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なぜアサバスカ語か?

僕が、北大の院に進学したのは、
1988年4月。

入学当初は、専攻するフィールドの言語は
決まっていませんでした。

指導教官M教授は、
なんとなく、ご自分のフィールドに近い
アラスカの先住民語を僕にやらせたかったらしく、
その中でも、トリンギット語(Tlingit)が
いいんじゃないかとお考えのようでした。

その、1988年の夏、
アラスカ大学フェアバンクス校の
アラスカ先住民語研究所で、
http://www.uaf.edu/anlc/
カナダ・アラスカ・北部先住民語夏期講座
(Canadian-Alaskan Institute for Northern Native Languages)
が開かれました。

これは、主に、先住民コミュニティーにおいて、
アサバスカ語+αの二言語教育に携わっている、
先住民の先生方のための夏期講座であり、
僕のような、部外者のためのものでは
ありませんでした。

でも、先住民と知り合ういい機会ではあったので、
研究所のE. Irene Reedさん(後にアラスカの母と
呼ぶようになる)に連絡を取り、参加することに
しました。

初めてのアラスカ行きは、安いチケットを
選んだ結果、札幌・東京・LA・シアトル・
ジュノー・フェアバンクスと飛び、
21時間の長旅となってしまいました。

(その後数年間は、まだ日本から欧州への
北極経由便があったので、東京から
アンカレッジは、6時間程度で
行けました。その後、北極経由便は
無くなり、今では、ソウルか、シアトルを
経由する必要があるようです。)

着いてみると、植生が明らかに
米国本土や、日本とは異なり、
荒涼とした感じでした。

また、白夜のせいで、
遅くなっても明るいままでした。

さて、夏期講座ですが、
M教授の勧めもあり、
Tlingit Literacyという、
トリンギット語を話せるけれども、
正書法で書くことに慣れていない人達に
書き方を教える授業を取ることに
していました。

(トリンギット語は、アサバスカ諸語、
イーヤック語とともに、ナ・デネ語族に
含まれ、アサバスカ語とは遠い親縁関係に
あります。)

しかし、夏期講座が始まってみたら、
その授業は、僕の他、もう1人しか
エントリーしておらず、
キャンセルになってしまいました。

Literacyは、他に、アサバスカ語族の
Carrier語と、Gwich'in語のものが
開講されていました。

僕は、そのCarrier Literacyと、
Comparative Athabaskanと、
Language Planning and Policyを
受講することにしました。

後者2つは、ほとんど講義だったので、
聴いていればよかったのですが、
Carrier Literacyは、教室での教え方の
実技などもあり、まったく喋れない僕は
足手まといになっていました。

それでも、楽しい3週間はあっという間に
過ぎて、僕は、アラスカを後にしました。

さて、専門のフィールドの言語ですが、
指導教官陣は、アサバスカの村々が
一筋縄では行かないことをご存知だったのか、
トリンギットを選べばいいと思って
いらっしゃったようです。

でも、僕は、そんなことも深く考えず、
Carrier Literacyの授業を受けたことと、
かのEdward Sapirでさえ
son-of-the-bitchiest-languages of the world
と言った、複雑極まりない難解な
言語であるというチャレンジと、
まだ東京にいたときに、
アパッチ語の専門家から授業を受けて
興味を持ったことなどから、
アサバスカ語をやることに
決めてしまいました。

でも、アサバスカ語のうち、どの言語を
やるかは、次の夏まで決まりませんでした。

次の夏は、7月から翌年4月まで
アラスカに滞在しました。

アラスカ先住民語研究所の
Michael E. Krauss所長からは、
当時、アラスカで調査が必要なのは、
Upper Kuskokwim、Tanana、Tanacross,
Upper Tanana、Hanの5言語だと
言われました。

その中から、いろいろ考えた挙げ句、
Upper Tanana(上[かみ]タナナ語)を
選びました。

それから、約10年、毎年夏は
現地に赴きました。

なぜ、行けなくなったかは、
また稿を改めて書きます。

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2009年7月16日 14:51に投稿されたエントリーのページです。

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