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史的転換点をふりかえる

9日(土)は学会の仕事で京都日帰り出張であったが、行く直前まで下記の文章を書いていて危うく電車に乗り遅れるところだった;ふー危なーい!一日経ってしまいましたがアップしますー。

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昨日は夕方以降まで仕事があって参加できなかったが、大飯原発の再稼働に反対して首相官邸に詰めかけた人は、先週をさらに上回って4000人にのぼるという。大飯原発の下には活断層がある疑いもあるというのに、いったい誰の利益を重要視しているのだろうか。夜のニュースを見ると無性にハラが立ってきて、静かに本を読む気にもなれなかったのでDVDを観ることにした。マーク・ハーマン監督の『ブラス!』(原題はBrassed Off、1996年イギリス)である。公開当時に観てとてもよかった印象が残っていたのだが、先の拙ブログで紹介した熊谷博子さんの本の元になった『三池 終わらない炭鉱の物語』(熊谷博子監督)のDVDを探し求めた際、同じく炭鉱に関わる映画として『ブラス!』を思い出したのだ。
熊谷作品はノンフィクション、ハーマン作品はフィクションなので単純に比較はできないが、いずれも炭鉱閉鎖を手がかりに労働者の視点からつくった作品である。「炭鉱の閉鎖」つまりエネルギー供給が石炭中心から石油中心に変わった史的転換点は、原子力発電の展開期にもあたっている。石油を中心とするエネルギー大消費時代の到来時にはすでに石油不足のリスクが「脅威」として存在したということである。一方、炭鉱閉鎖は、もちろん労働の危険性や健康被害の問題もあってのことだったが、それでも炭鉱労働者たちが作ってきた、あるいは彼らを取り巻く「文化」がそこに存在した。それをイケイケドンドンの風潮の中で、大切なものまでも時代遅れとしてブルドーザーで組み敷くように消し去ったのである。『ブラス!』はテーマが音楽、E.マクレガーも出ていたり恋愛も絡んでいたりと映画的サービス満載だが、ラスト近くの長セリフは明らかにサッチャリズム批判であり、登場人物たちの生活の困窮はおよそフィクションを超えている。他方『三池...』では往時を振り返る人々の表情と言葉が、ものすごい迫力で当時の「現実」をあぶりだす。どちらも秀作である。

なお『三池...』については前回拙ブログで紹介した本『むかし原発いま炭鉱』とも絡めてもう二点、書いておきたい。一つは、著作の刊行が2012年3月(中央公論新社)であり、随所に原発と炭鉱の比較、両者を推進した国と企業、御用学者の複合体の問題性が指摘されている点である。エネルギー供給のためといってとんでもないことを行う事態は、炭鉱の頃も今も変わっていない。
もう一つは向坂逸郎をめぐる論点である。向坂逸郎は『資本論』の訳者でもあり有名なマルクス経済学者だが、三池炭鉱のあった大牟田市の出身で、争議のあった頃に九州大学経済学部で教鞭をとっており、炭鉱労働者や婦人会の主婦たちを相手に勉強会の講師をつとめていたそうだ。それは三池争議を持続させるエネルギーとなったに違いない。しかし当時の婦人会の一人が証言するのである。「私ね、最後に思ったんですよ。...あの争議の結末のみじめさはね、九大の向坂学級のせいだと思いますよ」。この部分を読んだときの衝撃は忘れがたい。学者が現場に出て人びとと直接に話をしていたという事実に何となく好印象を持って読み進めていたからである。しかし証言は次のように続く。「あの人が机の上で勉強したことをね、三池をモルモットにしたんじゃないかって、そのことは腹が立ちましたよね。」(120頁)映画でもこのシーン、女性がこれを語るときのいやーな感じのトーンは後々まで印象に残る。映画ホームページでも賛否両論はげしく、論争が長く続いたそうだ。そしてこの問いはもちろん、現場をまともに考える経済学者に強くのしかかる。

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2012年6月 9日 09:49に投稿されたエントリーのページです。

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