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「ダスビダーニャ!」朝の成田空港でアエロフロートの貨物便に乗り込むロシア人クーリエを見送る。大阪の国立国際美術館を出たのは前日午後6時、美術品専用車に併走する警備車に乗って早朝成田の倉庫入り。さすがに眠い。75点のフランス近代絵画作品を計7回に分けて、運び、返却していく。こうして先日、ようやく最後の便が日本を出た。
朝日新聞社事業本部(入社当時は文化企画局)に入社して5年、メセナ活動、記者研修を経て04年より展覧会の企画・運営に携わる文化事業部で仕事をしている。先月まで担当していたのが待望の初「ロシアもの」、モスクワのプーシキン美術館からフランス近代絵画の名コレクションを紹介する「プーシキン美術館展」(東京都美術館、大阪・国立国際美術館)だった。
展覧会づくりにまつわる仕事は多岐にわたる。出展作品、借用料の交渉に始まり、会場探し、広報計画の作成、予算づくり、輸送計画、展示プラン作成、保険の手配、カタログおよび関連グッズの制作、クーリエ来日時のアテンド、作品点検、開会式の準備等々、通常最低数年の準備が必要だ。特に展覧会開幕直前は多忙を極めるが、お客様の喜ぶ顔を見ることができること、また幅広い分野の人と関わることができることは、大きな魅力だ。
大学院でロシア文学を学んだことが今の仕事に100%役立っているとは言い難い。自分には社会で働くほうが向いていると思っていた私にとって博士課程に進むという目標は、ほとんどなかった。ただ、大学4年間はあまりにも短い。言語を学び、基礎知識を得、ようやく学問の入り口に入ろうとさしかかった際に、就職というのは、非常に勿体ない、そしてもう少し本が読み、集中して論文を書いてみたい、そんな想いからごく自然に2年間の修士課程を選択した。
学生生活や現在の社会人との生活と比べても、大学院での生活はかなり孤独だった。集団から離れ、自分の中で、文学というもの、自分の中にある能力・才能というものに向き合わざるを得ない時間、それは今思うとかけがえのない時間だった。
5年前の入社当時、こんなことがあった。冒頭に挙げた「プーシキン美術館展」の交渉のため、モスクワから来日した80歳代の女性館長が社を訪れた。「ロシア語を話す」というだけで、偶然同席することになり話している際、ふと修士での専攻の話が出た。「アンナ・アフマートワの詩を学びました」と言うと、彼女は非常に驚いた様子で私の顔を見た。「アフマートワ?あなたが?」交渉の際の厳しい表情が一瞬和らぎ、微笑みがのぞいた。この件が交渉に何らかの影響を及ぼしたかはさだかではないが、その後契約は成立し、昨年彼女は再び開会式に出席するため日本に来日した。2年間の勉強はけして無駄ではなかった。今でもそう信じている。 |
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