昨日は久しぶりに開催された早稲田の若手の研究会に行ってきた。現社研とメンバーのかぶる「人種研」(?!)で、テキストは小森陽一『レイシズム』(思考のフロンティア、岩波書店、2006年)であった。いつものようにテキストへの切り込みは活発で、テーマとコンテンツとの齟齬、言語の存在による動物と人間の区別の本質主義など、さまざまな部分への批判の議論がはげしく展開された。しかしもちろん、このテキストとは離れるものの、遺伝子をめぐる近年の技術的進展とこれをめぐるビオポリティクスとビオキャピタリズム、そこから生まれる社会的格差が、あらためて「人種」的問題を提起していることは間違いない。
さて、研究会はいつになく多人数で、その後の食事会もにぎやかであった。しかし研究会でもおしゃべりでも、示される論点の半分以上が原発に関する話しに引き寄せられていく。何かまとまったことを考えようとするとすぐさま原発事故のことが頭をかすめ、そこから離れた思考を展開するのがきわめて難しいのは、当方だけではないようだ。原発事故で漏れ出た放射能は大地や海、家畜や動物のいのち、人々の暮らし、子どもたちの未来と、実にさまざまなものを壊滅的に破壊しているが、脳髄にも暴力的に踏み込んでくる。これはしんどいが、なにぶんことの重大さがケタ外れなのだ。
何ら収束の見通しもないまま40日が過ぎ、人々はこの「有事」に心底疲れ始めている。もう考えたくない、忘れたいと思う人も多いのだろう。ただ、考えなくても忘れようとしても事態がよくなるわけではない。とにかく、やれることは全部やって、一日、一日過ごしていくしかない。願わくば、すっと心が鎮まるような言葉の束を傍らに携えて。