台湾地方政治の動向 ― 雲林県2005年


雲林県・張榮味県長の末路(その2)
(その1)はこちら

東京外国語大学
小笠原 欣幸

張榮味の逮捕

 さて,ごみ焼却炉汚職事件で指名手配された張榮味は,その後約4ケ月間逃亡を続けたが,2004年12月10日,立法委員選挙投票日のまさに前日に雲林県の斗六市郊外で逮捕された。新聞報道では,張榮味は子連れの女性と会っていたところを逮捕された。警察は,5日前からこの女性をマークしていたという(『聯合報』2004.12.16)。張榮味は,選挙が終了し政治情勢が落ち着く12月20日に姿を現すという情報を流していたので,投票日前日の逮捕は想定外であったとしている。これが想定外の逮捕であったのか,周到に計算した上での逮捕劇であったのかは断定できないが,張派の選挙情勢を有利にしたことは間違いない。雲林県で「意図的説」を信じている人はかなり多いと思われる。
2004年立法委員選挙雲林県選挙区の投票結果
順位
候補者
所属
得票数
得票率
当落
張麗善
無所属51436 14.70%
張碩文
国民党42221 12.07%
許舒博
国民党39233 11.21%
林樹山
民進党38313 10.95%
陳憲中
民進党34226 9.78%
尹伶瑛
台連33053 9.45%
林國華
民進党29034 8.30%
陳劍松
親民党28817 8.24%
曾蔡美佐
無所属20310 5.81%
10
侯惠仙
国民党180215.15%
11
林明義
無所属6256 1.79%
候補者総数は18名。12位以下の候補は省略。
 張榮味逮捕のニュースが流れると,妹の張麗善候補(無所属)は,選挙戦最終日の夜「みなさんの力をより結集させて,票でもって兄の潔白を証明してください」と支持者に懇願した。もともと当選圏内にあった麗善陣営の勢いはさらに増した。張榮味逮捕のニュースは,翌日(投票日当日)のテレビでも繰り返し報道された。高齢の母親が息子の無実を訴えて涙する姿も映し出され,同情票に寄与したと考えられている。選挙結果は,妹の張麗善がトップ当選,同じく張派の張碩文が2位当選と,張派の候補が圧勝した。陳劍松の落選は,張派の票が直系の2名に流れたことと,親民党自体の凋落が影響したものと思われる。
 筆者は,選挙情勢を調査するため,投票1ケ月前の11月13日-14日,雲林県を訪問した。この時,幸いにも張榮味の側近に話を聞くことができた。この人とは5年ぶりの再会であった。5年前の1999年,筆者は張榮味の事務所を何度か訪ねて,この側近と知り合いになった。今回この人は,張榮味の妹の選対本部の責任者を務めていた。県内の選挙情勢を聞いているうちに,この側近は,選挙の予想をしたメモを筆者に渡してくれた。当選者予想だけではなく当選の順位までも予想したものである。結果は,民進党の当選者が違っていただけで,ほとんど合致していた。雲林県は定数6名の中選挙区で,しかも今回は現職,元職,新人の有力候補が11名もひしめくという状況で,予想が非常に難しかった。地方派閥の力が全体的に衰えつつあるとはいえ,このあまりにも正確な票読みには驚かざるをえなかった。なお,この時は張榮味が逃亡中であったので,筆者はこの側近に張の居場所を尋ねた。側近は,張が県内に潜伏していることを示唆した。

無期懲役の求刑

 一方,逮捕された張榮味は拘置所に移送され,ただちに取り調べが始まった。翌2005年1月17日,雲林県地方検察署は,ごみ焼却炉汚職事件の捜査を終え,張榮味を含む関係者10名を起訴した。検察は,張にたいして,無期懲役,公民権終身剥奪,および,追徴金1000万元(約3500万円)の求刑を行なった。先に身柄を拘束された顏嘉賢(県の環境局長)および陳河山(林内郷長)にたいしては,共に,懲役15年,公民権剥奪10年の求刑がなされた。台湾では汚職にたいする刑罰が非常に厳しく(にもかかわらず汚職は絶えない),今回の張榮味の求刑が異常に重いということはない。張の弁護士から保釈請求が出されたが,雲林地方裁判所は,張が逃亡していた事実を重く見て請求を退け,さらに3ケ月間の拘留を決定した。
 検察の起訴状の内容の中心部分は次のとおりである。開発業者である達和公司は,旭鼎公司を使って,焼却炉建設の環境評価審査の通過と最低落札価格の漏洩を張榮味に依頼し,その見返りに8000万元を渡すことを約束した。ただし,実際に張に渡った金額は1000万元である。焼却炉建設予定地は浄水場から1qも離れていないため,環境悪化が懸念されたが,この建設案件は県の環境審査を通過した。張榮味と顏嘉賢は,捜査段階から一貫して容疑を否定した。陳河山は,業者から1800万元を受け取ったことは認めたものの,これは土地の仲介料であって賄賂ではないと主張した。このごみ焼却炉は民間委託形式のため利害関係が複雑に入り組んでいたが,検察は,官民癒着の汚職事件として起訴した。検察の立件は,業者側の供述に基づいているようである。
 張榮味は,この起訴を陳水扁政権による政治迫害であると抗議している。すなわち,2004年総統選挙で張榮味が連戰陣営を支持したことにたいする政治的報復だ,というのである。この主張にたいし,雲林県地方検察署の蔡啓文検察官が次のように述べている。「この案件は本来,昨年の総統選挙前に執り行なうはずであったが,宋楚瑜が張榮味の前で跪くという出来事があり政治情勢が混沌としてきたこと,加えて,当時は陳水扁総統と張榮味の関係が非常によかったので,政治的捜査というレッテルが貼られることを心配し,捜査の着手を延期した」(『聯合報』2005.1.18)。政治的報復という説は当たらないものの,検察側が,政治的考慮で捜査着手のタイミングを計っていたことは確かなようである。 ※(その1)で書いたように,総統選挙前に地元で噂されていた案件は,議長選挙買収事件の判決がいつ出るかということであって,このごみ焼却炉事件ではない。宋楚瑜が跪いたのは,前者に関してである。すなわち,張榮味が連宋ペアを支持すれば陳水扁から司法を使った報復がなされ,張に害が及ぶとして,張に詫びるふりをして支持表明を迫るパフォーマンスであった。

張榮味の解職

 2002年11月に焼却炉建設工事が始まると,反対派住民は実力行使に出て,林内郷で抗議する地元住民と警察との間で何度も衝突が発生した。建設反対運動を率いていたのは,当時立法委員の蘇治芬と県議会議員の尹伶瑛であった(両名とも女性である)。この2人の女性闘士が,建設の許可,業者の選定,環境評価の疑点について息の長い追求を続け,政治家への資金還流疑惑,郷長のリコール請求へと争点を拡大していく活動を行なってきた。両者とも,以前から張榮味を黒金の政治家であると厳しく批判してきた。焼却炉問題で,両者の張批判はさらに鋭さを増した。これは,環境保護運動であると同時に,張榮味打倒の政治運動でもあった。立法委員選挙で台連から立候補した尹が当選できたのは,陰で蘇の支援があったからである。
 裁判所が3カ月の拘留延長を決定したことはすでに述べたが,これが張榮味県長の解職につながるか否かについて法的論争があった。台湾の「地方制度法」の第80条は,6か月間連続して職務を遂行しない首長は解職される旨を規定している。張榮味は,2004年8月から姿をくらましていたので,2005年2月まで拘留が続けばこの規定に合致するという見解もあったが,内政部(自治省に相当)は,この規定は「職務が遂行できない」ではなく「しない」首長にたいするものであるとして,拘留により「職務が遂行できない」張県長には該当しないという解釈を示した。
 しかし,張榮味の命運は変わらなかった。2005年3月10日,台湾の最高法院(最高裁)は,議長選挙買収事件で張榮味らの上告を棄却し,高等法院台南分院の原判決を維持する決定を下した。これにより,張榮味の懲役1年,公民権剥奪2年の有罪が確定した。確定した買収の内容は,1994年2月,県議会議長の再選を狙っていた張榮味は,副議長を狙っていた陳國益と共に,票固めのため,県議会の15名の新人議員およびその家族を16日間の海外旅行(シンガポール,インドネシアなど)に招待し,帰国後もさらに日月潭への観光旅行に連れ出したというものである(『中時晩報』2005.3.10)。張榮味は,拘置所から刑務所に移送された。
 判決が確定したことによって,「地方制度法」の第80条ではなく,第79条の有期刑確定者解職条項により,県長の解職が決まった。それまでの張の身分は,逃亡期間も含めて停職中であった。停職の場合は副県長が代理を務めるが(副県長は張榮味の腹心),解職となれば,中央政府の内政部が代理県長を派遣する。派遣される人物は当然民進党系の人物となり,2005年12月の県長選挙までの1年弱の期間とはいえ,民進党が初めて雲林県の予算執行や人事に関与することになる。内政部は,民進党員で基隆市長を1期務めた李進勇を代理県長として派遣することを決定した。李進勇は雲林県の出身であり,県政府の緑化を進める上でうってつけの人選であった。張の解職と共に,副県長,新聞局長,教育局長,県長室機要秘書ら県幹部も辞職した。着任した李進勇代理県長は,獄中の張榮味を何度か面会に訪れ「県政の教えを請う」などして,スムーズな県政掌握に努めた。

張派の苦境

 張榮味の解職は,雲林県の地方政治の転換点となる事件であった。張派は,上述のとおり立法委員選挙で自派候補を1位2位で当選させ政治力を誇示した。また,2005年4月に行なわれた台湾省農会役員の改選で,張麗善の夫である張永成(雲林県農会総幹事)が台湾省農会の総幹事に当選し,影響力が衰えていないことを示した。だが,大ボス(台湾では龍頭と呼ぶ)が入獄したのでは,張派の苦境は免れなかった。最大の問題は,2005年12月の県長選挙への対応であった。張榮味は,腹心ながら政治色の薄い副県長の張清良を推す意向を早い段階で表明していた。しかし,張清良は選挙を闘った経験がなく,知名度も低かった。張派の支援態勢を整えるにしても,張榮味自身が自由に工作できての話である。張榮味は獄中から話し合いによる候補一本化を呼びかけたが,県長ポストを狙っていた許舒博は,話し合い決着を拒否し,あくまで国民党の予備選で闘う意向を表明した。
 国民党の県長候補を決める予備選挙は,2005年4月-5月に行なわれた。6名が出馬を表明したが,本命は,許舒博(許派),張清良(張派),および張派から離れた県議会議長の陳清秀の3名であった。対立の激化を避けるため,県党部の判断で党員投票は中止され,予備選は民意調査のみで決定されることとなった。世新大学,台大国家発展研究院,成功大学の三個所に依頼した民意調査の結果は,許舒博が51.5%,陳清秀が24.0%,張清良はわずか13.5%であった。国民党の公認候補は許舒博に決まった。張清良は,国民党を離党して無所属で立候補する構えでいた。民進党は蘇治芬の擁立を決めていたので,国民党が分裂選挙になれば敗北は必至であった。しかし,張清良は2005年9月30日,正式の立候補届出の直前に辞退を表明した。理由は本人の健康問題であったが,張派が候補を立てて敗北することの政治的マイナスを計算し,あえて候補を立てない決定をしたとの指摘もある。

2人の候補者と張榮味

 こうして,県長選挙は,国民党の許と民進党の蘇の藍国ホ決となった。蘇治芬は,媽祖廟(朝天宮)で有名な北港の出身で,1953年生まれの52歳。父親の蘇東啓は,県議会議員を4期務め県の悪政を批判して活躍し,1960年には県長選挙に立候補し,国民党現職の林金生に挑み善戦した。だが,1961年に政府転覆準備容疑で逮捕され,無期懲役の判決を受け,全財産を没収された。 ※蘇東啓は,蒋介石死後に減刑され1976年出獄した。1992年に死去。2000年6月に政府から蘇案受難者18名の1人として補償金が贈られた。
 当時は白色テロの時代であった。母親の蘇洪月嬌も同時期に犯人隠匿の罪で逮捕され,赤ん坊を抱いたまま2年間投獄された。6人姉妹兄弟の次女であった蘇治芬は,親戚の家に引き取られた。母親は出獄後,夫に代わって民主化を訴えるため選挙に出馬し,県議会議員,台湾省議会議員を長く務めた。1993年には民進党の公認候補として県長選挙に立候補し,廖派の創始者廖泉裕県長に挑んだが,僅差で敗れた。その後母親は政治から引退し,長女治洋と次女治芬がその活動を引き継いだ。 ※蘇洪月嬌は,癌で治療を受けていたが,2004年2月28日の手護台湾運動に参加した。2004年8月に死去。
 蘇治芬自身,若いときから党外運動に参加し,1979年の美麗島事件にも参加した経験を持つ。1996年-2000年は国民大会代表,2001年-2004年は立法委員を務め,民進党の大型集会の司会をするなど知名度の高い人物である。ただし,一家が政治に携わり蘇家班と呼ばれる存在になったことで,ネガティヴ・キャンペーンの対象となったり,芳しくない評判が流れたりすることも少なくなかった。 ※蘇治芬候補の雑誌インタビュー記事はこちら
 たいする許舒博は,県西部の台西の出身で,1963年生まれの42歳。父親の許文志は,国民党雲林県党部主委および県長を2期(1981年-1989年)務めた許派の創始者である。県長退任後,許文志は,台湾省政府建設庁長,国民党中央組工會主任を経て,連戰のブレーンとなった。許舒博は,29歳で1992年の立法委員に初めて立候補したが落選した。しかし,1995年の立法委員選挙で初当選して以来連続4回当選している。許派の龍頭の地位を父親から引き継いだ許舒博は,国民党中央の中央常務委員会入りも果たし,蘇に劣らない知名度を持っている。許舒博自身は国民党の若手エリートとして育てられ,高学歴で海外留学の経験もあり,黒金批判をして地元の旧来型地方派閥と一線を画そうとしているが,支持基盤を親から受け継いでいるため,しがらみやいざこざもある。許派の事務所や幹部宅に銃弾が打ち込まれる事件も何度か発生している。 ※筆者は,以前,許舒博にインタビューを申し込んだが断られた。許に関する記述は,関係者からの聞き取り調査に基づいている。
許舒博・立法委員
許舒博・立法委員
立法院サイトより

 張榮味は,許舒博とも蘇治芬とも対立してきたので,どちらが勝ってもおもしろくない,踏んだり蹴ったりの状況に陥った。民意調査では,許舒博と蘇治芬はほとんど五分五分,ないしは蘇がわずかにリードという状況であったので,張派がキャスティング・ボートを握ったという観測もあったが,それは間違いである。キャスティング・ボートとは,どちらかを勝たせることによって自分が有利になる状態において使う用語である。張榮味にとっては,どちらが当選しても自分に不利であり,籠絡しようにも打つ手がない状況であった。
 張榮味と許舒博との確執は,派閥対立の早い段階に遡るが,決定的対立に至ったのは1999年のことである。この年,蘇文雄県長が急死し,補欠選挙が行なわれることになった。1997年の県長選挙で落選し,政治生命が危なくなっていた張榮味は,再起を期して選挙準備を進めていた。張は無所属での出馬で,国民党の公認候補張正雄,民進党の公認候補林中禮との三つ巴の闘いであった。下馬評では,張榮味が強いとされていた。許舒博は国民党公認候補を支援し,張榮味と対立する。9月21日台湾大地震が発生し,10月16日に予定されていた選挙は約1ケ月延期され,11月6日に設定された。
 地震の被害は雲林県内にも及び,斗六市では大型マンションが4棟倒壊した。他のマンションは倒壊しなかったので,地元の人々は,これらのマンションを建設した漢記公司が手抜き工事を行なったのではないかと疑った。ある筋から,漢記公司は張榮味と関係があり,漢記公司が手抜き工事で浮かせた金が張榮味に流れたという噂が流された。続いて,事情を知らない台北のPR会社がある組織から依頼を受けて,張榮味と漢記公司との関係を攻撃するビラを作成した。張榮味陣営は必死で否定したが,張にはもともと黒金のイメージがあったし,大地震後の世論は冷静ではいられなかったため,この噂はまたたく間に広がった。張榮味の選挙情勢は一変し,大変な苦戦となった。張榮味はやっとの思いで当選した。そして選挙後に,この噂は事実無根であったことが判明した。漢記公司がコストを削減するため安全対策を怠り強度不足のコンクリートを使うなど手抜きを工事を行なっていたことは明らかになったが,漢記公司と張榮味とは関係がなかったのである。張榮味にとって,許舒博は不倶戴天の敵と言ってよい。 ※漢記公司の関係者は過失致死罪で起訴され,会長の劉太漢には2審で懲役9年の判決が下された。
 一方,蘇治芬は半生をかけて国民党と闘い,雲林県の地方派閥を激しく批判してきた。張榮味は,蘇治芬ら雲林県民進党の批判の槍玉に何度も挙がった。そして,張榮味の転落の引き金となったごみ焼却炉建設問題では,蘇治芬と尹伶瑛が抗議活動を率いていた。張榮味にとって,蘇治芬も相容れない敵であった。2005年5月には,張麗善が尹伶瑛の顔を平手打ちするという出来事も発生した。このことからも,張派が尹伶瑛および背後の蘇治芬を憎んでいることが伺える。

県長選挙の結果

2005年雲林県長選挙の投票結果
候補者
所属
得票数得票率
蘇治芬民進党201,19253.36%
許舒博国民党167,69044.48%
林佳瑜無所属8,12502.16%
 張榮味がどちらかの候補に肩入れするのではないかという憶測が何度も流れたが,結局,張榮味は最後まで態度を表明しなかった。両候補は接戦を続けていた。年代テレビの民意調査(2005.11.9-10)では,蘇が23.1%,許が21.9%,TVBSテレビの民意調査(2005.11.28-29)は,蘇が31%,許も31%であった。張派のメンバーは,それぞれ個別の判断で投票することになった。張派は勢力温存のため,同時に行なわれた県議員選挙,郷鎮市長選挙に精力を向けた。県議会で多数を占めれば,引き続き影響力を維持できるからである。
 台湾全体では,陳水扁政権にたいする失望感が広がり,民進党の候補はどこでも苦戦を強いられていたが,蘇治芬は着実に支持を固めていった。従来の国民党候補が雲林県の振興策として工業商業の誘致を公約に掲げてきたが,雲林県経済の停滞はなかなか改善しなかった。蘇は「農業首都」というキャッチフレーズを用いて,農業振興を正面から訴えた。これは県の選挙民,特に農業関係者にアピールした。許舒博は「農業昇級・工商進駐」という普通のキャッチフレーズであった。加えて,県内での台湾アイデンティティ(地元では本土意識と呼ばれる)の広がりが蘇の勢いの背景にあった。雲林県では,国民党地方派閥の権力が異常に強かったため,その頚木から脱却するのに年月がかかり,張榮味の失脚というチャンスを待たねばならなかったと言える。宜蘭県より24年,台北県より16年遅れて,雲林県でもようやく民進党県長誕生の条件が整ったのである。
 選挙戦最終日の夜,両候補は都市部の斗六市を練り歩いた。許舒博は支持者に囲まれてのパレード,蘇治芬は1人列の先頭に立ち両手を高く上げてVサイン(立候補受付番号が2番である)を作っていた。許陣営の方が人も多く隊列も賑やかであったが,蘇治芬は真っ赤なジャンパーとVサインが映え,勢いのある候補特有のオーラが出ていた。結果は,蘇治芬の圧勝であった。政党政治の観点からは,雲林県で初めて民進党の県長が誕生した。女性県長の誕生も雲林県で初めてである。蘇個人においては,亡き父と母が果たせなかった願いの実現であった。
 蘇治芬は,副県長に民進党員の林源泉を指名したのを手始めに,県幹部の人事を固めた。林源泉は,黒道のイメージのある台西郷を地盤とする県議会議員で,若手ながら県議会副議長を1期歴任している(1998年,張派と他派閥が議長副議長人事で争い,ハプニングで林が副議長に当選した)。林は,台湾プラスチックコンビナート(六軽)の環境問題や台西郷など農漁村の地域振興に取り組んできた実績があり,また,県議のかたわら嘉義県の中正大学大学院に通うなど研究熱心で,なかなかのアイディアマンでもある。共に県の沿海部を地盤とするため両者はライバルの関係にあったが,林源泉は蘇治芬と理念を共有するタイプで,よい組み合わせと言えるであろう。 ※筆者は,2000年3月と2001年9月の2回,林源泉から聞き取り調査を行なった。
蘇治芬・雲林県長
蘇治芬・雲林県長
雲林県政府サイトより
 県長選挙と同時に行なわれた県議会議員選挙では,定数43のうち,民進党系の議員はわずか6名しか当選していない。張派の議員が依然として多数を占めている。蘇治芬がどのような県政を展開していくのか興味深いが,県議会では民進党は圧倒的に少数であるので,楽観視はできないであろう。蘇治芬は,恐らく両隣の彰化県と嘉義県の経験を教訓にするであろう。蘇の友人である彰化県の翁金珠県長は,再選を狙った今回の選挙で落選した。決して県政運営に失敗したわけではないが,陳水扁政権不評のあおりを受けた形で支持票が流出した。翁独自の基盤が十分できていなかったのである。他方,嘉義県の陳明文県長は,抜群の行政手腕を発揮し,中央とは別に自分の評価を確立していた。再選にあたって,相手の国民党陣営は対立候補もなかなか出せないほど,圧倒的な強さを示した。彰化,雲林,嘉義の一帯は地方政治の旧い構造と少数ながら都会的な有権者意識が混在し,県政運営には卓越したリーダーシップが必要である。

一審判決と保釈

 さて,上述のゴミ焼却炉汚職事件裁判は,県長選挙前の2005年10月28日,雲林地方裁判所で一審判決が出た。張榮味らは収賄が認定され,張は懲役14年,公民権剥奪7年,追徴金1000万元という判決が言い渡された。その他,顏嘉賢(前環保局長)は,懲役5年,公民権剥奪3年,追徴金1000万元,陳河山(前林内郷長)は,懲役11年4カ月,公民権剥奪6年,罰金200万元,追徴金1800万元の刑罰が下った。張榮味らは上告し,高裁台南分院で控訴審が始まった。
 張榮味は逃亡の恐れがあるという理由で裁判開始後も保釈が認められなかったが,議長選挙汚職事件の判決確定で2005年3月から刑の執行が開始され,懲役1年の刑期の4分の3を過ぎ,また,服役の態度もよいということで,保釈申請が認められた。張は,2005年12月30日深夜,1000万元の保証金を積んで保釈された。4カ月の逃亡生活と1年間の監獄生活を経て,張榮味はようやく土庫鎮の自宅に戻った。マスコミの取材にたいし,張は「今後は政治に関与しない。商売を始めたい」と語った。張榮味が今後どのような影響力を発揮するのかまったく不透明な状況にあるが,張がこのまま政治から足を洗うわけにはいかないであろう。張は,すでに十分すぎるほど波乱万丈の半生を送ってきたが,まだ48歳である。蘇治芬の新県政の展開とともに,張榮味の今後の動向を注視していきたい。(2006.01.11記)

保釈後の張榮味前県長

TVBS NEWSホームページより

http://www.tvbs.com.tw/news/news_list.asp?no=lili20051231080907
http://www.tvbs.com.tw/news/news_list.asp?no=lili20051231112817

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