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2011年10月 月次レポート(太田悠介 フランス)

ITP-EUROPA月次報告書(10月)

太田 悠介

 10月の初頭に500頁を超えるエティエンヌ・バリバールの新著『市民主体――哲学的人類学論集』(Citoyen Sujet et autres essais d'anthropologie philosophique, PUF, 2011)が刊行され、今月はこの著作の読解に多くの時間を割くことになりました。
 単純に量的な観点から見ても、昨年続けて出版された『暴力と開明性――ウェレック・ライブラリー講義・政治哲学論集』(Violence et civilité : Wellek Library Lectures et autres essais de philosophie politique, Galilée, 2010)および『平由の定理』(La Proposition de l'égaliberté, PUF, 2010)〔「平由」は平等と自由を組み合わせたバリバールによる造語〕と合わせると、この二年間の期間に全体で1200頁を優に超える分量が書かれたことになります。バリバールの著作は大抵の場合、以前雑誌や口頭発表などのために準備されたテクストにあらたに手を加え、これらをまとめた論文集として出版されるという点を考慮するにしても、現在がこれまでと比較して執筆の意欲がもっとも高まっている時期であることをうかがわせます。
 1997年の『大衆の恐怖――マルクス以前と以後の政治と哲学』(Crainte des masses. Politique et philosophie avant et après Marx, Galilée, 1997)は、大衆という問題系を通じたマルクスとスピノザの接合というバリバールの哲学の基本的なモチーフがもっとも明瞭に出た400頁超の大著であったことから、質量いずれの点においてもこれを主著と見なすことができますが、上記の三冊の著作群はその後のバリバールの展開を考えるうえで、重要な手掛かりとなります。私の研究でこれらの著作群で出てくる新たな論点をすべて取り上げることは困難ですが、盛り込める範囲で論じたいと考えています。以下では新著『市民主体』の内容を研究と関係する限りで略述したいと思います。

 1989年に雑誌『カイエ・コンフロンタシヨン』で展開された、ジャン・リュック・ナンシーの「主体の後に誰が来るのか」という問いかけに対する十数名の思想家たちの応答で、バリバールは、それは「市民主体」であると応じました。新著『市民主体』はこの概念を再度取り上げ直し、これを重層的に論じた著作という性格を持っています。
 その処女作となったルイ・アルチュセールらとの共著『資本論を読む』(1965)以来、バリバールはマルクスからもっとも強い影響を受けてきましたが、『平由の定理』の巻頭に再録された論文「平由の定理」(1989年初出)以降、「法権利」の問題にもこれまで以上に着目するようになりました。この論文が執筆された1989年はちょうどフランス革命200周年にあたり、その精神を集約するとされる「人権宣言(人間と市民の権利の宣言)」によって定礎された近代的市民権をめぐる議論が、クロード・ルフォール、マルセル・ゴーシェらを中心に高まりました。しかしマルクス主義の文脈においては、法的な次元での自由と平等を約束する近代的市民権は、労働者と資本家への社会の分岐を促す資本主義生産関係によってその根底を掘り崩される結果、あくまで形式的、ひいては「ブルジョワ的」にとどまるとされていました。事実、1844年のマルクスの二論文「ユダヤ人問題によせて」と「ヘーゲル法哲学批判序説」では、近代的な市民権を保証する「政治国家」は、真の人間的な解放の過程においては乗り越えの対象にすぎないという立場が鮮明に示されています。また、実際の歴史に引きつけて言えば、マルクス主義の古典的な「二段階革命論」においては、ロシア革命は、近代的市民権を基礎づけた「ブルジョワ革命」としてのフランス革命の限界と矛盾を止揚する「プロレタリア革命」として、位置づけられていました。
 マルクス主義の文脈において相対的に軽視されてきたこの「法権利」の問題をあらためて論じ直すというのが、新著『市民主体』の主眼です(この点に関しては、前回のレポートで言及したミゲル・アバンスールや、パリ第8大学でお世話になったダニエル・ベンサイード教授と共通するところも多く、比較・対照作業は今後のさらなる課題です)。人間という普遍性に依拠しながらも、その次元から離れて市民を立ち上げ、その市民の間で定礎され相互の権利と義務を定める近代的市民権の次元を考えるにあたって、バリバールは多くの哲学者たちに立ち戻りつつ考察を進めてゆきます。たとえば、主体の自己言明・自己定立に関してはデカルト、ロック、ルソーらが検討され、共同体的な複数の主体の構築としてはヘーゲル、マルクスらが考察の対象として挙がっています。これらが検討されることで、近代的な市民主体の立ち上げをめぐる様々な理論的バリエーションがあることが確認されます。「哲学」と「人類学」を組み合わせた、一見すると奇異に映る書名「哲学的人類学」には、市民主体の問題を扱う哲学の中に持ちこまれたこのバリエーションを取り上げるという意図が込められているように思われます。

 現在も『市民主体』を『暴力と開明性』、『平由の定理』などを随時参照しながら読み進めています。現状ではまだ『市民主体』の全体像の素描をようやく理解し始めたにすぎませんが、今後さらなる読解を進め、研究内容の一部として組み込めるように努力したいと思います。

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(左から順に『暴力と開明性』、『平由の定理』、『市民主体』)

 

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