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ウィキペディアの憂鬱

以前書いたことを、
ブログ向けに書き直します。

問題なのは、ウィキペディアです。
http://ja.wikipedia.org/

ウィキペディアとは、ご存知かと思いますが、
インターネット上の百科事典で、
誰でも編集に参加することができ、
簡単に記事を改変することができます。

誰が、編集に参加したかは、
各記事のページの上方の「履歴」という
ところを見るとわかるようにはなって
います。

そこを見ると、各回の編集前の状態も
見ることができるようになっています。

そうはなっているのですが、
その編集した人が誰かという情報は、
ウィキペディア上のアカウント名がわかるだけで、
究極的には、3次元世界で生活している
一体誰が、そのアカウントを持っているのかは
わからないことがほとんどです。

というような意味で、出版されている
百科事典とはかなり性格の違うものです。

出版されている百科事典には、筆者の名前が
書かれている場合もあり、そうでなくても、
巻の編集者、そして、出版社が責任を
負っています。

ウィキペディアには、そのような責任の
所在がありません。

以上の理由で、学術界では、論文や著書に
ウィキペディアの記事を引用することは
タブーであるという暗黙の了解があります。

ウィキペディアを引用しただけで、
論文、著書の信用が地に落ちてしまいます。

また、大学などで、学生にも、
ウィキペディアを、他の文献などを探す
道具にすることはいいけれど、
そのまま引用しては行けないと
指導しています。

このように、学術界・教育界では、
ウィキペディアを利用することには
慎重になっています。

一方、市井の人々にとってはどうでしょうか。

グーグルなどの検索エンジンで
http://www.google.co.jp/
何か用語を検索すると、
もしウィキペディアに該当の記事があれば
それが、検索結果の上位に
来るようになっています。
それは、単純にアクセス数が多いということを
反映しています。

検索結果の上位に出てくるということ
だけが理由ではないですが、
一般の人々は、ウィキペディアを
事実上、もっとも良く引く
ネット上の百科事典として使っています。

ネット上で、自由に引用されたり、
コピー&ペーストされて、
新たな記事になったりしています。

学術界では一笑に付されるウィキペディアでは
ありますが、一般の人々にとっては、
至上の情報源になっています。

--

ところで、ウィキペディアの記事を
「まともに」取り合うこと自体噴飯ものなのですが、
でもまあ、おかしなことの一例をお示しして
おきます。

今後訂正される可能性が無いことは無いので、
現行の版への固定リンクを張っておきます。

http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%e3%82%a4%e3%83%b4%e3%82%a1%e3%83%b3&oldid=28854510

記事内に、
「Иоанн(イオアン) - 教会スラヴ語再建音」
と書いてあります。

これは、大事なところで間違っています。

そもそも教会スラブ語というのは、
古代教会スラブ語に始まり、
その後、スラブ語圏各地域で変化した
複数の規範を内包する概念で、
決して1つの言語の名称ではありません。

百歩譲って、現代ロシアの正教会で使われる、
儀礼用言語としてのソレをさすものとしましょう。

そうなると、こんどは、再建音というのが
当てはまりません。

再建(あるいは再構)というのは、
比較言語学上の概念で、
資料が現存しない音(単音)や
語形などを、同系の諸言語を比較することによって、
理論的に導きだすことです。

Иоанн(イオアン)の中には、
現存せず、理論的に再建された
音(単音)もありませんし、
この音の並びも、理論的に
再建されたものではありません。

ただ単に、市井の通常のロシア語の語形、
Иван(イワン)とは異なり、
教会での、宗教的な場面において
主に用いられる形式だというだけです。
それは、現在でも限られた場面ですが
使用されており、現存しない形式を
理論的に導きだしたものでは
決してありません。

そのような、主に教会で宗教儀礼用に使われる
(ロシア語とは違う)言語を、
現代ロシア教会スラブ語と呼んでもいいでしょう。

その正書法には、主に2つの種類があります。
1つは、古代教会スラブ語の文字を使ったもの。
(しかしその場合でも、鼻母音を含む? [?]、? [j?]は、
 оу [というよりは、?を上に配し、оを下に置いた
 合字の変形したもの;u]、ю [ju]で書き換えられていたり、
 また、古代教会スラブ語に関しては、
 諸研究者の見解の一致が見られない
 ストレス・アクセント[ウダレーニエ]が
 実用上の理由から表記されているなど、
 古代教会スラブ語そのままのものではなく、
 現代のロシア人が読みやすいように工夫が
 なされています。)
上記は、主に、司祭、輔祭、誦経者などが
目にする印刷物に使われています。
(以上、正書法1)

一般信徒向けには、さらに古代教会スラブ語から、
文字数を減らし、現代ロシア語で使う文字のみで
表記する正書法が用いられています。
古代教会スラブ語では複数の文字で書き分けられて
いたものも、現代ロシア語で発音上区別しないものは
同じ文字で書かれるようになっています。
(以上、正書法2)

「イオアン」は、

正書法1では、
??аннъ
(ここでは、ウダレーニエは省略)

正書法2では、
Иоанн
と書かれます。

(追記。あともう1つ、聖歌の楽譜などには、
 現代ロシア語が33文字に整理される前の、
 帝政ロシア末期まで用いられた正書法に準じた
 現代ロシア教会ロシア語の正書法というのも
 見られます。? [?]は使われるが、?、jaは区別せずに
 я [ja]で書かるなど、正書法1とも違います。
 以上、正書法3)

さて、現代の教会で使われる
現代ロシア教会スラブ語ではなく、
9世紀から11世紀の古代教会スラブ語では、
おそらく??аннъと書かれていたでしょう。
しかし、ギリシャ語に準じた、
?、?という書き文字が、(当時でも)
発音が同じだったИ、оで書かれるという
バリエーションはあったかも知れません。

さて、書き文字が残っているのですから、
綴りの再建はありませんが、
実際の発音に関しては、
古代に録音技術はありませんでしたから、
再建の余地があります。

主に問題となるのは、末尾の母音字
ъです。

古代教会スラブ語には、
現代のスラブ系諸言語と異なり、
開音節の法則というものがあり、
音節は、必ず母音で終わり、
子音で終わることはありませんでした。

??аннъのъも、現代の教会で
なされているような黙音ではなく、
оу (u)よりは短めで
「ウ」に近似した母音だったと
比較言語学上推定されています。

それを「再建」と呼ぶのならば、
??аннъの発音の再建形を、
(正確でないにせよ)カナで書くとして、
それは、「イオアンヌ」のようなものに
なるはずです。

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2009年11月16日 22:50に投稿されたエントリーのページです。

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