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キリスト教徒に必要な仏教の教え(笑)

表紙のお坊さんというか、お坊さんに扮したモデルさんが好きでキープしていた仏教のフリーペーパーを何の気なしに見ていました。(煩悩の塊です。ごめんなさい)そうしたら、刺さる言葉がありました。(笑)

お坊さんが、妻や彼女さんと喧嘩することがあるのか?という編集部からの質問に対する答えだったのですが、

鎌倉時代のお坊さんで、道元禅師(曹洞宗の開祖)という方がいらっしゃって、その方が「自分が善人だと思っている人ばかりの家には争いごとが絶えない。でも逆に、自分は悪人だと思っている人ばかりの家には争いごとが起こらない(善人の家に争いごと絶えず、悪人の家に争いごとなし)とおっしゃっていて、

ケンカになるときって、お互いが「自分が正しい」と思ってしまってると思うんですよね。つまり、自分が正しくて、相手が間違っている。自分が善人で、相手が悪人となると、相手を否定するしかなくなる。でも逆に、自分が「悪人」だと思えていたら、相手を思いやることができると思うし、そうなると喉元まで来ていた、相手を責める言葉もスッとおなかに戻っていく、ということもあるだろうなと思うんです、でもこれが、なかなか難しいですけどね。(対談の中の若林唯人の言葉 in「フリースタイルな僧侶たち vol. 41」4ページ https://freemonk.net/magazine/vol-41/

同性愛者や他のSOGIを攻撃するキリスト教の教役者・信徒vs. SOGI当事者というのは、抑圧する側vs.抑圧される側ということで、非対称的なので、ただのふうふ、恋人の間のケンカとは違う、社会的な不均衡な力関係にはあるのですが、

キリスト教会at largeは、まさに「善人の家」と化しているように思います。(もちろん伝統的反社集団にも争いはあると思うので、そう単純ではないでしょうが。)口先では、「罪人である私をお赦しください」的な言葉を吐くのですが、それは枕詞的な無意味な言葉に成り下がっています。他方、攻撃しやすい対象を見つけると、「そうは言っても、我々よりはあいつらの方がもっと罪人だ」と思って、コテンパンに、それも喜び勇んで叩きのめさないと気が済まなくなっている感があります。

悪人と言わずとも、自分は罪人(あるいは罪を犯しやすい存在)だっていう意識はキリスト教徒にはあるはずであるし、まさに社会的な弱者、少数者をコテンパンにのめすというのは罪以外の何ものでもないので、一旦原点に戻った方がいいという面もあるのではないか?と思いました。

聖書からの引用ではないので、これはスッと入っていかない人も多いでしょうかね。(笑)

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2022年9月20日 06:00に投稿されたエントリーのページです。

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