまな機械に組み込まれているマイクロコンピュータから無縁ではいられないからです。例えば、電車の切符を自動販売機で買うにしても、ビデオの録画予約はもちろんのこと、単にテレビを見るにしても、そこでは組み込まれているコンピュータの論理に従って対応することが求められ、それに従うことによってプログラムされているある特定の結果を引き出すことになります。機械の苦手な人がマニュアルと格闘しなければならないとき、チューリング・マン的な思考へ の方向付けを強制され、馴致させられようとしているからこそ、そういった格闘が生じるといえるでしょう。ほとんど大部分の人にとって、コンピュータはいわばブラックボックスであり、ましてや機械語でのデジタル的な数値化という極度の離散性は、現実の対応においてはまったく感じられないものであるかもしれません。しかし、それでもわれわれがコンピュータと関わるとき、その内部だけで働く論理性、規約性に結果的に従うように思考を向けられ、それによって、われわれの対応、思考様式も離散的な性格を帯びることになります。つまり、ボルターが強調するように、技術が思考様式を規定していくのです。そして、それだけでなく、その思考様式によってさらに次の技術の段階が要請され、その新たな技術によってまた思考様式が新たな規定を受けるという相互的でダイナミックな作用が引き続いていくことになるでしょう。

このように「チューリング型人間」の文化を、われわれのデジタル技術時代においてすでに地歩を占めているものとして承認するならば、ボルターが議論の前提としている<古典古代のギリシャ・ローマ>→<西欧世界>とりわけ<西欧近代>の世界→<デジタル技術時代の現代>という発展段階、とりわけ<西欧近代>から<デジタル技術時代>への展開の考え方は、マクルーハンにおける<グーテンベルクの銀河系>(文字文化)から<電子文化>への展開という枠組みに対応しているように見えます。しかし、単に、マクルーハンの「電子文化」においてはデジタル技術が問題となっているわけではないという違いだけでなく、マクルーハン的な展開の捉え方とボルター的なそれとのあいだには、もっと根本的な相違が存在します。『チューリング・マン』のいくつかの箇所でマクルーハンにも言及されていますが、ボルターにとってギリシャ・ローマ時代の口述文化から「アルファベット」・「印刷」の文化への展開は、単にアルファベットという記号のもつ離散的性格、それによって可能となる論理性といったものの拡大の方向を示すものであり、その意味で、むしろコンピュータ的特性に重ね合わさ れるものといえます。確かに、「西欧近代」の「文字文化」に顕著な精神性・内面性・理想的人間性・自律性などへの志向に対して、現代の「電子文化」「デジタル技術」は異なる性格を持つものであり、それらをもはや絶対的なものとして認めず、むしろ批判的距離をおくという立場においては、マクルーハンとボルターは共通するものをもっています。しかし、マクルーハンが電子文化を口述文化の回帰と捉え、そこにおいて口述文化における豊かな全感覚の統合が達成されると考えたのに対して、ボルターにとっては文化の展開は、論理性・離散性がむしろ直線的に増大するものと捉えられているといえるでしょう。つまり、電子文化(マクルーハンにおいてアナログとデジタルが区別されていないことは、いまは考えないことにしましょう)の段階において、マクルーハンは文字文化のもつ論理性が克服され、口述文化の感覚性が回復されているのを見ているのに対して、ボルターにとっては文字文化の論理性はさらに決定的に増大するものと考えられているのです。

デジタル技術の発達によって、マクルーハンの時代よりも比べものにならないほど(擬似的ではありますが)直接性・感覚性を獲得した現代のマルチメディア――パーソナル・コンピュータ上のさまざまな環境に限らず、圧倒的な視覚性・聴覚性をもつ大映画館、テレビ電話、高音質・高画質な衛星放送による「地球村global village」化などなど――は、口述文化の豊かな直接的感覚の回帰なのでしょうか。それとも、それらの感覚的直接性を現出させているものの究極の姿、つまり機械語の二進数に見られるような離散性・論理性を志向しているのでしょうか。デジタル技術に見られるこういった両極性は、実際にわれわれ(コンピュータを使っている人)が日常的にいたるところで体験しているものですが、上の問いに対して<あれか−これか>的な回答を求めようとすることはもちろん意味をなしません。むしろそれは、まさにひとつの事態の両極といえるでしょうが、このようなことはどのようにして起こっているのでしょうか。

チューリングの銀河系

「チューリングの銀河系」という名称を提唱しているフォルカー・グラスムックにとって、この概念が指し示しているものは、「チューリング」という人間の業績へと流れ込み、またそこを新たな基礎づけとして展開していったデジタル的な思考の枠組みにほかなりません。つまり、上の両極でいえば、とりあえず離散性・論理性の方向ということになります。

1847年ブールは、形式論理学の真理値を再現するために二進記数法を導入した。以来、0と1が「偽」と「真」を意味する。シャノンはその90年後に、ブールのこのような真理操作は、電気的な部品の入/切状態に翻訳可能であることを証明した。このオッカムの剃刀による究極的切断以来シグナルというものは、基礎的で分割不可能なイエス/ノーの単位へと解体したのであり、それはビット("basic indissoluble information unit" を指す。情報科学では "binary digit" のこと)と呼ばれている。<原子>が物質的世界において、そして<個人>が社会においてそうであるように(両者とも<分割不可能>という原義に翻訳できる)、<ビット>は、あらゆる可能な象徴システムにおける、可能な限り最小の単位、もっとも単純な構成要素を指示する。
われわれは、彼が立脚しているいく人かの人物の傍らを急いで通り過ぎたわけだが、こうして漸くアラン・チューリングに向かうことができる。私は、こうして出現してくる二進数字=ビット(binary digit)・メディアの地平を<チューリングの銀河系>と呼ぶことを提案する。」(グラスムック「チューリングの銀河系 [1]」『InterCommunication 12』p.63)

これ以上分割不可能な単位としての、0と1だけの<原子>の世界に見られる究極的な離散性は、現実の世界にわれわれが関わるときの感覚性・具象性の対極にあるものですが、その0と1だけからなる機械語は(少なくとも現実的な処理速度の点で)まさに機械にのみふさわしいものであり、プログラミングの際には、例えばアセンブラを用いることにより、具象性を多少でももつことによって人間の感覚に近づけることが必要となるでしょう。さらに、BASIC, COBOL,C言語, FORTRAN, PASCALといった「高級言語」になれば、(より「低級」な、つまり機械語により近い言語としての)アセンブラよりもさらに具象性を獲得することになります。さらには、現在開発が進められているように――あるいは多くのSF映画で見られるように――人間が日常的に用いている「自然言語」によってコンピュータとやりとりすることが可能となれば、そこではほぼ人間の感覚性・具象性に近づいているといえるでしょう。

これらは――どのようなものであれ――「言語」という線状的特性をもつメディアの枠内で、究極の離散性を特徴とする機械語から人間の具象性に近づいた自然言語へといたる、両極のあいだの展開をとりあげているのですが、周知のように、コンピュータが人間の感覚により直接的に受容できるようにもたらすことができるものには「画像」や「音声」もあります。また、とりわけこの意味での「言語」が、あくまでもコンピュータの論理性の圏内にとどまっているのに対して、「画像」や「音声」はとりわけ直接的な感覚性に関わるものといえます。もちろん、そういった「画像」や「音声」も、コンピュータにおいては究極的には0と1の離散性・論理性の世界に還元されるわけですが、しかし、まさにそれこそが、デジタル・メディアの特質のもつ決定的な意義として、つまり、それ以前の「電気的」な技術メディアとは一線を画するものとして、例えばキットラーが強調している点なのです。

「ニュースやチャンネルがすべてにわたってデジタル化されるとき、個々のメディアのあいだの相違点は消失する。あとはインターフェースという美名のもとに消費者によろこんで受け入れられているような表面効果としてのみ、音や画像、声やテクストが存在することになる。五感や意味はまやかしとなる。メディアがつくりだしてきたような外見上の魅惑は、とりあえずのあいだ、戦略的プログラムの廃産物として生き残る。しかしそれに対して、コンピュータ自体の内部においては、すべては数である。すなわち画像のない、音のない、言葉のない量なのだ。そして、ケーブル化がこれまで分かたれていたデータの流れをすべてひとつのデジタル的に標準化された数字の連続へと変えるとき、どのメディアも他のどのメディアに移行することが可能となる。数によって不可能なものはない。変調、変形、同期化、あるいは遅延化、保存、修正、あるいはスクランブル、スキャン、マッピング――デジタル的基盤に基づいたこのような全体的メディア結合は、メディアという概念そのものをも無効としてしまうことになろう。」(Friedrich Kittler, Grammophon, Film, Typewriter. p.7-8)

デジタル・メディアによってもたらされる「画像」や「音声」の消費者における受容に対しては、この文脈ではかなりシニックな表現でもって言及されていますが、キットラーがアクセントを置いているのは、個々の感官に個別に関わる形で発展してきたメディア――これは、テレビ・ラジオ・映画というレベルでも、音・光といったレベルでも重層的に考えることが可能ですが――のあいだの差異が、デジタルによるメディア結合においては完全に消失してしまうということ、そしてそれによって従来のメディア概念そのものが揺らぐことになるということです。テクストをいかに保存するか、音波をいかに保存するか、光をいかに保存するか、というメディア上の差異は、すべて0と1の世界へと一元化されることになります。ところで、こういったデジタル的世界は、しばしば身体的比喩をともなって語られるだけでなく、実際にまさに身体の相関物として機能するものとみなすことができます。物の解体、思考自体の解体をもたらすものとしての「近代」の傾向のひとつとして、ヴィレム・フルッサー(1920-1991. キットラー、ボルツ、あるいはもっと若いグラスムックよりもずっと上の世代のドイツ人コミュニケーション論・メディア論者)があげている「神経生理学的」傾向についての次の説明は、こういった状況をきわめて如実に表しているといえるでしょう。

「関連して二番目に、「神経生理学的」と呼べる傾向がある。「感覚的な」世界、五感によって知覚される世界がどのようにして成立するのか、理解したいというわけだ。それによれば、まず点状の刺激が、神経繊維によって「ディジタルに」受けとめられる。個々の刺激はいずれも、受け入れられるか受け入れられないか(「1か0か」)である。受け入れられた刺激は中央神経系において電磁的・化学的に処理され、まだよくわかっていない仕方で、延長としての物の知覚がもたらされる。刺激というデータから、延長としての物が計算的に構成computierenされるのである。知覚された世界とは、データ処理の投企に他ならない(…)ところで、データを処理して知覚をもたらすはたらきは、孤立した神経系において遂行されるのではない。どの神経系も他の神経系と接続されている。知覚は、何らかの形で神経系のメモリーに入っている他の知覚の関数として処理される。メモリーに入っている知覚の大部分は、他の神経系から供給されたものであり、他の神経系のアウトプットがインプットされたものなのだ。」(フルッサー『サブジェクトからプロジェクトへ』p.7)

さまざまな感官を通じて得られる本来まったく異種の刺激(視覚上、聴覚上、触覚上、味覚上、嗅覚上の刺激)は、神経組織においてはデジタル的な情報として一元的に処理されます。もっともここでの離散性・論理性の世界を支配するコードは、人間にとってはほとんど解読不能であって、このように理論上、「近代」があらゆる感覚をデジタル的な刺激処理へと解体する傾向をもつにしても(つまり、直接的な感覚への懐疑が存在するにしても)、実際に人間が感じることができるものは感覚が還元された離散性ではなく、とりあえずは感覚によってえられたそのものでしょう。だからこそ、人間の感覚においては、論理性・離散性と直接的な感覚性との両極はまったく意識されず、ただ直接的な感覚性のみが残ることになります。こういった身体とコンピュータとの相関性については、グラスムックが上の引用で<チューリングの銀河系>という概念に「チューリング」の名を冠したときにとくに意識されていたことでもありました。つまり、グラスムックによれば、チューリングの名が用い られるのは、彼がこの<銀河系>の二つの主要な理念を定式化したから、ということですが、その一つが「普遍=機械」(万能チューリング・マシン)です。とりわけ、この万能マシンが人間の脳に置き換えられる可能性にアクセントが置かれています。「もっと驚愕させたに違いないのは、チューリング・マシンについて知識を持つものの眼差しが、人間の脳の機能上のさまざまな要素へ向けられたとき、そこに見いだしたものが規模は大きくとも有限な、それゆえ普遍的なチューリング・マシンによって代替可能な自働機械だったときであろう」(「チューリングの銀河系」同書、p.63)この視点は、もう一つの点「チューリング・テスト」においても強調されています。「[チューリングの<機械は、それがもし人間に由来するとしたら知性の徴と見なされうるような言明を発することができるか?>という問いの提起]以来、<知的な>と言われるモデル化、解決策の探求、シグナルの加工そして範型の認識――いわゆる思考――は、幅広く技術的あるいは生物学的に遂行可能なことの連続体として理解されねばならない。<精神>と機械は(交換可能である必要は必ずしもないにせよ)接続可能なものとな った。」(同、p.64)さて、このような身体とコンピュータとの相関関係が考えられるとき、コンピュータがデジタルの離散性からさまざまな翻訳を経て人間の感覚性と接することができるのは、人間の身体的感覚によって受容可能なものとするインターフェースの部分においてです。つまり、コンピュータからの受容に際しては、例えば、モニター上の画像、スピーカからの音声のデザイン、あるいはコンピュータへの働きかけに際しては、やはりモニター上での操作できるか、マイクロフォンを通じての音声入力といったことがらですが、この問題については、次回以降扱う予定の身体論の文脈において取り上げていきたいと思います。

抽象ゲーム (V.フルッサー)

われわれが「現実」と感じているものに対する感覚的・具象的な関わりから<原子>的な離散性へ、という両極のあいだを動く次元の転換を、ヴィレム・フルッサーは別の箇所で「抽象ゲーム」という名のもとに論じています。

「あらゆる<現実的なもの>――われわれに対して外部から働きかけてくるものという意味において――は、時空世界Raumzeit [三次元性をもつ<空間>に<時間>の次元が加えられた空間] の四つの次元を持っている。すなわち、そこには運動する物体が存在する。われわれは、しかし、そこから捨象することができる。たとえば、現実から時間の次元を除外し、ついで一方では<時間>を、他方では<空間>を表象や概念のうちに捉えようとすることができる。そのように表象され、概念化された空間から、<深さ>を除外し、ついで一方では平面を、他方では容器を表象や概念のうちに捉えようとすることができる。そのように表象され、概念化された平面から<表面>を除外し、ついで一方では線を、他方では線の体系(<織物>)を表象や概念のうちに捉えようとするとができる。そしてそのように表象され、概念化された線から、<放射する線Strahl>を除外し、ついで一方では点を、他方では点の体系(<モザイク>)を表象や概念のうちに捉えようとすることができる。こういった抽象ゲームにおいては、それにしたがってさまざまな<非現実的な>宇宙が生み出されることになろう。すなわち、彫刻――時間のない物体――の宇宙、画像――深さのない表面――の宇宙、テクスト――平面のない線――の宇宙、そしてコ ンピュテーション――線のない点――の宇宙である。そして、この抽象ゲームは一歩ずつ進展していき、何千年もそれにかかることになる。最初に、時空世界から彫刻の宇宙、たとえば<ヴィーナス>の宇宙が取り出されることになり、そこから画像の宇宙、たとえば洞窟画の宇宙が、さらにそこからテクストの宇宙、たとえばメソポタミアの叙事詩の宇宙が、そして最後にそこからコンピュテーションの宇宙、たとえば卓上計算機の宇宙が取り出されるのだ。」(Flusser, Lob der Oberflaechlichkeit, p.9)

われわれが<現実>と捉えている時間と空間の四次元性の世界から次元が一つずつ取り去られ、無時間的な空間(「彫刻」)、平面(「画像」)、線(「テクスト」)をへて、いわば0次元的な点(「コンピュテーション」)へと至る過程において、それぞれの次元に属するメディア(現実・彫刻・画像・テクスト・コンピュテーション)は抽象度を増していきます。こういった「抽象ゲーム」の進行は、フルッサー自身が指摘しているように、確かに文化史的な展開を表しているようでもありますが、実際にはもちろん、そのような一方向的な流れだけがあるわけではありませんし、当然ながら同時にいろいろな段階が存在しています。われわれがいま問題にしているデジタル的な離散性と感覚的直接性という両極性に関していえば、ここで述べられているような異種のメディアがデジタルの点の世界へと還元される方向とともに、コンピュータにおいてはその逆の流れが起こっていることになります。

「点が動いて線を形成し、線は平面を、平面は物体を、そしては物体は<現実>を形成することになる。すなわち、点+時間=線、線+時間=平面、平面+時間=物体、物体+時間=<現実>。」(Flusser, Lob der Oberflächlichkeit, p.10)

<現実>が括弧の内に入れられているのは、あくまでも「現実と見なされているもの」という懐疑的な意識が働いているということもあるでしょうが、フルッサーにとってはむしろ「テクスト」的な(つまり文字文化の)思考における「現実」という観念への批判がそこには込められています。「テクストは、現象の背後に<本質>を、真と思われるもの (das Wahrschinliche) の背後に真(das Wahre) を見いだすことができると思っていた。」(ibid,20) そういった思考においては、単に「真と思われるもの(本当らしいこと)」、「そう見えるもの」「現象」すなわち「表面性」は低くみられることになります。フルッサーは、他の多くのメディア論者に共通していえることですが、近代の文化を圧倒的に規定してきた文字による「テクスト」というメディアが危機的状況にあるという認識に立っています。とりわけ人文系の研究者においては、テクストはいわば臨界点に達しているといえるかもしれません。[註8](この問題については、デジタル時代におけるテクストの可能性というテーマでいずれとりあげる予定です)こういった視点に基づいて、メディア論者たちはそれとは全く異なる思考様式をもたらす技術メディアのもつ可能性を明らかにしようとしていえるでしょう。フルッサーはテクスト的思考において軽蔑された「そう見えるもの」=「表面性」にこそむしろ意味を見いだそうとしています。(ここで取り上げている著作 の題名『表面性賛美』(Lob der Oberlächlichkeit) もまさにこのことをいっています。)というのも、コンピュータに向かう人間は画面上において「真と思われるもの(本当らしいこと)」が現れてくることに熱中しているわけですが、「われわれは真と思われるものを求めるが、見いだすのはひとえに可能性なのだ」(ibid.,21)。フルッサーがここで「可能性」と呼んでいるものは、単にふつうの意味でのそれではなく、テクストの世界の線状的なカテゴリーにかわる新たなカテゴリーとして述べられています。フルッサーによれば、「点の世界」は、点と点のあいだにはなにも存在しないような「空虚」「無」であると同時に、点が集合したものの全体によってあらゆるものが作られるという意味で「量」「全」でもあるのですが、それゆえにそれ自体「可能性」となるのです。

「点は確かに厳密にいえば無であるが、仮想的には全である。点は可能性である。われわれは、<可能性>というカテゴリーにおいて考え、感じ、行動し始めなければならない。点の宇宙は、可能性以外に何ものをも含んでいないがゆえに、空虚であり、また単に可能性のみを含むがゆえに、ひとつの満たされた宇宙なのである。しかし、<可能性>のカテゴリーは<必然性>のカテゴリーを結果として招来する。つまり、可能的であり、必然的となったものが、現実的なのだ。<必然性>の反対概念は<偶然>である。われわれは、点の宇宙において動き回ろうとするならば、<可能的><必然的><偶然的>というカテゴリーにおいて思考することを学ばねばならない。」(ibid., p.17-18)

フルッサーにとっては、つまり、「われわれのあらゆる努力は、点の世界を居住可能にすることを目指している」(ibid. p.17) ということに問題は集約されるでしょう。こういったフルッサーの論議(また、ボルツやキットラー)をふまえながら、「チューリングの銀河系」について語るグラスムックは、デジタル・メディアの持つこのような「可能性」を、とりあえずは「シミュレーション」のうちに見いだそうとしているといえるでしょう。それは単に現実の代替物と言うよりは、「世界の動きに関するわれわれの表象の隠喩」(「チューリングの銀河系 [1]」『InterCommunication 12』p.64)なのですが、他方では、たとえばインターネット上のさまざまな行為(売買、情報の入手・交換、チャット)にみられるように、仮想的に構築されたものがますます現実そのものとなりつつあります。ここでもインターフェースの身体性が問題になってくるでしょう。

マクルーハンは「メディアはメッセージである」の文脈で、「どんなメディアでもその「内容」はつねに別のメディアである」(『メディア論』p.8)と述べていますが、このことはデジタル技術によるメディアによってはじめて完全に達成されたといえるでしょう。

「今日われわれは、あらゆるメディア(印刷、放送、沿革コミュニケーション、貨幣等々)がコンピュータという普遍的メディアに収斂してゆくさまを認めることができる。チューリング・メディアは、人間、図書館、機械そして人工的なコミュニケーション実体を結合させる。われわれはまだ、コンピュータを<チューリング・モード>で使用するとはどういうことを意味するのかを、究明せねばならない地点にある。」(「チューリングの銀河系 [1]」『InterCommunication 12』p.64)

デジタル的な点の世界へと収斂することによって、フルッサーのいう<可能性>が生まれることになりますが、それが<現実>のものとして人間に受け取られるためには、どのような次元のものであるにせよ、「点の世界」以外のものである必要があります。とはいえ、コンピュータによって再び具象性を獲得し、人間の感覚によって知覚可能となったものは、マクルーハンが素朴に楽観視したように、文字以前の感覚性への回帰につながるものではなく、むしろ新たな技術段階に属するものです。問題となるのは、デジタル技術の段階において、画像などの身体性に関わるもの、また文字によるテクストという論理性に関わるものが、あらたにどのような局面を迎えることになるのか、ということになるでしょう。以降の講座では、この二つの点について取り上げていきたいと思います。



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