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2010年11月 月次レポート(太田悠介 フランス)

ITP-EUROPA月次報告書(11月)
                                                                                                  太田 悠介

 11月の下旬に今年初めての雪が降り、それから約一週間、断続的に雪の日が続きました。本格的な冬の到来です。12月の初めのボローニャ大学と本学共催のシンポジウムの開催に向けて、11月半ばあたりからは日々の研究を進めながらも、シンポジウムでの発表を意識していました。ただ、実際に発表の原稿を書き始めたのは11月末も押し迫ってからで、結局、ボローニャに到着してから発表直前まで、準備を続けることになりました。シンポジウムについては、その後ある程度の時間を経た今振り返って思うことも含めて、次回のレポートで報告する予定です。
  今回のレポートでは、研究テーマと絡めて、ひとつの事件を題材に取り上げたいと思います。その事件とは、フランスが経験した最後の植民地戦争であるアルジェリア戦争(1954-1962)末期に、パリとその郊外で起きた事件のことであり、この事件はその日付をもって1961年10月17日の事件と呼ばれています。警察官等を標的としたテロリズムの取り締まりを名目に、「北アフリカ系」住民に一律に課された夜間外出禁止令に対して、抗議を表明すべく組織されたアルジェリア系移民のデモは、パリ警察庁の弾圧を受け、多数の死者と行方不明者が出ました。この事件は近年、歴史家ジャン=リュック・エノディ(1951-)などの尽力によって少しずつ認知され始めており、毎年この時期になると、関連する映画の上映会やセミナー等が市民の手で開催されています。

Ota12-1.JPG(2001年にパリ市は公的機関として初めて、1961年10月17日の事件の記念碑として、金属製のプレートをサン・ミッシェル橋に設置した)


Ota12-2.JPG(サン・ミッシェル橋はパリの中心部に位置し、シテ島と左岸を結ぶ。橋からはノートルダム寺院がすぐ近くに見える。17日の夜、警官隊はこの橋からデモ参加者をセーヌ川へと投げ込んだとされる)


  私の研究との関連という点からみて、この事件が興味深いのは、それが以下の2点を明らかにしているためです。第一に、フランスからの独立を目指すアルジェリア戦争の終結以前に、かなりの数のアルジェリア移民がフランス本土ですでに労働者として雇用されていたことです。したがって、まず植民地解放戦争があり、その後この旧植民地出身者が移民としてかつての宗主国に流入するというクロノジカルな理解よりも、フランスの場合に限って言えば、脱植民地化の流れと移民労働者を「安価な労働力」として利用する戦後の近代化とがシンクロしていたという理解の方が、説得力があることになります。
  おそらくこの点で最も野心的な解釈を提示しているのは、クリスティン・ロス(1953-)の『疾走する車、清潔な身体――脱植民地化とフランス文化の再編成』(Fast Cars, Clean Bodies : Decolonization and the Reordering of French Culture, The MIT Press, 1996)で、この著作は、アルジェリア戦争に代表される仏領植民地の脱植民地化と、自動車の普及や衛生の観念の浸透、規格化された製品の大量消費社会の到来などが示す戦後フランスの近代化というふたつのプロセスが、ただ単に時期的に一致しているのではなく、これらの間には論理的な連関があることを明らかにしようとしています。もちろん、それぞれのプロセスをひとつの同じ解読格子を当てはめることで完璧に把握できる、と結論づけるのはやや拙速に見えるかもしれません。しかし、これまで脱植民地化の歴史と戦後フランス史というように別々の分野として研究され、相互のもう一方の分野への言及はあくまで限定的で、挿話的にとどまっていた点を考慮するならば、ロスの両プロセスの共通点を探るという問題提起は、真剣な考察に値するものと考えられます。
  販路の拡大と資源の獲得のために国外に進出する古典的な意味での帝国主義とは異なり、新たな帝国主義は、海外領土の喪失という脱植民地化の流れと、実は完全に適合していたのではないか。このロスの観点は、他の論者にも共有されています。たとえばニコス・プーランツァス(1936-1979)は、グローバルな次元での労働分業の成立によって、「安価な労働力」をもはや国外に求める必要はなくなり、フランス本土の移民労働者集団が「国内植民地/内的植民地(colonisation intérieure)」として作動するという点を指摘しました(Les Classes sociales dans le capitalisme aujourd'hui, Seuil, 1974, p. 88)。同様にエティエンヌ・バリバール(1942-)も「内的植民地/国内植民地」の語を用い、旧仏領植民地出身の移民労働者に対する人種差別が賃金の抑制を正当化する論理として、実は資本主義システムに対して機能的に働くのではないかという仮説を検討しています(Étienne Balibar et Immanuel Wallerstein, Race, nation, classe : les identités ambiguës, La Découverte, 1988, 2ème édition 1997. =若森彰孝・岡田光正・須田文明・奥西達也訳『人種・国民・階級――揺らぐアイデンティティ』大村書店、1997年)。
  このように、1961年10月17日の事件がまず、旧仏領植民地の脱植民地化と戦後の資本主義システムの再構成との結びつきという論点を提示するとすれば、第二の論点は、ナチズムとコロニアリズムの錯綜に関係します。事件当時、パリ警察庁長官としてデモの鎮圧を指示したモーリス・パポンは、第二次世界大戦中にユダヤ系住民の収容所への「移送」に関与したとして、1980年代から始まった裁判で「人道に対する罪」に問われました。しかしその際に、1961年のアルジェリア系住民のデモ弾圧に関しては、追及されていません。
  ここから明らかになるのは、戦後ヨーロッパでナチズムとコロニアリズムそれぞれに対して与えられたステータスのあいだに存在する、明確な落差です。「アウシュヴィッツを繰り返さない」という信念が戦後西欧世界の礎となり、ナチズムに加担したヴィシー政権に勝利したという点に自ら正統性の根拠を求めてきたフランス戦後共和制においては、この信念はとりわけ強固となる傾向があります。
  思想的な観点からこの流れを後押しするものとして、クロード・ランズマン(1925-)の映画『ショアー』(1985)の影響力を見逃すことはできません。というのも、ガス室の「表象不可能性」を主張し、アウシュヴィッツをそれ以外の歴史的な出来事と比較不可能な「先例なき出来事」とした『ショアー』は、アウシュヴィッツの反省に依拠した「反ファシズム」という戦後共和制の「市民宗教」を補強する役割を担うからです。ここからランズマンの主張を批判的に検討し直す可能性が出てきます。
  ジャック・ランシエール(1940-)によれば、ランズマンはガス室の内部から生還した者はいないというアウシュヴィッツをめぐる「表象不可能性」の主張に、自らが選択した「語り」による叙述以外は、ガス室の真実には到達しえないという禁止の主張を紛れ込ませているといいます(Le Destin des images, La Fabrique, 2003, pp. 123-153, Le Spectateur émancipé, La Fabrique, 2008, pp. 93-114)。ランシエールが指摘するのは、語る/聞く/見ることができることと、語る/聞く/見ることができないことという、最も原初的な「感性的なものの分有」の規定の背後には、つねにそれを規定する者の恣意性と、この「分有」を共有しないとされる者に対する侮蔑が存在するということです。ランズマンが禁じるのは、「先例なき出来事」の「先例」を、あるいは「比較不可能性」を比較するための参照軸を歴史の中に求めることであり、たとえば、「全体主義の起原」のひとつをヨーロッパの帝国主義の展開に求めた、ハンナ・アーレント(1906-1975)が持っていたような視点が、そこからは抜け落ちています。
  1961年10月17日の事件に立ち戻ると、同じような状況が反復しているのが分かります。反ナチズムの記憶としてはパポンについて語りながら、コロニアリズムの記憶としてパポンを語ることを許さず、そうすることで、パポンの存在が暴露するファシズムと戦後共和制の連続性を見てとるのを禁じる力がそこには働いています。ランシエールが問い直そうとするのは、この不可視性に依拠した戦後共和制の統治の論理、戦後共和制の「感性的なものの分有」です。(Aux Bords du politique, Gallimard « Folio essais », 2007, pp. 202-220)。
  1961年10月17日の事件に関しては、国家の責任はもちろんのことパポンの責任さえも、いまだに不問に付されたままにとどまっています。したがって、歴史的な事実の検証や法廷での審理が現段階では要求されています。しかしながらこの事件を問うことは、旧仏領植民地の脱植民地化と戦後の資本主義システムの再編との連動と、ナチズムとコロニアリズムの交差という問題の問い直しに必然的につながるように思われるのです。

 

 

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