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2010年10月 月次レポート(太田悠介 フランス)

ITP-EUROPA月次報告書(10月)
                                                                                              太田 悠介

 国際学生都市に住む友人の生活を見ていると、忙しい研究の合間をぬって、各人がそれぞれ息抜きの時間を上手にもうけていることに気づかされます。たとえば、美術館に足を運ぶ、パリを離れて遠出をする、スポーツで体を動かす、ピアノをひく、友人を自宅に招く、などです。私個人としては、誰かのために簡単な食事を用意するというとても些細なことが、いわば一服の精神安定剤となっています。
  二週か三週に一度程度、買い出しのために、国際学生都市の近くで週末に開かれるマルシェ(市場)に足を運びますが、そのたびに季節の移り変わりを知らせる旬の食材に出会います。最近では各種のキノコ類と並んで栗が出回っており、先日はこれを使って栗ご飯を炊きました。こちらでの調理は、手に入る材料の制約もあり、どうしても味の濃い油を多く用いる料理が中心となりがちなので、栗ごはんのような油分の一切ない素朴な味わいにはほっとさせられます。
 自身の研究と並行して、今月参加した主なセミナーやコロックなどを挙げると、7日は高等師範学校で例年開催されているアラン・バデュウ(1937-)の本年度第1回目の講義(今年度のテーマは「『世界を変える』とは何を意味するのか」)、14日と26日の両日はパリ第8大学の指導教授であるアラン・ブロッサ教授のセミナーで、14日は本年度のテーマであるミシェル・フーコー(1926-1984)編著『ピエール・リヴィエール――殺人・狂気・エクリチュール』の第1回目の講義ということで、ブロッサ教授による本年度の講義全体のイントロダクションを兼ねた発表と、同書に着想を得たルネ・アリオの映画『私、ピエール・リヴィエールは母と妹と弟を殺害した』の一部のビデオ上映、26日は、かつてのブロッサ教授の教え子で、現在は高校で哲学教育の現場にいる教師たちを多数招いてのセミナー「哲学教育は人を解放するか」、そして21日は、パリ・ラ・ヴィレット建築大学で開催された、イギリス出身の地理学者で現在はニューヨーク市立大学で教鞭を執るデヴィッド・ハーヴェイ(1935-)の講演会でした。
 しかし、今回のレポートではこれらのセミナーや授業とは別に、自身の研究と絡めてフランスのアクチュアリティに関わるひとつの出来事に焦点をしぼり、報告したいと思います。それは、フランス全土で大学生や高校生までもが参加し、2日、12日、19日、28日と今月数回にわたって行われた退職者に関する法律改正反対のデモです(なお、退職の年齢を現在の60歳から62歳に一律に引き上げるという内容を骨子とする今回の法案は、すでに議会での審議を終え、このレポートを書いているちょうど今日11月9日に公布されました)。

Ota10-1.JPG(デモの後、街角に残された「En grève jusqu'à la retraite(退職までストライキ)」という落書き。つまりは「退職まで働かない」の意味か。退職年齢の引き上げによる財源の改善以外に選択肢はないとする政府の立場と距離を取るために、ユーモアもまたひとつの有効な戦略であることが感じられる)

  今回のデモの高まりを目の当たりにして、まず念頭に浮かんだのは、社会学者ロベール・カステル(1933-)の仕事です。彼には『社会問題の変遷――賃金制度の編年史』(Les Métamorphoses de la question sociale, une chronique du salariat, Fayard, 1995)や『社会的不安全――保護されているとは何か』(L'Insécurité sociale : qu'est-ce qu'être protégé ?, Seuil, 2003)などの著作があります。カステルによれば、退職の権利は失業・傷害保険などと並んで、彼が言うところの「社会的所有」の核心を形成します。社会的所有は私的所有と対比的に用いられる概念であり、それは個人が実際に買い入れていつでも自由に処分できる事物ではなく、労働という代価と引き換えに、限定された場面(退職後、失業時、病気の際など)においてのみ享受することができる権利の総体を指します。この社会的所有は私的所有の完全な廃棄は不可能であるという前提に立ち、私的所有が生む可能性のある弊害を是正するために作られとされ、その起源はフランス第三共和政にあり、戦後の福祉国家体制のもとで一応の完成をみたとされます。収入の多寡にかかわらず誰もが現役のうちに一定の額を積み立て、それを退職の際に、あるいは失業したり病気・傷害を負ったりした際に受け取ることができるようにすることで、市場の動きに左右される個人の運、不運の振れ幅を小さくすることが可能になります。
  フランスのみならず一般的な傾向として見受けられるのは、この社会的所有の次元が切り崩され、私的所有の原理だけが突出するという傾向です。このような私的所有の卓越の当然の帰結として、個人は市場の浮動に対してより傷つきやすくなります。カステルは社会的所有の発明によって、一部の富裕な者が貧困にあえぐ者に一方的に施しをするという「慈善(charité)」から、労働を媒介とした個人間の相互的な扶助と義務を伴う「連帯(solidarité)」へと社会の基本的な構成原理が根本的に変化したことを強調していますが、現在私たちが目の当たりにしているのは、「連帯」から「慈善」へと時計の針がまさに逆戻りするという状況ではないかと思われます。現在進行中の事態であるだけに軽率な判断は慎まねばなりませんが、今回のデモは、少なくともフランスでは依然として、この労働を媒介とした連帯が息づいているということを示していたと考えています。換言すれば、いかなる方針を社会の組織化の原理として据えるべきかということを正面から問う土壌がある、ということです。
  しかしながら、私的所有の廃棄が不可能であるとし、それを社会的所有によって補完するという社会的妥協を評価するカステルのプラグマティックな立場に対する批判的な視座もまた、持たねばなりません。というのも、ここで問題となっている労働を媒介とした連帯は、近代においてそれは実際には常に国民国家という形態をとってきたからです。労働に従順な身体を作り上げるために、国民ひとりひとりが強いられる規律や矯正を過小評価すべきではありません。また、同じ界隈に住む「外国人」よりも一度も顔を合わせたことのない遠方の地域の「同国人」に親近感を感じるということは少しも自明なことではなく、それは恒常的に国民を想像し続けるという日常的な国家の実践なくしてはありえません。
  バリバールは国民国家の危機が叫ばれ始めた80年代にフランスの移民労働者の問題を取り上げ、安価な労働力として用いられながら市民権を与えられない彼らの存在が、国籍と市民権を同一視する国民国家の枠組み自体の再考をうながすものだと主張しました。そしてその後ヨーロッパ統合に際しては、英、仏、独などヨーロッパの既存の国家出身の人々の市民権であるヨーロッパ人の市民権(citoyenneté des Européens)でも、EU加盟国内に正規滞在する人々の市民権であるヨーロッパ市民権(citoyenneté européenne)でももはやなく、ヨーロッパという空間に実際に滞在しているすべての人々のためのヨーロッパにおける市民権(citoyenneté en Europe)がすでに議題に上っているのであって、そこにこそ今後開拓すべき「民主主義の境界」があるという自説を展開するようになります。
  一方では、近代以降、持続的な共同体の根幹には労働があるとするカステルにみられるような主張――この主張に一定の妥当性を認たうえで――に満足することなく、また他方では、国民国家内部で制度化されてきた社会的所有の単なる私物化に抗しつつ、いかに既存の国民国家を批判する回路を見出すのか。この問いは、国民国家に取って代わる共同体をいかに構想するか、そもそも社会の構成原理として当然視されてきた労働とは何かといったより一般的な問いへもつながってゆきます。今回のデモはこれらの点にこれまで以上に取り組む必要性を感じる機会となりました。
  最後にもうひとつフランスのアクチュアリティについて記したいと思います。10月3日に1924年生まれの政治哲学者クロード・ルフォールの訃報が入ってきました。これまで発表された著書に未所収の論文すべてがおさめられた大著『現在時――作品1945-2005』(Le Temps présent : écrits 1945-2005, Belin, 2007)が、生前最後の著作となりました。モーリス・メルロ=ポンティ(1908-1961)の思想、とりわけ彼の政治論に影響を受け、後に独自の民主主義論を展開するようになったこの哲学者については、また機会をあらためて報告したいと思います。


 

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