2016年台湾総統選挙の見通し(2)

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 2016年総統選挙の見通しを論じる第2回目。今回は,国民党の公認候補が洪秀柱に決まるプロセスを整理し,台湾の国家アイデンティティと総統選挙の支持構造との関連モデルを用いて洪の立ち位置と得票傾向を予想する。(2015.6.20記)

小笠原 欣幸


はじめに ― 国民党の総統候補は洪秀柱に決定

国民党の総統候補に決まった洪秀柱
7月の全国代表大会で正式決定となる
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2015年6月5日撮影


 国民党は昨年の統一地方選挙での大敗によって大きな打撃を受けた。馬英九に代わって朱立倫(新北市長,54歳,男性)が党主席に就任したが,その朱は総統選挙には出馬しないと表明し,国民党の総統候補選びは迷走を続けた。党内実力者の朱立倫主席,王金平(立法院長,74歳,男性),呉敦義(副総統,67歳,男性),馬英九(総統・前主席,64歳,男性)らの駆け引きの末,総統候補を選出する予備選挙に出馬したのは洪秀柱(立法院副院長,67歳,女性)1人だけであった。そして,国民党公認候補はその洪に決まった。
 4月初めに洪が予備選出馬を宣言した時,この結果を予想した人はいなかったであろう。シナリオのないドラマが進行したのは国民党の混迷が非常に深刻なことを物語るし,同時にこのサプライズはその選挙情勢が一層厳しくなる方向に作用するであろう。今回は国民党の公認候補が洪秀柱に決まるプロセスを整理し,過去の総統選挙の支持構造モデルを用いて洪の立ち位置と得票傾向を予想する。朱立倫がなぜ出馬しなかったのか,および,蔡英文の訪米および対中政策については次回以降に取り上げる。

 1.予備選挙登録は1人だけ

 「2016年総統選挙の見通し(1)」で解説したように,国民党内では3月末に至っても誰も出馬の意思表示をしない状態が続いていた。総統選挙と国民党の主導権をめぐって実力者が駆け引きを続けたものの,暗黙の了解もできず,また相互に相手の意図が読み切れない状態で,結局誰も自分のカードを見せなかったのである。そうした消極的態度が,「選挙で勝ち目が薄いから出たくないのだ」と一般には解釈され,支持者の間で焦燥感が高まっていた。そのような中,洪秀柱が4月3日突然国民党の予備選に出馬すると表明した。洪は当初,「党内の志士が続いて態度表明することを希望する」と語り(「洪秀柱 宣布投入國民黨總統初選」『聯合報』2015年4月4日),その意図は,自分が候補になることよりも党内の大物の出馬を促し,予備選挙を活性化し,党勢回復を図る狙いだと見られた。
 党内予備選挙への出馬登録は5月16日に締め切られた。規定数の署名を集めて届け出たのは洪秀柱1人だけあった。もう1人,前衛生署長(閣僚)の楊志良も届け出たが署名数が規定に達していなかった。締め切り直前の15日,まず王金平が予備選に出ないことを表明した。王は公認獲得にかなり近い位置にいたが,朱立倫,馬英九との駆け引きのプロセスに洪が乱入してきたこと,馬英九派の反発を押さえきれなかったことから予備選出馬を断念したのである。ついで16日,朱立倫が改めて不出馬を表明した。呉敦義はそれ以前から出馬の意思はないと語っていたので,党内の実力者3氏はいずれも予備選に出馬しなかった。
 予備選で候補が決まらなかった場合は党中央が直接指名することになっていたので,彼らはそれを狙っているという憶測も絶えなかった。しかし,それは予備選という制度をないがしろにして駆け引きを優先する内輪の論理であり,国民党の混迷に拍車をかけるだけであった。洪は,知名度は相対的に低く,党内に自分を支持するグループもなく,そもそも選挙を戦えるのか疑問視され,「途中で降りるに違いない」と嘲笑さえされた。洪の出陣式には立法委員は1人も来ず,市議が1人だけ,あとは動員の若者で,台湾紙のベテラン記者も「とうてい総統選出馬の格ではない。市議の出馬だってもっとましだ」と感じるほどであった。しかし,党内のベテラン政治家が火中の栗を拾おうとしないことを暗に批判し,自分への支持を懸命に訴えるキャンペーンを1人で始めた。

 2.洪秀柱の奮闘

 国民党で総統候補を決める予備選が行なわれるのは初めてである。これまでは党内の公認争いは,李登輝,連戰,馬英九のいずれの場合も先に決着がついていたので予備選を必要としなかった。朱立倫執行部は「何事も制度の通りに進める」と言ってはいたが,前例がないので制度を考えながら進めたのが実態である。予備選登録者が1人の場合は,内部の民意調査で支持率が30%を超えることが前提とされた。民意調査をいつ実施するのか,どのような質問形式にするのか,という肝心な部分で執行部の対応に揺れがあった。これは朱立倫が洪にどう対処するかが定まっていなかったことの反映と考えられる。
 例えば,5月30日国民党の候補者選定委員会の責任者郝龍斌副主席が洪と面会し民意調査を6月末に実施するという洪に有利な条件を提示したと思ったら,朱主席側近の李四川秘書長が即座にそれを否定した。6月5日になって李秘書長が新たな案を提示し,6月12日と13日にその民意調査を実施することが決まった。もめていた民意調査の内容と比重について,洪の出馬を支持するか否かの調査の数値を5割,洪と蔡英文との対決式調査の数値を5割採用して加算・総合して30%を超えれば候補者資格を得るものとした。結局,洪に有利な方式となった。
 当初支持率が低迷していた洪であったがめげずに闘う姿勢が共感を呼び,また,朱立倫への失望の裏返しで洪が深藍の支持者を徐々に引きつけるようになった。洪は当初党内で孤立無援の状態であったが,郝龍斌に代表される新党系のグループが支援に動き出し, 6月に入って洪の支持率は大きく動き始めた。民意調査の比重が決まった6月5日の段階で,洪が30%を超える可能性が高まったと見られた。
 正々堂々と予備選に出た洪は,党内実力者3氏と対照的であった。国民党の選挙情勢が厳しいことは支持者らも十分承知しているが,戦闘性が強い洪の性格から,中身がないと言われる蔡英文と意外に戦えるのではないかという期待も出てきた。しかし,内情に詳しい専門家らは「洪は総統を目指す準備がなかった」「深藍の立場が明確すぎて支持拡大は難しい」という指摘をしている。「党内に足場のない洪に本当に決まれば国民党の選挙は立法委員選挙も含めめちゃめちゃになる」との憂慮の声も出ている。洪のブレーンは,「統一派」として知られている張亞中,謝大寧,黄光國らで,この面でも準備が不足している。

 3.不発に終わった王金平のしかけ

 洪が公認獲得に近づき党内で期待と不安が広まる中で王金平が動いた。6月6日になって,王は「国民党中央が自分を候補者に直接指名するならそれを受ける」と表明した。これは以下の3点の情勢を踏まえた王のしかけであった。
①洪秀柱の勢いが増してきて本当に彼女が公認候補となりそうな情勢になった。
②直前の民意調査で蔡英文に最もよく対抗できるのは王であることが示された。
③党内,特に地方では洪では勝てないという悲鳴が水面下で噴出している。
 王の動きは洪に決まりそうな流れに水を差そうとする狙いと広く解釈された。王と洪を比べた場合,深藍の色彩の強い洪より本土派の王の方が広い支持を期待できるという見方がある。しかし,王は5月15日に予備選に出馬しないと表明したばかりである。「出る気があるのだったら最初から予備選挙に出ればよかったじゃないか」という素朴な疑問が即座に出てきて,逆に洪への支持が勢いづいた。王のしかけは不発に終わった。しかけが遅かったのである。王は自民党全盛時代の派閥のボスのような人物で何事にも先を読んで細やかな手を打つ政治家なので,あるいは,このしかけは目先の候補者決定についてではなく,来年1月の選挙後の党主席選挙までにらんだ手なのかもしれない。

 4.長編劇の終わり

 長々と続きこの先延長もあるかと思われた国民党の総統候補決定の劇はあっけなく幕切れを迎えた。6月12日と13日の2日間に行なわれた内部民意調査で洪の支持率は46.2%に達し,基準の30%を大きく上回った。内訳は,洪が国民党を代表して出馬することへの支持率が50.7%,蔡英文と対比しての支持率が41.6%で,それぞれの比重が50:50なので総合して46.2%となった。
 この調査の洪の支持率について,回答者の一部が意図的に洪支持と答えた可能性が指摘されている。台湾の選挙民は選挙に関する意識が非常に高い。民進党の支持者の中には,党から指示があったわけではないが,「国民党の候補が洪に決まれば蔡英文の当選の可能性が高まる」と自分で判断している人も少なくないであろう。国民党の民意調査が6月12日と13日に実施されることは周知の事実となっており,民意調査会社がランダムに選んだ電話番号のところにそうした民進党の支持者がいて本心を隠して「洪を支持する」と答えたとしてもおかしくはない。これは検証ができないので,国民党もそのまま結果を受け入れるしかない。洪の支持率がかさ上げされたものであったのかどうかは,しばらく時間をおいた民意調査を見ることによってわかるであろう。
 予備選挙の結果洪が公認候補の資格を得たことは,6月17日の党中央常務委員会においても確認された。制度的には,最終決定の場は7月19日の党全国代表大会である。そのため日本メディアの多くは慎重な報道をしているが,そこで覆る可能性はほとんどない。その理由は,第一に,洪本人の意欲はこの民意調査の数字によって益々盛んになっているし,持病も伝えられていないので,本人が辞退する可能性は考えにくい。第二に,火中の栗は拾いたくない朱立倫執行部が波乱を起こさせないように動く。そして第三に,党全国代表大会の構成は洪に有利である。予備選挙の後半,国民党内の郝龍斌を中心とする新党系グループが洪の支持に動いた。予備選後は馬英九も洪支持を表明した。党内の軍・公務員・教員関係の組織も洪への期待を高めた。党全国代表はこれらの組織の活動家が選出されるケースが多い。党代表大会においては,深藍の影響力は比較的大きいのである。深藍は馬英九に対する不満派と擁護派とに分かれていたが,洪支持では一致する。
 党全国代表のもう1つの重要な系統は,地方派閥の影響で選出される代表らである。確かに彼ら彼女らは王金平に同情的だが,予備選を経て決まった候補者を引きずり降ろすには王が最初から立候補しそれを支持するより何倍ものエネルギーを必要とする。それだけの力は王金平派にはない。あるのなら,王は最初から予備選に出馬している。したがって,現時点では洪は国民党の公認候補に「内定」した段階であるが,これが覆る可能性はほとんどないので,事実上「決定」したと見てよい。
 しかけが不発に終わった王としては,国民党の総統候補になれなかったので,立法院長の続投を狙うと見るのが自然であるが,その前提となる立法委員再選をどのように勝ち取るのか筋書きは見えていない。朱立倫執行部は王に特例を認めて比例区名簿に載せることに否定的であるし,洪は「国民党が王のために比例区選出の候補者選定方法を変える可能性はあまりない。王が立法院に引き続き議席を持つ唯一の方法は選挙区から立候補することである」と明言した(「洪秀柱:王回立院唯一辦法選區域立委」『聯合晩報』2015年6月18日)。これで王は事実上退路が断たれた。王にどういう秘策があるのか現時点ではわからない。王が本当に舞台を失うことになれば,王派および王を支持する地方派閥が洪のために選挙活動をする熱意は大きく低下するであろう。いずれにせよ,王の動向は今後の選挙情勢に影響を与えるので観察が必要である。

 5.洪秀柱の対中政策

 深藍の色彩が非常に強いとされる洪であるが,具体的に洪の対中政策を見てみたい。中台関係について洪が提起する重要な政策は,①「一中各表」ではなく「一中同表」,②「両岸和平協定」の締結の2つである。洪は「92年コンセンサスの段階的効能はすでに終わった」として,馬英九が必死に訴えている「一中各表」ではなく「一中同表」を唱えているが,これは北京と同じ主張になる。「両岸和平協定」は,馬が2012年総統選挙の過程で一旦は言及したもののすぐに封印したものだ。洪の問題意識は,馬英九時代の中台関係の枠組みを突破したいということで,洪は馬が言わなかったこと・やらなかったことを勇敢にやっていきたいということのようである。これはどう見ても中台関係の現状を変更する政見公約である。2016年総統選挙の構図は,「現状維持を公約する民進党の蔡英文」vs「現状変更を公約する国民党の洪秀柱」の戦いとなる。昨年の統一地方選挙では馬の対中政策が国民党敗北の1つの要因となった。そのことからして,洪のこの対中政策で中間派の支持を獲得するのは難しいであろう。
【参考】 ・洪秀柱政見發表-兩岸和平篇(Facebook ビデオメッセージ)
        https://www.facebook.com/ChuChuPepper/videos/828606337228667/?pnref=story
     ・洪秀柱關於兩岸政治論述的說帖全文(中國評論)
        http://hk.crntt.com/crn-webapp/search/allDetail.jsp?id=103735163&sw=%E6%B4%AA%E7%A7%80%E6%9F%B1

 6.総統選挙分析モデルで予想

 ここで筆者が総統選挙の分析に使用しているモデルを用いて洪の立ち位置を確認したい。筆者は,台湾の国家アイデンティティと総統選挙の支持構造の関係をモデル化し,1996年以来の5回の総統選挙を分析してきた。《添付資料》(PDF,別頁)は,過去5回の総統選挙における国家アイデンティティと支持構造との関係図である。図の円形が台湾の国家アイデンティティの分布,四角形が選挙の時にそれぞれの陣営がどこに支持基盤を求めたかを示す。右側の中華民国ナショナリズム(中国ナショナリズム)と左側の台湾ナショナリズムの中間に,現状維持を志向するゆるやかな「台湾アイデンティティ」がある。右側の中華民国ナショナリズムはしだいに小さくなり,ここに支持基盤を置いて過半数を制することは難しくなった。左側の台湾ナショナリズムは徐々に拡大してきたが過半数には届かない。最も層が厚いのは中央の「台湾アイデンティティ」であり,過去の選挙ではここを票源とした候補が例外なく当選している。
 2008年総統選挙では,国民党の馬英九が「不統・不独」の現状維持と台湾化路線を掲げ,中央の「台湾アイデンティティ」のところに支持基盤を求めてきた。中華民国ナショナリズムを主張する候補者はいないのだが,そこに属する選挙民は不満であるが馬に投票した。一方,民進党は「正常国家決議文」に代表されるように台湾ナショナリズムを主張し支持基盤を左側に移動させた。結果は中央に大きく進出した馬が圧勝した。
 2012年総統選挙では,中間路線を打ち出して中央の「台湾アイデンティティ」に支持基盤を求めようとする蔡英文とそれを阻止しようとする馬英九との攻防戦が展開された。そこで「92年コンセンサス」が蔡の中央進出を阻む楔として機能した。民進党は「馬は究極の統一派」として馬の支持基盤に楔を打ち込もうとしたが,馬は現状維持路線なので楔とはならなかった。蔡は「92年コンセンサス」に代表される対中政策の議論で説得力のある展望を示すことができず,結局中間派選挙民の支持拡大には失敗し,馬が再選された。
 このモデルを使って2016年選挙における両陣営の立ち位置を示したのが《2016年予想図》である。蔡英文は現状維持を唱え「台湾アイデンティティ」のところで支持拡大を狙っている。国民党は前回と同じく「92年コンセンサス」が蔡の中央進出を阻む楔として機能することを期待しているが,馬の対中政策に対する不満・不安が広がっていること,「92年コンセンサス」を認めても中国側から大した譲歩を引き出せていないことから,その楔として機能は前回よりも低下している。蔡にとっては前回よりも中央に進出しやすくなっている。一方,洪の主張は明確な中華民国ナショナリズムであり,その支持基盤は馬より右側に移動する。その分,票は少なくなる。国民党は,このままではまずいので中間派にアピールする政策を出してくるであろうが,そこで民進党が出す「洪秀柱統一派論」が楔として打ち込まれ,それは有効に機能するであろう。
 このモデルを用いれば,洪の位置が右に寄っているので洪の苦戦は免れないし,蔡にかなりの差をつけられる可能性もあることが予想できる。中間地帯に隙間ができるので,そこを狙って親民党主席の宋楚瑜が無所属で出馬するかもしれない。二大陣営の候補者は決まったが,それ以外の候補者が出馬するのかどうかはこれからである。今のところ施明徳が出馬の意思を示しているが,まずは立候補に必要な署名を集めることができるかどうかを見る必要がある。仮に施が出馬したとしても影響は小さいであろう。少なくとも蔡への影響はほとんどないし,どちらかというと影響を受けやすいのは洪の方である。宋楚瑜が出馬し仮に10%程度の得票を得るとするなら,蔡にも多少の影響はあるが,やはり影響がより大きいのは洪であろう。第三,第四の候補者が出てくるのかどうか,これから10月くらいまで観察が必要である。(2016.6.20)

国家アイデンティティと総統選挙の支持構造の関係:2016年予想図




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2016年台湾総統選挙の見通し(1)

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