台湾学生立法院占拠事件について
- ひまわり学生運動 -

 台湾で多数の学生が立法院を実力で占拠し馬英九総統に対し「中台サービス貿易協定」(以下,「協定」と略記)の撤回を要求するという異例の事態が発生した。台湾政治は民主化後最大の試練を迎えたが,王金平立法院長が事態収拾に動き,学生らは3週間に及んだ占拠を終了し立法院を退去した。学生らは強烈なパフォーマンスによって,「中国に呑み込まれたくない」という台湾人の感情を表出させたと言える。協定の審議はこの先も二転三転する可能性があるので即断は避けなければならないが,立法院占拠事件の経緯・背景とそこから見えてくるものを整理しておきたい。 (2014年4月14日記)

東京外国語大学
小笠原 欣幸


    

 1.占拠の経緯

 直接の引き金となったのは,協定の審議で与党国民党が「委員会審議は終了した」として強引に本会議に送付したことである。協定は,昨年6月に中台の窓口機関の間で締結された。批准の手続きについて,立法院長の王金平が仲介し,協定を「逐条審議,逐条表決,実質審査する」という与野党合意ができた。その後公聴会が20回開催されたが,民進党が審議に応じず,しびれを切らした国民党が委員会審議打ち切りの挙に出たのが3月17日であった。立法院では国民党が多数を握っているため,本会議が開かれれば協定の批准は確実であった。
 この「委員会審議飛ばし」に民進党や多くの社会団体が抗議の声をあげた。3月18日夜,立法院の外で抗議活動を行なっていた約200人の学生が,警備を破って本会議場に入りバリケードを築いた。その夜,ネットを通じて事件を知った学生らが駆けつけ,立法院の中と周辺に陣取る学生はたちまち数千人に膨れあがった。昨年来台湾の若者の間で馬政権への不満が顕在化していたが,それが協定の批准強行をめぐって爆発した形となり,台湾政治を揺るがす大きな事件へと発展した。
 学生らの行動は不法侵入に当たるが,王金平は立法院の責任者として「強制排除は行なわない」と言明したので,警察は強制執行に乗り出さなかった。馬政権も立法院の自律性を尊重せざるをえなかった。また,王金平は,馬総統が呼びかけた行政院と立法院の二院間協議も欠席した。馬政権が追い込まれる事態を王金平が静観したのは,昨年9月馬英九が王金平追い落としの政争を仕掛けたことに対するリベンジという見方も成り立つ。
 当初,学生らは協定が民主的手続きを経ていないことを問題視していたので,「協定を委員会に差し戻し逐条審議をきちんと行なう」が落としどころと思われたが,学生側が立法院占拠をカードとして,「まずは協定を撤回し,中台間の取り決めを監視する法律を作ってから再審議」へと要求を引き上げた。3月30日には学生らを支持する非常に多くの市民(警察発表11万人,主催者発表50万人)が集まり,台北市の中心部で協定批判・馬政権批判の大集会が行なわれた。馬総統は,最初は学生らの要求を強硬に拒否したが,運動の広がりを見て「委員会への差し戻し」と「中台間の取り決めを監視するメカニズムの立法化」について部分的に受け入れる姿勢も見せた。しかし,協定の撤回には応じず膠着状態に入った。

 2.支持が集まった背景

 占拠事件開始後に台湾のテレビ局TVBSが行なった民意調査では,協定への支持が21%,不支持は48%。また,学生らの立法院占拠抗議行動への支持が48%,不支持は40%であったTVBS民調2014年3月21日。学生の行動への賛否は拮抗しているが,国会を占拠し実力で審議を止めるという違法行為への支持が不支持を上回るのは異例である。
 協定への反対の声は昨年6月の締結時にもあがったが,今回のような広がりはなかった。協定反対論は,中国との経済関係が一層緊密化することへの警戒,ここ数年世界各国で発生している反グローバリズムの潮流,台湾経済の低迷と格差拡大への不安・不満などいくつかの要因が合流したものである。協定を歓迎する声もあり,昨年段階での民意の動向は複雑であった。民進党は協定の審議入りを阻止したが,協定そのものに「反対」とは明言しなかった。反対運動は昨年6月以降続いてはいたが広がりは限定的であった。何が変わったのであろうか。
 今回学生の行動に多くの同情・共感が集まった背景には,馬英九が昨年来APEC出席・馬習会談に前のめりになり,就任以来維持してきた「経済では中台の緊密化,政治では一定の距離」の微妙なバランスが怪しくなってきたことへの警戒がある。馬は昨年6月呉伯雄を通じて「一つの中国枠組み」を表明し,9月には消極派の王金平追い落とし政争を発動し,今年2月には中台閣僚会談も実現し,いよいよ次は習近平とのトップ会談かという空気になってきた。
 しかし,低支持率で任期切れが近づく馬英九と就任早々権力基盤を固めた習近平との力関係は,一般の人にとっても危うく見える。台湾メディアで馬習会談の憶測報道が増えるにつれ,馬が個人的な手柄のために何かを犠牲にするのではないかという危惧が広がった。また,協定自体は,利害が複雑に入り組み台湾側に有利な要素もあるので,簡単に「これで台湾がおしまいになる」と概括できるものではないが,馬への不信感が高まる状況では冷静な議論,判断は難しくなる。
 そのような状況で,馬総統が会期内での立法院通過を強く要求し,それを受けて国民党が強引に国会審議をとばして協定批准に突き進んだ。それが潜在的な中国警戒感を顕在化させた。学生らの行動は違法であるが,強烈なパフォーマンスによって,馬政権のなりふり構わぬ姿を突出させ,「中国に呑み込まれたくない」という台湾人の感情を協定批判と馬政権批判に結び付けることに成功した。
 昨年の馬王政争に関して,筆者は拙HPで「(選挙民の馬政権へのイメージが)手負いのイノシシが周りも見ずにひたすら突進するイメージに変わり「危ない」という印象を持ったのでないか」と指摘した。同時に「馬陣営にとっては政権運営がますます苦しくなるので,中台関係で大きな実績を上げて形成を逆転したいという動機は強まるであろう」とも指摘した馬英九政権論(その4)―王金平追い落とし政争。予想した通り馬は突進し,台湾の民意は「危ない」と声をあげたのである。

 3.台湾政治の構造的矛盾

 より大きな枠組みで見ると,台湾政治の構造的問題がある。台湾政治の支持構造は藍緑の二極の中間に現状維持層がある二極一層構造であるが,政党は二極対立に対応する国民党・民進党の二大政党構造である。中間派は選挙では影響力を持つが,政権運営にはほとんど参与しない。選挙で勝つためにはどちらも中間派を重視せざるをえないが,他方,中間派重視では自陣営の支持者の不満が高まる。陳水扁は二期目の途中で中間派の支持を失い,大規模な反対運動に遭い,政権を維持するため深緑に軸足を移した。そうすれば次の選挙で不利になるが,自陣営の中での求心力は回復できる。そのため周りがいっそう見えなくなるという悪弊に陥る。
 馬英九についても同じことが言える。二期目の途中で中間派の支持を失い,大規模な反対運動に遭い,なおも政権をもたせるには軸足を深藍に移すしかない。陳水扁は,そこから「国連加盟公民投票」へと「暴走」した。しかも,陳政権は閣僚を含め粗雑な政策・言動を次々と展開しますます泥沼にはまった。馬英九も残り2年で「暴走」しないとは言い切れない。筆者はそれが馬習会談だと見ていたが,今回の事態はその手前での「暴発」と言える。陳水扁の例からするとこれで終わりではなく,馬政権の深藍を向いた言動はますます増えることも考えられる。台湾の大統領制は,その構造的矛盾により二期目の途中から「暴走」するか「暴発」する宿命から逃れられないようだ。

 4.北京の反応

 3月下旬,北京を訪問する機会があった。話題の中心はこの事件であった。学生の行動について,中国側は,民進党が背後から学生をあやつっていると考えている。民進党への認識はかなり悪化しているので,今後の共産党と民進党との対話,および仮に民進党政権が登場した場合の対台湾政策に影響を与えそうだ。
 中台間の協定に対し台湾で大規模な反対運動が発生したことについて,そもそも中国側の政策に原因があるかもしれないという発想はまったくなく,民進党の陰謀ということで片付けようとしているし,「台湾の民主なんてめちゃくちゃだ」という決めつけも強まっている。学生活動家の何人かが民進党とつながりがあるからといって民進党が立法院占拠を周到に計画したと見るのはあたらない。民進党に多数の学生・院生を思いのままに動かす力はないし,民意の表出の仕方も台湾と中国とでは異なる。体制の違いからか,中国側の台湾理解には限界があると感じた。
 今回の事件によって,馬のAPEC出席の可能性は100%消え,馬習会の可能性もほぼゼロになったと考えてよいだろう。いまや馬習会をやるような状況ではないというのが北京の雰囲気である。協定については「再協議には絶対応じない」というのが中国側の方針である。今後,中台間の実務協議は一定程度進むにせよ,全体的にペースはスローダウンする可能性が高い。ただし,中国が統一工作の手を緩めるわけではないので,台湾への圧力のかけ方には注視が必要だ。

 5.鶴の一声

 膠着状態が続く中,王金平立法院長が動いた。4月6日,王は占拠事件発生後初めて立法院を訪れ,「両岸協議監督条例」が立法化される前は協定の審議に入らないと明言し,同時に学生らに立法院からの退去を促す声明を発表した。これは,中国との取り決めを監視する制度を作ってから協定を審議すべきという学生の主張に歩み寄り,国民党の虚を衝く大技であった。翌7日,学生らは王の提案に沿って10日に立法院占拠を終了すると発表した。馬総統は,「王院長の考え方は馬政府の一貫した主張とぶつからない」という苦しい言い方で肯定的な姿勢を見せるしかなかった。王金平はこうして3週間にわたる異例の事態を「一声」で平和的に収束させたのである。
 立法院は再開されたが,この先「監督条例」の審議一つとっても混乱が続くことは必至である。王院長が,「監督条例」を最速で通過させすぐに協定の審議に入る可能性もあるし,「監督条例」で与野党がいつまでももめて協定がたなざらしになる可能性もある。当分の間,王金平が政局の主導権を握ることになりそうだ。馬は手痛い「倍返し」を受けることになったのだが,そもそも,昨年馬が王の追い落としを仕掛けなければこのようなことにはなっていなかったのである。

 6.暫定的な評価と今後の見通し

 4月10日,学生らはひまわりを手に立法院の本会議場から退去した。学生らの行為について民主主義,法治主義の観点から意見の対立はあったが,台湾社会は若者らの真剣な問題提起を蹴散らそうとはしなかった。ぎりぎりのところで自由と秩序のバランスを維持したと言える。立法院占拠事件の影響は多面的な広がりを持つので,本格的分析は改めて取り組みたい。ここでは暫定的・部分的評価を組み込みながら今後の見通しを短期・中期・長期の視点で簡単に示しておきたい。
 短期:まずは立法院の動向である。王院長の裁定により,「両岸協議監督条例」の審議が先に進む。行政院が提出している「監督条例」案に対しては,民進党,学生らは監視機能が不十分だとして反対している。一般的に条約の締結には行政府の裁量と主導権が認められているが,中台間の場合,通常の国と国との関係ではなく台湾の命運に直結するので,取り決めのプロセスを国会が監視することは望ましい。遅ればせながら,そして不備があっても,そうした制度が学生の問題提起をきっかけに成立するなら台湾の民主政治の一つの自律機能が働いたと評価してよいだろう。
 「監督条例」制定後はサービス貿易協定の批准審議に戻る。審議がどう展開するかは与野党のにらみ合いと王金平の意向がからみ不透明であるが,場合によっては学生らがまた街頭に出てくるかもしれない。台湾の民意のバランス感覚は絶妙であり,今回は民意の多数派は学生側に加担したが,次回も必然的にそうなるとは限らない。その時の学生側の主張と行動の妥当性,および馬政権の対応によって決まるであろう。
 こうしているうちに11月29日の統一地方選挙が近づいてくる。地方選挙ではそれぞれの県市のローカルなイシューと候補者の資質が重要になり,協定あるいは中台関係が議論されることは少ないであろう。しかし,占拠事件は反馬の感情の広がりを示し,これまでの経緯で馬政権にプラスの要因はないので,地方選挙は国民党苦戦となる。他方,民進党が得をしたというわけでもない。民進党は学生らの占拠活動を支援したが,かえって影が薄くなった。民進党は,占拠学生の全面支援ではなく調停者の役割を演じた方が,おそらくは賢かったであろう。民進党は5月の主席選挙で蔡英文が再度主席に選出される。蔡英文が民進党と公民運動との関係についてどのような方針を打ち出すのか注目される。両党とも問題を抱えているが,相対的に見ると,11月の選挙が近づくといずれ民進党が優勢となり,得票総数で国民党を上回る可能性が高い。
 中期:しかし,2016年総統選挙では占拠事件が間接的に民進党の政権獲得を妨げる方向に作用する可能性がある。民進党は対中政策の見直し過程にあったが,対中警戒感情の高まりを見て,党内で「これで必要なし」の声の方が強くなり,地方選挙で民進党勝利となればよけい見直し機運は遠ざかる。民進党が対中政策を見直さず2016年選挙に臨む場合,台湾ナショナリズムで押して過半数を得られるなら別であるが,投票が近づくと2012年のように中間派は民進党に警戒感を抱き,背を向ける可能性が考えられる。もちろん,この先も馬政権が失政を繰り返し完全に国民党ではダメという機運になれば,対中政策に関係なく民進党政権が登場する可能性というのはある。
 一方,国民党はどうであろうか。今回の事態で「台湾アイデンティティ」が強固なことが改めて示された。ポスト馬をねらう朱立倫は,馬から距離をおき,「台湾アイデンティティ」に立つ選挙戦略を展開すると考えられる。
 長期:過去6年間,中国は圧倒的な国力の差を背景に台湾取り込み工作を展開したが,台湾の民意は統一には傾いていない。このことを内外に示したことは,台湾の現状維持の観点からプラス要因である。しかし,台湾経済が停滞すれば長期的にはマイナス要因となる。台湾経済には1980・90年代のような成長力はすでになく,協定の締結に関係なく中国や韓国との成長率の落差が続くことが予想される。経済自由化の取り組みが遅れ,TPPやRCEPなど地域経済協力の枠組みへの参加も難しいとなると,国際競争から取り残されるという不安を惹起させ現状維持を続けることへのあせりを生み出さないとも限らない。台湾は「繁栄と自立のディレンマ」にあるので,振り子の揺り戻しで,中国との経済協議を加速すべきだという声が高まる可能性もある。今回の占拠事件からそこまで先を見通すことは難しいが,短期的な視点だけの判断は危険だと言える。
 立法院は議場占拠が収束したといっても,その構造も議員も同じなので,与野党の不毛な駆け引きと対決パフォーマンスの応酬が続き多くの人を落胆させるであろう。このように,台湾の民主政治に大きな問題があることは否定できないし,近い将来の解決も見えてこない。だが,政権のやり方がおかしければ,陳水扁時代の赤シャツにせよ今回の黒シャツにせよ多くの人が集まって抗議の声をあげそして整然と平常に戻すことができるのは台湾の民主政治の力量を示すと評価することができる。
 3月30日,10-50万人の群衆が台北の中心部を埋め尽くし政権に抗議の意思を表明したが,何の衝突もなく,混乱もなく,ごみも残さず散会した。これが北京であれば武装警察が出動し大変な流血の惨事になっていたであろう。こういう台湾の民主社会・寛容な社会(いささかゆるい社会と言うことも可能であるが)のありかたについても,両岸でやがて理解が広まっていくであろう。 (2014年4月14日記)

学生らの写真
3月30日台北市中心部で開かれた大規模抗議集会。「ブラックボックス(密室協議)反対」のプラカードが見える。2014年3月30日撮影。知人提供の画像につき転載禁止。
学生らの写真
立法院本会議場で10日に退去すると宣言した占拠学生ら。演壇左がリーダーの林飛帆氏,右が陳為廷氏。2014年4月7日撮影。知人提供の画像につき転載禁止。

    
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