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2012年12月 月次レポート(佐藤貴之 ロシア)

活動報告(12月)

執筆者:佐藤貴之
派遣先:ロシア国立人文大学

 今月はブリヤートの歴史、文学に関する資料収集を集中的に行い、拙論「西と東の終焉――ブリヤート文学の答え」の執筆に専念した。拙論自体はほぼ書きあがったが、査読を通し、加筆・修正を行う必要が出たため、完成稿を提出するまでに行うべき作業がまだ残っている。論文の提出は来年度にまたがると思われる。
 ブリヤートはロシア、モンゴル、中国に暮らすアジア系民族で、十九世紀から連綿と続いているロシア文化の「西と東」の問題意識とも密接な関係を持っている。日本国内ではブリヤート文化に関する研究は少ない。そして、ロシアにおいても決して研究が盛んに進められているとはいえない。その理由として、ヨーロッパ・ロシア(ウラル山脈以西)がロシア文化の中心地であり、流刑地(あるいは植民地)として発達したシベリア、極東ロシアは辺境として認識される傾向が強く、シベリア先住民の文化はさらに軽視されていることが挙げられるだろう。また、ロシア連邦ブリヤート共和国の公用語はロシア語とブリヤート語であり、こうした多言語環境が研究をさらに困難なものにしている。ブリヤート語を解さない執筆者自身、拙論の執筆に際してはロシア語の文献を中心的にあたらざるをえなかった。
 ロシア国内のブリヤートはエニセイ川から先の東シベリアを中心に暮らしている。この東シベリア、あるいは北アジアは日本民族のルーツであるという説もあり、日本の民俗学者らも関心を高くしている。また、ブリヤート共和国の首都ウラン=ウデは、戦後の日本人抑留者が数多く強制労働を強いられていた都市であり、首都には日本人が建設した建築物も数多く残されている。
 このように、ブリヤートは日本と歴史的接点も多いことから、さまざまなレベルにおいて日本との交流が行われている。拙論では、帝政ロシア、ソ連邦がブリヤートに対して採った政策の過程で構築されたブリヤートの多文化主義に焦点を当てた。そして、その多文化主義を象徴するブリヤート文学の民衆詩人ナムジル・ニンブーエフ(1948-1971)の創作を「西と東」のパラダイムの中で分析した。拙論の執筆に際しては、ウラン=ウデの流刑地を生きたデカブリストの日記、書簡集(ベストゥージェフ兄弟、キュッヘリベケル兄弟など)、シベリアの流刑地を経験したドストエフスキーの創作(書簡集、『死の家の記録』)、シベリアを横断したチェーホフの創作(書簡集、『シベリアの旅』、『サハリン島』)、シベリアの流刑地に関する先駆的研究(S.マクシーモフの『シベリアと流刑地』Сибирь и каторга、P.ヤクーボヴィチの『追放された人々の世界で』В мире отверженных、その他)、西シベリアで刊行された流刑地に関する研究書の多くを参照した。
 拙論の執筆に際しては、ブリヤート共和国出身の文化人、研究者から惜しみない協力の数々を頂戴した。この場を借りて、お礼を申し上げたい。

 また余談になるが、年末・年始を利用し、大学寮を退去、一般のアパートを借りることとした。大学敷地内は警備が厳重で治安こそ良いものの、衛生面でのトラブルや、騒音に悩まされることがおおかった。そして、大学は都心にあるため、深刻な大気汚染の中で暮らさざるをえない。また建物は老朽化しており、水質が極めて悪く、皮膚病にも悩まされることも多かった。執筆者は田舎育ちであるせいか、都会暮らしにはやはりなれることが出来ない。そこで郊外への引越しを決意したわけではあるが、ロシアで初めて物件を借りるということもあり、大変な苦労を経験した。モスクワでは非ロシア系住民の排斥が深刻なレベルに達しており、中でもアジア系住民は入居を断られるケースが非常に多い。執筆者自身、物件を練り歩いたが、アジア系であるため入居を断られ続けた。ようやく年明けに物件が決まり、現在は良好な環境の中で研究生活を行っているが、引越しの苦労を思うと、派遣が終了するまで現在の物件で暮らし続けたい、というのが正直な感想である。

以上

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