文字通り、narratology=narrativeについてのlogos
narrative:@語るという行為そのもの、A語られた中身(=物語)――Erzahlungの二つの意味
それに応じて、大別して二つの方向の「物語論」:
(1)物語内容についての記号論的分析(レヴィ=ストロース、プロップ...)
(2)語りの機能についての記号論的分析(ジュネット、ブース、シュタンツェル...)
ここでは(2)の「語りの機能」に関してとりあげる。
F.シュタンツェル『物語の構造 〈語り〉の理論とテクスト分析』前田彰一訳 岩波書店1989 (Franz K. Stanzel, Theorie des Erzahlens. Gottingen: Verlang Vandenhoeck&Ruprecht, 1979) を下敷きとしながら、ジェラール・ジュネット『物語のディスクール 方法論の試み』水声社、1985なども取り入れて概観
・ 〈物語Erzahlung〉〈語りErzahlen〉を特徴付ける〈媒介性〉――
「物語」についてと日本語で言うと、話の中身が問題となっているように思われてしまうが、まさに「ものを語る」という「語り(telling, Erzahlen)」という行為の機能そのものを問題にする場合、「物語」というジャンルを特徴付けているのは、その「媒介性」――つまり、ある「語り手(narrator, Erzahler)」が仲立ちとなって、語られる内容(話)を、「聞き手」に伝えるということ。
・ cf: 演劇の直接性:「語り手Erzahler」を必要としない――
・ メディアとは――〈世界〉のできごと(五感によって知覚・認識される)を、他者に(時間的に後の自分自身の場合もある)伝達するための手段。その伝達のために、模倣・記号といった媒介、インターフェースの物質的保存性、複製製といった要素が密接にかかわってくる。
・ メディアはそういった伝達のために、いずれにせよ〈世界〉の表象・再現前・代表(represent)にかかわる。メディアによって再現されるものは(それがいかに本物そっくりであっても)、生き生きとした・今そこにある(present)〈世界〉そのものではなく、あくまでも再・現前化(re-present)されたものに過ぎない。
・ →〈表象〉とは何かということを問うことは、メディア論的な立場からすれば、そういった世界の再現前化のさまざまな手段(美術、映画、写真、演劇、文学、都市空間...)がそれぞれどのような特性を持つものであるか、そこでどのような再現前が起こっているかを考えること。
・ そういった〈世界〉の再現前としての「表象」(文学、演劇、映画...)を受け手が受け取ることによって、伝達されようとした〈世界〉の「表象・イメージ」(Vorstellung)が受け手のうちに形成される。(それがどのように行われるかという過程も、表象研究の考察の対象)
・ こういった立場から〈世界〉の伝達の手段としての〈メディア〉を捉えるならば、「語り手」を必要としない「演劇」も、「直接的」であるとはいえないことになる。
・ 「語りの媒介性を作品に具現しようとするあらゆる努力は、小説の文学性(R. Jacobson)を、すなわち、文学的・美的形成物としての作品がその独自の作用を及ぼす可能性を高める」(Stanzel, 10)
・ 何を語るかではなく、どのような語りのプロセスによって(〈媒介性〉)語るか――「物語文学の画期的な作品の作者たち(...) は、彼らの革新的な創作力のほとんどを、ほかならぬ小説に置ける物語りプロセスの創造に傾注した」(Stanzel, 10)
・ 「「それ(『ユリシーズ』)を読みながら、われわれはその読み方を学ぶ」(Robert Scoles)。つまり、この作品の中で語りの媒介性が保持している桁外れな形態を把握しようと努めることによって、われわれは読者として変貌を遂げる」(Stanzel, 10)
・ 革新的な「語り」「提示」:
――「ユリシーズ」、「死の島」
――「暗殺の森」、「トラフィック」、「羅生門」、「メメント」
・ しかし、「物語・語ること」と「演劇」は、同じ「ストーリー」を伝えるための二つの両極的な手段として位置づけることができる――「語ること(telling)」と「示すこと(showing)」
・ 最も「語り的」な叙述の様式(「叙法」mode)――最も「媒介性」の高い「叙法」:
【特徴】
・間接話法
・事態・出来事の圧縮・凝縮 →情報量の少なさ
・「語り手」の主観的な視点
・「語り手」の存在が前面に出る
→「語られる内容」は少なく、「語り」の行為は多い
・〈世界〉との距離感――大きい; 間接化の度合いが大きい
・ 最も「演劇的」な叙述の様式――最も「直接的」な「叙法」
【特徴】
・引用符による会話をもちいた直接話法
・生き生きとした/ありありとした描写(再現前性の高さ)→情報量の多さ
・客観的、局外者的な視点
・「語り手」の存在は意識されない(存在しないかのよう)
→「語られる内容」は多く、「語り」の行為は少ない
・〈世界〉との距離感――小さい; 間接化の度合いが小さい(直接的)
*「話法」に関して
・直接話法、間接話法(ドイツ語の場合:直説法、命令法、接続法)――単に文法上の問題ではなく、ここでは「世界」における事態そのもの(A)と、それを伝える言葉(B)の一致・不一致をめぐる、潜在的な「語り手」(その言説全体を語っている人・文章の書き手)の判断が問題となる。
・その意味で、話法は必然的に「語り」の媒介性に関わっている。
・ この二つのタイプは、記号論以降の「物語論」において問題になったわけではなく、すでにプラトンがこの両極に言及。(物語論に関わる研究者は、そのタームを踏襲。)
・ diegesisとmimesis
・ あらためてdiegesis的な語りとmimesis的な語りの特徴:
mimesis的な語り:
・ 「叙法」:直接話法、伝達される「世界」の生き生きとした直接的描写 →引用符の使用
・ 「視点」(人称・遠近法):第三者的、局外者的、客観的視点 →情景描写
diegesis的な語り:「純粋の物語」(ジュネット)――本来の「物語的」な語り:
・ 「叙法」:間接話法――描写の圧縮・間接化
・ 「視点」(人称・遠近法):一人称の語り、主観的、語られる世界への同一化
語りの媒介性を形成する際の、三つの可能な基本形:
@〈「私」の語る物語り状況Ich-Erzahlsituation〉――語り手は虚構の世界の一員:「存在領域の一致」
A〈局外の語り手による物語り状況auktoriale Erzahlsituation〉――「外的遠近法Ausenperspektive」による叙述
B〈作中人物に反映する物語り状況personale Erzahlsituation〉――「映し手Reflektor」を通じて:「叙法」
・ 文学作品における3つの基本形と遠近法・人称・叙法の関係について、表とともに実際の例を確認
・ 映画におけるそれぞれのカテゴリーに入る作品は?
【人称】
一人称:
・ 「語り手」か「映し手」か
・ 外的遠近法か内的遠近法か
――映画における一人称・内的遠近法でかつ「映し手」の表現:POVだけによる語りのない情景描写? しかし「キノ・アイ」のような機械の目の客観性ではなく、人間の目の主観性を感じさせるものでなくてはならない。ほとんどPOV-shotのみによって構成される「Lady
in the Lake」は、文学における内的モノローグ(シュニッツラー「グストル少尉」、「令嬢エルゼ」、ジョイス『ユリシーズ』「ペネロペイア」(モリーの独白))のような主観性を感じさせない。たとえば画像によって示される外的現実がむしろ背景化し、内面の声がヴォイス・オーヴァーで語られる場面、あるいは「シャイニング」におけるダニーやハロランのシャイニングの場面などがこれにあたるか。
a.外的遠近法による語り(観察者・時間的距離):「アウトサイダー」(同一人物の過去の回想)、「タイタニック」(枠物語)、「ジェヴォーダンの獣」(随行者の語り)
b.内的遠近法による語り(出来事の体験と「語り」を同時に行う「私」)――「メメント」(記憶−外的事実)、「地獄の黙示録」(意識の深層、恐怖)、
三人称:
語り手:歴史映画などにおける状況説明の文字テクスト、「ルードヴィヒ」
映し手:「ターミネーター」、「ダイ・ハード」、「007」... (圧倒的大多数がこの部類に入る)−−演劇的な映画の特質に従って
・また、それぞれに関して、外的遠近法と内的遠近法
【遠近法】
・ 外的遠近法と内的遠近法の差はどこで生まれるか−−「主観的」映像と「客観的」映像
・外的遠近法:LS中心、マスターショットのみの状況提示、 →感情移入は比較的困難
・内的遠近法:MSやCU中心、対話でのPOVやOTSによる切り返し →感情移入
(ただし、単純に一人称としてのPOVだけで心理的意味での内的遠近法が生まれるとは限らない。cf: Lady in the Lake)
いくつかの要件:
・POV, OTSといったカメラの視点そのもの
・フレーミングサイズ(物理的距離感→心理的距離感)
・内面性を感じさせるようなパーソナルな(一般に他人の前ではやらないような)空間・身体表現・感情表現の描写
【叙法】
・ 語り的な映画か、情景描写的な映画か
・ 「語り的」な映画――オフでのナレーションが入る → 「語る」という意味での「物語」を感じさせる
・ 「情景描写的」な映画――「語り手」という媒介を感じさせない:映画というメディアに本来的なあり方か(「演劇的」)
・ 〈視点〉における二つの意味:
@「物語る」際の立脚点:語り手や提示の視点−−いかに語るか
A虚構の中で、出来事が作中人物によって知覚されるときの立脚点:作中人物の視点
(ジュネットは、この二つがしばしば混同されてきたことに対して批判。「叙法(mode)」と「態(voix)」として区別。)
・ 「焦点化」(ジュネット)
(1)古典的物語言説−−全治の語り手による物語言説 (語り手>作中人物):
「非焦点化」「焦点化ゼロ」
語り手が前景化、情景は間接化
(2)視点をもった(視点を制限された)物語言説(語り手=作中人物):
「内的焦点化」−−@内的固定焦点化、A内的不定焦点化、B内的多元焦点化(「羅生門」)
(3)客観的な物語言説−−外部からの視像(語り手<作中人物):
「外的焦点化」(ヘミングウェイ「殺し屋たち」、「白象と似たる山々」)
語り手は背景化、直接的な情景描写
・ 映画における二種類の「視点」:
@「物語」の拠点としての視点:対象を捉えている「目」としてのカメラ――対象を追い(パン)、クローズアップし、焦点をあわせていくカメラ
A登場人物の視点:ただし、「主観性」は単にPOVかどうかによるのではない。
・ 映画における「一人称」とは何か、「語り」とは何か、「遠近法」(距離)とは何か――
それ以外に、音による「語り」−−文学における「視点」の二つの意味以上に複雑な要素