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チリ断章

 

実に奇妙な形の国である。かつてスペイン人征服者たちはチリを「剣の鞘」に擬えた。「帯」と形容した者もある。ある論者は「アルゼンチンの西端を飾る縁飾り」と評した。南米大陸の西側を走るアンデス山脈と太平洋とに挟まれて、チリは南北に細長く延びる。全長四三〇〇キロ。だがその幅は平均一七〇キロに満たない。「常軌を逸した地形」とあるチリ人は言った。

ふつうチリはアンデス諸国の一つに数えられている。だがチリは、ペルー、ボリビア、エクアドル、コロンビアなど他のアンデス諸国とはかなり違う。これらの国々では、国土の中央部をアンデス山脈が横断しており、そのため国土はアンデスを境にして自然環境のまったく異なる沿岸部、山岳部、アマゾン側森林部に分断されている。それに対してチリでは、アンデスが国土の東端をちょうと背骨のように南北に貫いて走っており、アンデスは国土の景観にむしろ統一性を与えている。さらにペルー、エクアドル、ボリビアの場合には山岳部に多数の先住民インディオが住み、沿岸部との間に民族的、文化的な差異が大きいが、チリでは先住民インディオの数が相対的に少ない上に混血が進んでおり、国民のあいだの民族的、文化的な等質性は比較的高い。

チリの自然環境、生活環境の違いはもっぱら南北の緯度差によっている。国土は、乾燥した北部の砂漠地帯、中央部の農業地帯、南部の森林・氷河・フィヨルド地帯に大きく分けられる。それゆえ、そこに住む人々の暮らしもまた多様である。

一六世紀、スペイン人がやって来た時、チリには様々な先住民族が住んでいた。一部は移動して採取生活や狩猟生活を送っていたが、多くは農耕を営み家畜を飼育する定住生活に入っていた。コピアポからチロエに至る地域に住んでいたピクンチェ、マプーチェ、ウィジチェ、クンコなどがその代表である。スペイン人征服者たちは彼らを総称してアラウカーノと呼んだ。その中でも、イタタ川からトルテン川の間の地方に住むマプーチェは、侵入してきたスペイン人に対してとりわけ頑強に抵抗を続け、一八八二年に平定されるまで三五〇年以上にわたってアラウコ戦争と呼ばれる戦争状態が続いた。

現在、先住民族のほとんどは消滅しており、わずかに北部高原地帯に住むアイマラ、南部のアラウカニーア地方に住むマプーチェなど数十万人が旧来の習慣と生活様式を維持して暮らしている。先住民族はこれまで歴史的に無視されてきた存在であり、現在でも彼らに対する蔑視は強く残っている。

だがチリ人はこれら先住民族とスペイン人の混血によって生まれた。ただ社会階級によって混血の度合いは異なる。上流階級の場合には純粋の白人が多い。中産階級の場合も先住民の血はそれほど濃くはない。だが社会階層が下降するにつれて褐色の肌が多くなる。  チリはアルゼンチン、ウルグアイと並ぶ南米の白人国だと言われる。しかし一九世紀後半から二〇世紀初頭にかけて大量に流入したイタリア系移民の影響で何かと派手なアルゼンチン人やウルグアイ人と比べると、チリの白人はスペイン系が中心で、国民全体の印象もずっと地味である。  南部には一九世紀にドイツ人移民が多数入り込んだ。また北部のアントファガスタや南部のプンタ・アレーナスにはユーゴスラビア系が多い。中東からの移民も少なくなく、総称して「トゥルコ」(トルコ人)と呼ばれている。

チリの公用語はスペイン語であるが、北部高原地帯ではアイマラ語が、南部ではドイツ語やマプーチェ語が話されている。

北部は雨がほとんど降らず、タラパカ砂漠、アタカマ砂漠など乾燥した砂漠が広がる乾燥地帯である。見渡すかぎり、荒寥とした茶褐色の大地がどこまでも続いている。緑一つない、まったくの不毛の土地である。だがその地下には硝石、銀、銅など豊かな鉱物資源が眠っていた。チリの近代史はこの富をめぐって展開する。この北部を舞台に、鉱物資源の輸出に支えられるチリ経済の枠組みが創られた。

北部の砂漠地帯には幾重にも歴史が織り込まれている。

いたるところ戦場跡がある。一八七九年から一八八三年にかけてチリは、この北部の砂漠地帯の帰属をめぐってペルー、ボリビアの連合軍と戦った。いわゆる太平洋戦争である。チリはこの戦争に勝利し、豊かな硝石資源を獲得した。その採掘はイギリス資本に委ねられたが、硝石輸出がもたらす富をテコにチリは近代化の道を進んだ。この地方はまた、一八九一年の内乱の主戦場ともなった。内乱は、イギリス資本が握る硝石産業の民族化を図ったバルマセダ大統領と、イギリスの支援を受けた保守勢力の間で戦われ、反乱勢力が勝利した。

砂漠の風に吹きさらされて、あちこちに、崩れかけた茶褐色の煉瓦の壁が残っている。硝石ブームで栄えた硝石採掘場や町は、第一次世界大戦後にブームが終るや人々が去って廃墟になった。硝石に替わってその後のチリ経済を支えることとなったのが銅である。露天掘りでは世界最大のチュキカマタ銅山があるのもこの砂漠地帯だ。砂漠のなか、精練所の上げる煙が遠くからでも見える。

砂漠には、この地で働いた労働者たちの墓が随所にある。砂地に傾きながら無数の十字架が立ち並んでいる。鉱物資源を掘りあててブルジョアジーに成り上がった人々を生んだのがこの地なら、アジェンデ政権の誕生にもはるかつながる戦闘的なチリ労働運動が誕生したのもこの砂漠地帯だった。弾圧の犠牲者も数多い。一九〇七年、労働条件の改善を求めた硝石労働者とその家族が軍隊に弾圧され、数百人の犠牲者を出したサンタ・マリア・デ・イキケの虐殺はとりわけ有名である。

チリ中央部は、文字通り、チリの中心である。北はコピアポから南はチロエまでのこの温暖な地域に、全人口(一二〇〇万人)の九割以上が集中している。首都サンティアゴをはじめバルパライソ、コンセプシオンなど主要都市が位置するのもこの地方である。

チリはラテンアメリカのなかでももっとも都市化が進んだ国の一つである。一九八二年の段階で、人口二万人以上の町に居住する人口は全人口の七割近くに達する。しかも都市人口の半数近く、全人口の三分の一(四〇〇万人)が首都サンティアゴ市に集中している。第二の都市コンセプシオン市の人口は二〇万人台だから、サンティアゴ市の規模はまさに突出している。

サンティアゴの街は社会階層の違いによって空間的にはっきりと区分されている。市の東北部は「バリオ・アルト」(山の手)と呼ばれる高級住宅地である。それに対して、街をぐるりと取り囲むようにしてポブラシオンと呼ばれる低所得者層の団地が広がっている。 ポブラシオンではすべてが褐色である。家々も、通りも土色だし、人々の肌の色も、先住民との混血が多いことから褐色が多い。ポブラシオンでは、多くが木造平屋建ての粗末な家々で、道路の多くは舗装されていない。サンティアゴ市の全人口の三分の一から半分がポブラシオンに居住していると言われる。

ポブラシオンには工場労働者や建設労働者をはじめ、露店商、運転手、給仕など雑多な職業の人々が住む。一九七三年から一九九〇年まで一六年半におよぶ軍政期、ポブラシオンに住む人々は失業と貧困と弾圧に苦しんだ。家庭崩壊、アルコール中毒、麻薬、犯罪、売春が広がった。と同時に、生活防衛のための共同行動も少なからず生まれた。種々の作業所、共同購入組織、共同なべ、医療グループなどがポブラシオン住民自身の手で、あるいは教会やNGOの援助によって組織され、その数は一九八七年の時点ではサンティアゴだけで一四〇〇近くにのぼった。

アルピジェーラと呼ばれるパッチワークはそうした作業所で生まれた。厚手の布に様々な色の余り切れで、白雪を抱くアンデス、赤や黄色の太陽、小さな家々が描かれる。そこを舞台に、綿と毛糸でつくられた小さな人形たちがさまざまな活動をしている。盗電を摘発してまわる電気会社の車、失業中の男、作業所や共同なべで活動する女、銃を住民につきつける警官や兵隊、古タイヤのバリケードやデモの模様など、題材はいずれも軍政下での自分たちの生活や体験である。だからアルピジェーラを並べてみるとポブラシオンでの生活の様子がよく分かる。

チリはカトリックの国と言われている。しかし、現在、チリではポブラシオンを中心に、プロテスタント系のペンテコステ派が急速に勢力を拡大している。ポブラシオンのあちこちに大小さまざまな教会があり、その数はカトリック教会より多い。貧しく苦しい生活のなかで、現世的な御利益をかなえてくれるペンテコステ派の教えが魅力的に映るのであろう。

チリ中央部、なかでもサンティアゴからビオビオ川に至る地域は、植民地時代からチリ農業の中心だったところである。雪をいただくアンデス山脈を背景に、青々とした牧草を食む馬や牛の群、緑の小麦畑、長く続くポプラ並木、野菜畑やぶどう園と、この地方の典型的な農村風景が広がっている。

この一帯は、植民地期以来、フンドと呼ばれる大農園が支配的だったところである。最近まで、フンドはチリの伝統的な支配層の基盤であった。フンドでは、農園主とインキリーノと呼ばれる小作人との間で家父長的な関係が維持され、それがチリ社会の安定を支えていたのである。しかし、この大土地所有制は、六〇年代のフレイ政権と七〇年代初頭のアジェンデ政権が推進した農地改革によって実質的に解体された。農地の分割により小農民が増えた。だが軍政期、とりわけ急成長を遂げたのが、近代的な技術と機械を取り入れ、ぶどう、桃など輸出向けの果物や野菜を生産する近代的な農業経営である。かつての小作人に代って、収穫期に一時的に雇用されるだけの季節労働者も増大した。彼らのなかには農場から農場へと仕事を求めて渡り歩く者も少なくない。

ビオビオ川を渡ると農村風景はかなり違ってくる。南に下がるにつれて雨量はしだいに増大し、森が濃くなる。アラウカニーア(アラウカーノの地)ともフロンテーラ(辺境地帯)と呼ばれるこの地方は、長い間マプーチェの抵抗が強かったところで、チリ国土に編入されたのはようやく一九世紀末のことである。その中心テムーコの町にはマプーチェの製作するポンチョ、絨毯、民芸品の店が目につく。  その南のバルディビアからは湖水地帯が広がる。富士山によく似た円錐形の火山、数多くの湖、うっそうと茂った森が美しい景観をつくりだしている。この地域には19世紀中葉以降、ドイツ人移民の入植が積極的に進められ、中規模の近代的な農業経営が多い。緑の畑のなかに赤い屋根の家々が散在している。

林業も盛んである。伐採にはチェーンソーが使われるが、山から道路まで原木を運び出す作業は今でも牛が頼りだ。そこからトラックで製材所やチップ工場に運ばれる。最近、チリでは天然林の乱伐が問題になっている。豊かな森林資源に注目した日本など外国の製紙企業があいついでチップ生産に乗り出し、地元の天然林所有者が利潤目当てに争うようにして乱伐に走ったためである。ユーカリの植林計画も進められているが、単一種による人口林は生態系を破壊するとの批判も強い。

チロエ島は大陸最南端のフエゴ島に次ぐ南米第二の島である。大陸から切り離されているところから、チロエには独特な雰囲気がある。建物はほとんどが木造で、外壁はウロコ状に板が重ね合わせてある。「テフエラ」と呼ばれるこの地方特有の建築様式である。チロエは雨が多い。年間の降雨量は二五〇〇ミリから四〇〇〇ミリにも達する。その雨が家のなかに滲み込まないための工夫である。

かつてチロエは全島が深い森におおわれていた。植民により切り開かれて畑や牧地になったが、森はまだあちこちに残っている。大地と森と海が島の人々の暮しを支えている。島の人口(一二万人)の六割が農村地域に住んでいるが、そのほとんどは小規模の土地を耕す零細農民である。彼らは半農半漁の暮らしである。大地と海がチロエの人々のくらしを支えている。その様子は、ダーウィンの航海記で描かれている一五〇年以上昔の暮しとそれほど大きく変わっていない。土地を耕しじゃがいもをはじめ小麦や野菜を栽培しながら、海に小舟を出して魚を捕らえ、潜って貝や海草を採る。羊を飼って羊毛を刈り、糸に紡ぎ、チョッキ、セーター、靴下、手袋、帽子などの衣服を編む。牛からは乳を搾り、チーズをつくる。豚、鶏もいる。森に入って木を切り、薪を集め、炭を焼く。自給自足に近い暮しである。

雨と霧、強い風、深い森、雲の低く立ち込めた空、荒れた海。これらの自然が人々の心にさまざまな幻想を生んだ。チロエ島は伝説、民話に満ちている。

森に住み若い娘を手篭めにする好色な赤眼の小人トゥラウコ、夜の野道を行く男に後から抱きついて誘惑する黒衣の未亡人ビウダ、魔法使いが海から呼び寄せる醜い巨大な海馬、難破船の乗組員や魔法使いを乗せ煌々と明りをつけて音もなくすべるように走る幽霊船カレウチェ、陽気に踊りながら砂浜に貝殻を埋めて魚や貝を呼び寄せる金髪の海の女王ピンコージャ。そして数々の魔法使いや怪鳥たち。「チロエのミトロジー(神話)」はいずれも島の自然と深く関わっている。

チリはもともと親日的な国だと言えるだろう。だが最近は、チリの天然資源を日本が収奪しているとの批判の声が高まっている。新聞には、日本企業がチリの天然林を乱伐してチップに変えているとの批判記事がよく出る。南部の零細な漁民たちは口々に、最近魚がめっきり少なくなったと言う。日本やスペインなど外国の大型トロール船による乱獲がその原因だと言う。

日本から見て、チリは地球の反対側に位置する遠い国だ。しかし同時に、太平洋を隔てて隣り合わせた隣国でもある。