(このインターネット・バージョンは、印刷されたものと必ずしも一致していない場合があります。引用などをされる場合には、大阪市立大学文学部紀要『人文研究』第50巻第12分冊(1998年)157-176頁をご覧ください。)
現在、「地域(文化)研究」1) と呼ばれる日本の大学での制度上の単位において、個々の研究としてはすぐれた成果が多数生み出されながらも、「地域(文化)研究とは何か」を自らに対して問い直す必要にかられていることが、地域研究にはつねにつきまとっている。地域研究に関わる研究者の自己規定の試みが錯綜せざるをえないのは、一つは地域的な横断性、もう一つは領域的な横断性、という地域研究を規定しようとする、おそらく最小限の了解事項そのものに根ざしている。統一性をもつひとつのディシプリンとして地域研究をとらえようとする際に、おそらく最大の障壁と感じられるのは、前者の、地域的多様性の統合の問題であろう。このことは、とりわけアメリカにおける地域研究area studiesにおける、軍事的なインタレストによる成立事情からもいえる。問題となるのは「敵」としての当該地域に関する情報を与えるJapanese studies, Russian studies, Chinese studies, German studiesや、あるいはもう少し大きな単位としてのAsian studies, African studies, European studies, Latin American studiesあるいはIslamic studiesであって、その際 area studiesとは単にそれらの上位概念にすぎない。
もう一方の規定を、たとえば「ドイツ研究」――本稿では基本的に、筆者が関わっている日本におけるドイツ研究に対する視座が中心におかれることになる――というある特定地域に関する学際的(間ディシプリン的)研究において考えるならば、地域研究と呼ばれているものの性格は比較的捉えやすくなるようにも思われるが、その際問題となってくるのは、いうまでもなく、その地域に関わる既存の個別ディシプリンとして分節化されているものとの関係である。「ドイツ研究」を広い意味において捉え、既存の個別ディシプリンの緩やかな集合体と見る場合2)はいうまでもなく、狭い意味において一つの個別ディシプリン―というよりも、たとえばドイツの日本学Japanologieと比較するときにその制度上の特質がいっそう明らかになるように、制度上の分節化としてはむしろ「地域(文化)研究」という個別ディシプリンとして成立しているものの下位領域3)――として見る場合でも、その内部にある研究者・学生が取り組む対象とその視点によって、個々の論文として現れているものは、現実的には関連する既存のディシプリンのアプローチの仕方に規定されることになる。つまり、そこにいるのはドイツを対象とする歴史学者であり、政治学者であり、言語学者であり、文学研究者であり、哲学者である。もちろん、地域研究の特質として考えられている学際的アプローチをとっている研究も多いが、必ずしも個々の研究自体が学際的であるとは限らず、むしろ関連する既存のディシプリンの枠組みにそのまま適合することも多い。だとすれば、少なくとも個々の研究においては、学際性も地域研究を成立させる要件では必ずしもないようにさえ見える。
そのように、個々の研究としては既存の個別ディシプリンの方法論に基づくような研究をも、学際性という特質において地域研究の枠内で捉えようとするならば、そのような場合の学際性とは、必ずしも個々の研究のうちに現れているものではなく、むしろその研究が一角となるようなドイツの全体像に関わる視野のうちに求められる基本的な立場である、とひとまず理解することができるだろう。こういった基本的立場をもつこと自体は――一つのディシプリンとしての地域研究に関わるものにとってだけでなく、ドイツに関わるさまざまな個別ディシプリンの研究者にとっても――確かにきわめて重要な積極的意義を持つ。しかし、そこには、社会・文化のさまざまな局面が統合されたものとしてのドイツ像という、それを捉えるものの視線が捨象された、ある中性的な客観像がしばしば想定されているという危険性が潜んでいる。そこでは、対象の総合的な姿は単純に所与に重なり合うものとして想定され、多くの場合、それを捉える側の思考がよってたつ基本的な価値の枠組み、またその視線が存立する構造が意識化され、それ自体が問題化されることはない。だが、中性的な地域研究などあり得ない。アメリカにおける地域研究のそもそもの成り立ちに示されているだけでなく、どの国の研究者が、どのようなインタレストのもとに、どのようなイデオロギーにとらわれつつ、どの地域を研究するかということは、潜在的にではあれ、その研究者(またその研究者と対象との関係)を形成してきた知の編制のもつ特定の歴史的・社会的条件によって強力に規定されている。4) もちろんこのことは、地域研究に限らず、ある地域をめぐる知の特定領域を対象とする個々のディシプリンについてもあてはまる。そして、地域研究が(必ずしも一人の研究者においてなされるものでなくとも)領域横断的なものであるとすれば、当然ながらそれが横断する各ディシプリンに固有の位置づけから無縁であることはできない。つまり、地域研究は、それが横断するディシプリンに固有の思考法に関わるばかりでなく、その個別ディシプリンを形成してきた歴史的に規定された文化的・社会的・政治的諸条件、そしてそれらの根底にあるイデオロギー的基盤に関わることになる。
地域研究にとって、いうまでもなく、まず当該地域についての知そのものが第一の関心事である。しかし、それと同時に、地域研究には、それ自体が巻き込まれているイデオロギー的状況との関わりに即応して、このディシプリンがもつイデオロギー的枠組みや、その中での研究者の個別対象への関わり方自体を外側から検証するのに有利な視点が本来的に備わっているように思われる。というのも、第一に地域研究は、複数のディシプリンを横断することによって、外側からディシプリンを見るスタンスを基本的に有している。それぞれのディシプリンはもちろん自身に対する反省的な視線をもつとはいえ、各ディシプリンが通常の研究において領域内での内在的な視点に圧倒的に関わるのに対して、地域研究的な思考は、きわめて頻繁に領域の外に視点を移動させるのである。そして第二に、地域研究は自らのうちに本来的に内在する植民地主義的・文化帝国主義的要素(支配・被支配のいずれの側であろうと)に対して反省的な視線を向けることを怠るわけにはいかないが――つまり、その意味でも自分の研究が中性的なものではないことを意識する必要があるが――、こういった視線は、ある特定の地域研究が関わる個別ディシプリンのあり方に対しても及ぶことになる。本稿では、地域研究のもつこのような可能性を、とりわけ日本におけるドイツ研究のうちに読み込んでいくことを試みるが、地域研究としてのドイツ研究のうちに、他の地域の研究にも敷衍可能な特性や機能を見いだすことができるとすれば、それが結果的に「地域研究」としての基本的姿勢につながることになるかもしれない。
1997年7月号の『思想』に掲載されたハルトゥーニアン/酒井による対談「日本研究と」6) は、アメリカにおける「日本研究の危機」を議論の出発点とはしているが、地域研究に関わる構造的な問題を指摘し、とりわけカルチュラル・スタディーズの立場を地域研究へと導入することを提起している点において、ドイツの日本研究者に対してもかなり大きな刺激を与えることとなった。「ドイツ語圏日本研究学会」Die Gesellschaft fur Japanforschung e.V. (GJF)7)の枠内で1997年12月13日に行われた「社会科学的日本研究協会 (VSJF) <文化>専門部会」では、「日本研究ウォッチング――地域研究から文化研究Kulturwissenschaftへ?」というテーマのもとに、『思想』でのハルトゥーニアン/酒井の座談会を、「われわれドイツ語圏の日本研究にとっても望まれる、ひとつの新しい、批判的で厳しい自己反省を伴った行動の取り方」を要請するものとして評価し、論点を紹介したのち、ディスカッションに移っている。8) ハルトゥーニアン/酒井が議論の出発点としているのは、アメリカにおける「地域研究とその資金源とのあいだの関係」(5頁)、すなわち研究の対象国政府や関係組織の基金に予算的に依存することによって、研究の方向性やあり方そのものに偏向が生じる危険性であり、その根本にある問題として二人が厳しく批判の対象としているのは、地域研究の主導者たちが資金確保に腐心するばかりで、「自らの知の生産の構造や学問的知識への関心については決して問題にしない」(7頁)という状況である。そういった知の生産の構造に対する認識論的視点の欠如のために、地域研究は、伝統的ディシプリンにおいて引き継がれている知の構造を保持するだけであり、ひいては本来、地域研究の眼目であった多分野的multidisciplinary・学際的interdisciplinary・統合的アプローチも実現することはない。さらに、同じ理由によって、地域研究の対象としての「日本」についての同型の知を再生することのみが関心事となり、第二次世界大戦後、アメリカの多数の大学においてつくられた"area studies"が潜在的・顕在的にもつ軍事的志向――たとえばルース・ベネディクトの『菊と刀』が戦時情報局の支援によって成立しているように――、すなわちアジアにおけるアメリカの植民地主義的ヘゲモニーを支える情報収集プログラムの性格を変えることはない、と二人は指摘している。
地域研究の対象についての同型の知を生産可能とする一つの前提となっているのが、ある文化は統一的・有機的な全体性を有するという観念である。「全体性が想定されたのは、そのパースペクティブが伝統的な学問分野のすべてを代表していたからです。こうしたアプローチに暗黙のうちにあったのは、すべての学問分野がこの地域の全体的知を作り上げているということでした。特定の地域についての凝集し統一された知は、地域の全体性と統一性を反映するものとされていたのです。」(8頁) 確かに、地域研究はさまざまな伝統的ディシプリンにまたがる際に、「日本的」「ドイツ的」あるいは「西欧的」といった言説のうちに前提される有機的な文化的統一体という基本的思考様式をも受け継いでいるがゆえに、ある特定地域についての知のあり方が、単に異分野の知の累積によるもので許容されるといった立場をしばしばとっているように思われる。とりわけアメリカでの地域研究において重点の置かれた「フィールド研究」や「言語教育」のうちに内在する、文化を全体的統一性をもつものとして研究する基本的立場、日本文化の特殊性を複雑な日本社会を理解する鍵としてもちいるといった「日本人論」的思考が、単にアメリカ人研究者によってだけでなく、日本人自身によっても共犯関係のうちに生み出されている、というハルトゥーニアン/酒井の「文化主義」に対する批判は、ドイツ人の日本研究者においても中心的なテーマの一つとなっている。9) しかし、それとともに、ハルトゥーニアン/酒井の文化主義に対する批判の根底にあるものとしてアクセントをおくべきであるのは、なによりも、地域研究が特定の利益関係・権力関係によって規定された価値観の体系へと無意識のうちに巻き込まれているというイデオロギー的状況であろう。「地域研究の根底には、研究者がアメリカの国益であると感じているものに対する、ほとんど盲目的なコミットメントがあります。」(10頁)10) こういった知の編制に作用するイデオロギー的機制、そしてもちろん、さきにふれたような知の生産の構造、こういった一般的に意識化されることの少ない――あるいは場合によっては、ハルトゥーニアン/酒井の指摘するように、顕在化すること、批判の対象とすることが、既存の主導的機関のいわばイデオロギー維持的機制によってしばしば抑圧される――認識論的構造に対する視点を表面に引き出すために、彼らは地域研究のうちにカルチュラル・スタディーズの基本的立場を求める姿勢を示している。もちろん、cultural studiesと呼ばれているものは、決して一義的には規定できないような展開をみせているのだが、ハルトゥーニアン/酒井の論議においてカルチュラル・スタディーズの基本的特質として求められているのは、とりわけこのような知の編制に対する認識論的視点をもつイデオロギー批判の立場である。11) しばしばカルチュラル・スタディーズにおいて問題となる、ディシプリンという形を取った自らの制度化を拒否する姿勢――あるいは逆に制度化を求める方向とのあいだに引き起こされる論争――も、制度に必然的に随伴する特定のイデオロギー的志向への批判的視点に由来している。カルチュラル・スタディーズの制度化の問題について、ステュアート・ホールがローレンス・グロスバーグとのインタビューで述べているように、「カルチュラル・スタディーズは常に自己反省的に自らを脱構築している」。12) こういった姿勢が、カルチュラル・スタディーズの認識論的批判の視点、その意味における政治的意識をハルトゥーニアン/酒井が地域研究のうちに読み込もうとする際に、もっとも要請されていたといえるだろう。「カルチュラル・スタディーズは、一定の認識論的構造を明らかにすることなしには、できないようにみえます。そして、認識論的なるものは、政治的なるもの――それなしには地域研究は維持されないのですが――から切り離すことはできません。カルチュラル・スタディーズは、地域研究の実践に干渉することができるのです。」(9頁) もちろん彼らは、「知・権力・支配がどのように社会編制によって構成され、社会編制を構成しているのか――カルチュラル・スタディーズは、その間の関係に多大の関心を寄せているため、文化主義に陥りやすい」(34頁)といった点をも指摘し、その意味でもカルチュラル・スタディーズは単に地域研究にとっての「出発点」とされているに過ぎないのだが。
さて、こういったハルトゥーニアン/酒井の提起に対して、ドイツ語圏の日本研究者たちは、「地域研究から文化研究へ?」というSchad-Seifert/Schulzの「報告」の副題によって顕著に示されるように、疑問符をともないながらも、ハルトゥーニアン/酒井の提起した方向を基本的に受け入れ、議論の前提としている。13) アメリカの日本研究における批判理論、ポスト構造主義やポストモダンとの取り組みの欠如に対するハルトゥーニアン/酒井の指摘に対して、ドイツ人研究者のディスカッションにおいて激しい反論があり、「すでに70年代に行われた論議をいま再び俎上にのせる」(とりわけ植民地主義に関わる論争を指すだろう)ことや「カルチュラル・スタディーズに万能薬的な意義を認める危険性」(そういった姿勢はハルトゥーニアン/酒井自身が否定しているのだが)に対する懸念が表明されてはいるものの、基本的には「自分自身の認識論的基盤を批判的に問う」姿勢が積極的に受け止められているといえる。このドイツ人研究者のディスカッションにおいて際立っている点の一つとして再確認できるのは、ドイツ語圏の日本研究者の意識のうちに「植民地主義的視線のもつジレンマ」に対する苛立ちが根深く存在しているということである。それだからこそ、ハルトゥーニアン/酒井の提起にこれほど直裁に反応したといえるかもしれない。しかし、日本研究者のどれだけが(あるいはどの程度)こういったジレンマを実際に切実な問題として意識しているかということは、知の編制の構造に対する批判的視点を前面に押し出そうとする挑発的要請が存在するという事態そのものによって推し量ることができよう。
翻って、日本のドイツ研究(広い意味でも)においては――ハルトゥーニアン/酒井の提起を日本のドイツ研究に当てはめて考えることが、ここでの本来の関心事であるのだが――こういった「植民地主義的」14) 構造を意識化することが、その構造自体によってさらに困難なものとなっていると思われる。というのも、ハルトゥーニアン/酒井がアメリカの日本研究における「宣教師的立場性」の文脈において述べているような、「フィールド」における単なる情報の提供者としての日本と、それを処理するための理論的装置を有するアメリカ(あるいはヨーロッパに置き換えてもよかろう)という関係が認められるとすれば、日本のドイツ研究においては、研究の対象としてのドイツによって提供される素材・情報を処理する理論的装置は欧米(あるいは特にドイツ)のものであり、少なくとも素材と理論的装置との関係に関する限りにおいては、とりあえずジレンマは生じないからだ。もちろん、日本人がなぜ欧米の理論を用いるか、という問題がそれに代わって生じる。しかし、それは対象としての素材自体がドイツのものであるということによって、ほとんどの場合、問題なく正当化されることになる。あるいは、中立的な学問性が想定されることによって、視点がよってたつ地域性は捨象されることになる。ドイツ人の日本研究者にとって「植民地主義的視線のジレンマ」が棘であるとすれば、日本人のドイツ研究者にとっての棘となりうるのは、なぜ日本人が研究するかという研究主体の視線のあり方だといえる。それはつまり、素材はともかくとして、少なくとも理論的装置に依存するという意味でも「植民地主義的」な関係が支配する構造において、ドイツ人研究者のジレンマが――まさに「植民地主義的」であるがゆえに――非対称的に逆転した形である。こういった日本の側でのジレンマは(ドイツの研究者においてもほぼ同様であろうが)、研究対象そのものに対する視点を脅かしかねないものとして、たとえば上に述べられたような形で一般的には括弧に入れられてしまっている。こういった知の編制を包括する構造を意識化し、検証する姿勢を、ハルトゥーニアン/酒井は地域研究に要請している。つまり、はじめに述べたように地域研究がその学際性(間ディシプリン性)に由来する超越的視点や、もともと軍事的インタレストによって成立したことに由来する「植民地主義的」構造に対する反省的視点を有するという、より有利な条件を備えているとしても、それだけで地域研究が認識批判的機能を発揮するわけではない――というよりもむしろ、現状においては、その欠如こそが問題となっている――ということだ。しかし、地域研究が本来ならば認識論的な視点をよりとりやすい立場にあるからこそ、そしてそういった立場に本来的に関わるものであるからこそ、ハルトゥーニアン/酒井やサイード15) が指摘するように、政治性・イデオロギー的構造をも明らかにしようとする視点に対する抑圧的機制が地域研究に働きかける状況が逆に生じることになるともいえるだろう。そして、たとえばそのような機制が働くという構造において、あるイデオロギー的構造のうちに巻き込まれた視線とともに成立する対象地域の社会的・文化的空間の像が浮かび上がってくるのだ。
とはいえ、こういった知の編制に対する反省によって、たとえば理論的装置への依存からの脱却という形での、「植民地主義的」構造の解体を短絡的にめざすことが要請されているわけではもちろんない。(そうだとすれば、たとえば「認識論的批判」もその一つであるような理論的装置、あるいはarea studiesやcultural studies、またこれからとりあげるようなKulturwissenschaftといった理論的枠組み――これらは、その内容物がいまだ十分に規定されていないという意味でも「枠組み」なのだが――に基づく/関わる本稿の言説は、というよりそもそも上の一文自体が、単に行為遂行的矛盾に陥っているにすぎない。)植民地主義に対する批判的言説には、「植民地主義」というレッテルを用いることによってすでに、あらゆる非対称的構造を政治的ヘゲモニーの問題に重点を移し替える危険性が存在する。確かに、非対称的構造には政治的な関係性に根ざす問題が存在する。しかし、ここでのより根本的な問題性はむしろ、そういった非対称性を伴って新たに形成された社会的・文化的空間における自らの知の編制に対する視線が――意識化の阻害、抑圧によって――遮蔽されたままの状態にとどまること、あるいは遮蔽されることが構造化されていること、そしてその意味での政治性のうちにある。地域研究は、自らの視線そのものが何らかの形で「植民地主義的」構造のうちに織り込まれているという負い目をおいつつも、それを乗り越える拠点となりうるのは、やはりそこでの関係性の視線が構造化された状態をとらえる視線に他ならない。
とはいえ、Kulturwissenschaft(en)をどのようなものとして規定するかは、「地域研究」の規定をめぐる状況以上に錯綜した状態にあるといってよい。「ドイツのアカデミックな環境を一つの幽霊が徘徊している――つまり、Kulturwissenschaftという幽霊である。新生ドイツ連邦共和国の誕生以来?Kulturwissenschaft"という名称が突出して扱われているのを、大学の新しい専攻の成立や学問的な出版物において、あるいは関連の高級新聞においてのみであっても見ている人は、いずれにせよこういった印象を受けるであろう。」(Renate Schlesier)17) こういった一種の「はやり」的な現象とも見られているKulturwissenschaftに対して、主に旧来の精神科学における個別ディシプリンの側からの批判が向けられると同時に18)、その「弁護」もさまざまな視点から展開されている。しかし、そういった弁護あるいはさらに積極的な自己規定自体が、かなり対照的な立場に分岐している。近年のKulturwissenschaftをめぐる論議においては、いずれにせよドイツ的な知の伝統における「文化」あるいは「文化科学」Kulturwissenschaft(en)の概念という水脈に由来することを強く意識しつつも、自らを従来の精神科学の再編(あるいは「近代化」)として理解しようとするという点では、一応の一致点を見ているようにも思われるが、しかしまさにその両極的な要素が立場の相違を生み出している。つまり、一方ではドイツ的な知の伝統にやはり圧倒的に重点が置かれ、他方ではそういった特殊ドイツ的な知の編制から脱するための「グローバル化」を志向する新しい文化概念が圧倒的に強調されることになる。
こういった両極のあいだでKulturwissenschaftがどのような位置を占めるかはまた、個々の大学の制度的な特性にも大きく依存する。「さまざまなコンテクストにおけるさまざまな内容に満たされたKulturwissenschaftという概念は、インフレ的に使用されているが、それに対応する制度的なものはむかしからそれぞれの大学のうちにあったのだ」19) そうであるとすれば、それにともなって――これはおそらく地域研究についてもいえることだが――それぞれの大学の制度的な特殊性が、そこで成立したKulturwissenschaftの性格・自己規定に対しても強く影響を及ぼし、それによって統一的な概念形成を困難なものとしている。ドイツ統一以前にすでに東側で展開されていたKulturwissenschaftについてたとえば西側の視点から、「確かに、ドイツ民主共和国におけるこの知のレッテルは、西側から見過ごされ、あるいは苦笑のまなざしをもって見られていたが、すでに長い間用いられていた。70年代末以降、東では、公的文化政策及びマルクス・レーニン主義的社会理論に仕えていた諸大学において、ある種のKulturwissenschaftが存在していた」(R. Schlesier)と述べられているが、統一後の全ドイツ的なKulturwissenschaftの展開においても、たとえばとりわけベルリン・フンボルト大学(旧東ベルリン)に見られる独自性に引き継がれているのかもしれない。この大学のPhilosophische Fakultaet IIの中にあるKulturwissen-schaftliches Seminarは、制度的に、またそれにともなって――学問政策的な要請が多分に支配しているにせよ――コンセプト的に、とりわけ先鋭的な立場を示していると思われる。というのも、すでに述べたように、多くの場合Kulturwissenschaftenは精神科学Geisteswissenschaftenの「近代化」として、「文化」をキーワードとして再編された既存の人文の上位概念、あるいは新たな文化概念・文化的産物に関わる複数のディシプリンの集合体であるのに対して、フンボルト大学ではKulturwissenschaftはひとつの個別ディシプリンであり、その制度的な特性にしたがって、このディシプリンが対象とする文化概念・文化的産物は、他の旧来のディシプリンにおけるそれとは対照的なものとなる性格をより強くもつことになるからだ。前者のKulturwissenschaft(en)が複数のディシプリンの統合的名称として――たとえばリッカートによって定式化されたようなもの20)とは当然異なる位置づけをもつにせよ――「文化科学」と呼ぶことができるのに対して、後者は個別ディシプリンとしてたとえば「文化研究」と呼ぶ方が相応しいだろう。こういった個別ディシプリンとしてのKulturwissenschaftは、ドイツでのKulturwissenschaft(en)に対するポジティブな理解の内部においても、現在のところかなり特異な制度的あり方ではあるが、本稿ではあえてフンボルト大学のKulturwissenschaftiches Seminar の教授ハルトムート・ベーメによる自己規定の試みを基点としたい。21) というのも、ドイツ的な伝統を押さえつつも、その制度的特性のゆえに新たな文化の把握の姿勢をおそらく最も明確に打ち出していると思われるからだ。
「個別ディシプリンとしてのKulturwissenschaftはいまだ生成の途上にある。しかし、その際Kulturwissenschaftは、国際的に展開されてきた諸成果や、かつてのドイツ的伝統に立ち戻ってふれることもあり得る。」(H. Boehme) Kulturwissenschaftは、一方では「アナール派、アングロアメリカ・カルチュラル・スタディーズ、文化人類学、映像・パフォーマンス研究、ポスト構造主義、脱構築等」とあげられているような、比較的新しい「国際的に展開されてきた諸成果」に関わるものとされる。しかし、他方では、ドイツの伝統的な学の編制、またそこでの価値の体系に対する批判的取り組みという性格を決定的にもっている。とくにディルタイによって明確に基礎づけられた精神科学Geisteswissenschaften、つまり「とりわけドイツ的特徴を持つ精神哲学的伝統」においては、「(とりわけ高級)文化的諸対象が、精神の客体化として、言語中心的モデルにおいて文献学的・解釈学的に分析され、精神の自己展開の進化過程のうちへと位置づけられてきた」。H. ベーメによれば、こういった特殊ドイツ的伝統から文学部の諸学科を解き放つための戦略的要請として、80年頃から22)(個別ディシプリンとしてのKulturwissenschaft(単数形)ときわめて似通った名称をもつ)Kultur-wissenschaften(複数形)というコンセプトがGeisteswissenschaftenにかわって動員されることになったが、そこでは「文化」として捉えられるものが、精神的所産から、あらゆる物質的・シンボル的実践として現れた諸対象へと、転換をむかえるものとされている。こういった転換は、精神科学Geisteswissenschaftenの「現代化」としてのKulturwissenschaften(複数形)においても、もちろん明確に現れているが、H.ベーメはその十全な展開をむしろ単一ディシプリンとしてのKulturwissenschaft(単数)のうちに求めているといえるだろう。
そこでの基本的特質は、一方では、「文化生産のありかたそのものの分析」(H. Bohme) にアクセントがおかれることである。「われわれが研究するのは、もはや単に意味そのものに限られるのでなく、意味の生産および意味の利用可能性でもある。あるいは、テクストだけではなく、(たとえばコミュニケーションのメディアとしての)テクストのメンタリティーでもある。」(K. R. Scherpe) それによって「文化」の対象の境界が解き放たれ、「振る舞い、自動車の運転、さまざまな宗教、憲法、化学、オペラ、日常儀式、病気...」といった「あらゆるものが文化となる」(H. Bohme)。また他方では、文化が「観察行為のメタ次元」となる、つまり、文化を捉えようとする研究者自身に対する反省的視座となることが強調される。このように、文化の捉え方に対するパラダイム転換によって、「いわゆる高級文化の非特権化」と対象の境界拡張をおこない、同時に認識論的批判の立場を明確に打ち出す点において、とりわけ個別ディシプリンとしてのKulturwissenschaftにはたしかにカルチュラル・スタディーズとの親近性を顕著に見て取ることができる。こういった意味において両者の親近性を認めることができるとすれば、Kulturwissenschaftは、ドイツ的な学の伝統のうちに位置づけられる諸価値との批判的対決という形でドイツ的な刻印を強く帯びたカルチュラル・スタディーズの一つのあり方とみることができるだろう。あるいは重点を置き換えて述べれば、メディアの転換、文化の対象・概念の境界拡張といった国際的な現象が、cultural studies、Kulturwissenschaftそして日本でもさまざまな名称によって新設されている学部・学科・専攻を生み出したひとつの共通の基盤となっているが、ドイツの伝統的諸価値――とりわけ「教養市民」の中心的概念である「精神」と「教養」――との対決(それらの諸価値の継承と批判の程度が、おそらくKulturwissenschaft(en)内部での立場の相違が生みだす最も重要な要素となっていると思われる)において、Kulturwissenschaftは特殊ドイツ的な現象として位置づけられると見ることができるだろう。「大学のが、さまざまな専門領域へとより強力に細分化されるにともなって、19世紀から継承されてきた普遍的教養コンセプトの輪郭がそれだけ不明瞭になってきた。しかし、「教養」や「精神」といった概念が何百回も使われ、見分けがつかないほど無色になってしまうと、そこでは「文化」という概念が、新たな処女性を得て、光を放つことになる。」(Richard David Precht)23) もちろん、こういった「世界的規模での精神諸科学の意味喪失」(R. Schlesier)は、単に「教養」や「精神」の過剰供給によるものではなく、それらの諸価値がもはやそのままの形では保持され得ないことによるのであり、ドイツでの精神科学の制度的再編はなによりもその連関のうちに捉えられる。
ドイツの伝統的な諸価値との対決は、むろんKulturwissenschaftにおいてとりわけ浮上したものというよりも、すでに20世紀初頭以降の左派知識人による的な文化・芸術理解への批判以来、受け継がれているものである。たとえば、後期のベンヤミンが「創造性や天才性、永遠の価値や神秘」24)、また「精神」25)、「一般教養」26)といった諸概念を排除しようとし、あるいは当時の伝統的文芸学のディスクルスに見られる「精神的価値」や「理念」に批判的に言及しながら、「この泥沼の中にいるのは、創造性・感情移入・時代の束縛からの解放・追創造・共体験・幻影・芸術享受という七つの首をもった教科書美学というヒドラである」27)と述べるとき、彼が目指していたのは、一方では、(とりわけ支配の道具としての)市民的イデオロギーの解体であり――そして、ベンヤミンにとってこの姿勢こそが、ナチズムに対する有効な抵抗となりうるものであった――、他方では、(彼にとっては、プロレタリアの大衆性と結びつくものとしての)技術時代における新たな美学の可能性を提示することであった。「その時代にあっては、ものを書く人――それはもちろん、単に作家や詩人だけではい――の数が日々増加し、著作の事物への技術的関心が、内容的にためになるという関心よりもはるかに逼迫したものとして目立ってくる。」28) Kulturwissenschaftにおいては、カルチュラル・スタディーズと比較して、政治性・特定のイデオロギー的志向がきわめて弱いことが一つの特徴として指摘できるだろうが、「精神科学」における「精神」の特権性の否定には、上に述べたような底流を見て取ることができるだろう。
もっとも、知の編制・言語空間に働きかけているイデオロギー的構造が存在すること、つまり知の産出に対して無意識のうちにある特殊な方向付けがあらかじめ構造化された状態にあること――この意味でのイデオロギー批判自体は、必ずしも特定の政治的志向をもってなされることではない。西欧マルクス主義、「ニュー・レフト」に連なる批評家、カルチュラル・スタディーズなどが特定の政治的志向をもってイデオロギー批判を行っているのに対して、これらとはとりあえず全く異なる流れに由来する――とりわけドイツにおける――メディア論(フルッサー、キットラー、ボルツら)の文脈においても、精神性の否定につながる問題はきわめて重要な論点の一つとなっている。カルチュラル・スタディーズやKulturwissenschaftにおいて、メディア研究はいうまでもなく重要な領域を形成しており、「第二のメディア転換」がKulturwissenschaftの展開を支える大きな要因となっていることは間違いないが(cf: R. Schlesier, R. D. Precht)、メディア論の文脈において「精神」が問題となるのは、とりわけ文字メディアに規定された文化段階への批判的視点においてである。その意味で、マクルーハンが彼の時代の電気的な技術メディアに対しておこなっている洞察がさまざまな問題につきまとわれるものであるにせよ、メディア論的な研究の流れにおける彼の結節点としての役割は、決して過小評価することはできない。マクルーハンの電気メディアに対する視点が、音声言語の段階での豊かで統合的な感覚の回復という、いわばユートピア的な原初性への回帰のニュアンスを色濃く持ち、西欧の文字文化に対する批判もその文脈においてなされているのに対して29)、たとえばボルツにとって、電子メディアを語る際のアクセントは、「グーテンベルクの銀河系」つまり書物文化の価値観との断絶によってもたらされる、(回帰ではなく)新しい段階――たとえば、「チューリングの銀河系」と名付けてもよいだろう30)――を指し示すことにある。そして、この新たな「ハイパーメディアの世界への出発」に向けて、ボルツが次のように「グーテンベルクの銀河系の終焉」を宣言するとき、そこでは、単に文字というメディアのもつ特性に対してだけでなく、西欧近代(とりわけドイツ的伝統)がそれによって脈々と担ってきた「精神」や「教養」といった価値の枠組みに対しての訣別が示されているといえる。「グーテンベルク銀河系の教養主義的戦略はもう出る幕を失ってしまった。新しいメディア世界の子供たちは、もはや本の上にかがみ込むのではなく、スクリーンの前に座る。彼らのや研究はもはや一行ごとに音声的文字の英智に従うのではなく、形態認識を行いながら進行していく。彼らにとって世界は完全に異なったカテゴリーのもとに現象しているのである。すなわち、現実性の概念は機能という概念によって置き換えられ、分類と因果性に代わってが新たな位置を占める。そして、効果においては意味が消え去り、ファイン・チューニングがという宿題の後を引き継ぐことになる。(...) 今日でもなお伝統的なやり方で書くものは、基本的にいってもはや本を書いているのではなく、引用と思考砕片からなるモザイクを書いているのだ。」31) とりわけこの引用の最後に用いられている言い回しにも顕著に現れているように、ボルツはそれまで精力的に取り組んできたもうひとつの重要な対象であるベンヤミンの表現・思考法を受け継いでいる。「ベンヤミンはメディアの理論家としてしか理解できない」32)という立場をとることによって、とりわけボルツにおいては、ベンヤミンとメディア論の文脈での精神批判の結びつきが顕著に現れている。メディアに関わる理論家の基本的スタンスが、旧来の文字文化的な知の編制に対する批判をへて、さらにはポスト構造主義における「精神科学からの精神の追放」33) へと接合していくことが、とりわけドイツでのメディア論の展開における一つの顕著な特徴をなしているといえるだろう。その意味でも、メディア論はKulturwissenschaftの中でもとりわけ重要な領域を形成しているとみなすことができる。
いうまでもなく、日本でのドイツを捉えようとする視線においても、「精神」への批判的距離といった論議は決して新しいものではない。しかし他方では、ドイツでの、とりわけ旧来の文献学的領域がKulturwissenschaftに対してしばしば見せる敵対に現れている伝統的諸価値への固執は、対象とともにドイツから知の編制を受け入れた、日本でのディシプリンにおいても依然として、そして顕著に保たれている。つまりここでも、ハルトゥーニアン/酒井の指摘するようなある種の「共犯関係」が存在しているといえるだろう。特定のイデオロギー的形成物としてのある価値の体系が、対象を捉える研究主体のうちに対象とともに取り込まれ、それによって形成された基盤自体が批判の対象とされることがないとすれば、ここでも同型の知を産出し続ける構造が保持されていることになる。Kulturwissenschaftはそういった構造自体を直接の対象とするわけでは(必ずしも)ないにせよ、伝統的な文化的諸価値との批判的対決を出発点とすることによって、知の産出の構造を反省的に捉える視点がより有利に与えられているといえるだろう。この点でも、Kulturwissenschaftが特定の異文化圏を対象とする場合と同様に、Kulturwissenschaftと地域研究は、カルチュラル・スタディーズとともに、互いにきわめて親近的な関係にあり、これらの「文化」を対象とする「研究」のとりわけ大きな意義をこの点に強調することが可能であろう。