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2012年1月 月次レポート(横田さやか イタリア)

月次レポート 2012年1月 
博士後期課程 横田さやか 
派遣先:イタリア、ボローニャ大学

 新年を迎え、気持ち新たにひと月を過ごした。こうして無事に新たな一年を迎えられたことを、報告者の研究生活の充実を支えてくださっている関係者の方々に心から感謝申し上げたい。
 さて、今月はいったん論文執筆作業の手を休め、イタリアの某有名大学が主催する、とある学術シンポジウムに応募するため、研究発表の論旨と方法論を含む応募書類作成に取り組んだ。Call for papersの情報を入手後、締め切り日まで日数の余裕がなかったにも係わらず、ボローニャ大学指導教員に面談とメールを介してご指導を仰ぎ、繰り返し内容を吟味して、シンポジウムの論題に相応しい非常に興味深いと思われるテーマを用意することができた。主催者サイドに面識のある識者はおらず未知の領域であったが、発表者が「公募」される、すなわち研究の成果を披露する機会が開かれていることは極めてめずらしいこと、また所属大学と関わりのない余所で自分の研究がどう評価・批判されるのか試したかったこと、などの動機から、結果を期待せずにあくまで経験を今後に活かす為に応募を決めた。残念ながら審査を通過することはできなかったのだが、結果ではなく、なにより主催者側の対応に解せないものがあり、非常に落胆させられた。報告者が自らの常識をもって想定していたような「公平な」審査が行われた様子はなく、おそらく応募書類を読んでさえもいないとわかる対応だった。知人らに助言や経験談をたずねると、公募は極めて少なく、実際には個人的に行動に出るのではなくコネクションを利用してコンタクトをとるのが「流儀」らしいということがわかり、そうであるならこのために費やした時間をどう次のステップへ活かすことができるのかと戸惑い、ただ落胆するばかりだった。それがこの国らしいところであるのは公然の事実であり、今更気に留めるまでもないが、この環境に身を置いて研究の成果を挙げるためには自分の良識に沿わないことも手段として受入れていかなければならないものなのかと、改めて考えさせられる機会となった。
 一方で、研究の発展の励みになる、実に幸福な経験も得た。博士論文の重要な要素として取り上げることになる作品であり、これまで録画映像と研究書を頼りに調査してきた、19世紀末のミラノで誕生したバレエ作品を遂にスカラ座で鑑賞したことである。この作品<エクセルシオール(Excelsior)> (1881年初演。ルイージ・マンツォッティLuigi Manzotti演出。)は、所謂クラシック・バレエと呼ばれる帝室マリインスキー劇場で完成をみたバレエとは趣を異にする舞踊劇である。当時イタリアでは、バッロ・グランデ(ballo grande)という振付け劇が盛んだったが、<エクセルシオール>はそのなかで最も成功し、唯一現在にわたって再演され続けている作品であるといえる。文明の発達への称賛がこの作品のテーマであり、新しい産業、すなわち文明の光と、半啓蒙主義の闇、すなわち科学の発展を異端とみなす宗教、との対立を表現し、劇中では文明が華々しく勝利する。豪奢な舞台美術を用い、「発達」を象徴する「光」を女性ダンサーが踊り、進歩を拒絶するものという批判的な意味での「伝統」を悪や闇を想起させる「蒙昧主義」として男性ダンサーが演じ、この二項対立のアレゴリーが劇全体の進行役を務める。イタリア国家統一間もない当時の社会を反映し、蒸気船の開発に始まり、電気の発明、スエズ運河開通、仏伊間トンネル開通、といった史実が、バレエ学校の子どもたちを含むコール・ド・バレエによって、次々に舞台に展開され、科学の進歩や友愛といったテーマが象徴的に明示される。こうした明確に聴衆の視覚と感情に訴える過剰なまでの寓意物語の手法は、現在の感覚で鑑賞すると(現在公演されている演出は初演当時のものからいまに相応しいかたちに改定されているとはいっても)、よもや目に騒々しく退屈なものに感じられるかもしれない。しかし、だからこそ、現代においてバレエが発達しなかったイタリアにおける、イタリアらしい特徴を備えるバレエ作品であることがわかる。すなわち、1861年以降、真に「統一」することが至難であり続けたなかで、下層階級、とくに文盲の人々を巻き込むために、そうして文明の発達という新たな共通の「宗教」を確立するために、「踊る身体」が万民に説得力のある表現媒体として地位を確立したのだといえる。ここから発して考えてみても、この国にやがて未来派が誕生すること、この国にこそ他に先駆けて未来派が誕生しなければならなかった意味が、<エクセルシオール>に象徴される「踊る身体」を通していっそうはっきりとしてくることもまた、非常に重要なことである。
 昨年イタリアでは統一150周年を記念して国家規模で様々な祝祭行事が行われた。ファシズムを否定することで共通意識が保たれた時代を過ぎ、改めてナショナリズムが求められている今、この作品もまた再考察される時期を迎えたといえるだろう。スカラ座の観客たちも、相変わらず劇場の人気をひとりで背負って立つロベルト・ボッレRoberto Bolleへの喝采を別にしたとしても、演出に満足しているように見受けられた。

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