蔡英文政権論 2 膠着状態の中台関係とトランプ政権の登場 |
東京外国語大学 小笠原 欣幸 |
1.中国のゆさぶり工作 2.習近平の台湾関連発言 3.トランプ当選と中国の反発 4.蔡英文は冷静 |
5.中国も手詰まり感 6.台湾社会の反応 7.トランプ政権への期待と警戒 8.台湾のサバイバル |
2016年1月の総統選挙の結果,台湾の政権は,対中融和を進めた国民党の馬英九から「台湾アイデンティティ」を強調する民進党の蔡英文へ交代した。「中国の夢」の実現のため台湾統一を一歩でも前に進めたい習近平と台湾の現状を守ろうとする蔡英文との溝は深く,中台関係は膠着状態に入った。 中国は「一つの中国」を認めない蔡政権にいら立ち,台湾への圧力を強めている。そこにトランプ政権が登場し,台湾の行方を左右する米中関係の先行きはまったく不透明になった。台湾はこれまでも米中の駆け引きに翻弄されてきたが,弱いなりに生き抜いてきた。台湾は慎重に嵐の中を進もうとしている。 |
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1.中国のゆさぶり工作
中台関係は馬政権期に大きく改善し,窓口機関を通じた接触・交渉だけでなく,政府間の直接対話も行なわれるようになった。それを可能にしたのは玉虫色の「92年コンセンサス」という概念であった。中国側はこれを「一つの中国原則を口頭で確認した合意」と解釈し,蔡英文にも受け入れを迫った。 蔡は2016年5月20日の総統就任演説で,「1992年に若干の共同認識と了解が達成されたという歴史的事実は尊重する」と表明し,ぎりぎりのところまで歩み寄る姿勢を見せたが,「92年コンセンサス」そのものは語らなかった。中国は「回答が不十分」として,台湾に対する圧力を強めてきた 1。 台湾ゆさぶり工作は多岐にわたる。中国はまず,中台の対話を一方的に停止した。政府間対話はもちろん,窓口機関を通じた対話も拒否している。台湾の窓口機関「海峡交流基金会」がファックスやスマホのショートメッセージを送っても中国の窓口機関「海峡両岸関係協会」は返信をしない。 そして,中国は台湾を訪問する中国人観光客を減らした。蔡政権登場後,中国人旅行者数が激減している。2016年全体では中国大陸から台湾を訪れた旅行者数は2015年と比べて16.1%減少した。《表1》は毎月の訪台者数の増減を出身国・地域別に前年同月比で示したものである。台湾を訪れた旅行者数の減少が著しいのは中国大陸からだけであり,しかもその減少は蔡政権が登場した2016年5月から始まったことがわかる。 減少が本格化した2016年8月から12月の5か月間に中国大陸から台湾を訪れた旅行者数は前年同月比で月平均38%の減少率を記録した。一方,同期間の中国大陸以外からの台湾旅行者数は月平均で16%伸びている。中国大陸からの訪台者数のみが減少しているので,この減少は人為的と考えるのが自然である。中国側は公式には認めていないが,これは台湾経済に打撃を与える狙いと考えられる。 (出所)交通部観光局の観光統計資料を参照し筆者作成 (http://stat.taiwan.net.tw/system/index.html) また,中国に進出している台湾企業の一部への税務調査の動きもあるし,馬英九時代に申請したアジアインフラ投資銀行(AIIB)への台湾の加盟についても中国は認めていない。馬英九時代にはゲストとして出席できた国際民間航空機関(ICAO)の総会に,2016年は参加できなかった 。 馬英九に対するいやがらせもあった。馬は退任後初の外遊として2016年11月にマレーシアを訪問し,世界華人経済論壇に出席したが,当初「前中華民国総統」として主催者から招請を受けたにもかかわらず,その場で「世界華人リーダー」に肩書を変更された。これは中国側がマレーシアの主催者に圧力をかけたためで,馬英九は抗議の記者会見を行なった 3。 台湾内部の分断工作もある。台湾には22の県と市があるが,中国は「92年コンセンサス」を認める国民党系の首長がいる8県市に対してのみ農産物の購入など優遇措置を与えることを発表し 4,民進党系の人物が首長を務める14県市との差別待遇により露骨な台湾分断工作を進めている。 中国共産党の息がかかった団体・個人が蔡政権への反対活動に参加した事例もある。蔡政権は,日本の福島周辺4県産の食品輸入制限の緩和に向け12月25日に公聴会を実施したが,そこに中華統一促進党という統一派団体が押しかけ公聴会を妨害した 5。蔡政権が進める年金改革では対象となる退役軍人らが反対している。2016年9月3日には年金改革に反対する大規模な抗議集会が行なわれた。その抗議活動の主導者の1人である呉斯懷(退役陸軍中将,元陸軍副総司令)は,同年11月11日北京で開催された中国共産党主催の「孫文誕生150周年記念大会」に出席し,習近平の演説を拝聴したと報じられた 6。 2.習近平の台湾関連発言 2016年の習近平の台湾に関係する発言は,共産党の行事での講話が3回,会談の場での講話が1回,地震被害への見舞い1回の計5回あった。それらを《表2》に整理した。2015年は「地面が動き山が揺れる」という強い言葉と中台首脳会談という大きな動きがあったが,2016年はそのような大きなサプライズはなかった。2016年の習の講話の基本トーンは「一つの中国」の堅持と「台独反対」で蔡英文を牽制し,圧力を加えるもので,表面上は蔡政権発足の前後で大きな変化はなかった。 他方,水面下では2015年以来,蔡英文と習近平との間で何らかの接触・交渉があったようである。両者の駆け引きについては,松田康博が詳細に分析しているので,松田論文「蔡英文政権の誕生と中台関係の転換―「失われた機会」か、「新常態の始まり」か?」(近刊)を参照していただきたい。松田によると「互いに一定程度歩み寄ったが,双方が歩み寄ったタイミングはずれており,妥結することはなかった」という 7。
(http://cpc.people.com.cn/) 習近平の講話に話を戻すと,注目しておきたいのは,「一国二制度」への強い言及と「統一」 イコール 「中国の夢の実現」とした発言である。まず,「一国二制度」への言及は,2014年9月に台湾の統一派団体との会談ですでに言及しているので新しいことではない。しかし,胡錦濤が台湾の民意を考慮して台湾向けの発言ではこれに言及しなかったことと比べると,習近平の原則主義的アプローチが際立つ。 「中国の夢」は習近平の重要な理念であり,習指導部の様々な政策を「中国の夢」の実現に絡めている。「夢の実現」に「台湾統一」が含まれることは中国では常識であるが,習近平は就任以来,「台湾を統一してこそ中国の夢が実現する」というような直接な表現は避けてきた。演説の中で「統一」と「夢」が出てきても,演説原稿で見ると両者は離れた場所にある,というやり方である。しかし,2016年7月1日の中国共産党成立95周年講話で,習は「祖国統一は中華民族の偉大な復興の必然的要求。……中華民族の偉大な復興という中国の夢を実現のためがんばるべきだ」と同じ文脈に乗せた。「台湾統一 イコール 中国の夢を実現」と言明したことになる。 国民に目標をわかりやすく語る強いリーダーとしてはこれでよいのであろうが,リスクがないわけではない。「中国の夢」とだけ語っていれば,10年後に中国の発展の様々な現象を集めて「夢が実現した」と実績を誇ることが可能であるが,台湾統一となるとそうはいかない。言論コントロールの体制であるから,「統一に向かってかつてなく前進した」という評価で乗り切るつもりなのかもしれない。 北京大学台湾研究院の院長で全人代の代表を兼ねる李義虎は,習近平の対台湾政策を頻繁に賞賛している。その李義虎が,最近の『中国評論』のインタビューでこのように語っている。「二つの100周年(2021年の中国共産党結党100周年と2049年の中華人民共和国建国100周年)はすぐにやってくる。その時台湾問題がなおも「干された」状態で台湾と大陸が統一していなければ,完全な意味で中華民族の復興とは言えないし,『中国の夢』の実現とも言えない 8。」李の意図はわからないが,このような指摘はいずれ習近平への圧力になる可能性がある。習近平としては台湾への圧力を強め蔡英文の態度を変えさせたいが,中台関係が悪化し胡錦濤時代の中台関係より後退したと19回党大会で報告するのは好ましいことではない。習近平のジレンマも深まっている。 この点で,蔡英文が中国をできるだけ刺激しないようにしていることは重要である。蔡は「中国を挑発しない」と宣言し 9,慎重な言動に徹している。選挙で「現状維持」を公約した蔡は,就任後もそれを守り,中国が警戒する法的な台湾独立の動きを控えている。中国が神経質になっている南シナ海の問題についても中国批判の言動を控えている。対中政策・対外政策を担当する閣僚にはわざわざ国民党色の強い外交官僚を任命した。 中国はそれだけでは不十分だとして執拗に「一つの中国」の受け入れを迫っているのだが,「台湾アイデンティティ」の潮流に乗って当選した蔡がそうすることはできない。これについて,台湾内部では蔡を批判する声があるが,現時点では中国の蔡批判に同調しているのは国民党支持者であり,中台関係の冷却化が蔡政権の基盤を揺るがすという状況ではない。 蔡政権の支持率は低下傾向にあるが,対中政策は一定の支持を得ている。台湾の月刊誌『天下雜誌』の2017年1月の民意調査で,「蔡政府が両岸関係の処理において『92年コンセンサス』を出さず現状維持を強調していることについて賛成するか否か」という質問への回答は,賛成57.4%,賛成せず32.9%,回答拒否/わからない9.8% であった 10。 馬英九は「92年コンセンサス」を「一つの中国の中身についてそれぞれが(中華民国と中華人民共和国と)述べ合うことで合意した」と解釈することで多数の支持を得たが,その立場はしだいに揺らぎ,結局は貫くことができなかった 11。蔡英文の当選は馬英九が進めた対中政策に対する批判・懸念の広がりを反映している。蔡英文の支持率は低下傾向にあるが,それは国内改革の進め方に改革派と守旧派の双方が不満なことに起因し,対中政策が原因ではない。 3.トランプ当選と中国の反発 トランプは選挙期間中台湾について言及することはほとんどなかった。ただし,トランプを大統領候補に指名した2016年7月の共和党大会で採択された今後4年間の方向性を示す「政策綱領」では,台湾の扱いがアップグレードされた 12。2012年の共和党政策綱領と比べると,レーガン大統領(当時)が1982年に台湾に対して与えた「六つの保証 13」と「ディーゼル潜水艦の建造の技術 14」を含む支援という二つの項目が新たに入った。これは当時ほとんど注目されなかったが,トランプ陣営と共和党主流派との間に台湾重視で一致する傾向があることを示す。 11月のトランプの当選は台湾でも驚きをもって受け止められたが,蔡政権はトランプ周辺との接触を通じて,12月2日の蔡・トランプ電話会談を実現させた 15。電話は12分間と短いものであったが,蔡はトランプに大統領当選の祝意を述べ,トランプは蔡の「台湾総統」就任に祝意を述べた。「両者は,台湾とアメリカの間にある密接な経済的,政治的,そして安全保障の結びつきについて言及した」と発表された 16。 米大統領もしくは大統領当選人が台湾の総統と電話をするのは国交断絶後初めてであった。国際メディアが大々的に報じると,トランプは自身のツイッターで「アメリカは台湾に何十億ドルもの軍装備品を売っているのにお祝いの電話も受けるべきではないというのは興味深い」と投稿した 17。 トランプは続く12月11日にテレビインタビューで,台湾に関してさらに踏み込んだ発言をした。「我々が貿易を含む他のことで中国と取り引きできないのであれば,一つの中国政策に縛られなければならない理由はないだろう」と述べ,米歴代政権が続けてきた「一つの中国政策」に疑問を投げかけた 18。電話会談と合わせ,トランプが中国との交渉で「台湾カード」を使う意図があることが明らかになったと言える。 中国は台湾問題を「核心的利益」と位置づけ他国が介入することも外交カードとして使うことも許さないという立場なので,トランプの言動に強く反発した。中国の一部の学者および中国紙『環球時報』からは,トランプ批判だけではなく,「米との国交断絶も辞せず」という発言が出るようになった 19。中国政府はトランプが就任前ということもあり抑制的な反応であったが,台湾に向けた行動はエスカレートした。 12月10日,中国空軍機10数機が東シナ海から宮古海峡上空を飛行し西太平洋に入り,そのうちの4機が台湾の防空識別圏の南の外側を飛行しバシー海峡に抜けた 20。12月下旬と1月上旬には中国海軍の空母「遼寧」が,艦隊編成で台湾の東海上と台湾海峡を航行した 21。こうした行動は,台湾に対して軍事演習で圧力をかけた江沢民時代のやり方を思い起こさせる。 中国は馬政権期は「外交戦」を停止していたが,それも再開した。12月20日アフリカの小国サントメ・プリンシペ(人口20万人)が台湾との断交を発表し,中国と外交関係を樹立した 22。これで台湾が外交関係を有するのは21か国となった。これらはもともと蔡政権に対する圧力として準備されていたのかもしれないが,蔡・トランプ電話会談で刺激された可能性もある。『環球時報』は「台湾を震え上がらせる」行動が必要だと書いた 23。 中国が台湾と国交を有する国を切り崩すのは見慣れているが,ここにきて新手の手法が現れた。2017年1月11日ナイジェリアを訪問した王毅外相は,ナイジェリア側と「一つの中国原則を堅持する」という共同声明に調印した。王毅外相は,「ナイジェリアが台湾に対し同国駐在機関「中華民国商務代表団」の名称変更,首都アブジャからの移転,権限の削減,人員削減を厳しく命じた」と述べた 24。 そもそもナイジェリアは中国と国交を有し台湾との外交関係がない。改めて「一つの中国原則」を確認する必要はないのである。台湾が国交を有する国はすでに小国ばかりで,バチカンを除けば台湾への打撃は大きくない。そこで中国は,台湾の非公式の対外関係にくさびを打ち込む手法を出してきた可能性がある。ナイジェリアはアフリカ最大の人口とGDPを擁する。今後中国はこれまで黙認してきた台湾の経済貿易関係,民間交流にまで妨害の手を伸ばす可能性がある。 4.蔡英文は冷静 蔡総統は,トランプとの電話会談以降,冷静にふるまった。「一つの中国政策」を疑問視するトランプ発言は台湾にとって非常にありがたいが「諸刃の剣」ともいえる。国際メディアがこぞって米の「一つの中国政策」について報道・解説を出し,様々な議論が巻き起こった。 いずれの報道・議論でも頻繁に言及されるのは,この政策ができたのは1970年代のことで,その当時の台湾は権威主義体制で蒋介石が総統であったが,40年後の今日の台湾は民主主義体制で自由・人権を重視し,台湾の人々の多くは自分を中国人とは考えていないし中国との統一も望んでいないという台湾の変化である。こうした台湾の現状が国際メディアで集中的に報じられ「一つの中国」の意味が論じられたことは台湾にとって重要な機会であり,まさに「トランプ効果」である。 しかし,蔡はトランプ発言についてのコメントを控え,低姿勢の行動をとった。それはトランプが中国を刺激すると中国は台湾に報復するという行動パタンが見えているからである。2017年1月7日から15日にかけて蔡総統は中米4か国を訪問し,その行きと帰りにアメリカに一時滞在した。トランプとの電話会談の後で大統領就任前という時期であったため注目されたが,蔡はそこでも「徹底して控えめに行動」した 25。 米の「一つの中国政策」は,台湾を国際的に封じ込めると同時に台湾の安全を保障する繊細な計算に基づいている。トランプの意図がわからない段階で台湾がうかつに動けば中国に介入の口実を与え,中国共産党内の強硬派を喜ばせることになる。立場の弱い台湾は慎重にしていなければならない。 そして,蔡の慎重なやり方が賢明であったことはすぐに証明された。2月9日,トランプ大統領は習近平国家主席と電話会談し,「我々(米)の『一つの中国』政策」を「尊重する」と述べた 26。結局,トランプも米歴代政権と同じく「一つの中国政策」に戻ることになった。だが,アメリカの「一つの中国政策」の枠の中でも台湾へどういう態度をとるかは幅がある。オバマ政権は比較的中国に配慮していたと言える。トランプ政権の台湾への態度はまだ示されていない。 5.中国も手詰まり感 中国側にも弱みはある。それは台湾を屈服させる手段はいくつもあるが,いずれも決め手に欠くことである。中国の軍事力は台湾よりはるかに強大であるが,台湾にも一定の防衛力があり,アメリカに介入の時間を与えずに一気に上陸侵攻作戦を敢行するのは困難である。中国軍の損害も相当大きくなる。沖縄に米軍が駐留していることは,中国軍にとって大きな制約要因になっている。 中国軍が上陸作戦を行なわず台湾をミサイルで一気に攻撃し降伏させることは可能だが,その先の展望は描けない。上陸侵攻にせよミサイル攻撃にせよ台湾の犠牲は計り知れず,中国に対する敵意が渦巻く。それでは統一したところで外国の軍隊の占領と同じで,その後の台湾統治は血みどろのものになる。だからこそ中国は,鄧小平以降「平和的統一」と言い続けている。 一方,直接的軍事攻撃の手段を用いなくとも,台湾を中国市場から全面的に締め出し台湾経済を崩壊に追い込むことで屈服させることは恐らく可能であろうが,それも台湾の人々の中国への敵意を極度に高め,その後の台湾統治はやはり困難なものになる。このように,台湾は弱小であるが,中国にも決定打がないため微妙なバランスが成立している。 中国の台湾への圧力が増す中,2017年1月20日に中国共産党の「2017年対台湾工作会議」が開催された。これは,年に1回,対台湾工作に従事する党・政・軍および地方の人員を集めて開催し,対台湾工作の実務を議論する重要な会議である。 会議後に発表された最高指導部の兪正声の講話の要点は,「92年コンセンサスの堅持,いかなる形式の台独分裂活動への反対,国家主権と領土の完全性の維持」など党の基本路線の維持であり,具体的な項目としては,「両岸の民間の交流・融合,両岸の民衆の参加,台湾同胞の便宜を図る措置の研究,台湾企業の発展の支持」などが提起された 27。 「対台湾工作会議」の重要講話の発表の形式は毎年同じであるが,用語のわずかな違いから力点の変化を読み取ることもできる。2017年の兪正声講話の要点は,蔡政権への強い警告と,両岸交流の発展・拡大という硬軟両様の方針であり,おおむね「2016年対台湾工作会議」と同じ主旨である。 注目しておきたいのは,2016年の「台湾青年が大陸に来て,交流・就学・創業・就業するための条件を積極的に作り出す」という記述が,2017年は「台湾同胞の大陸での学習・就業・創業・生活の便宜を図る措置の研究」に変わったことである。「台湾青年」が「台湾同胞」に一字変わっただけであるが,これは,台湾人民にも中国公民と同じ資格・権利・待遇を与えるという「国民待遇」付与の議論を指している。主体が「台湾青年」であれば例外的措置であるが,「台湾同胞」となれば一般的措置となる。 中国の「一つの中国原則」では台湾は中国の一部としているが,実際の行政管理では台湾人民は外国人として扱われている。「国民待遇」の議論は,当初は中国大陸に滞在する台湾商人やその家族の医療の問題での便宜供与として出てきたが,「台湾同胞」に各種の便宜・利益を提供する包括的措置の検討へと拡大し,中国の学者・専門家の議論の中でしだいに統一工作の「切り札」の一つとみなされるようになった。現時点ではどの程度の「待遇」になるのか不明であるが,これは「大陸の善意を示して台湾人を取り込む」という胡錦濤時代の路線の延長線上にあり,台湾を徹底的に締め上げ統一受け入れを迫るという強硬路線とは異なる。 つまり,『環球時報』に代表される対台湾強硬論とは裏腹に,中国共産党の実務レベルの方針は冒険的な対台湾政策を打ち出すには至っていないのである。これらを総合的に検討すると,空母の航行などの威嚇行為はむしろ中国内の焦燥感の現れと考える方が適切であろう。台湾への圧力を強めている習近平指導部だが,19回党大会を控えて手詰まり感が漂う。 6.台湾社会の反応 中国の爆撃機や空母が台湾周辺を飛行・航行し威圧しても,台湾人は冷静さを保っている。中国海軍空母「遼寧」の台湾近海航行について,台湾の著名評論家の周玉蔻は,「空母で台湾人を脅かそうとした中国の目的は空振り終わった」という興味深い観察をしている。「米日台の政府関係者は神経を張りつめているが,台湾の民衆はゆうゆうとしている。……台湾の一般民衆にとって空母は武力の象徴としてあまりピンとこない,特に若い世代には 28。」 中国人観光客の減少も,いまのところ台湾経済への打撃にはなっていない。《図1》は2016年に台湾を訪れた旅行者の地域別分類である。中国大陸からの訪台者数は全体の32.8%で,確かに大きな比率を占めている。しかし,日本(17.7%),ASEAN諸国(15.5%),韓国(8.3%)からの訪台者数を合わせると全体の41.5%で,中国大陸の比率を上回る。 (出所)交通部観光局の観光統計資料を参照し筆者作成 2016年は日本,ASEAN諸国,韓国からの旅行者が順調に増えたので,中国人旅行者の減少の影響を緩和する効果があった。そのため台湾を訪れた旅行者全体では,2015年の10,439,785人が2016年は10,690,279人へと2.4%増加した。中国人旅行者をメインの客層としていた宿泊・飲食・運輸の個別業者への打撃は大きいであろうが,マクロの観点からは,中国大陸の旅行者の減少が台湾の観光産業全体への打撃になっているとは言いがたい。 それでは,今年2017年の見通しはどうであろうか。2016年8月-12月の数値を年に換算する単純な方法で2017年の旅行者数を推測してみると,中国大陸からの訪台者数の推測値は2,644,886人,中国大陸以外からの訪台者数の推測値は7,938,890人となる 29。合計すると,2017年の旅行者数推測値は10,583,776人で,2016年とほぼ同じ水準と予想される(図2)。 (出所)交通部観光局の観光統計資料を参照し筆者作成 中国人訪台者数は,中国側の政治判断によって左右される。中国側が訪台者をゼロにするような極端な制裁的行為を発動すれば台湾経済への打撃は大きくなるが,今のところそういう方向には向かっていない。先に触れたように,中国側は国民党系の首長がいる8県市を優遇すると表明している。うち2県は台湾の主要観光地を抱える花蓮県と南投県である。花蓮県と南投県のトップは中国との関係があり,中国人観光客の誘致に熱心に取り組んでいる。中国当局が訪台する中国人観光客をこれ以上減らせば,台湾の地方自治体の中でも「親中派」の2県が最も大きな打撃を受ける。中国の対台湾政策にとって矛盾となる。 近年,台湾の旅行業界は「一條龍」と呼ばれる中国・香港資本が中国人旅行者の台湾ツアーを取り仕切る不正常な構造ができている。これは,採算に乗らないような低価格の台湾ツアーを中国で売り出し,中国・香港資本が入っている特定土産屋での買い物で利益を上げるビジネスモデルのことを指す。「一条龍」の中国人業者に連れてこられた中国人客は,台湾の土産物屋の看板をかけた「一条龍」の中国人業者の店に連れて行かれ,買い物をさせられ,その利益の多くは地元台湾ではなく,中国・香港資本の懐に入るという構造である 30。 そのため,近年これほど多くの中国人観光客が訪台しているのに台湾社会全体では景気に貢献しているという実感は少ない。2016年5月から始まった中国人観光客の減少で打撃を受けているのはこうした特定の業者に集中している。台湾の一般の人々の受け止め方は,比較的冷静であるし冷淡でもある。台湾では,これを奇貨として,特定地域からの観光客に過度に依存する構造を転換し台湾の観光産業の競争力の向上を図るべきであるという声も聞かれる。 蔡政権は,台湾経済の中国経済への過度な依存構造を転換しようとする「新南向政策」を推進している。これについては,中国との貿易をやめようとするかのような極端な解釈が一部にあるが,そうではない。これは,台湾がASEAN,南アジア,オセアニア諸国との貿易・投資の拡大,民間交流・人材交流の拡大,医療・文化・観光・科学技術・農業などでの協力拡大を推進し,さらには東南アジア出身の台湾新住民の力も借りようとする総合的な政策体系で,「アジア太平洋地域の台湾」というアイデンティティの確立を目指していると見ることができる 31。 中国経済の成長率が減速し,台湾企業の中国からの撤退も相次ぎニュースとなる状況で,この政策が出てきたのはタイミングとしては時宜にかなっている。しかし,結果が出るまでにはかなりの時間を要するし,中国経済依存からの脱却は容易なことではない。この点では,やはり中国側が優位に立っている。台湾の総輸出に占める中国輸出(香港を含む)の割合はこの数年間,約40%で推移しているが,これを30%程度に下げることができれば成功であろう。 台湾社会の東南アジア,南アジア,オセアニアへの関心は限定的で,現時点では,台湾社会は概して「新南向政策」に懐疑的である。「笛吹けど踊らず」に陥らないようにできるのかどうか,中期的な観察が必要である。 7.トランプ政権への期待と警戒 トランプ政権の主要人事について,台湾メディアが「親台派」「知台派」「友台派」の形容詞をつけて報じた人物は何人かいるが,最も頻繁に名前があがったのは,ラインス・プリーバス(Reince Priebus)大統領首席補佐官,ピーター・ナヴァロ(Peter Navarro)国家通商会議委員長,ダン・コーツ(Dan Coats)国家情報長官の3人である。他に,「反中」「対中強硬派」とされる人物がいるが,「反中」=「親台」ではないので注意が必要である。 また,一部メディアで イレイン・チャオ(Elaine Chao)運輸長官が台湾出身者であることから「親台派」とされるが,これは間違いである。チャオは「台湾派」という人脈にはあたらず,どちらかというと「中国派」とみられる。アメリカの学者によると,彼女はブッシュ政権でも労働長官を務めたが,外交政策に影響を与えた形跡はゼロとのことである。 共和党全国委員長を務めたプリーバスは,弁護士出身で,台湾との交流に熱心で,民進党と国民党の両方とも交流が深い。職務はホワイトハウスの調整で対中・対台湾政策に直接関与するわけではないが,米台の非公式接触で何らかの寄与をするかもしれない。 経済学者で『米中もし戦わば―戦争の地政学』(文藝春秋,2016年)の著者ナヴァロは,カリフォルニア大学アーヴァイン校教授で,台湾に友好的な発言をしている。この先米中の通商問題が先鋭化する可能性があり,そのカギとなるポジションにいるのがナヴァロである。中国に対しては非常に厳しい立場だが,友台派の視点が政策に反映されるのかどうか注目したい。 インディアナ州選出上院議員であったコーツは,議会の親台派グループ「台湾コーカス」のメンバーであった。情報機関の統括者に台湾に理解が深い人物がいることは,台湾に何らかのプラスになる可能性がある。しかし,トランプ大統領がスティーブン・バノンを国家安全会議(NSC)に入れたことでコーツがNSCの常任メンバーから外れたので,政権内での影響力は未知数である。 対中・対台湾政策のキーマンとなるのは国務長官であるが,ティラーソンについては,その台湾観および過去の台湾との関係は台湾メディアの報道からまったく伝わってこない。台湾との交流はあまりなかったのではないだろうか。 トランプ政権の対中・対台湾政策を予想する手掛かりとなるのは,ティラーソンの国務長官指名承認公聴会に関係する発言である。2017年1月11日に米議会の指名承認公聴会が開催されたが,その直後に上院外交委員会のカーディン議員が包括的な書面質問を送っている。その書面回答は,国務省のスタッフあるいはティラーソンの側近が作文したのであろうが,ティラーソンの考えが整理されて出されていると考えられる。 カーディン議員は対中政策に関する質問で,「三つの米中コミュニケ」と「台湾関係法」を挙げて見解を問い質したのだが,ティラーソンは,それらに「六つの保証」を加えて対中・対台湾政策の基礎だとした。さらに「米は台湾への六つの保証を維持する」と明言した。 「トランプ大統領当選人が一つの中国政策は交渉できると示唆し台湾は交渉を有利にする材料にすぎないという印象を与えたのではないか」という質問に対しては,次のように答えた。「一つの中国政策は支持する。台湾の人々は米の友人であり,交渉の材料とすべきではない。米の台湾へのコミットメントは法的コミットメントであり,道徳的要請である 32。」ティラーソン国務長官の台湾に関する見解は比較的堅実だと言える。 2月のトランプ・習近平電話会談は,ティラーソン国務長官がトランプ大統領を説得して実現させたという報道もある 33。アメリカの「一つの中国政策」の枠の中でも台湾へどういう態度をとるかは幅がある。オバマ政権は比較的中国に配慮していたと言える。ティラーソンが書面回答で,質問にない「六つの保証」に言及したことは(しかも2回),台湾にとっては「フレンドリー」と感じるであろう。 米議会の動きも挙げておきたい。「六つの保証」が共和党の政策綱領に盛り込まれたことはすでに述べたが,米議会でも2016年7月6日,「六つの保証」を再確認する決議が採択された。決議文は2015年10月28日に下院に提出されてから審議中に文言の一部が微妙に修正されたが,「米議会は(1)台湾関係法と六つの保証は両方ともアメリカの台湾との関係の礎石である。(2)大統領と国務長官が米台関係の礎石として六つの保証を公然と,主導的に,そして一貫して確認することを勧告する」という決議が,上下両院で全会一致で採択された 34。 また,アメリカの国防計画や予算について毎年議会が定める「国防授権法(National Defense Authorization Act)」の2017年版が12月に上下両院で可決され,オバマ大統領が署名し発効した。この中には,「国防長官は,米国と台湾の間の軍と軍の関係を向上させるため米台間の高級将官と国防にかかわる高官の交流プログラムを実行すべきである」というセクションがあり,交流内容として,「脅威分析,軍事理論,軍隊計画,後方支援,情報収集と分析,作戦の戦術・技術・手順,人道援助・災難救助」が挙げられている。「高級将官」とは現役の軍の将官を指し,「国防にかかわる高官」とは国防総省の次官級以上を指すとの定義も規定されている。報道によれば,米台の軍の高官の交流が盛り込まれたのは初めてだという 35。実際の執行はトランプ政権に委ねられるが,これが部分的にでも実現すれば米台の軍事協力が発展することになる。 このように,米議会では,オバマ政権下で中国の軍事力増強が進み,南シナ海での海洋進出が拡大したことを背景に,中国に批判的で台湾に友好的な流れが見られる。ただし,このことが米の「一つの中国政策」の転換につながるというわけではない。中国との決定的決裂を避けながら台湾との関係の限界を徐々に広げていこうとする動きであろう。これは「現状維持」を掲げなら中国と距離を置きたい蔡政権にとって好ましい流れである。 しかし,台湾にとって警戒すべきは,むしろトランプ政権の出方である。状況は非常に入り組んでいる。すでに見たように政権には「親台派」の人物が数人入っているが,トランプ大統領本人は台湾について自由と民主主義の価値を共有しているとは言及しておらず,台湾をどう評価しているのか明らかではない。 中国に対するソフトバランシングとして台湾でも期待されていたTPPはあっさりと放棄された。トランプ政権が通商問題で中国に対決姿勢をとり中国製品に輸入関税を課したら,中国に部品を輸出し中国で組み立て対米輸出する台湾企業に打撃となり,台湾経済にも悪影響が及ぶ。 通商重視のトランプ政権は,台湾への武器売却と絡めて豚肉市場開放を強硬に要求する可能性がある。TPP離脱を受けてアメリカの農業団体はすでに動いている。トランプ政権に「日米FTAの早期交渉入り」を求める書簡を送った全米豚肉生産者協議会の会長は,「日本および他のアジア市場への強力なアクセスを確保することは米の牛肉・豚肉産業の優先事項」と述べた 36。市場開放圧力はいずれ台湾にも向かうと見た方がよい。 台湾の人々は食品安全への警戒心が極端に高く,飼料添加物ラクトパミンを使用した米国産豚肉に拒絶反応を示しているので,台湾当局も輸入を禁止している。養豚農家と養豚関連業者は中南部の民進党の支持基盤の重要な柱であり,蔡政権が外圧をはねのけることを期待している。蔡政権がトランプ政権の要求に応じた場合には,食の安全の観点から市民の強烈な反発が広がり,また,養豚農家の反発も地方議員や選挙区の立法委員を巻き込み大きな抗議行動に発展するであろう。米国産豚肉輸入解禁は蔡政権への深刻な打撃となる。 トランプ政権が声高に台湾を持ち上げれば,中国は逆効果になるとわかっていても台湾を締め上げにくる。米中交渉のカードとなれば台湾はもみくちゃにされる。台湾が必要としているのは勇ましい言葉ではなく,静かで目立たない着実なサポートだ。日本が東アジアの平和と安定を願うならば,トランプ登場によってその役割は重くなるに違いない。トランプ政権の出方にかかわらず,日台はEPAを含む協力関係を静かに構築していくことが必要である。 8.台湾のサバイバル 振り返れば,台湾は過去40年間,国連および他の国際機関から締め出され,日米からも断交されるという極めて不利な状況の中で,経済を発展させ,民主化を実現し,事実上の国家機構を維持してきた。1996年には台湾の総統選挙を威嚇するため中国が大規模な軍事演習を行ないミサイル2発を発射したが,台湾の有権者は粛々と選挙を行なった。台湾政治は問題が山積しているが,幾多の苦難を乗り越えて今日の台湾を築いてきた経験は,台湾の人々の共有財産である。 台湾は米中の駆け引きから逃れられないが,翻弄されるだけの存在ではない。これまでも嵐の中で居場所を見出し,常にサバイバルを続けてきた。来たるトランプ暴風雨の中で蔡総統がどのようにかじ取りをするのか。対米関係をぐちゃぐちゃにした陳水扁でもなく,中台トップ会談に猛進した馬英九でもなく退屈すぎるほど慎重な蔡英文が台湾の総統であったのは現時点ではよかったと言える。政権交代の真価が問われるのはこれからである。 (2017年2月22日) 【注】
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