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2011年12月 月次レポート(横田さやか イタリア)

月次レポート 2011年12月 
博士後期課程 横田さやか 
派遣先:イタリア、ボローニャ大学

 師走にはいりいっそう寒さの厳しくなった今月は、体調管理を万全にしてもなお氷点下の凍てつく寒さと霧の立ちこめるどんよりとした天候に体が持ち堪えられず、研究の進行にも支障をきたした。ひたすら不甲斐ない思いをしながら過ごしたひと月であった。ボローニャの冬の厳しさは心得ていただけに対策をとってもなお体が堪えられないようでは時間のロスが大きく、歯痒い思いである。春の訪れを首を長くして待ちつつ、なんとかあと数ヶ月の寒さを乗り切りたい。
 論文執筆作業は予定よりも遅れをとってしまったが、いくつかの企画展を廻り、作品を鑑賞したり企画展のコンセプトを分析したりと、具体的な主題に触れそれについての自身の考察を進めることを通して研究を深めることができた。
 まず、もっとも興味深く鑑賞したのはトレント・ロヴェレート近現代美術館で開催された「ジーノ・セヴェリーニ展」である。この美術館は、オーストリアとの国境に近いロヴェレート市にあり、同市出身の未来派の画家フォルトゥナート・デペーロが自身の作品等を市に寄贈したことに由来する。報告者の研究テーマに関連する重要な資料を所蔵するアーカイヴを併設し、常設展においても未来派やその周辺の作品が充実しているのみならず、常に興味深いテーマで企画展をおこなっている活気ある美術館である。
 ジーノ・セヴェリーニ(Gino Severini 1883-1996)は、通常「未来派画家」と称されるが、実際には多岐にわたって技法の試行を続けた画家、理論家であり、イタリアとパリをまたいでの前衛芸術のプロモーターでもあった。ローマのジャコモ・バッラのもとで点描画を学んだ後、パリへと活動の拠点を移し、風景画ではゴッホの筆遣いを、肖像画ではドガやロートレックの影響がみられる技法などを試み、未来派への参与は1910年の宣言文「未来派絵画宣言」に署名したことに始まる。(ただし、第二次大戦直後に執筆された自伝では、未来派との関わりは運動に賛同したからではなく、あくまでもボッチョーニとの友情のためだった、と釈明している。ファシズムという過去から独立して芸術作品を語ることが許されるまでには、そこから更に40年あまり待たなければならない。)セヴェリーニは、ミラノの未来主義者たちにとってパリのアヴァンギャルド芸術界の風をとりこむ重要な窓口となった。やがてその技法は抽象化し、ピカソやマティスとの交流から1916年を境にキュビスムの技法へと到達、翌年にはニューヨークのスティーグリッツのギャラリーでの展示で成功を収めている。その後、20年代の流れにあわせ古典回帰へと向かい、コンメーディア・デッラルテを題材にしたり、静物画を主題にしたりした。晩年には、それまでの技法を振り返るようにして、点描画と未来派絵画とを合わせて描いたりした。実は、この企画展のキュレーターであるダニエラ・フォンティも指摘している通り、こうした多面的な、しかし、常にパリのアヴァンギャルド界の最先端に身を置き作品を生みだしてきたこの画家の軌跡をていねいに辿る総合的な企画展はこれまで極めて少なかった。パリとイタリアというふたつの故郷をもつことや、技法がつねに発展し続けたこと、パリの同時代芸術家の知名度の陰に隠れてしまうことなどがその要因に挙げられるかもしれない。あるいは、今回の企画展のコンセプトは、ひとつには未来主義者たちの思想や作品の歴史的アヴァンギャルドにおける価値が再考察、再評価されたばかりの今だからこそ、要求された企画でもあるだろう。
 報告者がとりわけ興味深く鑑賞したのは、セヴェリーニの画法がなにより活き活きとしている、踊り子たちを主題にした10年代の一連の作品が、通常あまり注目されることのない戦争画と同等に展示されていたことである。画家は点描の技法と多色使いを駆使して、パリの踊り子の身体の動きをカンバスに表した。ダンスが画家のテーマになったのは、未来派的ダイナミズムに没頭した時期であり、都会のダイナミズム、身体の動きのダイナミズム、そして戦争のダイナミズムが中心テーマになっていた。この作業こそが、セヴェリーニが同時代芸術家のなかで異彩を放つ重要な特徴のひとつである。とりわけ、報告者は「戦争」と「身体」が、発展し続ける都会の生活の中で体感するダイナミズムとともに並列されて描かれていたことに注目している。画家が自覚的にこのテーマを同時進行で扱っていたとは解釈しないが、セヴェリーニのこの視点は、ポール・ヴィリリオの考察にも指摘されるように、「戦争」と「ダンス」が当時新たに生まれた身体の動きを共通項にして、分ちがたいつながりの必然性を含んでいることを示唆しているからだ。それは30年代の始まりに前後して未来派航空絵画がうまれ、たとえばトゥリオ・クラーリがダンサーの身体を飛行機の機体のメタファーとして描いたり、エンリコ・プランポリーニが女神像のような女性のモチーフを描いたことにもやがて辿り着く。
 また、この企画展と同時期にイタリア国内で開催された企画展のなかに19世紀末から20世紀初頭のパリをテーマにしたものが同時に複数あったことは興味深い。なかにはセヴェリーニ展の流れで鑑賞するに相応しいものがいくつかあった。たとえば、本学の指導教員から欠かさないように、と勧めていただいた、ボローニャ近郊の都市フェッラーラでの「狂乱の時代展」(Gli anni folli)が特筆に値する。すなわちLes Années follesと呼ばれる時代のモンパルナスに集まった芸術家たちの作品を集め、セヴェリーニの作品も「未来派」という制約に捕われずにパリの画家たちの作品とともに肩を並べた。
 さらにこの企画展の特徴は、劇場、ミュージック・ホール、あるいはサーカスが画家たちのカンバスとなった流行を取り上げたことである。とくに、バレエ・スウェドワの舞台美術の復元やバレエ・リュスの舞台衣装の展示は非常に価値のあるものだった。なかでもデ・キリコによる衣装(Le Bal 1929)などとならんで、報告者が注目したのは、マティスによる「小夜啼き鳥」(Le Chant du rossignol 1920)のための衣装である。これまで写真資料として調査してきた衣装の実物を実際に目にしたことは、研究に期待以上の貢献をしたといえる。展示されていたのは一点のみだが、これは、頭を覆う帽子と全身を完全に隠してしまう長袖と足元まで届くスカートからなる幾何学的な模様の衣装である。すなわち、ダンサーの四肢は隠れてしまい、さらに生地は非常にぶ厚く重たくどっしりとして見える。バレエ・リュスによるこの作品は、初演の4年前にディアギレフからデペーロに衣装と舞台美術製作が依頼され、完成したにもかかわらず、お蔵入りになってしまった経緯がある。デペーロの仕事が採用されなかった理由については研究者によって諸説あるが、その後初演となった際のこのマティスによる衣装がまず証明するのは、一説にいわれている、デペーロの衣装が大袈裟なまでにダンサーの全身を覆っていてバレエに相応しくないからだ、という解釈が正確に分析されたものではないという点だろう。同時に、この時期のディアギレフのストラヴィンスキーとの往復書簡のなかで繰り返し現れる、未来派の新しい創作から強いインスピレーションを受けているという発言は、その後にマティス、ピカソ、ラリオノフらの舞台衣装がデペーロのデザインした舞台衣装や洋服にはっきりと類似する要素をみせていることからも証明されるといえる。狂乱の時代をテーマに、絵画やポスターにとどまらず、舞台芸術も同時に取り上げたこの企画展は、セヴェリーニの踊り子たちをモチーフにしたダンス絵画とともに、身体、とくに踊る身体というものがモダニズムを追いかけるようにして常に芸術家たちの創作の源となっていたことをあらためて明らかにしている。
 これらの企画展から得たものは論文の論旨を補強する題材として活かすことができると思われる。年末を迎えるにあたっては、ボローニャ大学指導教員に面談をしていただき、研究の進捗状況と今後の計画について改めてご報告させていただいた。
 最後になってしまったが、2011年を通してお世話になったITP-EUROPAプログラムに携わり、報告者の研究の充実を支えてくださっている先生方、担当の方々にこの場を借りて感謝の意を記させていただきたい。

Sayaka Yokota12-1.JPG「ジーノ・セヴェリーニ展」の開催されたトレント・ロヴェレート近現代美術館のエントランス。"未来派的パンテオン"が特徴。建築はマリオ・ボッタによる。

Sayaka Yokota12-2.JPG

「狂乱の時代展」の開催されたパラッツォ・ディアマンティ。16世紀初頭に完成したこの宮殿は、表面に使用されているダイアモンドをイメージした8500もの白大理石のブロックから名前をとり、ダイアモンド宮殿と呼ばれる。


 

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