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「ただの同性愛の映画」

戸田恵子、宮沢氷魚&藤原季節と3ショット「ただの同性愛の映画じゃありません!」 - Ameba News [アメーバニュース] https://news.ameba.jp/entry/20190828-634/ #アメーバニュース

という記事に関して、
ロバート・キャンベル氏は問う。

https://twitter.com/rcampbelltokyo/status/1167072017914351616

戸田さんに聞きます。「ただの同性愛の映画」って何ですか?「同性愛」を差し引いて始めて貴女が向き合っている観客が見るべき映画、ってこと?「ただの同性愛者」からの、切実な問いです。

戸田恵子、宮沢氷魚&藤原季節と3ショット「ただの同性愛の映画じゃありません!」

この映画を「ただの同性愛映画」といいたいのか、
それとも「ただの同性愛映画ではない」といいたいのかが
ちょっと混線している感はあるのですが、

欧米は別にして、今の日本の映画、ドラマ、演劇などにおいて、
同性愛者の登場人物が出てきたときには、

どっちに転んでも、登場人物の同性愛性に焦点が当たって、
その上で、その映画は
「ただの同性愛映画である」か、
「ただの同性愛映画以上のものである」か
しか選択肢が無いってことでしょう。

同性愛者が主役であったり、
あるいは、同性愛者が端役で出てきて、
しかも「同性愛映画ではない」ということは、
現代の日本では許されない。

これは、言語学では、チェコのHavránekが提唱し、
文学理論では、それに十数年先んじてロシアのShklovskyが提唱した
「異化 露ostranenie、チェコaktualizace」と
「自動化 露avtomatizm、チェコautomatizace」の問題と絡んでいて、

簡単に言うと、何らかのヒト、モノ、コトがあったときに、
それがその置かれた「場」の中で目立っている間は
異化が働いていて、
それが時間が経つことで、目立たなくなったときには、
自動化が成立してくる。

現在の日本では、映画やドラマに同性愛者が出てきたときには、
その登場人物の他の属性よりも、同性愛者であるということに
焦点が当たり、つまり異化が働いていて、
観客の関心が「そこ」から外れることを許さない。

その辺りが自動化してくると、同性愛者は登場しているけれど、
別にそこは、話の本筋ではない、という映画、ドラマに
なっていくのでしょう。

とはいえ、現状では、あまりにも映画、ドラマに同性愛者が
出てくることが少ないですから、異化しようがどうしようが
同性愛者がどんどん出てくることに意味があるんですけどね。

--

ところで、話の次いでですが、異化、自動化という
ことに関して言語学の話をすると、

流行り言葉というのは、当初異化が働いて、
そこいら中で使われても、段々自動化が働いて
使われなくなっていく。

「マジ卍」とか
「つらたにえん」

なんかも、過去の

「チョベリバ」

なんかと同様にことばの命としては短いものでしょう。

翻って、「イケメン」ということばの
命のなんと長いことか。

学術研究もあるかも知れないが、
ちょっと把握できていないです。

学生さん方には、ウィキペディア「だけ」を
ソースにしてはイケないと常々言っているところですが、<笑>

ウィキペディアを見ると、

イケメン - Wikipedia http://bit.ly/2ZA78WD

『G-men』などのゲイ雑誌で「イケるメンズ」「イケてるメンズ」が
1990年代に登場し、その後に、『egg』で、「イケメン」が使われたのだそう。

これが、なかなか自動化して、(陳腐化して)使われなくなっていかないんですよね。

もしかして、女性にはずっとある「美人」ぐらいの位置に
男性に関して評することばが欠けていて、そこの間隙に
スポッと収まっちゃったんでしょうかね。

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2019年8月30日 11:35に投稿されたエントリーのページです。

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