阪神ドイツ文学会 第178回研究発表会 2001年12月2日(日) 大阪音楽大学
シンポジウム:Wozu Germanisten? ――大学教育におけるそのアイデンティティをめぐって――


山口裕之(大阪市立大学):〈文化研究〉とゲルマニスト

 (発表原稿)


1 〈文化研究〉という領域における問題設定

このシンポジウムではWozu Germanisten? というテーマのもとに異なる領域におけるゲルマニストの現在のあり方について報告を行っているわけですが、私の発表では〈文化研究〉という立場から問題提起をさせていただきたいと思っています。
 ここではさしあたり「文化研究」という言葉を用いることにいたしましたが、この言葉によって私が考えていることは、主に次の二つのことにかかわっています。
第一に、とりあえず「文化研究」という言葉によって総称できるであろうような、日本の大学における制度上の単位、すなわち比較文学・比較文化研究、地域文化研究、表象文化研究、あるいは「国際文化」とか、私の所属しています「表現文化」といった名称によって志向されているような、広領域的あるいは地域横断的な学問論的位置づけをとり、かつ、多くの場合、従来の「文学」という特定領域に焦点をあわせていたものに対して、より広く「文化」を掲げるディシプリンのあり方を考えています。さらにいうならば、そういった制度上の単位においては、伝統的な正典(Kanon)としてのテクストだけでなく、むしろ現代的な文化・ポピュラーカルチャー・サブカルチャーに重点が置かれているということを重要な特質としてあげることができるかと思われます。
「文化研究」という言葉によって意図している第二の点は、ドイツにおけるKulturwissenschaftをめぐる論議です。ドイツにおける学問論的な論議をここで取り上げるのは、もちろんわれわれがドイツをめぐることがらにかかわっており、ドイツにおけるKulturwissenschaftの論議の枠組み自体が多くの問題を共有しているからですが、とりわけここでの論点が、日本における「ゲルマニスティク」へのまなざしそのものを照射し、問題化することになるからです。
この点については後でとりあげることにしたいと思いますが、私の発表ではこの二つの点を重ね合わせながら話を進めていきたいと思います。

2 現状報告

まず、今日のテーマにとって直接のかかわりを持つ第一の論点について、つまり、日本で「文化研究」を制度的な身の置き所とする「ゲルマニスト」にとっての主要な問題点を指摘することからはじめたいと思います。このことは、実際にそのような場で仕事をされている方にとりましては、いまさら申し上げるまでもないことがらですが、「文化研究」と総称できる領域においては「ゲルマニスト」はとりわけ次のような二つの問題に直面しているということができるかと思います。
まず第一に、ディシプリンの制度的枠組みが「ドイツ」という特定の文化圏、「ドイツ語」という特定の言語を軸とするものではないため、授業で「ドイツ語」を用いることができない、あるいはドイツ語圏の対象だけを取り上げることが難しいという状況があります。
この第一の問題が、言語・文化圏にかかわる問題であるとすれば、第二の問題は領域をめぐる問題にかかわっています。つまり、いわゆる「文化研究」においては、「文学」以外の対象により重点が置かれるという状況です。このような場にかかわっている方々にとっては周知のことかと思いますが、学生の関心は狭い意味での文学――とりわけ従来の「文学研究」の対象となっていたような正典的なテクスト――以外の領域にむしろ向かっています。別の言い方をするならば、「文学研究」というパラダイム・思考のあり方から脱する場として、「文化研究」を学生が選んでいるともいえるのではないかと思われます。
しかし、そういった状況に置かれているにせよ、「研究者」としては多くの場合、ゲルマニスティクの領域内で研究を行っています。それによって「ゲルマニスト」としてのアイデンティティはひとまず保たれることになりますが、「教育」の場においては旧来的なゲルマニストとしてのアイデンティティはかなり揺らぐ(ないしはほとんど消滅する)ことにならざるを得ません。極端な場合、研究者と教育者とでいわば二枚看板を掲げることになり、「研究と教育の一体性」というフンボルト的理念は保持できなくなってしまします。
こういった一般的問題をさらにもう少し具体的なことがらに即して述べてみたいと思います。
この発表では討論のための素材として、各発表者の置かれている具体的な状況についても紹介を行ってほしいとのことでしたので、現状報告の一端として私の所属しております大阪市立大学文学研究科表現文化学・表現文化コースの状況につきましても簡単にご報告させていただきたいと思います。大阪市立大学文学部では、文学部改組の一環として4年前に、地域横断的・領域横断的・現代的な方向を掲げる「表現文化学コース」が設立されました。新コース設立にかかわるスタッフの当初の思惑としては、実は比較的伝統的な方向での比較文学・比較文化、文学以外の伝統的な芸術領域などに学生の関心が向かうことを期待していたのですが、実際にコースに入ってきた学生の多くの関心は、予想していた以上に、伝統的な文化よりもむしろ、例えばコミックス、映画、広告など、メディア文化・大衆文化・サブカルチャーに向かうものでした。そういった学生の志向に合わせるかたちで、これまで従来のゲルマニスティクにかかわっていたスタッフも、少なくとも「教育」の場においては、@文学テクストに限らず、むしろその他の領域に重点を置き、Aドイツ文化を中心にすえるのでなく、B現代文化を中心とする、といった方向を多かれ少なかれとることになりつつあります。
ただし、そのことによってスタッフは「研究」と「教育」で二極分化を余儀なくされているわけでは必ずしももなく、「研究」と「教育」がそれぞれ歩み寄るかたちをとりつつあるといえるように思われます。
私自身について言えば、授業では(ベンヤミンの複製技術論を読むという例外もありましたが、それ以外では)、メディア理論、映画論、文化概念の展開、カルチュラル・スタディーズの理論的枠組み、イデオロギー論や記号論的な視点からの広告分析などを行っており、それ自体としてはいわゆる「ゲルマニスティク」の枠組みから離れたところで教育活動を行っていることになります。ただし、これらのテーマは私が「研究者」として行っているベンヤミン研究と密接な関連をもっており、研究と教育でまったく別のことを行っているというわけではありません。
とりあえずここでご紹介した〈文化研究〉という場におけるゲルマニストの実際のあり方自体が、後に述べることになるゲルマニストの新たなあり方についての提起をすでに先取りして言い表していることになるかもしれません。しかし、はじめにあげた「文化研究」におけるゲルマニストの直面する問題に話を戻しますと、ゲルマニストが従来の意味での「ゲルマニスティク」という領域の内部でドイツ語圏の「文学研究」を行う存在として自己規定を行っている限りにおいて、「ゲルマニスト」は次のような問題に直面していることになります。

3 問題設定

つまり、〈文化研究〉という制度的な場において、これまでドイツ語圏の文化(とりわけ伝統的な〈文学研究〉)にかかわってきた研究者は、自らのゲルマニストとしてのアイデンティティと、〈文化研究〉という場における教育・研究体制とをどのように折り合わせていくことができるのかということです。

4 ドイツにおけるKutlurwissenschaftをめぐる論議

このような問題設定に基づいて考察を進めていくうえで、先に述べた第二の論点、つまりドイツにおけるKWをめぐる論議をここでひとまず概観しておきたいと思います。
「Kulturwissenschaftとは何か」を要約することはきわめて困難であり、Kulturwissenschaftをめぐる論議とはその規定をめぐる論議が核をなしているといってもよいのですが、ここではそのごく大まかな枠組みを――すでに皆さんご承知のことが多いのではないかと思いますが――ひとまず提示させていただきたいと思います。
Kulturwissenschaftという言葉自体はご存知のように新カント派における主要概念のひとつでしたが、現在の論議は80年代後半以降の精神科学のあり方に対する批判的文脈において浮上してきたものです。この論議の前提となっているのは、「精神科学の危機」あるいは「行き詰まり状態(Sackgassesituation)」と呼ばれている状況ですが、そこで「危機」として認識されているものを要約するならば、次の二点に収斂することになるのではないかと思います。
一つは、専門化があまりに高度な進展にしたために、ディシプリンの拡散が極端に進み、ディシプリン相互の対話、あるいは学問と生活(社会)の間の対話(このことは学問的成果を実際の社会的実践に還元する可能性と言い換えてもいいかと思いますが)、こういったことがほとんど不可能になってしまったという状況です。この問題はドイツに限らず国際的に認められる傾向ですが、第二の点はドイツ固有の歴史的状況にかかわっています。つまり、ドイツの「精神科学」は特有の国民的アイデンティティ・文化的価値によって支えられた「歴史的・解釈学的」アプローチを相変わらず取り続け、国際的な(特にアメリカ、フランスの)学問的潮流から大きく取り残されているという状況です。
Kulturwissenschaftは何よりもそういった「精神科学の危機」を克服するものとして、言い換えるならば「精神科学」を「現代化」するものとして要請されたものとして位置づけることができます。そういった意味で、Kulturwissenschaftに対して求められているものは、すでに申し上げました二つの点に対応するものとなっています。
つまり、第一にKulturwissenschaftは、ディシプリン間の対話を回復するものとして位置づけられることになります。こういった方向は、interdisziplionarあるいはtransdisziplionar(とりあえず「間ディシプリン的」・「ディシプリン横断的」と訳したいと思います)なアプローチとして、Kulturwissenschaftをめぐる論議の中できわめて頻繁に言及されることになります。また学問と社会との関係という点については、Kulturwissenschaftに期待される職業的実践との結びつきも、主要な論点の一つとなっています。
第二の論点は、「国際化」「現代化」というキーワードによって語られる方向につながっていきます。具体的には、とりわけ記号論・構造主義以降の新しい学問的潮流、例えば(相互に包摂関係にあるものではありますが)カルチュラル・スタディーズ、イデオロギー論、ポストコロニアル、メディア理論、メンタリティー研究、ニューヒストリシズム、ポスト構造主義あるいはポストモダンの論議をあげることができます。しかし、現在ドイツの大学において制度的にKulturwissenschaftに関わっているものがすべてこういったものにかかわっているとは必ずしもいえず、それぞれのディシプリンにおいて「国際化」「現代化」のあり方も大きく異なります。
これらの二つの点に加えて、Kulturwissenschaftがとりうるもう一つの重要な特質をあげるとすれば、学問的営為に対するメタレベルのパースペクティブをとるということを指摘できると思います。つまり、それぞれのディシプリンが理論的連関を論じる場合にも、これまではほとんどディシプリン内在的な視点にとらわれていたのに対して、Kulturwissenschaftは、それぞれのディシプリンの置かれた、あるいはそれぞれのディシプリン固有の対象・ディスクール・理論的連関の置かれた歴史的・イデオロギー的状況そのものを問題化する視点を取るための、より有利な立場にあるということです。
先ほど、Kulturwissenschaftの第二の特質として「国際化」「現代化」に言及した際に、それがそれぞれのディシプリンにおいて異なった現れ方をすると申し上げましたが、Kulturwissenschaftとして具体的にどのようなディシプリンがかかわってくるかということについて、ここで少し触れておきたいと思います。
最も広い位置づけとしては、Kulturwissenschaftは精神科学および社会科学の諸ディシプリンを現代化された方向で統合する概念として、Geisteswissenschaftenと同様に複数形でKulturwissenschaftenと語られることになります。しかし、実際には一般にKulturwissenschaftに関わるものとしてしばしば言及されるのは、第一に「メディア学」のような現代的なディシプリン、第二に「民俗学(Volkskunde)」(あるいはその現代的名称としてのEmpirische Kulturwissenschaft)、「文化人類学/民族学(エスノロジー)」(とりわけEuropaische Ethnologie)といった広義の「文化」を対象とするディシプリン、そして第三にさまざまな伝統的文献学のうちとりわけ「ゲルマニスティク」といえるのではないかと思います。この場合もやはり複数形で呼ばれるわけですが、最も狭い位置づけでは、おそらく現在ベルリン・フンボルト大学だけだと思いますが、「単一ディシプリン」、ひとつのFachgebietとしてのKulturwissenschaftも存在しています。ちなみにこの最後のあり方が、Kulturwissenschaftをめぐる論議において「単数のKulturwissenschaft」と呼ばれているもので、そこでは文化概念の展開をめぐる学問理論的論議もその主要な研究・教育対象とされていますが、おそらく大勢としてはとりわけメディア論や広い意味でのイデオロギー論的文脈をもつ現代的な方向がそのもっとも顕著な特徴となっていると思われます。
ここでは、こういったさまざまなKulturwissenschaftのあり方のうち、とりわけゲルマニスティクにかかわるものに焦点を絞りたいと思います。
そこでの論議の中心的な問題を一言で言うならば、LiteraturwissenschaftとKulturwissenschaftの関係はどのようなものでありうるのか、あるいはKulturwissenschaftとしてのLiteraturwissenschaftはどのような立場・視点を取ることになるのかということです。このことについてももちろんさまざまな立場から議論が形成されつつありますが、Kulturwissenschaft的な立場を取るゲルマニスティクに要請されることは、やはりKWの基本的立場として先にあげたことにそのまま重なってくると思われます。つまり、一方で「間ディシプリン的・ディシプリン横断的」アプローチの可能性、他方でドイツ語圏以外の理論的枠組みの導入ということです。この言い方は誤解を招くかもしれませんが、ここで問題となるのは単に理論的装置を他の国から借用するということではなく、伝統的な「解釈学的」アプローチのパラダイムをそもそも解体するということにもつながっていきます。とりわけ、メディア理論の連関はそこで重要な位置を占めていますが、その文脈から見るならば、「文字」というメディアによって書かれた作品そのものだけではなく、「ドイツ文学」をめぐって形成されたnationalな特質、文化的価値そのものも、Schrift(すなわち「文字/書物」)というメディアがそのうちに組み込まれているパラダイムのうちにあるものとして、メディアに関してのメタレベルのパースペクティブから捉えられることになります。

5 問題提起

ドイツにおけるKulturwissenschaftについてはこれくらいにいたしまして、ここでようやく本題、つまりわれわれ日本のゲルマニストの置かれている状況、特に私の話では〈文化研究〉にかかわるゲルマニストの状況に話を戻したいと思います。
 日本においても先ほどKulturwissenschaftの基本的な特質として指摘したような方向が進展しつつあることは、私がここで改めて強調するまでもないことと思います。このことはもちろんドイツや日本だけの問題ではなく、国際的な学問上の流れとして自然なことといえます。しかし、私がここで特に指摘したいのは、そのような流れにおいてゲルマニストとしてのアイデンティティが脅かされると感じるとすれば、そのアイデンティティとは何なのだろうかということです。もう一度繰り返すことになるかもしれませんが、〈文化研究〉という制度的な場において「ゲルマニスト」が脅かされると感じる場合、そこで感じ取られているものはおそらく、とりわけ「文学」というものがこれまでもっていた固有の価値が失われることになるのではないか、そして、「ドイツ語」が失われることになるのではないか、という二つの喪失に対する危機と要約できるのではないかと思います。さらに言えば、その場合の「ドイツ語」とは、単にコミュニケーション手段の一つの可能性であるような諸言語の一つなのではなく、まさに「ドイツ」という言葉とともに表象される歴史的・国民的アイデンティティ、文化的価値の総体を伴ったものです。そのような「文学」や「ドイツ語」によってゲルマニストが自己規定を行うとすれば、――これは場合によっては極論となることを承知であえて申し上げることになるのですが――そのようなゲルマニストの「アイデンティティ」とは、まさに「精神科学の危機」といわれている場合の「精神科学」に依拠するものであるということになります。〈文化研究〉あるいはKulturwissenschaftの立場からすれば、これまで「ゲルマニストとしてのアイデンティティ」として想定されていたものを解体し、新たに捉えなおすことが必要となってくるであろうとおもわれます。ここでは、Kulturwissenschaftのもつもう一つの特質、すなわちメタレベルのパースペクティブがきわめて重要な意味をもつことになります。つまり、これは日本のゲルマニスト固有の問題となってくるわけですが、伝統的な意味における「ドイツ文化」、「ドイツ文学」、「文学研究の伝統」(ひとことでいえば「ドイツ的」なものが特別の価値を有するかのような精神科学の伝統)といった枠組みに対して、日本のゲルマニストが向けてきたまなざしが、あるいは「独逸学」・「ゲルマニスティク」という制度そのものが、アカデミズムの場においてどのように学問的に、行政的に、イデオロギー的に形成され、再生産され、展開していったのか、そのことを問題化することが何よりも問われているのではないかと思います。〈文化研究〉にかかわるゲルマニストとは、そのような立場において〈ドイツ〉を対象とする研究者ということになるのではないかと、少なくとも私自身については考えています。少し抽象的な話になりましたので、もう少し具体的に実際の教育・研究の場に即して申し上げますと、結局「文学」ということが特権的な地位を占めるわけではなく、むしろこれまで「文学」が特権的に扱われてきたこと自体が問題化されることになり、また「ドイツ語」が文化横断的な枠組みの中で特権的な地位を持つわけではないことも――特にネガティブな意味ではなく――当然のことということになります。
 しかしそうしますと、ドイツ語を読むという力、とりわけ次の世代の研究者にとってドイツ語を読むという力はどのようにして獲得することができるのかという問題が非常に気になるところです。この点に関しては、確かに〈文化研究〉という制度的な枠組みにおいては対応することが多くの場合難しい問題です。このことは、個人的にはディシプリンとしてのゲルマニスティクに、つまりドイツ語のプロを育成する制度的な場としてのゲルマニスティクに期待したいところですが、次に発表される三谷さんはまた違う見解を表明されることになるかもしれません。このことにつきましては、またこの後に行われます討論の場において皆様からもいろいろとご意見を伺うことができればと思います。