トップ  »  新着情報  »  2011年3月 月次レポート(太田悠介 フランス)

2011年3月 月次レポート(太田悠介 フランス)

ITP-EUROPA月次報告書(3月)
                                                                            太田 悠介

 3月11日の大震災とその後の福島原発の事故以降、落ち着かない日々を過ごしています。パリに滞在して時間の大半を研究に充てることができるという現状は、おそらく今後これ以上ないほどの恵まれた環境ですが、同時に日本で日々深刻化する事態からも目を離すことができません。これらふたつの「最優先課題」の間でいわば板挟みのような状態になっており、研究だけに集中することが難しくなっています。
 3月が日本の大学の暦で比較的余裕のある時期であることもあり、多くの方が地震と原発事故の以前から発表や博論審査などのための渡仏を計画されていました。渡仏を中止して日本にとどまることを選択された方、あるいはそれでもなお計画を変更されなかった方、様々でした。もちろんこのような状況下では正解などありません。それぞれの方のご意見をお聞きするたびに、それぞれの方なりの判断で研究とそれを取りまく政治状況との関係を考えておられることを知りました。
 またこの間には、学生の生活や研究環境を支えるCROUSと呼ばれる学生支援機関が日本人学生のために開いた会合、パリ国際学生都市の日本館で開催されたチャリティ・コンサートなどにも足を運びました。
 一般の人々にとって生存に関わる重大なテーマでありながら核がその決定権の届かないところにおかれるという意味で、核の問題がその本性からして「反民主主義的」性格を持つことはつとに指摘されてきた点ですが、今回の事故の推移を見ていると、核は一般の人にとって手が届かないばかりか、その「専門家」にとっても完全には制御できないという二重のコントロール不可能性を有するように思われます。このような観点に立ちながら、核エネルギーの「軍事利用」と「平和利用」といった区別を前提とせずに、核という単一の問題をあらためて考え直す手がかりとして、人類自らの手による種の技術的かつ産業的な破壊の可能性が露見した広島(とアウシュヴィッツ)というひとつの状況から出発する哲学と道徳を構想したギュンター・アンダース(1924-1992)の著作『ヒロシマはいたるところに』(Hiroshima est partout, Seuil, 2008)や、アンダースの仕事に大きな影響を受けた後、独自のカタストロフィ論をフランスで展開しているジャン・ピエール・デュピュイ(1941-)の著作などを読み直しています。
 エドムント・フッサール(1859-1938)とマルティン・ハイデガー(1889-1976)に影響を受け、ハンナ・アーレント(1906-1975)の夫としても知られるアンダースは、1958年に初めて広島と長崎を訪れます。その際にアンダースは手記をつけており、この手記が広島の原爆投下作戦のパイロットのひとりであったクロード・イーザリー少佐(1918-1978)との間に1959年に始まった往復書簡などとあわせて、後に『ヒロシマはいたるところに』に収められました。
 このなかでアンダースは、人間が作りうるものとそうして生み出されたもののもたらす帰結について理解することとの隔たりがますます広がりつつあり、この反省作用の遅れによって人間が技術に比していわば「時代遅れ(désuet)」、「廃用(obsolète)」となるという「技術の野蛮」の危険性に対して警告しています。これを引き受けてデュピュイはこの著作の序文で、アンダースはまとまった著作がなかったために哲学者というよりも雑多な文化事象を論じるジャーナリストと見なされがちであったが、実は彼は一貫して核という技術の君臨による人間の生存条件のゼロ度という「非-文化」について論じていたのだと記しています。アンダースのこのような認識を現状と照らし合わせると、その鋭さにあらためて驚かされます。
 このような特異な状況下ではありますが、日々の研究をおろそかにするわけにもいかず、今月も自宅での作業と並行して研究に関連するコロックやセミナーに参加しました。特に印象に残ったのは、友人とともに参加した16日の「フランツ・ファノンの思想のアクチュアリティ」という催しでした。ファノンの娘のミレイユ・ファノン・マンデス=フランスが代表を務めるフランツ・ファノン財団、ファノンの著作の現在の出版元であるラ・デクヴェルト出版、そして昨年1月に亡くなったダニエル・ベンサイード(1946-2010)教授の追悼コロックをパリ第8大学で開くなどパリ第8大学とつながりのあるルイーズ・ミッシェル協会の共催で、場所は1993年までパリ市の葬儀施設だった大きな倉庫状の建物を改築したパリ19区の104という会場です。登壇者は前述のミレイユ・ファノン・マンデス=フランスの他に、世界システム論の代表的論者でアメリカの社会学者イマニュエル・ウォーラーステイン(1930-)、ポストコロニアル研究などで最近その名を知られつつあるアシーユ・ムベンベ(1957-)、「反資本主義新党」という政党の代表を務めており、近年の大統領選で一定程度の得票を集めて注目を集めたオリヴィエ・ブザンスノ(1974-)という、異色の顔触れでした。
 ムベンベが都合により欠席したために、会場の関心は自然とブザンスノとウォーラーステイン両者のファノン読解の違いという点に向けられました。ブザンスノはファノンの著作の中でも特に『地に呪われたる者』を取り上げ、ファノンが参加したアルジェリアの民族解放闘争を現代の「アラブ革命」につなげて論じる可能性を示しました。ミレイユ・ファノン・マンデス=フランスらブザンスノ以外の発言者も、彼の読解に基本的に異議を唱えることはなかったように見えました。これに対して、最後の登壇者ウォーラーステインは、これまでの議論がファノンの思想をアクチュアリティに直接接続するというファノンの思想の単純化の誤りを犯しているという批判を暗に込めて、ファノンが「複雑な」思想家であることをまず押さえるべきだとし、そしてその意味で『黒い皮膚・白い仮面』に特にうかがい知ることのできる単純化されたファノン像に抗するファノンの揺れこそを読み説かなければならないということを述べました。
 そのうえでウォーラーステインはファノンを読むうえでの指針として、以下の2点を指摘しました。第一にファノンの「疎外(aliénation)」概念がマルクスとフロイト両者の疎外概念の交点に位置すること、第二にアルジェリアをはじめとして、独立運動後に多くの政権が陥った(あるいは陥らざるをえなかった)独裁化の問題でした。これら2点がファノンの残した遺産であるとし、ウォーラーステインは発表を締めくくりました。
 ウォーラーステインの主張が現状の認識として妥当であるのは疑いえないように見えます。というのも、ウォーラーステインの「反システム運動」の概念に引きつけるならば、社会主義運動もファノンのケースで問題となっている民族解放運動も、さらにはセクシズムに対する女性運動、レイシズムに対するマイノリティの運動なども含め、「反システム運動」として一括されるこれらの異議申し立ては、「資本主義世界システム」の全面的な転覆には至らずにその部分的な改良に寄与するだけで、最終的に回収される帰結に終わったとされるからです。
 しかし、この主張に対する批判のひとつとしては、ウォーラーステインの考える時間概念があまりに「斉一的」であることが挙げられると思います。ウォーラーステインは「システム」と「反システム運動」との一対一の対応関係を取り出し、「システム」の存続という長期的な趨勢を示そうとするばかりに、時間軸を大幅に圧縮しています。しかしながら、先に挙げた「反システム運動」のそれぞれの形態はこの概念のもとに一括してまとめられるものというよりも、それぞれの運動の間に分岐と衝突が存在するのが常態なわけで、その意味でこれらの諸運動の間の関係を不確実な「情況(コンジョンクチュール)の出会い」と捉えることも可能になります。もちろんその際にこの「出会い」の不確実性がいつも良い結果を生むわけではないのは言うまでもありません。ウォーラーステインとの共著『人種・国民・階級』(1988)の中でエティエンヌ・バリバールがウォーラーステインの主張に対して示した論点のひとつがこれでした。
 ソビエト連邦の崩壊以降、スターリン流の経済決定主義とは一線を画す観点からマルクスをあらためて読みなおそうとする動きが、これまで以上に高まりました。「共時性(サンクロニー)」の体制として定義されるグローバル化に対して、マルクスのテクストのうちに潜む「錯時性(アナクロニー)」の論理を取り出そうとしたジャック・デリダ『マルクスの亡霊――負債状況=国家、喪の作業、新しいインターナショナル』(1993)、社会的な進歩への信頼というマルクス主義の一側面を批判的に検討し直して、この進歩が担保しえない暴力という問題を提起した一章を含むバリバール『マルクスの哲学』(1993)、そして、古い哲学的意識を清算したがゆえに宿命づけられた「世俗の歴史」がはらむ歴史の方向性と偶然性のただなかで政治を考えたマルクスの姿を取り出そうとしたベンサイード『マルクス、時ならぬ者』(Marx l'intempestif, 1995)などが、その一例として挙げられます。いずれの作品もマルクス主義の歴史哲学の批判的読解という意味で外延を同じくしています。このあたりの議論を押さえた時初めて、ウォーラーステインの主張に対する批判の糸口が見つかるように思われました。
 ブザンスノとウォーラーステインとの間には、それぞれ異なる経験によってしるしづけられた世代の違いが存在します。もちろん、ウォーラーステインが鋭く指摘したように、ファノンが直面していた問題から導き出される教訓を無視するならば、それはかつてと同じ過ちを繰り返すことになり、拙速というそしりを逃れることはできません。しかしながら、時間の「斉一性」を宣告するウォーラーステインの現状分析からいかに出口を見出すのかという課題もまた、きわめて切実なものであります。両者が代表するようなこうした対立する主張を自分の研究のなかでどのように整合的に位置づけうるのかを考えつつ、この日は会場を後にしました。

このページの先頭へ