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2019年6月 アーカイブ

2019年6月20日

LGBT研修

昨日の教授会の合間には、FD研修があり、
トピックは、LGBT+に関するものでした。

講師は、一橋大学の(おそらく)カウンセラーの
柘植道子さん。

https://nrid.nii.ac.jp/ja/nrid/1000000401654/

これを見ると2018年度からとなっているので、
あの「カミングアウト→アウティング→大学の対応不備→自殺」
事件の後に、大学が慌てて対応しなければならないと思って
配置した人なんだと思います。

でも、他のネット情報だと、2014年から現職と
書いているところもあって、あれ?って思います。

ともあれ、まあとりあえず必要な情報は盛り込まれていたかなあ
とは思います。

でも、大多数のシスジェンダー・ヘテロセクシュアルの教員に
どれだけ「刺さった」のかはまったくもって心もとないです。

戸籍上の性(≒生物学的性)、性自認、性的指向、性表現を
分類していて、戸籍上の性以外は、グラデーションで、
ノンバイナリーなところに落ち着く人もいる的なことが
図からは示唆されていましたが、どれだけ伝わったかわかりません。

ともあれ、LGBT+などの研修は、1回やればワクチンの様に
有効になるもの、エルゴンではなくて、

これから実際に個々の教員が、生物学的性、性自認、性的指向、性表現が
多数派とは違う個人個人に出会っていって、「あ、こういうときは
以前の様に対応してはいけないんだ」と一旦考えたり、

また、少数者が目に見えなくても、
多数派しかいないことが前提に、普段行動しているところを
「あ、これはダメなのか?」と変えていくことなどで、

段々と、「少数者が不快でないように行動」できるようになるのであり、
エネルゲイアですね。

2019年6月26日

士農工商は無かった〜耶蘇寺内のゲイ

昨日、TBS荻上チキのSession 22で、

【音声配信】江戸時代の身分制度はピラミッドではなかった⁉︎
見直しが進む、被差別部落の歴史を知る▼上杉聰×川口泰司×荻上チキ
▼2019年6月24日(月)放送(TBSラジオ「荻上チキ・Session-22」平日22時~)

https://www.tbsradio.jp/382925

という放送がありました。

これは、radikoとは違って、
TBSがこのページを閉じない限りは
残りますから、ずっと歳月が流れた後でも
ぜひお聴きになることを
おすすめいたします。

我々後期中齢者が初等中等教育を受けたころには
「士農工商」という序列があったと教えられていましたが、
その考えは現在では誤りであったと考えられて、
今の教科書には載っていないのだとのこと。

「士農工商」とは、漢籍から取られた文字列で、
元の中国語では、「士」とは、侍ではなく、
「専門的な知識をもっている人」
「ある業務を最初から最後まで責任を持って遂行する人」
などの意味があったそうです。

事実日本でも、「士」は、武士だけではなく、
弁護士、会計士などの職業名にも出てきますし、
大学の学部を出れば学士、大学院を修了すれば、
修士、博士になります。

中国では、「士農工商」とは、序列を表わした
ものではなく、様々な職業の人々の意味だったそうです。

翻って、江戸時代にあった、人々の区分は、
武士、町人、百姓で、武士は上に君臨したかもしれないけれど、
町民と百姓の間には上下関係は無かったとのこと。
町人とは、町に住む人であり、百姓とは、田舎に住む人で、
それぞれ様々な職業に就いていたとのこと。

その中にあって、部落民は、多くの文化にある奴隷として
差別されていたわけではなく、外側にいるものとして
排除の差別がされていたとのこと。

それでも、屠殺業、皮革産業のみならず、
様々な職業に就いていたとのこと。

警察業も、罪人というのはケガレなので、
部落民が担っていたとのこと。

(これよりくわしくは、上のリンクから
 音声をお聴きください。また、
 上のリンクのなかにある書籍に
 当たってください。)

閑話休題。

とある耶蘇寺の教役者の間で、「現代的な課題について
考える」ということが話題になっており、
その中に、「権利意識とその対処に関して」という
題目があったそうです。

権利とは、一般には人権 human rightsと呼ばれる
ものでしょうね。

でも、それを社会の規準に基づいて
耶蘇寺の中で振りかざされた場合に
どうしたらいいか対処法を考えようという
ことでしょう。

そこには、「人権は厄介」という意識も
あるように思われます。

--

そこで、でも、考えてほしいのは、
旧約の律法で挙げられている罪でもなく、

新約聖書の書簡で挙げられている罪状書きでもなく、

福音書のイエス・キリストがどうしたかということです。

イエス・キリストは、社会の中で「小さくされた人」の側に
常に立っていたはずです。

それは、異邦人であったり、異教徒であったり、
旧約の律法や、紀元前後のもろもろの罪状書きに
該当して、共同体から排除されていた人々だったはずです。

それは、日本の近現代の部落民とイコールではもちろん
ありませんが、共同体から差別されて、排除されていた
人々という点では共通点があります。

現代の耶蘇寺が、「厄介な人らを単純に排除をすることによって、
耶蘇寺内の平和を保つ」ということは
してほしくないです。

--

私は、LGBTのG、ゲイで、耶蘇寺の多くの教派では、
「ソトのもの」として排除されています。

私とて、耶蘇寺内で、人権をふりかざして
大声を挙げる気はありません。

耶蘇寺内で不必要なカミングアウトも
する気はありません。

耶蘇寺内で結婚式を挙げる権利も
求めていません。

傷つけられる言葉を投げつけられることが
わかっていますから、ゲイであることに
関連することがわかる形で
告解をすることももうしません。

他の檀家に、LGBTの人権のことを伝えて
考えてもらうこともする気はありません。

ただただ、私がもしパートナーよりも
先に死ぬことがあったら、
パートナーが喪主になれるようにだけは
しておきたいと、知恵を絞ろうと思っています。

(市井でも、ある人が死去して、その同性パートナーが
 葬儀にも出られず、財産の相続もできないということは
 今までも起きています。)

そのためには、仮にもし世俗法で同性婚が
法制化されても、それを利用することなく、

従来の同性カップルがしてきたように、
成人養子縁組をするとか、

あるいは、パートナーと互いに
成年後見人になりあう程度が
私にとっても、遺されたものにとっても、
耶蘇寺にとっても一番ストレスが少ないのかな
とも考えています。

--

ここまでの数行の事柄は、
異性愛者で、異性婚をしたカップルであったら、
全く考える必要も無いことだということは
ぜひとも慮ってください。

我々「ソトのものら」は、社会の中で
小さくされて、悩みを抱えさせられています。

そのせいで精神を病むものも多いです。

どうか、どんな形でも「小さくされた
ソトのものら」の側によりそう
耶蘇寺が少しでも増えることを祈ります。

イエス・キリストが現代の社会に生きていたら
「小さくされたソトのものら」のかたわらに
寄り添うはずですから。

--

近代までの日本では、異性結婚をしつつも、
同性間の逢瀬を楽しむ人達がいたことはわかっています。

現在でも、世間体を考えて異性結婚をする人はいます。
(その多くは外で遊んでいます。)

でも、異性結婚を押し付けないでください。

また、禁欲も押し付けないでください。

ゲイでも、世間体上の異性結婚を自由意志でしたり、
禁欲を自由意志で選ぶ人もいるでしょう。

でも、その二者択一が全ての耶蘇寺内のゲイに
他者から強制されたとしたら。
生きにくくなるだけですし、精神を更に病む人もいるでしょう。

特にその異性結婚が「浮気を姦淫としてばっさりと切り捨て
禁止するもの」だったら、言語道断です。
そんなでは、家庭が安らぎの空間ではなく地獄になってしまいます。
どうやったら好きでもない人と、愛のある家庭を築くことが
できるのでしょうか。

--

同性愛は、国連のWHOの「治療すべき疾病」の一覧に、
20世紀のある時点までは載っていましたが、
今では治療の対象であるとは考えられていません。

(成功するかどうかは関係なく、イスラーム圏では
 まだ同性愛の治療が課されている場合もあるでしょうが。)

「同性愛って、治療すれば治るんでしょう?」
と考えている人には、この映画を見てほしいです。

「ある少年の告白 Boy Erased」
http://www.boy-erased.jp

同性愛治療が害悪でしかなかったという
自伝に基づいた映画です。

また、英語がわかる人には、この映画もおすすめします。

「Prayers for Bobby」
https://www.prayersforbobby.com

同性愛者であった息子を受け入れなかったことによって、
彼の自殺によって彼を失った後になって
やっと彼を受け入れた、クリスチャンの母親の話です。
これも実話に基づいています。

--

「変われる人もいるでしょう?」
という人には、最後にもう1本の映画を。
同性愛者であったものが、異性愛者に「なって」
キリスト教の牧師になったという話もあります。
これもMichael Glatzeという人の実話で、
「I Am Michael」
https://www.youtube.com/watch?v=40DNZcKA160
という映画です。(英語で、ポルトガル語字幕です。)

変われた人もいるかも知れないけれど、
この人は、治療によって治ったわけでもなく、
自分で異性結婚をすることを選んだのです。
これは誰でもできることではなく、
自由意志で選ぶ人もいるという、それだけのことです。
何らかの形で強制されたら、それは自由意志ではありません。

2019年6月30日

交差利き

こういう記事があった。

「自分の利き手がわからなかった」 右利きでもない左利きでもない
「交差利き」についての漫画に反響
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1906/29/news002.html

全部がnature(先天性)なのか、
全部がnurture(後天性、育ち方・育て方でどうなるかが決まる)なのかは
わからない。

でも現状はこうだというのが、性的指向ににているね。

アナローグとしては、似ているのは、
多数派の右利きがヘテロセクシュアル。

少数派の左利きがホモセクシュアル。

更に少数であろうクロスドミナンス(両手利き、分け利き)の様々なあり方は
バイセクシュアル、パンセクシュアル、ポリセクシュアル。

Aセクシュアルのアナローグは、利き手が無いっていう
ことになるけど、利き手の場合は、最低どちらかが
使えるっていうことになるらしいから、
セクシュアリティーとは、そこは違うね。

手が無い人が足を手の代わりに使う場合もあるからね。

でもこれは、似ている「ところ」があるって言っただけだから、
全部符合しているっていう訳じゃないです。

これを以ってAセクシュアルを「治そう」としないでください。

全部natureか、全部nurtureかは分からない。
でもそこを早合点して、全部nurtureだと思って、
少数派になる可能性のある幼児をスクリーニングして、
多数派になるように、コンバートしようと
しないでくださいね。

まさにそういう世間からの圧力がが、
natureの左利きから、両手利き、分け利きを
育んでいるのかもしれないし。

あるいは、natureっからの両手利き、分け利きも
いるのかもしれない。

バイセクシュアルっていうのも、
両性を、全く均等に愛せるっていう話じゃなくて、
ある部分は、同性だけど、ある部分は異性だっていう
話もよく聞く。

パンセクシュアル・ポリセクシュアルになってくると、
女性、男性だけでない、ノンバイナリーなジェンダーも
入ってくるけれど。「多様なすべての性」を均等に「愛そうと」する人も
いるだろうし、そうじゃない人もいると思う。

いずれにせよ、主に人間の脳がどう働いているか
っていうことだよね。

それを、人間の考え、人間の常識で、
思い通りに「矯正できる」と考えるのが
そもそもの出発点としての大きな間違い。
ここは理解をお願いします。

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