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2019年6月 アーカイブ

2019年6月 5日

昨日、虫歯の日(?)に

めずらしく朝からブログ。忙しい時間帯なのだが、今日は勤め先の健康診断で朝ごはんを食べられないため、暇である(笑)。ほんとは昨晩書きたかったのだが、疲れて寝てしまったー。
昨晩は久しぶりに市民講座に呼んでいただき、初めてP自由学校にお邪魔させていただいた。ゼミを2つ終えてからダッシュで都心に向かう。晩の19時過ぎから「グローバル経済と民主主義の未来」の連続講座の第一回目、総論という名の前座として、「私たちはどこに立っているのか:新自由主義の臨界点で」というお題をいただいていた。このテーマで一体どんな人たちが集まるのか、そもそも人が集まるのかといぶかしく思っていたが、20名以上の人気講座だそうである。ふーん ご担当様にお願いしてコメントシートを集めたら、定年を迎えたばかりの人びとや、もう何年も様々な講座に通っている方、ちょうど転職したところという方、またご自身お住まいの場所で地道な運動に取り組む人びともいらしたようだ。
総論なのでその後に続く各論を視野にいれながら、ざっくりした話をしたのだが、質問、コメントでなるほどと思うものがいくつもあった。ひとつは「新自由主義」という用語について。この用語だけでここ数十年を考えるのは無理ではないかというコメント。たしかに。ただ、さまざまに呼ばれてきたことがらに数十年の一貫性があることを示すには、わりと便利な用語であったりする。もう一つは、話しの中で少し触れ、質問でもいただいた「中国の新自由主義?」という論点である。1980年代以降の「改革、解放」の時期を新自由主義と位置づけるかどうかは、議論のあるところである。わが本務校の学生、院生には中国出身者のみなさんも割と多く、ときどきこの議論をする。どちらかといえば否に軍配があがることが多いのだが、しかしたとえば、Tアンモン事件が何であったのかを考える際には有用である。新自由主義を支えたのが雑多な社会集団であったことは、アメリカの1960年代の徴兵制廃止の議論でも、中国のこの事例でも、意外と共通するところがある。ちょうど昨日は30周年ということで、日本でも報道や記事があった。虫歯の日、だけではない。

そんなこんなで終了時間をけっこう延長してしまい、慌てて帰宅に向かった。22時にまでに食事を終わらせなければならない。どうにも間に合わなそうだったので、新宿で途中下車して格安店のチキンカレーを急いで完食。ちーん さびしい... しかし、さあ、今日は健康診断だっ!

2019年6月18日

公共を考える契機:やっと観た映画

そう、昨今評判の「ニューヨーク公共図書館」である。205分の映画を観に行くにはそれなりの覚悟がいるし、恐ろしいことに、休日は混雑で入れないかもしれないから、平日の晩にどうぞとされている。7月初めまで上映予定だが、行ける日は限られている。-しかしこのまま観ずに終わらせるのは口惜しい。そんなわけで、昨日ようやく観に行ってきた。月曜の晩だというのに上映15分前に滑り込んだらホールはもう大変な賑わいで、整理券が60番台である。いったいどんな人たちが?!

ちょうど半分ぐらいで5分休憩があったものの、さすがに3時間25分は短くはない。終わったときにはぐったりであった(半分は空腹によるものだったが)。もう少し切り詰めたらそれなりに観やすい映画になったのではと思わなくもない。ただ、監督は図書館的日常をそのままのテンポで写し取り、観る人をそこに参加させたかったのかもしれない。ニューヨークのストリートの匂いをも感じさせるような美しい映像で、図書館は本の置き場ではなく人間でできているという言葉のままに、有名な人にも無名な人にも、老若男女ひとりひとりに同じように焦点を合わせ、カメラを止めずに寄り添う。多くの利用者はつつましい暮らしを送る人びとである。図書館スタッフたちは、きわめてまっとうにそれを考慮し、議論し合い、人びとに接している。公共ということ、今日的な本のあり方、図書館という場の意味と意義。この映画は、世界がまだ捨てたものではないかもしれないと思わせてくれる。そして日本においても、岩波ホールを毎日混雑させるほどの人びとが関心をもち、観に行っているという事実が、希望のかけらを与えるのである。

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(本文とは直接は関係ありません。でも映画の中の光は、こんな感じで美しい。先日のゆるピクニックのひとコマ、いや4コマ)

2019年6月20日

手の美しい動き:読むということ(続き)

「病膏盲に入る」かもしれないが、先のNY公共図書館のことがなんだか消化しきれず、ワイズマン監督あたりをあれこれ探っていたら、なんだ、あるじゃないか!『G代思想』2018年12月の特集「図書館の未来」に寄せられた論考、鈴木一誌「多からなる一」(pp.69-77)である。著者はワイズマン監督がこれまで、ナレーションなし、字幕テロップなし、現場音以外の音楽もなし、特定の人物や出来事も追わないという「不在」の手法で、高校、盲・聾学校、警察、裁判所、病院、福祉事務所、百貨店、競馬場、動物園、精肉工場、修道院、共同住宅を、「生きられつつある場所として」描いてきたことを紹介した後、最近は境界のあいまいな広域を主題にするようになっているとして、
「学校や警察、病院にしても、閉じているのではなく、かならず社会への開口部をもっている。建物や限定された地理的な場所といったフレームを布置することで、内部の価値観が浮かび上がり、内と外との出入りもまた見えてくる」と論じる。
ナルホド。
まーこれでワイズマンの関心が何となくわかったとして、ここに書きたいのは、上記論考でも取り上げられている映画のワンシーンである。そこでは一人の手話通訳者が、異なるトーンで読み上げられた文章(これがまた、ジェファーソンによる独立宣言の草稿の冒頭だったりするのだが)を、手話で「訳し」分けていく。同じ文章がかなり違った風に「訳され」ていく。手話を「読む」人にとっては、通訳者の手や身体の動き、表情、醸し出す雰囲気だけが唯一の言葉であり、文字である。手話通訳者の身体は「翻訳」である以上に、もう一つの言葉を生み出しているといえるだろう。それでもう一つ思い出す別のシーンもある。白い紙に刻まれた突起を、指と手で読む手法を、スタッフが初めての来場者に示すシーンである。これがまた美しい。「読む」とは本来これと同じように、一文字一文字と順に追ってゆき、言葉や意味が立ち現れるものなのだと、当たり前のことを思い出させてくれる。ワイズマンが盲・聾学校の映画を撮ったことがあるとわかれば、さもありなんであるが、これらの「手」仕事は、とても印象的である。

そういえば、以前にも書いたかもしれないが、一時帰国中のアーキビストの卵(カナダ留学中)が大学に寄ってくれて、かつて彼女が話してくれたことをあらためて話した。古文書などから印刷技術で本ができるようになり、今や電子本の時代である。しかし保存の技術的可能時間は、どんどん短くなっているという。彼女曰く、電子本については「最も先進的なイギリスの技術をもってしても十年が限度」とか。ぎょええええ それはいくらなんでも短すぎるやん! やはり紙の書物は守らなければならない。うぬ。

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